文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 246 憲法の声(その13) それでも真理は存在する。

 

本を読んでおりましても、なかなか、すぐには分からない。しかし、いろいろ当たっておりますと、ストンと腑に落ちることがあります。

 

文献14によりますと、ヘーゲルは次のように考えていた。

 

“矛盾の発端は、「自由」でありたいという各人の欲望の本性にあるが、自由を実現するためにもっとも合理的な方法は、各人が各人の自由を相互に承認しあうことにあると、やがて人々は気づくにいたる。もちろんこの自覚は、少しずつしか進まない。が、それでも人間の社会は、事実として徐々にそのような社会制度の実現へと動いてきた。そして、ヘーゲルによれば、このプロセスの最後の展開が、フランス革命に象徴される市民社会なのである。”

 

簡単に言うと、ヘーゲルは人間の社会というものは必ず良い方向に進化する、と考えていた。それにしても、それがフランス革命とは、驚きます。現在の黄色いジャケットの抵抗(Yellow Vest Protest)のあり様をヘーゲルに見せてあげたい位です。

 

また、文献15におきましてヘーゲル歴史観は、次のように述べられています。

 

“観念史観の典型をなすヘーゲルは、アジア的、ローマ的、ゲルマン的という三段階を通って絶対的理念が実現されていくと見る。”

 

やはりヘーゲルは、人間社会の歴史は良い方向へと、言わば一直線に進むと考えていたようです。ヘーゲル歴史観が、“進歩主義”と呼ばれる所以です。

 

これは流石に、私でも賛同できない。そこでヘーゲルは、ポストモダンの思想家たちにとっては、批判すべき対象、すなわち悪役となった。フランスの哲学者リオタール(1924~1998)は、1984年に出版した「ポストモダンの条件」の中で、次のように述べた。

 

“西洋近代は、学問が発展し真理へ近づくことによって人間性と社会の在り方もますます進歩していくという「大きな歴史の物語」を掲げていたが、そのような真理と進歩の物語を信じた近代はもう終わったのである。”

 

上記の引用箇所が、言わばポストモダンと呼ばれる時代の開幕を宣言したものだった。つまり、リオタールが敵視していたのは、ヘーゲルだった!(ここで腑に落ちたのです。)

 

さて、私のような者が、偉大な哲学者を批判するのもいかがなものか、と思わないでもありませんが、率直に言って、ヘーゲルもリオタールも間違っている。

 

まず、ヘーゲル進歩主義についてですが、そのように歴史は動かない。人間の社会、歴史、文化というものは、あたかもダーウィンが唱えた進化論のように、様々な方向へ向かう種が出てきて、一部は人々によって選択され生き残り、そうでないものは死滅していく。こういう構造を持っているのであって、“進歩主義”ではなく、正解は“進化主義”であるべきだと思います。

 

次にリオタールですが、進歩主義を批判する点は私も同感ですが、だからと言って真理までも否定してしまうのは違う。2度に渡る世界大戦、マルクス主義の失敗。確かに、人類はいろいろ挫折を経験した。しかし、だからと言って真理の存在を否定するのは、敗北主義に過ぎない。それでも真理は存在するのだ、ということで、本稿の主題に入りましょう。

 

まず、真理とは何か、ということになります。こういう時、やはり哲学中辞典(文献15)は便利です。

 

1) 対応説・・・知識や言明は、実在と一致しているとき真、そうでなければ偽である。
2) 明証説・・・私たちがきわめて明晰判明にとらえることはすべて真である。
3) 実用説・・・観念は、それを信じることが生活にとって有益である限りにおいて「真」である。
4) 整合説・・・他の言明と一致し、矛盾しないこと。

 

いろいろありますが、簡単に言えば、「間違っていないこと」が真理だと考えられているようです。但し、もう少し真理を動的に捉える考え方もあるようです。文献15には、次のような記述もあります。

 

“特殊な時代・社会に実際に獲得される真理は相対的なものであり、その批判的蓄積によって客観を完全に捉える絶対的な真理に接近することができる”

 

こちらの方が、私のイメージに近そうです。“真理とは、仮説として登場し、検証され、歴史の中で修正され、体系的に理解される普遍的な原理のことである。”これが私の考える真理の定義です。

 

このように考えますと、哲学の中で重要な位置を占める“認識論”の構造について、一応の理解が成立すると思うのです。これは、認知、認識、思考という3つのステップで考えることができるのではないか。

 

哲学用語辞典に「認知」という項目はありませんが、「認知科学」という項目はあります。この認知という概念は、比較的新しいものではないでしょうか。例えば、ホッブズは“リヴァイアサン”という大著を「感覚について」という項目から始めている。これは何を意味しているかと言うと、人間はまず、感覚によって外界を知覚する、だからそこが出発点なんだ、ということです。もちろん、それはホッブズの時代なりの考え方でしかない。しかし、この考え方は、感覚によって知覚されるものが“記号”である、という発想に発展し、パースが記号学を確立した。そして、パースの記号学を、今、人口知能の専門家たちが学習している。記号学については、既に述べましたので、ここでは繰り返しません。もし、ご興味のある方は、このブログの右上にあるキーワード検索の機能を使うと、関連する原稿が出てくるはずです。

 

次に、認識というステップに移る。認識については、文献15に的確な説明があります。

 

“認識は現象から本質へ、さらにより深い本質へと接近していく無限の過程であり活動である。”

 

ただ、そう言ってしまうとこれで認識論全体の説明になってしまうかも知れません。人間が真理に近づこうと努力する際、まず、認知ということがあって、次に、対象を観察する、実験する、比較する、関連づける、体系化する、というようなプロセスがあると思うのです。この段階では、正に、対象の本質を探っている訳で、このような働きを認識と呼んで良いと思うのです。ちなみに、先に記した事例の中で、観察、実験、というのは、ロックの“経験主義”においても述べられている事項です。ロック以前の時代においては、人間がオギャーと生まれてくるその時点で、既に何らかの観念のようなものを持っていると考えられていたようです。これに対し、ロックは、赤ん坊は白紙で生まれてくる、と主張した。そして、人間はその後の経験によって、観念などを獲得する、とロックは考えた訳です。これが、“経験主義”と呼ばれる考え方で、私も賛成です。

 

