文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

”れいわ”の雑談

起承転結に至らない、もう少し些末な事柄を書きたくなることもあります。という訳で、今回は、雑談にお付き合いいただきたく、宜しくお願い致します。

 

*太郎さんの大宮街頭演説会

行って来ました。デジカメの充電はバッチリだったのですが、充電を完了したことに安堵し、バッグに入れ忘れてしまったのです(泣)。写真付きで、「緊急レポート! れいわ新選組@大宮!」という大それたタイトルまで考えていたのですが、この原稿は幻と消えました。

帰宅後、復習がてらYouTubeで確認したところ、太郎さんがこう言います。

「4兆円の社会保障費が削減されているんですよ」

すると、間髪入れず、ダミ声が聞こえる。

「ふざけんなァ~!!!」

これ、私なんです。写真は撮れませんでしたが、ツメ跡を残せたようで、ちょっと嬉しい。

 

*安冨さん

「今時、絵を描くのは、無文字社会の人々と、子供と、天才だけだ」という話があります。そう言えば、安冨さんも絵を描いている。

 

MMT

アメリカで積極的にMMTを主張されているステファニー・ケルトン教授が来日されています。日本のメディアは、未だに「異端の経済学」という論調で取り上げているようですが、そろそろ、そういう態度は改めた方がいい。MMTケインズ経済学の流れを組むもので、事実を説明しているものです。MMTについては、次の3種類の人種が存在する。

1)理解している人。

2)理解していない人。

3)理解したくない人。

厄介なのは、3)の人たちです。理解する能力があり、本当は理解している。しかし、これを認めてしまうと、自分の出世に影響してしまう財務省の人たち、また、これを認めてしまうと過去の自分の発言の過ちを認めざるを得なくなる「緊縮左派」の学者たち。どちらも、厄介です。

 

MMTを基礎とする国家観

強い政府を作って、政府が財政支出と、税の徴収によって、マネーストックを調整する。同様に、政府が企業の供給力と個人の購買力を調整する。一般的な言い方をすれば、需要と供給の関係を調整するということです。そして、私が前回の原稿に記した通り、特に労働や実質的な価値と関わりのない所有権や財産権に合理的な制限を付けていく。私は、そういう国家を形成すべきだと考えています。これは、太郎さんや大西つねきさんの考え方と、大差はないと思います。そして、このような国家は、原則として土地に関する私的所有権を是認するので、資本主義の枠組みの範囲内にあると思います。このような国家を形成することができれば、共産主義である必要はない。私はそう思うのですが、共産党の人たちは、それでも共産主義の方が良いと考えるのでしょうか? 機会があれば、聞いてみたいものです。

 

ホッブズの国家観

かつてヨーロッパでは、カトリックプロテスタントが争い、加えて貴族や諸侯同士の戦いもあった。戦乱の世だった。そこで、それらの集団よりも強い集団を形成する必要があるとホッブズは考えたのです。「お前ら、戦争はやめろ!」と言って仲介しようとした者が、「余計なお世話だ」と言われて、反対にやっつけられてしまうようでは、元も子もありません。だから、カトリックよりも、プロテスタントよりも、貴族よりも、諸侯よりも強い集団を形成する必要があった。それが、ホッブズが想定した国家だと思います。更に、政府は、国民を代表し、諸外国との交渉に臨まなければいけません。他国が攻めてきた時には、国民を防御するために、自衛権を行使しなければなりません。そういう国家像こそが、ホッブズが名著リヴァイアサンに記したものだと思います。

 

現在の日本は、どうでしょうか。現在の自民党政権は、大企業にへつらっています。アメリカは日本に対して軍事的な侵攻はしないものの、経済的な搾取を仕掛けて来ます。このようなアメリカに対して、毅然とした態度で向き合い、国家国民の利益を防御する。それが本来の政府の役割ではないでしょうか。

 

衰退しつつあるアメリカは、日米同盟に疑問を持ち始めている。その意味で、トランプ大統領というのは、日本が対米自立を目指す上で、好ましい相手ではないでしょうか。日本にとって、大きな分岐点が近づいているのかも知れません。

 

参院選

参院選の投開票日が迫ってきました。台風が近づいているようなので、必要な方は、期日前投票もご検討いただきたく。太郎さん、大宮でも言っていましたが、政権奪取を目指すそうです。1年以内には、次の衆院選が、そして3年後には次の参院選があります。太郎さんの”仁義なき戦い”は続くのです。私としては、折角、ややこしいメンバーが揃ったのですから、参院選の結果に関わらず、全員が”れいわ新選組”のメンバーとして、活動を続けて行ってもらいたいと思っています。

 

*おかげさまで3周年

突然、スーパーのチラシのような表題で恐縮ですが、このブログ、今月の1日で、3周年を迎えることができました。掲載した原稿は、原稿用紙換算で3千枚は超えると思います。お読みいただきました皆様、いいねボタンを押していただきました皆様、読者として登録していただきました皆様、本当に有り難うございました。また、ブログ運営元の「はてなブログ」さんにも、感謝申し上げます。

 

参院選の結果が出た後、次回の原稿をアップする予定です。どうか皆様、山本太郎率いる”れいわ新選組”を宜しくお願い致します。

 

以上

"れいわ新選組"とロックの所有権

今日は、朝から落ち着かないのです。

 

その話の前に、前回の原稿「安冨さんの馬選挙」と題したものですが、この原稿をアップした7月11日、期せずして安冨さんご本人も原稿を公表されていました。

 

やすとみ歩はなぜ馬で選挙をするのか?
http://anmintei.blog.fc2.com/blog-entry-1078.html

 

これを拝見しますと、どうも安冨さんが馬にこだわるには、深いワケがある。そこまでの事情を私は知らなかったのですが、しかし、もっと動物(馬)と触れ合おう、という結論部分は私と共通しており、私が安冨さんを支持する気持ちに変わりはありません。また、先日、品川で開催されました「れいわ祭り」における安冨さんの演説には、感動しました。曰く、サイバー攻撃核兵器の時代にあって、もはや武力による国防は成り立たない。国防のために真に有効な手段は、世界中の子供たちを大切にすることだ。その通りですね。

 

但し、私は馬に限定することなく、人間はもっと動物と触れ合うべきだと考えており、この点は変わりません。例えば、トルコには地域に居住する猫(地域猫)を援助する社会的システムがある。インドにはサルと共存する街がある。これは、サルを神の使いだと考える宗教的な理由もあるようですが・・・。従って、将来誰かが、馬以外の動物を連れて選挙活動を行った場合でも、多分、私は支持するでしょう。ゾウにまたがった候補者が、都心で選挙演説を行う。想像しただけで、ワクワクしませんか!

 

ところで、最近、このブログを更新することを負担に感じるようになって来ました。このブログに掲載している原稿は、本を読んだり、YouTubeを見たり、その他、世の中で起こった出来事などに触発されて、私が考えたこと、感じたことを記している訳ですが、例えば、“れいわ新選組”が立ち上がって以来、「世の中で起こる出来事」のスピードが速すぎて、このブログがそのスピードに着いて行けないのです。

 

例えば1週間ほど前に、“れいわ新選組”が新橋SL広場で街頭演説会を開催した時、そのオープニング・アクトとして、沖縄民謡を歌われた女性がおられましたが、彼女は“あすなろ”さんという方です。彼女は、沖縄の辺野古反対運動に参加され、築地の“女将さん会”に寄り添い、路上で結婚式を挙げ、こよなく民謡を愛しておられる。私はあすなろさんの歌う民謡が好きで、そんなことも書きたいと思っていた訳ですが、“れいわ新選組”の猛攻は止まらない! 私のブログは、追いつかない!

 

思うに、このブログは一応、従来型の起承転結というスタイルを意識してきた訳ですが、そういう文章の書き方自体に、問題があるのではないか。何か、もっと楽に書けるスタイルが存在するのではないか。そんな気持ちもあって、今回の原稿は、あえてスタイルを壊してみることにしました。

 

話は飛びます。と言いますか、ここから本題に入ります。

 

現代社会におきましては、貧富の格差が拡大している訳ですが、そもそも、人間社会における財産権とは何か。そういう疑問がある訳です。

 

狩猟・採集を生業としていた時代、人びとは大した財産を持っていませんでした。そして、狩猟・採集によって得られた食物は、比較的平等に分配されていた。原始共産制だった訳です。

 

人口が増えて、狩猟・採集のみに頼って生きることが困難になると、人びとは、農耕・牧畜を始める。すると、農耕を行うための土地、牧畜を行うための家畜が、人間にとって重要な財産となる。人びとは定住を始め、武力や宗教によって、生活を共にする集団の規模を拡大した。やがて、諸侯、貴族、殿様などが土地を所有し、平民は労働を提供するというシステムが出来上がる。

 

その後、ヨーロッパにおける一揆、暴動、戦争、革命などを経て、土地の私有財産制というものが考えられる。当時の思想家として、ジョン・ロック(1632-1704)がいます。まず、誰も手を付けていない荒れ地があったとして、その荒れ地を耕した者が、その土地の所有者となるべきだ、ということ。そして、土地の所有権には制限を付けるべきであって、ロックは自分で耕せる範囲の土地だけ、その所有権を認めようと言っている。

 

-人が耕し、植え、改良し、開墾し、その産物を利用しうるだけの土地が、彼の所有物なのである。-
(出典:統治二論/ジョン・ロック岩波書店

 

イギリスのような狭い島国でも、昔は、誰も手を付けていない荒れ地があったのでしょう。これはこれで驚きですが、ロックの説には、何か惹かれる所があります。その本質を考えてみますと、所有権と労働が結び付けられている点です。荒れ地であっても、例えばリンゴの木があって、それを収穫できる可能性はあります。しかし、これを耕して畑にすれば、荒れ地だった時の十倍以上の収穫を期待することができる。だから、荒れ地を開拓することは良いことであって、そういう良いことをした者には、所有権を認めようということですね。昔の日本でも、例えば北海道を開拓した者には、その土地が与えられたのだろうと思いますが、これはなかなか良い制度だと思います。

 

ロックの説には、もう一つ魅力がある。それは、所有権に制限を付けようという発想です。昔のこととは言え、土地の広さにも限度がある。大体、一生懸命耕した土地から農作物を収穫すれば、家族の皆が食べていけるだろう。だったら、その程度でいいじゃないか。ロックは、そう考えた。また、ここで注意すべきことは、農作物という実質的な価値を基準として、制限が課されているという点だと思います。整理してみましょう。

 

1. 所有権とは、労働の対価として与えられるべきである。
2. 所有権には、実質的な価値に照らして、合理的な制限が加えられるべきである。

 

ロックの説に従えば、上記2点のテーゼが導き出されると思います。現代の資本主義は、こういう大切な原理を忘れてしまっている。例えば、カルロス・ゴーン氏の年収は、表に出ているものだけでも10億円程度あった。お前は知らないのか、それがグローバルスタンダードというものだ、という論調もありますが、私はそうは思いません。グローバルスタンダードというのは、相対的な判断基準であって、ここはロックが言うように絶対的な価値基準で考えるべきではないか。すなわち、ゴーン氏は10億円に見合うだけの労働を提供したのか、というのが1点。そして、実質的な価値、すなわちゴーン氏一家が暮らしていくのに必要な金額はどれ位なのか、ということです。何も、ベルサイユ宮殿を借り切って結婚式を挙げる必要など、どこにもない。

 

土地の面積には、限度がある。土地から収穫される農作物にも限度がある。人間が食料として消費する農作物の量にも限度がある。他方、貨幣によって蓄積される富には、限度がない。ここに、現代の貨幣経済の問題があるのだと思います。

 