そこで、3番目のステップとして、思考ということがある。これは、私が論理的思考と呼んできたものであって、理性という言葉に近いものだと思います。論理には、3段論法、演繹、帰納、そしてパースが提唱したアブダクションがある。特に、このアブダクションこそが何かを発見する時のロジックなのです。まず、驚くべき現象がある。しかし、仮にAという事項が真実だとすれば、係る驚くべき現象の理由を説明できる。このような場合に、Aという仮説は真実であることになる。簡単に言えば、これがアブダクションですが、これも完全なロジックということにはならない。そこで、アブダクションによって立てられた仮説が本当に真実なのか、ということは、その後、個々の事例に照らし、すなわち帰納法によって検証すべきだ、ということになる。そこで検証された事項は、すなわち、真理である。だから、真理は存在する、というのが私の考え方です。

 

憲法上の概念に照らして、考えてみましょう。民主主義ということがある。これは、正しく機能する場合も、そうでない場合もある。民主主義はナチズムに加担したし、最近ではポピュリズムという弊害を招くことが指摘されている。しかしよく考えてみれば、民主主義が正しく機能するためには、いくつかの条件がある。例えば、民衆に正しい情報が提供されること。フェイク・ニュースが流行り、毎月勤労統計のデータが改竄されるような社会において、民主主義が機能するはずがありません。更に、教育も重要だ。加えて、ある程度の経済的な余裕も必要だと思います。長時間労働で睡眠時間が5時間という環境にあって、人間は正しく思考することはできない。但し、上記の条件で十分なのか、それとも他に必要な条件があるのか、そういうことは未だに検証されていないのではないでしょうか。すると、この口当たりの良い民主主義という言葉も、本当はまだ仮説に過ぎないと言える。

 

他方、権力は腐敗する、というテーゼを考えますと、これは既に実証されている。現在の日本政府など、現在進行形でこれを実証している。すると、権力というのは分散させた方が良いことになる。立憲主義ですね。こちらは、検証済みの真理である、と言える。少し、整理してみましょう。

 

認知・・・記号学
認識・・・経験主義
思考・・・理性主義、論理学

 

このように、真理というものは、確実に存在する。だから、私たちは敗北主義に陥る必要など、どこにもないのです。2度の世界大戦があった。しかし、それを未然に防ぐことのできる原理は、必ずあったはずだ。その原理を発見できなかったのは、当時の仮説が間違っていたからに他ならない。マルクス主義が敗北した。それは、マルクス主義が間違っていたか、それを柔軟に修正する努力を怠ったからではないのか。考えることを止めてはいけない。真理は、必ずどこかに存在するのだから。

 

文献14: はじめての哲学史竹田青嗣西研有斐閣/1998
文献15: 哲学中辞典/尾関周二 他編/知泉書館/2016

No. 245 憲法の声(その12) 理性主義、ロックからポストモダンまで

前回に引き続き、理性主義について考えてみます。

 

ジョン・ロックは、次のように考えた。まず、全知全能の神がいて、神は人間だけに理性を与えた。そして、神は啓示によって人間に真理を告げる。しかし、啓示については、人間が理性によって解釈すべきである。すなわち、ロックの理性主義を構成する要素は、次のように示すことができる。

 

ロックの理性主義 = 神 + 真理 + 理性

 

これは、とても重要な話だと思うのですが、無神論者の私としては、やはりしっくり来ない。では、理性主義はその後、どう変遷していくのか。こういう時に便利な本が、「はじめての哲学史 強く深く考えるために」(文献14)です。この本、タイトルは素人向けですが、内容はとても充実しています。

 

そこで、カント。人間は古代より、根本的な問題を考え続けてきた。例えば、世界は何故出来たのか、神は存在するのか、人間は何故生きているのか。そして、カントはこれらの問題について、答えは出ないと考えた。それらの問いは、人間の理性の限界を超えた問いだからである。他方、人間にとって何が善であるかという問題は、とことん考えれば必ず理性によって理解できる。すなわちカントは、倫理、道徳の原理をキリスト教的世界像から切り離して、人間の理性自身に根拠を持つものとして基礎づけた・・・ということになる。換言すると、カントの理性主義においては、“神”という要素が消える。

 

カントの理性主義 = 真理 + 理性

 

次に、ヘーゲル。彼は“人間は自己意識の自由を追求する”というテーゼを設定した。つまり、自分を自分として肯定しようとする欲望を持ち、その最終的な目標として「絶対本質」ということを考えた。ヘーゲルは、次のように述べる。

 

“真理とは、ある絶対的な事態そのものでも、それを正しく言い当てることでもなく、さまざまな見方のなかから、普遍性を取り出す思考の運動のあり方である。”

 

すなわちヘーゲルによれば、真理とは理性そのもののことであり、理性こそが真理なのだ、ということになる。

 

ヘーゲルの理性主義 = 理性

 

学術的にヘーゲルが理性主義と呼ばれているのかどうか私は知りませんが、一応、上記の解釈が成り立つと思うのです。いずれにせよ、ロック、カント、ヘーゲルの3人は、人間の“理性”の力を肯定していた。そして、思考することが大切だ、そうすれば真理に到達できる、というポジティブな考え方を持っていた。その点は、3人に共通している。

 

しかし、上記の理性主義を否定する考え方が登場する。そもそも、唯一絶対の真理などというものは存在しない、存在しないのだから考えたって分かるはずがない、と主張する人々が現れたのである。これが、ポストモダンと呼ばれる思想の潮流です。文献14は、次のように解説する。

 

ウィトゲンシュタイン構造主義ポスト構造主義などにはそのような真理主義批判が強くみられるが、とくに、ポスト構造主義は近代的な人間観や認識観の否定を強く推し進めたために、その主張はポスト・モダン(post-modern:近代を超える)の思想と呼ばれることも多い。”

 

そして、文献14はポストモダンが登場した理由について、次の3点を挙げている。

 

第1の理由は、第一次、第二次世界大戦の衝撃。近代における西洋の思想、すなわち理性主義によって、人類はかかる惨禍を防止することができなかった。補足を致しますと、例えばカントは1795年に「永久平和のために」という論文を書き、国際連盟の設立に影響を与えたそうですが、それでも人類は、第二次世界大戦の勃発やナチズムを抑制することができなかったという史実があります。

 

第2の理由として、文献14はマルクス主義の失敗を挙げています。これは、真理と正義の名のもとに行われたスターリンによる大量虐殺を引き起こした。

 

第3の理由として、西欧中心主義に対する批判として、レヴィ=ストロースによる構造人類学の影響がある。「どんな民族の文化もそれぞれに等しい価値がある」という主張から、ヨーロッパの植民地支配などが批判された。

 

更に、ポストモダンポスト構造主義)における最大の思想的源流は、「“唯一の真理や道徳が存在するはずであり、人間は理性によってそこに近づいていける”という近代的な信仰を徹底的に批判した」ニーチェにある、とのことです。

 

こうして“差異や多様性は「よい」言葉であり、それに対して、普遍性とか原理という言葉は、差異や多様性を認めずそれらの上に君臨し抑圧しようとするものとして、感覚されるのである。”・・・ということになり、これが現代社会の風潮だと言って良いでしょう。

 

では、一覧にしてみます。

 

ロックの理性主義  = 神 + 真理 + 理性
カントの理性主義  = 真理 + 理性
ヘーゲルの理性主義 = 理性
ポストモダン    = 何もなし

 

理性主義という軸で考えた場合、選択肢は上記の4種類しかないと思います。あなたは、どの立場を支持されるでしょうか?