では、どうすればいいのか。簡単です。(太郎さんの口調が移ってしまいました!) そもそも、ロックが述べたように、特に「自らの労働に基づかない所得」には、「合理的な制限」を加えればいいのです。例えば、大企業の役員の報酬だって、1億円あれば十分ではないでしょうか。それだけあれば、家族ともども、十分に食べていける。これは、そういう法律を作れば実現できると思います。株式の売買によって得られた所得というのは、労働の対価ではありません。これには高い比率での所得税を課せばいい。そもそも人材派遣業というのは、人材を紹介した時だけ、紹介手数料を払えば十分ではないでしょうか。実際には、派遣社員の給料を派遣会社がピンハネしている。そんなものは、禁止すべきだと思います。

 

もう一つ。MMT(現代貨幣理論/Modern Monetary Theory)から導かれる国家経済の運営について、思い出す必要があります。すなわち、政府は企業や個人から成る国民経済という領域が保有する貨幣の量、すなわちマネーストックを調節することができる。このマネーストックを増やそうと思えば、財政支出を行なえばいいし、逆に、減らそうと思えば税金を徴収すれば良い。この調整機能によって、マネーストックを適正に維持すると共に、緩やかなインフレを維持することが可能になる。

 

もう少し考えますと、政府には他にもできることがあります。すなわち、企業は商品を供給する側であり、反対に個人は商品を購入するという関係にある。企業には供給能力があり、これは個人の購入能力とバランスする必要がある。政府は上に記した通り、財政支出、税の徴収という能力を使って、この供給能力と購入能力とをバランスさせることが可能なのです。

 

政府・・・財政支出/税の徴収・・・企業の供給能力を調整
政府・・・財政支出/税の徴収・・・個人の購買能力を調整

 

この調整能力によって、目標とするインフレを達成することが可能なはずです。そして、政府が上記のような機能を発揮するためには、政府が企業よりも強い立場にあって、必要だと判断した場合には、大企業の政治的圧力に負けず、法人税を徴収できなければならない。すなわち、政府が大企業よりも強い立場になければ、上に記した経済政策を実現することはできません。現在の自民党政権では、大企業 → 経団連 → 自民党 という関係にあるため、大企業側から必要な税の徴収ができていないのです。それどころか、法人税の減税を繰り返している。

 

上記の通り、政府にはしっかりと国家経済を運営するための役割を果たしてもらいたい、消費税を廃止し、必要に応じて(デフレ脱却後)、法人税増税などの施策を打ってもらいたいと考えた場合、それができる主要な政党、政治団体というのは、“れいわ新選組”と日本共産党しかないのではないか。

 

私は、生まれてこの方、共産党に投票したことはありませんが、次の参院選では、比例は山本太郎氏、選挙区では共産党の候補者に投票しようと思っています。(私は、東京都在住ではないため、野原ヨシマサ氏に投票することはできません。)

 

ちなみにMMTを推進する左派のグループとして、薔薇マークキャンペーンという運動がありますが、次の参院選候補者の中で、反緊縮政策に賛同しているとして薔薇マークを認定された候補者は全部で48人いますが(7月12日現在)、そのうち23人が共産党の所属です。そもそも、MMTというのは国家主義との相性が良く、反グローバリズムであるとも言えます。すると、共産党との親和性が高い。但し、薔薇マークの認定を受けている共産党の候補者は、比較的、若い人が多い。共産党の幹部クラスの方々にも、是非、積極的にMMTを検討してもらいたいと思います。

 

さて、先ほどから時計が気になっているのですが、何故かと言うと、本日、18時30分から、太郎さんと野原さんの街頭演説会が大宮で開催されるのです。大宮って、近所なんです。デジカメの充電も完了したようです。そろそろ、出掛けます!

"れいわ新選組" 安冨さんの馬選挙

このまま40年たったら皆さんは生きていけなくなる、と前川喜平さんが呟き、消費税を廃止しなければロスジェネ世代が死ぬ、と山本太郎さんは言っています。私もそう思います。私たちが生きている現在の社会は、間違っている。間違いだらけだと思います。では、どうすればいいのか。

 

この問題について、短期的な対策を示しているのが、“れいわ新選組”の「緊急政策」です。消費税廃止とか、原発即時禁止が謳われているやつですね。これらについて太郎さんは、自分が総理になったらすぐにやる、と言っている。但し、“れいわ新選組”がもう少し長期的なビジョンを示している点も見過ごしてはなりません。それは、とても本質的な問題です。この点を主に語っているのが、安冨さんと辻村さんということになります。

 

現在、安冨さんは氏名を記載したタスキを掛けて、馬を連れて、都心だとか北海道を行脚されています。すなわち・・・

 

トランスジェンダーの、
・大学教授が、
・馬を連れて、
・選挙活動をしている。

 

・・・ということになる訳で、ちょっとシュールな感じがしますが、そもそも前衛的な文化というのはシュールなものです。デンマークだったでしょうか、人魚姫のブロンズ像があって、観光スポットになっている。しかし、冷静に考えれば、上半身が人間で下半身が魚というのも、かなりシュールではないか。

 

さて、上記の安冨さんの行動ですが、多分、政治学者も経済学者も、説明することができない。しかし、文化論者である私には、痛い程よく分かる。

 

まず安冨さんは、両親から価値観を押し付けられて育った。例えば、子供の頃、安冨さんがアレルギーか何かの原因で鼻をグズグズさせていると、「そんなことでは、立派な兵隊さんになれない」と母親から叱られた。そして、両親の価値観を裏切ることをひたすら恐れて育った安冨さんは、エリートになった。しかし、それでは自分が何かの役割を演じているに過ぎないと感じた。そこで、両親の反対を押し切り、離婚に踏み切る。離婚と同時に、両親との関係を遮断する。その後、女性装を始め、初めて何かの役割を演じるのではなく、本来の自分を発見するに至った。

 

エリートとしての役割が大学教授で、女性装というのがトランスジェンダーの外形につながる。

 