 

ちなみに、文献14はポストモダンに対して、次のように述べています。

 

“もし「普遍的な原理をめざす」ということがなかったら、哲学のゲームそのものが意味をなさなくなってしまうだろう。(中略)そして、哲学の歴史から学ぶことは何もなくなるのである。”

 

抑制された表現ではありますが、文献14の立場は、ポストモダンに批判的で、理性主義に立ち返れと言っているように感じます。

 

さて、ここまで来たからには、私なりの考えを述べさせていただきたいと思います。次回のタイトル、「それでも真理は存在する」というのはいかがでしょうか?

 

文献14: はじめての哲学史竹田青嗣西研有斐閣/1998

No. 244 憲法の声(その11) ロックの理性主義、そして立憲・民主主義の起源

イギリスは、何かとややこしい国です。英語圏では、UK(United Kingdom)と呼ばれ、日本語ではイギリスと言われる。イギリス本島の西側にアイルランド島というのがありますが、その北部はイギリス領北アイルランドで、南部がアイルランド共和国になっている。最近のブレグジット(イギリスのEU離脱)問題に絡んで、この地域が話題になりますが、イギリス領北アイルランドEU離脱の方向で、反対にアイルランド共和国は残留の意向。すると、イギリスがEUを離脱した場合、アイルランド島における南北の国境をどうするか、というのが昨今の課題ということらしい。聞けば、イギリスがプロテスタントで、アイルランド共和国カトリックで、互いに反目し合っているそうです。同じキリスト教なのだから、仲良くすれば良いのに、とFar Eastに住む日本人は思う訳ですが、なかなかそうもいかないようです。

 

さて、ロックの人間観とはどういうものだったのか。言うまでもなく、人間を作ったのは全知全能の神である。そして、神は人間だけに理性を与えた。それは、他の動物にはない人間に固有の能力である。理性とは、神が人間に与えた援助である。そして、神は啓示によって、その意思を人間に伝えるが、その啓示をどのように解釈するのか、その判断を下すのも理性の役割である。

 

“だから、理性は「あらゆることがらにおけるわれわれの最後の審判者・指導者」なのである。”(文献12)

 

簡単に言うと、概ね、上記がロックの人間観であり、理性主義ということになります。ちょっと、不思議な感じがしませんか? 無神論者である私なりに、考えてみましょう。

 

まず、“啓示”ということがある。これは、一つには聖書のことではないでしょうか。但し、聖書というのは、基本的に物語風に描かれているので、色々な解釈が成り立つ。そこで当時は、どう解釈すべきか、という論争が絶えなかった。更に、文化人類学的に言えば、啓示とは、“神のお告げ”のようなもので、例えば強烈な夢を見るとか、夢の中で真実を悟るとか、そういう心理的な出来事を指します。これは、直観と同義だと思います。芸術家が閃いたりするのも、この心理的作用によるものだと思います。そういうことは、結構、頻繁に起こるんですね。宗教的な瞑想、修行などによって、引き起こされる場合もあるし、時にはドラッグの幻覚による場合もある。そういう閃きだけを信じた場合、世の中から戦争やカオスは無くならない。そこで、ロックは“理性”ということを言い出した。

 

更に注目すべきことは、神の啓示をどう解釈すべきか、それは理性の仕事だとすると、結局、全知全能の神と、人間の理性と、どちらが上なのかという問題が生ずる。キリスト者キリスト教徒のこと)であれば、当然、神の方が上ということになる。ロックは、そのようなキリスト者たちの心情に配慮しつつ、うまい言い方で、事実上、理性の方を上に配置したのではないでしょうか。

 

とても奇妙なロジックではありますが、ロックはその理性主義に基づいて、以後、政教分離、ひいては人間の自由、生命、健康、所有権など、言わば基本的人権に関する論理を見事に展開してゆくのです。人間には生きる権利がある、と説いたホッブズよりも、はるかに現代の論理に近づいている。

 

しかし、無神論者の私には、不思議な感じがしてしょうがないのです。ロックの理性主義は、その結論においては、正しいと思うのですが、結論に至るプロセスは、神の存在を前提としているからです。何故だろう? 私は漠然と、立憲主義や民主主義という論理を構築したのは、もう少し現代的な無神論者ではないかと思っていたのですが、この予想が誤っていたことを認めざるを得ない。

 

まず、神話の時代があった。古くは、ギリシャ神話があり、同じく紀元前には旧約聖書が書かれた。これは、人間が世界を理解するための仮説だった。この仮説が、神という概念を作り出す。このような物語的思考方法が、物語を体系化する方向に発展した。その完成形が、言わばカトリックであると言えそうです。私の文化論に照らして、要素に分解してみましょう。

 

想像系・・・聖書
身体系・・・賛美歌、祈るという行為
物質系・・・儀式(サクラメント
競争系・・・教会における階級

 

もちろん、様々な記号系の文化もそこに含まれています。そして、ルターやカルヴァンが登場する。彼らは、カトリックの儀式について批判した。それはあたかも“呪術”のようであると。そうなんですね、物質系の文化の、ある発展段階として、“呪術”(物に願いを込める)というのは、避けて通れないものだと思います。呪術なくして、ほとんどの宗教は成立しない。よって、ルターやカルヴァンの批判の本質は、競争系、すなわち教会組織における序列に向けられたのだろうと思います。そして、プロテスタントが生まれた。その発想に立脚しつつ、そこにギリシャ哲学の要素を含め、ホッブズが「自然権としての生きる権利」という概念を持ち込み、そこから一つの人格を持つ群衆、すなわちリヴァイアサンという政治論を展開した。更に、プロテスタントの問題意識とホッブズの政治論を統合し、発展させたのがロックである。そして、ロックにおいて、立憲主義や民主主義の原型というものが出来上がった。このように考えますと、単純に、次のように示すことができます。

 

神話 → カトリック → プロテスタント → 立憲・民主主義

 

ただ、ルター、カルヴァンホッブズ、ロックの時代は、そう離れていない。従って、カトリックプロテスタントは、同じ括りで考えた方が良い。すると、次のようになります。

 

神話 → キリスト教 → 立憲・民主主義

 

すなわち、立憲主義、民主主義の起源は、キリスト教にあったのです!