「立派な兵隊さんになる」という集団的な価値観がある。そして、そこから自立できなかった両親がいて、その両親が価値観を押し付けることによって、安冨さんの中にコンプレックスが生まれる。そのコンプレックスから自らを解放していくという、自立した個人としての物語があった訳です。この物語はあくまでも安冨さん個人に帰属するものですが、こういう経験をされる方というのは、実は、少なくない。両親は、若しくは大人は、子供の権利を侵害してはならない。子供を守る。それを政治の基本原理にすべきだ。更に、学歴というのも差別であって、この差別をなくしていくべきだと考える。安冨さんは、個人的な体験をこのように昇華していく。

 

そして、馬が登場する。馬には角も牙もない。馬は平和な動物だし、人間を癒す能力を持っている。そのことを皆に思い出してもらいたい。そういう趣旨で、馬を連れて歩いている。安冨さんはあくまでも馬にこだわっているようですが、私の解釈としては、必ずしも馬である必要はありません。例えば、クジラやイルカだって、ヒーリング効果を持っている。連れて歩くことはできませんが・・・。

 

全ての芸術は、人間が動物に触発された所に起源がある。馬を連れて歩くという行為は、もう一度、原点に立ち返って、すなわち動物と触れ合うことによって文化を再構築しよう、という主張を意味しているのだと思います。

 

古代人は、動物の所作を真似て、踊るようになった。現代日本においても、古い神社では、鶴の格好をして巫女さんが踊るという儀式が残っています。また、古代人は動物の鳴き声を真似て、歌うようになった。

 

動物に触発された古代人は、想像力を身に付けた。そして、多くの物語を作ってきた訳です。これが、民話であり、童話の起源となった。鶴は人間に恩返しをし、桃太郎は3匹の動物を家来として従え、浦島太郎は亀に乗って竜宮城へ行った訳です。現代でもスタジオ・ジブリの作品に、動物は沢山出てきますね。“猫の恩返し”という作品があって、ここでは主人公の女子高生が猫になってしまう。

 

また、狩猟・採集を生業としていた古代人は、狩りの成功を祈って、壁画を描いた。この呪術的行為が、絵画の起源となった。

 

このように、動物を真似る、想像する、食べるという行為が、それぞれ音楽、文学、美術の起源となった。だから人間は、もう一度、動物との関係性を回復させるべきではないか。そうすれば、きっと新しい芸術が生まれるに違いない。安冨さんがそこまで考えているかどうかは分かりませんが、少なくとも直観的に、安冨さんは人間と動物の関係の重要性を理解されているはずだと思います。

 

では何故、それが選挙活動なのか、という問題が残ります。これは、リミット・セッティングだと思います。現実的な、日常的な領域と分割するための境界というものが、文化には必要なのです。将棋を指すには将棋盤が必要で、相撲を取るには土俵が必要で、ボクシングをするためには、リングが必要です。どれも、日常的な空間と、ある文化的行為との間に境界線が引かれている訳です。リミット・セッティングというのは、本来、心理学上の用語ですが、文化を考える際、私はこれを流用しています。もし、選挙とは関係なく、安冨さんが馬を引いて歩いたとすると、そこに意味を発見することは困難となるでしょう。選挙期間中だけ、選挙活動として行うから、そこに意味を見いだすことができる。

 

すなわち、安冨さんの馬選挙は、これを政治活動だと捉えるとその効果には疑問がありますが、これを前衛芸術だと解釈した場合には、傑作だと言えるのではないでしょうか。ジョンとヨーコのベッドインに負けず劣らず、面白い!

 

余談ですが、私は、現代的な課題を解決するためには、古代人のメンタリティを回復させる必要がある、と考えています。そして、最近の原稿において、古代人のメンタリティとは何か、多少なりともその輪郭は見えて来たと思っております。しかし、思えば古代人のメンタリティを体現している人間というのは、現代にもいるのではないか。それは、子供たちです。彼らは無邪気で、好奇心が強く、先入観を持たない。だとすれば私たち大人は、子供たちから学ぶべきではないか。そんなことを考えますと、安冨さんに対し、とても共感が沸いて来るのです。

 

そもそも、現代人は人間に興味を持ち過ぎる。人間にばかり興味を持つから、自分と他人の差異に気を取られることになる。現代人は、もっと動物と触れ合うべきだし、動物に関心を向けるべきだと思います。例えば、あなたが動物の沢山いるサバンナで10日間暮らしたとします。ゾウを見れば、鼻が長いと思う。キリンと出会えば、その長い首に驚く。つまり、差異を認識する訳です。その後で、1人の人間と出会ったとする。そういう場面を想像してみましょう。その時あなたは、その人間とあなた自身との類似点に注目するはずです。あ、私と同じ人間だ、という訳です。その時あなたは、その人間が男だとか女だとか、その人間の学歴がどうだとか、社会的な立場どうだとか、肌の色がどうだとか、国籍がどうだとか、そういうあなたとの差異には、注目しないのではないか。そんなことは、どうでもいい。同じ人間だと認識する、そういう感覚こそが大切なんだ。

 

そういうことを伝えたくて、安冨さんは馬を連れて歩いているのではないか。ちょっと、深読みかも知れませんが。

反序列主義としての”れいわ新選組”

<候補者一覧>

山本太郎・・・参議院議員
はすいけ徹・・・・(元)東電社員
やすとみ歩・・・・女性装の東大教授
木村英子・・・全国公的介護保障要求者組合・書記長 (他)/特定枠2
三井よしふみ・・・(元)コンビニオーナー
野原ヨシマサ・・・沖縄創価学会壮年部/東京選挙区
辻村ちひろ・・・環境保護NGO職員
大西つねき・・・(元)J.P. モルガン銀行資金部為替ディーラー
ふなご やすひこ・・・難病ALS当事者/特定枠1
渡辺てる子・・・(元)派遣労働者・シングルマザー

 

※ 氏名の表記は、れいわ新選組のHPに準じています。

 

私は、木村さんが登場した際には感涙にむせび、野原さんが登場した折には椅子から転げ落ち、ふなごさんの会見を見て腰が抜け、太郎さんが比例に回り、ふなごさんと木村さんが特定枠からの出馬と聞いて、卒倒したのでした。(注:若干の誇張表現が含まれています。)

 

太郎さんは、“れいわ新選組”を立ち上げる前から「街頭記者会見」と称した辻説法を行って来ました。太郎さんのシンパを集めるのではなく、支持者を拡大するのが目的だったため、事前に開催場所は告知されず、聴衆の数も限定的だったのです。太郎さんはそういう地道な努力を積み重ねた後、“れいわ新選組”を立ち上げ、勝負に出た訳です。

 

太郎さんが東京選挙区から立候補した場合、当選はほぼ確実だと見られていました。また、比例から出た場合でも、1人は当選するだろうという調査結果もあります。しかし、特定枠に2人立てた場合、太郎さんはどうなるのか。落選する可能性が高いというのが、専門家の見方ではないでしょうか。

 

私が思ったのは、障害者支援が大切なのは分かるけれども、消費税廃止も大切だ。そして、消費税廃止を訴えるためには、太郎さん自身が当選する必要がある。その前提で考えれば、障害者の候補者は1名にして、この方だけを特定枠に入れる。そうすれば、太郎さんが当選できる可能性も高まる。論理的に考えれば、そういうことだと思います。しかし、換言すれば、これが凡人の発想なのかも知れません。それでは、ワクワク感が生まれない。感動が生まれない。捨て身の戦法で、自身の議席を賭けて、勝負に出る。そうやって、世の中を変えていく。やはり、太郎さんは大物だと言わざるを得ません。

 

また、事の重要性、緊急性ということも考えますと、現にふなごさんや木村さんのように今を生きることに多大なご苦労をされている障害者の方々が沢山おられる。その方々に手を差し伸べることと、消費税の問題とどちらが大切なのか。結論は、言うまでもありません。そして、私は自らの稚拙さを恥じたのでした。加えて、太郎さんは更に先を見据えているに違いありません。すなわち、次の衆院選です。

 

さて、前回の原稿では主に“融即律”ということを軸に、古代のメンタリティについて記しました。やすとみさんは、東京に馬を連れて来ると言っていますが、これも古代人のメンタリティを象徴している一つの現象だと思います。そもそも文化とは、古代人が動物に触発された所を出発点にしている。これが、私の文化論のベースです。また、辻村さんは環境保護ということを言っている。これも、狩猟・採集を生業をとしていた古代人にとっては、当然のメンタリティだと言えます。人間による環境破壊も、その起源は、人類が農耕を始めた時点まで遡ることができる。森林を切り開いて、人類は畑を作った。これが環境破壊の起源だと思うのです。

 

もう一つ、古代人のメンタリティとしては、“類化性能”ということがある。これは、異なる複数の事柄を観察した時に、直観的にそれらの類似点を認識する心の働きのことです。民俗学者折口信夫氏が述べたことですね。古代人は、そういう心理的な機能を持っていた。反対に現代人は、物事の差異を認識しようとする。これが“別化性能”と呼ばれるものです。

 

私は、“別化性能”の弊害は、現代人が序列によって社会を認識しようとしている点にあると思っております。これを本稿では“序列主義”と呼ぶことにします。子供の運動会ですら、勝敗を決め、順位を決しようとする。学校ではテストの点数で順位を決め、会社では役職によって序列を決める。現代の社会は、ほとんど序列によって成り立っている。そこに問題があると思うのです。これに反旗を翻そうという試みが、“れいわ新選組”であると思います。

 

やすとみさんは、子供を叱るなと言っておられる。これは、大人が上で子供が下という序列を否定している。木村さんが国会議員になろうとされているのは、健常者が上で身体障害者が下という序列に対するアンチテーゼだと思います。三井さんは、コンビニの本部が上でオーナーが下という序列に異議を申し立てている。公明党の党首と同じ選挙区での立候補を決めた野原さんは、宗教団体における序列に加え、沖縄 対 東京という対比を提示している。テルちゃんこと渡辺てる子さんは、もっとストレートに金持ち対貧乏人という序列にノーを突き付けている。

 

そのように考えますと、ふなごさんと木村さんを特定枠に指定し、代表である太郎さんが一般枠から出馬するということは、政治団体としての“れいわ新選組”内部における代表と一般メンバーの関係を逆転させるという、圧倒的な序列主義に対する異議を意味している。

 

もう一つ。“れいわ新選組”の候補者には、「当事者」が多い。このことは何を意味しているのか。そもそも、人間は記号を通じて認識していますが、現代人が直面している記号は複雑化し、その量も膨大となっている。そしてそのことが、ある部分では、現代人の認識能力を低下させている。例えば、厚生労働省では膨大な賃金統計を取って、更にインフレ率を算出し、実質賃金が上がっているのか否か、そういうことを算出してきた訳です。(統計不正の問題が発覚して、厚労省は最新のデータを公表していないものと思われますが、学識者の説明によれば、実質賃金は低下しているようです。)すなわち、そのような膨大な記号の蓄積である統計データと、例えばテルちゃんの次のような言葉のどちらに説得力があるか。

 

「私は、一袋27円のモヤシが29円になったのを見て、青くなってんですよ!」

 

間接的な記号、情報、データを見るよりも、より直接的な事象をみるべきだ、という主張が成り立つのであって、ここではそれを“直接主義”と呼ぶことにしましょう。“れいわ新選組”は、社会の諸問題の当事者を候補者として集めた。このような立場をある程度普遍化すれば、“直接主義”と呼んでいいと思います。

 

例えば、現代人であれば、どの地域にどのような種類のイノシシがどれだけ生息しているか、そういうデータを持っています。他方、古代人は、目前の森林にイノシシがいるのかいないのか、匂いや些細な音によって、認識していた訳です。

 

このように考えますと、古代人のメンタリティは、次の式によって表現することができる。

 

古代人のメンタリティ=融即律 + 反序列主義(類化性能)+ 直接主義

 