 

私は62才になるまで、このことを知りませんでした。もしかして、このことは世間では常識となっていて、知らなかったのは私だけなのでしょうか。今どきの高校の教科書には、そういうことが書いてあるのでしょうか?

 

では何故、仏教、儒教神道などではなく、キリスト教だったのでしょうか。それは、キリスト教が全知全能の神という概念を措定したからではないでしょうか。そもそも、全知全能の神が存在するということは、それだけで“真理”だと思うのです。だから、必ずこの世に“真理”は存在するということになる。これを発展させると、真理があるから、それを理性によって発見せよ、ということにもなる訳です。理性主義とは、本質的にこういう構造を持っている。

 

文献12: ロック/田中浩 他/清水書院/1968
文献13: ジョン・ロック/加藤節/岩波新書/2018

No. 243 憲法の声(その10) ピューリタン革命

 

前回の原稿で、物語的思考については、認識の及ぶ範囲が狭く、それでは追いつかない程ヨーロッパ人の視野が広がったため、論理的思考方法が生まれたのではないか、ということを述べました。しかし、一方、現代人である我々は、心を癒すために物語的思考、閉鎖系の世界を構築することに尽力している。例えば、子供たちは童話を読み、大人はサスペンスドラマなどの娯楽を求めている。心身症を罹患した人々は、箱庭療法によって、その治癒を目指している。このことは一体、何を意味しているのでしょうか。可能性としては、2つあるのではないか。1つ目としては、元来、人間の認識方法として論理的思考というのは、負担が大きいということ。経験の少ない子供たちにとって、それは困難な思考方法である。2つ目の可能性としては、複雑化した現代社会においては、論理的思考をもってしても、最早、世界を認識することが困難になりつつある。仮にどちらかの理由が、若しくは双方の理由が正しいとすると、人間の認知・認識方法の限界が、そこら辺にあるのかも知れない。

 

物語的思考・・・認識できる範囲が狭い・・・心理的負担は小さい

論理的思考・・・認識できる範囲は広い・・・心理的負担が大きい

 

さて、1632年にイングランドで生まれたジョン・ロックは、例えば、次のような疑問を持っていたそうです。

 

“もし自然科学のばあいのように、だれも疑うことのできない真理が発見されれば、宗教や政治や道徳についても人びとは争わないはずだ。それではいったい真理とはなんなのか。人間はどうすれば真理を認識することができるのか。(中略)ロックはそもそも人間はどれだけ真理を認識する能力があるのかという、いちばん根本的な問題から出発しなおさないと、いきなり道徳や宗教の問題にとびついても結論はでてこないということにきづいた。”(文献12)

 

どうやら、ロックは私と同じようなことを考えていたらしい。否、それは反対で、私がロックと同じようなことを考えているのかも知れません。上記の引用箇所は、“認識論”の本質であって、ロック以降の思想家たちによる考察が、その後、延々と続くことになる。

 

先を急がず、まずはロックが生きた時代の出来事、すなわちピューリタン革命とその後の名誉革命について、史実を追ってみましょう。何しろ、この2つの革命の後、世界で初めての近代民主国家が誕生したと言われているのですから。とてもややこしい話なので、末尾に年表を付けておきます。

 

文献1には、ヘンリ8世が「議会の支持のもとに国王をイギリス教会の首長とする国教会をうちたて(1534年)、つぎのエドワード6世のもとでようやく教義の面でもプロテスタントが採用された」と記されています。これが、イングランドにおける当初の宗教改革だった訳です。

 

しかしながら、イングランド宗教改革には、ローマ法皇の影響を排除するという政治的な目的が秘められていた。そのため、その実態はカトリック式の教義を採用するなど、中途半端なものだった。そして、もっとピュアな教会を作るべきだと考えたピューリタンの人々が立ち上がった。これがピューリタン革命の起源だと思われます。このピューリタン清教徒)と呼ばれる人々はカルヴァン主義で、ストイックに聖書の教えを実践していた。反面、政治的にはかなり過激な集団だった。ここに、3面的な当事者関係が成立する。

 

カトリック・・・ローマ教会。当時、フランスでは、カトリックが支配的だった。
イングランド国教会・・・形式的にはプロテスタントだが、改革は不十分。
プロテスタント・・・ピューリタン清教徒)、カルヴァン主義。

 

更に事態を複雑にしたのは、マグナカルタ以来、脈々と引き継がれてきたイングランド固有の議会制だった。王権の強化をたくらむ国王派は、概ね、国教会又はカトリックを支持し、議会派はプロテスタントを支持していた。1628年、議会派は時の国王、チャールズ1世に対し、“権利の請願”を行う。これはマグナカルタ同様、国王の権利を制限しようとするものだった。議会派は特に、国王が新たに徴税する際には、議会の承認を得るよう求め、チャールズ1世も、一度はこれを認めた。しかし、チャールズ1世は前言をひるがえし、翌1629年に議会を解散してしまう。以後、11年間に渡って、イングランドの議会は開催されず、国王による独裁政治が続く。

 

そんな最中、ロックが生まれる。ロックの家系は、先祖から相続した土地を保有していた。裕福ではなかったが、貧困層という訳でもなかった。両親はプロテスタントで、ロックもルターやカルヴァンの信仰を引き継いだ。ホッブズの信仰心がはなはだ怪しかったのに比べ、ロックは生涯を通じてキリスト者であった。

 

1639年、国王はスコットランドとの対戦に必要な戦費を徴収する必要に迫られ、しぶしぶ議会を招集する。議会派の中の急進派は、それまでの国王の横暴に対し“大抗議文”を出して、国民にその支持を訴えた。国王側がこれを拒否し、1642年に武力衝突が勃発した。これが、50万人に及ぶ死傷者を出したと言われるピューリタン革命勃発の経緯である。

 

革命勃発から7年が経過し、革命派(議会派)が勝利を収める。1649年、国王チャールズ1世は、ギロチンによる公開処刑を受ける。これは、当時の人々にとっても、かなりショッキングな事件だった。革命派は、少しやり過ぎではないのか。そういう雰囲気が国民の間に醸し出されたこともあり、以後、政権を取った革命派は穏健な政策を取り始める。