“れいわ新選組”は、現代社会において、どれだけ古代人のメンタリティを回復させることができるのか、そういう社会実験をやっているものと思われますが、私は、その立場を強く支持しています。

"れいわ新選組"に内在する古代のメンタリティ

きっと、狩猟・採集を生業としていた古代人は、現代人よりも幸せだったに違いありません。彼らは、食料となる動植物を追い求めて、移動を繰り返していました。守るべき資産など、ほとんどなかったのです。新たに発見した植物は、まず、食べてみる。山があれば、登ってみる。彼らの暮らしは、チャレンジに充ちていたはずです。

 

奪い合う資産がないから、彼らは平和に暮らしていた。狩猟で得られた獲物の肉は、集団の中で平等に分配された。そうでなければ、女子供が生きていけません。仮に、平等に分配しない集団があったとしても、そのような集団は、淘汰されたはずです。

 

そんな古代の集団の中に、序列というものは、ほとんど存在しなかったものと思います。例えば、イノシシやシカを狩る時には、共同作業が必要です。その作業は、その集団の構成員が共に生きていくために必要な作業だったのです。すなわち、彼らは運命を共にする“仲間たち”の集団だった。

 

集団だからと言って、理不尽な戒律のようなものは存在しなかった。移動を繰り返しているうちに、はぐれてしまう者もいたでしょう。年頃になった女性たちは、近親相関を回避するために、他の集団にプレゼントされたり、交換されたりしていました。すなわち、古代人が形成していた集団のメンバーは、フレキシブルに入れ替わっていたのです。そのように、絶えずメンバーが入れ替わる集団においては、厳しい序列制度というものは維持されません。

 

チャレンジングで、平和で、平等で、仲間意識に溢れていた古代人の暮らしは、人間が農耕・牧畜生活を始めた時に、失われてしまった。定住し、移動することを止めた人びとの意識は、内向的になったはずです。農耕作業においては、決して、宝くじに当たるような幸運に恵まれることはありません。豊作と言っても、それはアベレージの2割増しか、せいぜい3割増しの収穫が得られるに過ぎない。他方、台風などの自然災害、農作物に関する病気などによって、1年分の収穫が失われてしまうリスクは、常につきまといます。よそ者は、農作物を盗むかも知れない。動物だって、畑を荒らすに違いない。集団の構成員は固定化され、すなわち、序列によって統率されるようになる。息苦しく、排他的で、懐疑に充ちた防御的な暮らしが始まる。現代社会が抱える諸問題のルーツが、ここにあるのではないでしょうか。

 

ところで、古代人に特徴的なメンタリティは、“融即律”です。例えば、無文字社会に生きるある村長が、「我々の先祖は、バナナである」と発言した。このブログに度々登場するバナナ村長です。(過去の記事で、このバナナ村長はイワム族であると記載してしまいましたが、これは私の記憶違いでした。どの部族かは分かりません。バナナ村長はレヴィ=ストロースの「野生の思考」に登場します。)

 

融即律の特徴は、合理的な思考において決して結びつくことのない複数の概念が結合される、という点にあります。自分たちの祖先という概念と、バナナという概念は、通常結び付くことはない。当然ですね。

 

しかし、バナナ村長はこれら2つの概念を結合しているのです。このような心理的な動きは、時間の経過と共に、退化してきたのではないでしょうか。科学が進歩し、教育が充実して行くに従い、例えば、人間の祖先はサルであって、バナナではないという知識が共有化されて来た訳です。

 

融即律は、直観と言い換えても良いと思います。そして、現代においても、前衛芸術家を創作に向かわせる原動力となっている。例えば、ジョン・レノンは、各国の大統領や首相に対しドングリを送り、平和を訴えた。ドングリと世界平和。これも融即律だと思います。

 

そのような心の働きが、実は、山本太郎さんを突き動かしているのではないか。理不尽な法案の採決が行われた時、太郎さんは数珠を持って葬儀のような振る舞いをした。理不尽な法案と葬儀。ちょっと、普通では結びつきません。

 

「この国に足りないのは、金と愛だ!」

 

これは、街頭演説会における太郎さんの発言です。うまいことを言うものだなあと感心してしまいます。ただ、太郎さんの口からは、こういう言葉がポンポンと飛び出してくる。

 

「あなたを助けたいんです。どうしてかって? あなたを助けるとは、私を助けることなんです!」

 

こういう太郎さんの言葉に、聴衆はどんどん惹きつけられていく訳ですが、論理的に考えますと、ちょっと飛躍がある。「あなた」と「私」が混同されている。しかし、この混同は支持者の側にも伝染している。支持者のツイッターを見ますと、次々に、「太郎」を名乗る人たちが現われている。ポコポン太郎、まゆみん太郎、ラーラ太郎など多くの太郎さんがおられますが、MMT太郎と名乗っている人もいました。(きっと、経済にお詳しい方に違いない!)皆、太郎さんに強く共感を覚え、「私」と「太郎さん」を積極的に混同しているのだと思います。

 

こういう例は、他にもあって、少し前に“I am Kenji”というのがあったのは、ご記憶されているでしょうか。後藤健二さんというジャーナリストがイスラム国の捕虜になった。テロリストたちは、健二さんを殺そうとした。それに反対するメッセージとして、世界中で“I am Kenji”と書いた紙を持って撮影した自らの写真を、人びとがSNS上に拡散したんです。

 

更に古い話になりますと“星とレゲエの島”という小説がある。これは、私の兄の山川健一が書いたものです。レゲエミュージシャンのことをラスタマンと言うようですが、彼らは、“You and I”と言うところを“I and I”と言うらしい。ここにも、明らかに混同がある訳ですが、これらの混同は“融即律”であって、ここにこそ、論理では測れない大切な人類のメンタリティがあるのではないか。そして、そのようなメンタリティを体現しているのが、“れいわ新選組”なのだろうと思うのです。

 

今日までに発表されている候補者を一覧にしてみます。(敬称略)

 

山本太郎
蓮池徹・・・・(元)東電社員
安冨歩・・・・女性装の東大教授
木村英子・・・全国公的介護保障要求者組合・書記長 (他)

 

太郎さんは、この国に暮らす全ての人々のために戦っていますが、とりわけロス・ジェネ世代を救済するために政策を発表しています。

 

蓮池さんは、原発被害者を救済するために、東電と戦っています。

 

安冨さんは、息苦しさを感じている全ての人々のために、身を挺して戦っています。また、特別会計の闇をあばこうとして殺害された石井紘基氏の遺志を継ぐと発言しています。この人、ガチです。馬に乗って皇居を一周したいなどと言っていますが、これも典型的な融即律だと思います。

 

木村さんは、ご自身と同じような環境にある身体障害者の方々のために、行政と戦ってこられた方です。応援しましょう!