 

中産階級は革命の成果に満足していたが、言わば骨抜きになった革命政権に対し、今度は、貧困層が不満を持ち始めた。あの、革命は何だったのか。革命の後にも、自分たちに幸福はやって来ない。革命は失敗だったのではないか。国民はほとほと疲れ果てると共に、国王派が勢力を盛り返し、1660年、フランスへ亡命していたチャールズ2世がイングランドへ帰国し、王政が復活する。しかし、その後チャールズ2世は、ピューリタンに対する迫害を始める。

 

1685年に死去したチャールズ2世には、子供がなかった。そこで、弟のジェームズ2世が王位に就く。残念ながら、このジェームズ2世という男が、またまた悪い男だった。(個人的な感想です。)カトリック国だったフランスと結託し、再度、イングランドカトリック化しようとしたのである。

 

業を煮やした議会派は、1688年にオランダのウィリアム3世とその妻、メアリにイングランドの国王へ即位するよう要請した。何故、外国人にそのようなことを要請したのか、と思う訳ですが、まず、議会派の狙いはメアリにあった。彼女は、ジェームズ2世の娘だったので、血筋上の問題はなかったし、プロテスタントだったのである。更に、彼女の夫もプロテスタントだった。当初議会派は、メアリだけを女王に迎えようと希望したが、ウィリアム3世の希望があったので、共同してイングランドを統治するという条件で、2人を迎え入れたのである。オランダから軍隊を率いてウィリアム3世がやって来ると、イングランドの国民はこれを歓迎し、ジェームズ2世は国外に逃亡した。流血なく達成されたので、この革命は、名誉革命と呼ばれた。

 

翌1689年、議会は新国王となったウィリアム3世とその妻メアリに“権利の章典”を承認させた。ここに近代、議会制民主主義国家が誕生したのである。

 

概ねご理解いただけたでしょうか。

 

王政 → ピューリタン革命による議会制 → 王政復古 → 名誉革命による議会制

 

人間の社会というのは、なかなか進歩しない。3歩進んで2歩下がる。そんな具合にしか、動いていかないんですね。この原稿を書いているだけで嫌になってしまいますが、しかし、当時のイングランドの人々や、この一連の革命プロセスで命を落とされた方々にしてみれば、それはもう大変な時代だった訳です。

 

そのような時代を生きたロックは、元来、静かに暮らしたいタイプの人間だったようですが、政治的な動向について、「われわれのすべての運命が掛けられており、われわれは、それとともに泳ぐか沈むかしなければならない」(文献13)と考えていたそうです。

 

<ロック年表>

1215   イギリスにおいて、マグナカルタが制定される。
1588   ホッブズ誕生(~1679)
1618   30年戦争(~1648)。主に神聖ローマ帝国を舞台として繰り広げられたカトリックプロテスタントの戦争。後に、ヨーロッパ各地を巻き込む。約575万人が死亡。
1628   権利の請願。
1632   ジョン・ロック誕生(~1704)
1642   ピューリタン革命(~1649)
1649   国王チャールズ1世は、ギロチンにより処刑される(議会派が勝利)。
1651   イングランドにて“リヴァイアサン”出版。ホッブズイングランドへ帰国。
1660   王政復古。イングランド国民は、フランスへ亡命していたチャールズ2世の帰国を歓迎した。しかし、その後チャールズ2世は、ピューリタンに対する迫害を始める。
1667   ロックは「宗教的寛容論」を執筆。
1683   ロックは「統治二論」を執筆。議会派に属していたロックは、国王派の弾圧を怖れ、オランダへ亡命。
1685   チャールズ2世が死去し、ジェームズ2世が即位。
     ジェームズ2世カトリック化政策を強力に推進。
1688   名誉革命
1689   イギリスの議会は、新国王となったウィリアム3世(オランダ総督)とその妻、メアリ(ジェームズ2世の娘)に“権利の章典”を承認させた。
1689   ロック、イギリスへ帰国。ロックの「統治二論」が出版される。
1696   ロック、アイザック・ニュートンと親交を持つ。
1704   ロック死去。享年72才。

 

文献1: 新 もう一度読む 山川世界史/「世界の歴史」編集委員会山川出版社/2017
文献12: ロック/田中浩 他/清水書院/1968
文献13: ジョン・ロック/加藤節/岩波新書/2018

No. 242 憲法の声(その9) ホッブズのコモン・ウェルス論

 

領土をめぐる紛争、カトリックプロテスタントの戦い、魔女狩り、拷問、そして奴隷制などに揺れ動くアナーキーな社会情勢の中で、ホッブズはそれでも人々には、生きる権利があると考えた。そして、人々が生き延びるためには、人々自身が武器を捨てる必要がある。そこで、ホッブズが考えた社会のモデルが、コモン・ウェルスだった。コモン・ウェルスとは、「一人格に統一された群衆」を意味する。

 

人々は主権者に対し、彼らの生命の安全を確保するよう求める。主権者は、人々の求めに応ずることを約束する。そして人々は、彼らの安全を確保するために必要な権力を主権者に付与する。人々と主権者との間のこのような関係をホッブズは“信約”と表現したが、その意味は後世の“契約”という言葉に置き換えて差し支えない。すなわち、ホッブズのこの発想が後世の“社会契約論”へとつながる。

 

ホッブズのコモン・ウェルス論は、とにかく主権者に強力な権力を与えるべきだ、と考える点に特徴がある。強い権力がなければ人々を統治することができない、というのがその理由である。そして、強大な権力を持つ者が統治することによって、その人間集団はあたかも一人の人格を持つ巨大な生命体のように、十分な機能を発揮することが可能となる。この機能的で強固な人間集団を、ホッブズは聖書に出て来る海獣リヴァイアサンに例えた。

 

ホッブズは、権力を集中させるべき主権者について、以下の3種類を想定した。

 

君主政治・・・一人の人間に権力を集中させる。
民主政治・・・人々の中から代表者を複数選任する。
貴族政治・・・特定の人間集団(貴族など)の中から、複数の代表者を選任する。

 

ホッブズは、理論上、上記の3種類しかありえないと述べている。そしてホッブズは、最も強固な統治権力を実現するためには、君主政治が好ましいと主張した。民主政治や貴族政治では、意見の分かれることが想定される。その際は、多数決によって決することになるが、そもそも複数の意見が存在するということ自体、その権力が弱体化するリスクを持つ、とホッブズは考えたのではないか。