 

結局、農耕・牧畜を生業として、宗教などの中間集団を形成した“中世”という時代があって、この時代のメンタリティが、伝統的な“右派”を形成している。このメンタリティは、変化を望まず、視野は狭い。

 

長い間、上記の“右派”に対抗してきたのが、近代思想に基づく“左派”だと思います。しかし、日本には市民革命によって政権を倒した歴史、経験がなく、左派はほとんど右派に勝利することがない。

 

思えば、論理派を自認する私ではありますが、論理で人を感動させることはできません。人を感動させ、突き動かすのは、やはり“融即律”ではないか。最近、そんな風に思います。そして、この古代のメンタリティこそが、息苦しい現代社会を突破していく原動力になるのではないでしょうか。

 

「この国に足りないのは、金と愛だ!」

 

けだし名言。

反グローバリズム!

前回の記事を掲載してから、わずか数日しかたっていませんが、選挙前ということもあって、世の中では様々な変化がありました。本日、6月26日をもって国会は閉幕し、参院選の日程も決まったようです。

 

公示・・・・7月4日
投開票・・・7月21日

 

衆院の解散がないということは、10月の消費税増税は確定したものと思われます。複数の経済評論家が、日本経済の危機を憂いています。日本経済は、更なるデフレの深みに嵌ってしまいそうです。

 

“れいわ新選組”の寄付金は、2億円を超え、太郎さんと蓮池さん以外の候補者も、既に決まったそうです。そして明日(27日)、発表記者会見が予定されています。楽しみで仕方がありません!

 

ところで、このブログでは「国債発行に基づく政府の日銀に対する債務は、返済する必要がない」と述べてきましたが、この認識に間違いはなさそうです。MMTに関する左派の経済学者、松尾匡(ただす)氏が主催している薔薇マークキャンペーンのプロモーションビデオがあって、その中でもこれは「事実上の永久債であって返済する必要はない」と明確に述べられています。7分12秒のビデオで、MMTの要点が良くまとめられています。是非、視聴されることをお勧め致します。(松尾匡氏は、太郎さんのお師匠さんのような方です。)

 

#薔薇マークキャンペーン プロモーションビデオ
https://kusuyama43.amebaownd.com/posts/5820027


さて、私の検討結果からすれば、私たち日本人は、アメリカと大企業によって支配されている。ここでは、大企業による支配について考えてみます。

 

大企業 → 経団連 → 自民党
大企業 → 連 合 → 立憲民主党、国民民主党
大企業 → マスメディア → 国民

 

このように考えますと、私たちは自民党に投票しても、立憲民主党に投票しても、結局、大企業の支配から逃れることはできない。そして、愚民政策を推進しているテレビを見ると馬鹿になるし、大企業が販売している商品の情報ばかりが刷り込まれる。

 

但し、大企業にも良い側面があります。大企業は、大量生産によって低価格な商品を我々に提供している。豊富な資金力を背景に、新商品を開発している。私たちが日常的に、当たり前のように使用している便利な商品の多くは、大企業が開発したものです。更に、多くの雇用を生み出しているという事実もあります。

 

してみると、大企業と言っても、良し悪しがあるに違いない。この点、損益計算書をベースに少し考えてみましょう。

 

これは会計年度ごとに作成が義務付けられている財務諸表の一種ですが、1年間の企業活動を端的に示すものだと言えます。

 

一番上に、売上高という大きな数字があります。そこから、企業が支払った原材料費だとか、人件費などが差し引かれていきます。そして、税引き前(税金を支払う前)の利益、すなわち経常利益が算出され、更に、税引き後の利益、すなわち純利益が算出されます。この純利益については、どう処分するかの原案が策定され、株主総会の議決を経て、配当金として支払われたりする訳です。簡単に言えば、企業活動というのは、こういう風になっている。

 

してみると、上記の各項目から、企業にとっての利害関係人が見えて来ます。この利害関係人のことを、一般に“ステークホルダー”と呼びます。

 

売上高・・・・顧客
原材料費・・・取引先
人件費・・・・従業員
税金・・・・・国家
配当金・・・・株主

 

地域社会や地球環境をステークホルダーに加える例もありますが、ここでは省略します。また、通常、国家はステークホルダーに含まれませんが、重要な意味があるので、ここでは含めて検討します。

 

すなわち、上の一覧の右側に記した各ステークホルダーと良好な関係を構築している企業は、良い企業だということになります。顧客に良い商品を提供し、取引先とは公正な関係を構築し、従業員には適正な賃金を支払い・・・ということになります。

 

皆様の大企業に対するイメージは、いかがでしょうか。昔は、善良な大企業があったという話を良く聞きます。松下幸之助の松下電機だとか、本田宗一郎のホンダ技研などが、その例として挙げられます。

 

しかし、最近、そういう話はあまり聞きません。何故か。それは、株主が外国人になったからではないか。そういう前提で考えてみると、腑に落ちるところがあるのです。外資系企業と言っても良いと思います。

 