 

このコモン・ウェルス論だけを見ていくと、確かにそこにはナチズムのような全体主義につながる萌芽を見て取ることができる。人々の自由は制限され、ひたすら主権者に権力を集中させよ、というのがホッブズのスタンスである。人々には思想の自由も表現の自由も与えられない。宗教的な価値観も、主権者の前では無力化される。しかし、別の章を含めて考えれば、ホッブズの立場が全体主義にあるという判断には違和感がある。例えば、第1部14章の後半には、現代日本民法のようなことが記されている。第2部26章には訴訟法が、そして27章には刑法のようなことが書かれている。これは一体何を意味しているのか? 当時のイングランドやフランスには、まだ法律の体系というものが確立されていなかったのではないか。そこでホッブズは、コモン・ウェルス論を展開する傍ら、そもそも法律とはどうあるべきか、そういう些末なことも考えざるを得なかったのではないか。

 

コモン・ウェルスだ、リヴァイアサンだ、という大きな話もあって、それはそれで重大な論点ではありますが、現代日本に生きる私の目からすれば、何はともあれ、ホッブズは法律によって社会なり国家なりを運営すべきだ、と考えた最初の人間だったのではないか。すなわち、法治主義の提唱者だったのではないか、と思えて来るのです。

 

さて、ホッブズのコモン・ウェルス論はここら辺にして、彼の思想的な背景について、少し考えてみましょう。ホッブズとて、いきなり彼が全てのことを考えた訳ではなく、彼以前の思想家なり文化の影響を受けているのです。

 

まず、「人には生きる権利がある」という素晴らしい発想ですが、この点、オランダの法学者、フーゴ―・グロティウス(1583~1645)の方が先に、その主著「戦争と平和の法」の中で述べている、という指摘があります。(文献8)

 

更に、ホッブズの国家論(コモン・ウェルス論)には、古代ギリシャの哲学者エピクロス(紀元前341~紀元前270)の影響があるとの指摘もあります。(文献6)

 

また、法律の起源については、文献6に次の記載がある。

 

東ローマ帝国(別称ビザンツ帝国)では、5世紀にテオドシウス2世(在位408~450)が「テオドシウス法典」、6世紀にはユスティニアヌス帝(在位527~565)が「ローマ法大全」(ユスティニアヌス法典を編纂 以下略)”

 

多分これらの法典において、法律の基本的な考え方が示されており、ホッブズはかかる知識を持っていたものと推測されます。

 

次に、ホッブズと同時代を生きていた哲学者に、あのデカルト(1596~1650)がいます。二人は、ホッブズがフランスに亡命中、交流があったそうです。

 

余談になりますが、デカルト方法序説の中で提示した「我思う、ゆえに我あり」というテーゼについてですが、これはそのこと自体が大切なのではなく、きちんと考えれば疑いのない真実に辿りつくことができる、ということをデカルトは言いたかったのだ、とする説があります。そう言われてみると、納得できるような気がします。

 

続いて、ホッブズは宗教を信じていたのか、という問題もあります。この点、文献6は信じていた、と述べています。他方、文献8は次のように述べています。

 

ホッブズは、実際には無神論者、少なくとも不可知論者であって、特定の教義を人民に教え込み、教化することが主権者の当然の権限だとは考えていなかったものと思われる節があります。”

 

私としても、リヴァイアサンの書きぶりからして、ホッブズ無神論者だったのではないかと思っています。しかし、当時、そのことを表明すると火炙りの刑が待っていた。そこで、ホッブズは、表面上はキリスト教を信じているように装ったのではないでしょうか。

 

ちなみに、リヴァイアサンの3巻~4巻ですが、ここでホッブズカトリック教会の批判を展開しているそうです。しかし、それは私の関心の外にあります。このブログで、宗教に関する検討は、既に十分行ったと思っているからです。

 

では、邪道と言われそうですが、ホッブズの早見表を作ってみましょう。まず、ホッブズは人々の体力や知力に大差はないので、平等だと考えた。これは〇です。また、人々の生きる権利を守るために、とにかく平和を希求した。平和主義という考え方が、こんな風に発生したというのは、ちょっと驚きでした。これも〇です。法治主義という項目も作って、これも〇にしたいと思います。他方、絶対的な権力を持つ君主を想定したので、民主主義という観点から言えば、×になります。また、ホッブズは主権者の権力を強大に保つために、権力を分立させない方が良いと考えた。よって、権力分立も×です。更に、ホッブズは主権者(君主)がその義務を果たさなかった場合の抵抗権も認めていない。よって、×になります。

 

平等主義・・・〇
平和主義・・・〇
法治主義・・・〇
民主主義・・・×
権力分立・・・×
抵抗権 ・・・×

 

蛇足かも知れませんが、文化論の立場から、少し考えてみたいと思います。ホッブズデカルトが同じ時代に生きていた。これは、決して偶然ではない。

 

まず、人間の思考方法は、アニミズム → 融即律 → 物語的思考 というステップを踏んで、進化してきた。この物語的思考というのは、閉鎖系の世界を構築するところに特徴がある。登場人物なり、空間なりを限定して、人間が認識し易いようにする、という意味です。例えば、推理小説なりサスペンスドラマを例にとってみますと、まず、閉鎖系の世界が構築される。例えば、登場人物が同じ企画の旅行に参加する。または、偶然、ある場所に居合わせる。そんな設定がある訳です。そこで、殺人事件が発生する。もともと、閉鎖系の世界ですから、犯人の候補者は限定される。そのため、読者や視聴者は誰が真犯人なのか、と考えることができる。仮にこれが、開放系の世界、例えば渋谷の交差点で誰かに殺された、という設定では話が成り立ちません。犯人と思しき人間が何十人もいる、というサスペンスドラマはありません。犯人の候補者の数は、多分、多くても7人だと思います。心理学の用語で、マジックナンバー7というのがある。これは、人間が認識しやすい物事や人数には限度があって、その数は7だという意味です。

 

ユング派のカウンセラーが実施している“箱庭療法”も閉鎖系の世界を構築して、その中で物語を考える、という方法です。これも、基本的には同じだと思うのです。閉鎖系の世界の中で、物語を考える。聖書やギリシャ神話、その他の民話、童話なども、基本的には同じ構造を持っている。これが、物語的思考の本質ではないでしょうか。

 

ところが、物語的思考によって人間が認識できる範囲には、当然、限度がある。そして、その限度を超えた時代というのがあって、それがホッブズデカルトを生んだのではないか。

 

彼らの時代より少し前、キリスト教徒は十字軍によって東方に進出した。そして、コロンブスアメリカ大陸を発見した。これらの史実によって、ヨーロッパ人が認識する空間的な広がりが生じたことに疑いはない。更に、数学や科学も急速に発達した。ホッブズは40才頃、“幾何学と恋に落ちた”と言われています。また、ホッブズの時代にはあまり注目されなかったそうですが、既にコペルニクスは地動説を唱えている。これらの社会的な変化をどう認識するか。そのような人類にとって危機的な状況が訪れていたのではないか。そして、ホッブズデカルトは、より進化した思考方法を模索した。そして、数学や科学において用いられていた思考方法、すなわち“論理的思考”を人文科学の世界に持ち込んだ。この思考方法であれば、認識の範囲は飛躍的に拡張する。この方法によって、人間は世界を認識すべきだ。そういう革命的な科学反応が、ホッブズデカルトの頭の中で発生したのではないでしょうか。

 

※ 次回以降は、ジョン・ロックを取り上げる予定です。

 

文献6: ホッブズ/田中浩/清水書院/2006
文献7: 抑止力としての憲法樋口陽一岩波書店/2017
文献8: 法とは何か 法思想史入門/長谷部恭男/河出ブックス/2015
文献9: カルヴァン/渡辺信夫/清水書院/1968
文献10: 暴力の人類史(上)/スティーブン・ピンカー青土社/2015
文献11: リヴァイアサン(1巻~4巻)/ホッブズ岩波文庫/1954

No. 241 憲法の声(その8) ホッブズの平和主義

 

ホッブズの思考は止まらない。前回の原稿に書いた通り、まずホッブズは、人間の体力、知力に大差はなく、人間は平等だと考えた。そして、平等だから、戦争が起こると主張する。仮にAさんが畑を耕し、農作物を収穫していたとする。しかし、人間の体力、知力に大差はないので、そこへBとCの2人がやって来て、Aさんの収穫物を強奪しようと思えば、それは可能ということになります。

 

“この相互不信から自己を安全にしておくには、だれにとっても、先手をうつことほど妥当な方法はない。”

 

そして、戦争が始まる。システム化された社会なり国家が成立する以前の状態を“自然状態”と呼びますが、ホッブズは自然状態について“各人が各人の敵である戦争”の状態であると考え、次のように説明しています。

 

“そのような状態においては、勤労のための余地はない。なぜなら、勤労の果実が確実ではないからであって、したがって土地の耕作はない。航海も、海路で輸入されうる諸財貨の使用もなく、便利な建築もなく、移動の道具およびおおくの力を必要とするものを動かす道具もなく、地表についての知識もなく、時間の計算もなく、学芸もなく文字もなく社会もなく、そしてもっとわるいことに、継続的な恐怖と暴力による死の危険があり、それで人間の生活は、孤独でまずしく、つらく残忍でみじかい。”

 

およそ、考えつく人間らしさの全てが奪われる。これが、人間の自然状態であるとホッブズは考えたのです。そして、このような状態にあっては、正義も悪も存在しない。そこにあるのはただ、人間が生きようとする権利だけです。例えば、飢餓状態の人が、生きるために畑の野菜を盗んだとする。だからと言って、その人が罪を犯したことにはならない。何故なら、その人には生き延びる権利があるからだ。また、例えば自分が殺されそうになる。その時、武器を持って先に相手を殺してしまった。それでも、その人を責めることはできない。何故なら、その人にも生きる権利があるからだ。このような権利を、ホッブズは“自然権”と呼びました。

 

自然状態(戦争状態)にあっては、人は自然権(生き延びる権利)を持つ。これが、ホッブズにとって、重要なテーゼとなったのです。

 

しかし人間には、戦争は嫌だ、平和に暮らしたいと思う傾向もある。その誘因としては、死への恐怖、快適な生活に対する希望、そして理性がある。そこで、上に記したテーゼは、次のように発展するのです。

 

“各人は、平和を獲得する希望があるかぎり、それにむかって努力すべきであり、そして、かれがそれを獲得できないときには、かれは戦争のあらゆる援助と利点を、もとめかつ利用していい。”・・・第1の自然法

 

上記の考え方を、ホッブズは“第1の自然法”と呼んだのです。簡単に言い換えてみますと、紛争が発生した場合には、まず、話し合え。話し合って解決できない時には、武器を持って良い。こういうことだと思いますが、ホッブズは“第2の自然法”と呼ぶ以下の原理に従って、平和主義へと一歩踏み出します。

 

“人は、平和と自己防衛のためにかれが必要だとおもうかぎり、他の人々もまたそうであるばあいには、すべてのものに対するこの権利をすすんですてるべきであり(以下略)。”・・・第2の自然法

 

「この権利」というのは前後の脈絡からして、「武器を持つ権利」のことだと思われます。すなわち、「他の人々もまたそうであるばあい」には、積極的に武器を捨てろ、とホッブズは言っている。(不明瞭な指示代名詞が多く、難解です。)これが当面、ホッブズが到達した平和主義であると言えます。

 

しかし、自然状態における自然権(武器を持つ権利)と、積極的に武器を捨てろとする第2の自然法が、真っ向から対立しているように思えます。更に、第2の自然法における「他の人々もまたそうであるばあい」とは、一体、どういう場合なのか、判然としません。

 

これらの答えは、リヴァイアサン第2部(コモン・ウェルスについて)で明らかにされるものと思います。

 

文献11: リヴァイアサン(1巻~4巻)/ホッブズ岩波文庫/1954

No. 240 憲法の声(その7) ホッブズの平等論

 

忘れないうちに書いておきます。歴史主義的文化人類学で分かるのは、宗教までの文化でした。これは幾度となく、このブログに書いてきたことです。そして今、私が辿ろうとしている憲法の歴史というのは、宗教以後のことです。すると、両者を足すと、人間の歴史が見えてくるかも知れない。

 

しかし、今、私がすべきことは、ホッブズに関する話を前に進めることですね。

 

さて、ホッブズの時代、魔女狩りはヨーロッパ各地で頻繁に行われていました。文献10によれば、当時、魔女に掛けられていた嫌疑には、次のようなものがありました。

 

・赤ん坊を食べた。
・船を難破させた。
・農作物をダメにした。
安息日に箒に乗って空を飛んだ。
・悪魔と交わった。
・恋人である悪魔を猫や犬に変えた。
・普通の男性にペニスがなくなったと信じ込ませて性的不能に陥らせた。

 

魔女狩りは、まず、拷問から始まる。すると、魔女だとされた女性たちは、嫌疑を認める供述を始める。つまり、虚偽の自白をしてしまう。例えば、次のように。

 

「はい、その通りです。この前の安息日、私は箒に乗って空を飛んでしまいました」

 

そして、彼女たちは火炙りの刑に処せられる。これは、おかしい。と、ホッブズは考えた。ホッブズはまず、言葉の定義から始める。

 

影像/造影/想像・・・対象が除去されたり目が閉じられたりしたのちにも、われわれはなお、見られたものの影像(イメージ)を、われわれが見ているときよりもあいまいではあるが、保持する。ラテン人はこれを“造影”と呼び、ギリシャ人は“想像”と呼ぶ。これは、おとろえつつある感覚に他ならない。これは眠っているときにも、目覚めているときと同様に、見出される。

 

幻影・・・夢の中に現われたイメージ。

 

ホッブズは、リヴァイアサンの第1部第2章(造影について)において、次のように述べる。

 

“夢やその他の強い想像を、幻影および感覚からどのように区別するかについての、この無知が、(中略)今日では、妖精、幽霊、妖鬼について、および魔女の力について、粗野な人びとがもっている見解を、生じさせたのである。すなわち、魔女についていえば、私は、かれらの魔術がなにかほんとうの力であるとは考えないが、それでもかれらが、自分たちはそういう悪事ができるのだという虚偽の信念をもち、それとともに、もしできるならそれをしようという、意図をもつために、処罰されるのは正当だと考えるのであって、かれらの仕事は、技能または学問によりも、あたらしい宗教にちかいのである。”

 

このように述べて、ホッブズは魔女であるとの嫌疑を掛けられた女性たちの自白が虚偽のものであると主張したのです。このようなホッブズの分析は、後年の心理学に通ずるところがあるように感じます。

 

少し駆け足で、リヴァイアサンを見ていきましょう。

 

第3章: 影像の連続あるいは系列について・・・“思考”についての考察

 

第4章: ことばについて・・・“言語学”の原型のようなもの

 

第5章: 推理と科学について・・・論理学的考察

 

第6章: ふつうに情念とよばれる、意志による運動の、内的端緒について。およびそれらが表現されることば〔について〕・・・「勇気」「怒り」「確信」などの言葉に関する定義。国語辞典のような記述が続く。ホッブズは、言葉を定義することの重要性を説いている。(“人の論究が、定義からはじまらないときは、それは、彼自身のなにか別の瞑想からはじまり、以下略”とホッブズは第7章で述べている。)

 

第7章: 論及の終末すなわち解決について・・・論理学的検討。ホッブズは、“論究がことばにされて、語の定義からはじまり、その結合によって一般的断定にすすみ、さらにそれらの結合によって三段論法にすすむ、というばあいに、終末すなわち最後の合計は、結論と呼ばれる”と述べている。ルター、カルヴァンまでが聖書に基礎を置く“物語的思考”であったのに対し、ホッブズは明らかに“論理的思考”を宣言している。ここに思想史上の転換がある。

 

第8章: ふつうに知的とよばれる諸徳性と、それらと反対の諸欠陥について・・・ホッブズは、ここでも宗教的な霊感などを批判的に描写し、理性について、次のように述べている。“獲得された知力(私は、方法と指導によって獲得されたものを意味する)について言えば、それは推理(理性)のほかにはない。”

 

第9章: 知識の様々な主題について・・・・ホッブズは、知識には2種類あると言う。前者は、「事実についての知識」であり、後者は「ひとつの断定の他の断定への帰結についての知識」であって、後者は「哲学者において、すなわち推理をすると称する人にとって、必要とされる知識」であると言う。

 

このように論旨をまとめてみますと、ホッブズがいかに多くの分野に関心を示していたか、ご理解いただけると思います。もちろん、そういう時代的な背景があった。様々な学問はまだ未分化な時代だった訳です。しかし、ホッブズが自ら思考し、様々な難題に取り組んでいたことは明らかだと思うのです。それに比べ現代の学者というのは、自らの専門分野に閉じこもり過ぎているのではないか。憲法学と法哲学は異なると言い、心理学の分野はそれこそ何十にも分化している。現代の学者は専門分野における様々な学説について説明することに長けてはいるが、本当に自らの頭で発想し、考え、主張しているでしょうか。疑問がないとは言えません。

 

さて、ホッブズリヴァイアサンの第13章で、次のように述べます。

 

「人々は生まれながら平等である」

 

ルターの検討から本稿を始めた私としては、この言葉に感動を禁じ得ません。当たり前のことだと思われる方がおられるかも知れません。しかし、ホッブズの時代において、この考え方は当たり前ではなかった。ああでもない、こうでもないとホッブズは夜な夜な考え続けたに違いないのです。では、どういうロジックでホッブズが上記の結論に至ったのか、見てみましょう。ホッブズは言います。

 

“自然は人びとを、心身の諸能力において平等につくったのであり、その程度は、ある人が他の人よりも肉体においてあきらかにつよいとか、精神のうごきがはやいとかいうことが、ときどきみられるにしても、すべてをいっしょに考えれば、人と人とのちがいは、ある人がその違いにもとづいて、他人がかれと同様には主張してはならないような便益を、主張できるほど顕著なものではない、というほどなのである。”

 

ちょっと、ややこしい言い方ですが、つまり、人間の体力や知力には確かに差がある。しかし、その差は、優れている人が特権を主張できる程の差ではない、それ程には違わない、と言っているのです。ホッブズは更に続けます。慎慮は経験に基づく。経験は時間に比例する。そして、時間は全ての人々に平等に与えられる。簡単に言えば、慎慮とは「頭の良さ」のことで、これは経験によって培われるものだ。例えば、年長者は年少者よりも多くの経験を積んでいるのだから、それだけ知識が多くても当然である。そして、経験というのは生きてきた時間に比例するが、その時間というのは全ての人々に平等に与えられるものだ。従って、全ての人々は平等である、という結論になる。

 

上記のロジックが正しいのかどうか、ここでの検討は控えたいと思います。ロジックとしての正しさよりも、そこまで突き詰めて考えたホッブズに、私は敬意を表したいと思うのです。

 

文献10: 暴力の人類史(上)/スティーブン・ピンカー青土社/2015
文献11: リヴァイアサン(1巻~4巻)/ホッブズ岩波文庫/1954