外資系企業の場合も、顧客は大切にします。そうでなければ、売上高を確保できません。しかし、原材料費とはコストそのもので、取引先との関係などは、重視しません。実際、カルロス・ゴーンが日本にやって来て、最初に手を付けたのは、部品購入費の削減でした。次に、外資系であれば人件費も削減対象となります。更に、税金(法人税)などは、ビタ一文払いたいとは思っていない。なにしろ、外国人なので、日本国に税金を納めたいと思うインセンティブがない訳です。そして、配当金。外国人株主は、ひたすらこれを求めている。投資しているのだから、そのリターンを求めるのは当然だ、ということになります。

 

株主が日本人であれば、取引先や従業員に対して、多少なりともシンパシーを感じるはずです。しかし、外国人にはそれがない。ただ、利益を上げて、自分たちは配当金を受領したいと思っている。これが、グローバリズムのカラクリではないでしょうか。(外国人株主を責めている訳ではありません。仮に私が外国企業の大株主であれば、同じように考えるのではないか。)

 

実際、外国人株主が増加するにつれ、労働者の実質賃金は低下し、法人税収も低下し、株式配当は増加している。こんなことで、日本経済が良くなるはずがありません。

 

更に言えば、グローバリズムと民主主義は両立しないという問題もあります。いくら日本の国会で法律を作っても、グローバル企業は世界を舞台に活動している訳で、その活動全般を日本法で拘束することができない。どうしても日本法では、制限できない部分が出てくる。例えば、タックスヘイブンペーパーカンパニーを作って節税するケースなどがこれに当たります。いくら日本に労働法があっても、海外の日本人勤務者には適用されないのではないでしょうか。グローバリズムの側に立つか、民主主義の側に立つか。私は民主主義の方を選びます。

太郎さんの仁義なき戦い

一昨日(6月19日)、新宿西口で開催された山本太郎さんの街頭演説会、凄い人出だったようです。そして、またまた、太郎節が炸裂したんです。その部分だけをピックアップした動画もあります。私は勝手に、文字起こしをしてみました。

 

経団連の中心にいるような、執行部たちが、あまりにも腐り過ぎてないかって話なんですよ。おそろく、連合も腐っているでしょうけれども。(苦笑)消費税10%にしろなんて労働組合あるかよ!(聴衆・・・そうだあ! 拍手!)何のための労働組合だよって話ですよ。言って行きますね。連合のことも、今からは。もう仁義なき戦い、始まってますよ。はっきり言って。喧嘩上等ですよ。それが嫌なんだったら野党一つになれよってことですよ。消費税5%でまとまって戦わんと、これ変えられないじゃないですか。その圧力を掛けるために1人で旗振ってんですよ。でもいいですよ。ある時期が来てからは、徹底的にやりますから。

 

今ネットの中で流れているんです。どうして予算委員会がこれだけ長期間に渡って何か月も開かれていないのか。その理由は何なんだって質問を広島で受けました。それに対して私は、その理由は野党第一党のせいだってことを言いました。だって、自民党側と折衝するの、野党第一党なんだから。筆頭間協議ですよ。筆頭間協議。それに対して、どうして、しっかりつっぱねないのっていう話なんですよ。それだけのこと。私は質問に対して、立憲民主党ですよって答えを言ったんです。それに対して、どうして野党を叩くんだっていう話なんです。違うよ。立憲民主党の支持者がお尻叩けばいいじゃないかって。何をユルユルやってるんだって話ですよ。次で参議院に捩れを作るっていう気迫がないんやったら、どうして政治やってるんですかって話ですよ。いつやるんですかって。次の選挙は、その次の選挙の地固めなんですって、いい加減にしてくれますか、ですよ。何年苦しんだら、その苦しみから解放されるんだって話ですよ。希望を見せてくれってことですよ。それを見せられるのが政治だろって。与党側に見せられたこの地獄みたいな景色を変えられる、一緒にやろうって、変えてみせるって、私たちがやればこんなに生活が良くなるよっていう旗を振って、皆に希望を持たせて、それで一緒に力を集めて変えていくっていうのが野党の仕事だろうって。万年野党でいるつもりかって話ですよ!(聴衆・・・そうだあ! 拍手!)」

 

私はリアルタイムでツイキャスを見ていたのですが、この箇所では思わず「そうだあ!」と叫んでしまいました。

 

ちょっと、解説致します。前段の部分は、連合に対する批判ですね。連合というのは労働組合ですが、最近の連合幹部の言動と、私の個人的な経験を重ね合わせて考えますと、これは企業側の意向を忖度し、賃金や労働条件を低く抑えようとする「御用組合」だと思います。太郎さんも指摘していますが、最近、連合の幹部は「消費税を予定通り10%に上げる」よう自民党に陳情しています。どうして労働組合が企業側になるかと言えば、それは労組の役員に関する人事権を企業の人事部が掌握しているからだろうと思います。こういうパターンですと、企業側の利益を誘導する労組の役員というのは、出世コースに乗ります。

 

そして、連合が支持して来たのが、(旧)民主党です。今で言えば、立憲民主党(以下「立憲」)と国民民主党(以下、「国民」)ということになります。連合はこれらの政党に政治献金を行い、選挙ともなればポスター張りなどで協力しているものと思われます。最近は、市民と野党の共闘などと言って、前述の2党に加え、共産党社民党なども仲良くやっていますので、結果、連合を批判する人というのは、いない訳です。別の言い方をしますと、連合を批判するのは、野党勢力の中でタブー視されている。

 

太郎さんはそこに切り込んだので、事情を分かっている人たちから喝采を浴びた訳です。私自身、若い頃には同盟系の労組にヒドイ目に合わされた経験があります。現役時代、決して口にすることのできなかったタブーを太郎さんが言ってくれた。溜飲が下がるとは、正にこのことです。また、連合に対する批判を含めて、同じ野党だろうが戦うぞ、という意味で、太郎さんは「仁義なき戦い」という言葉を使ったのです。

 

太郎さんの演説の後段部分は、立憲に矛先が向けられています。こちらも、若干補足させていただきます。(旧)民主党の勢力は、前述の通り、立憲と国民に分かれており、両党は内輪もめをしています。立憲の方が優勢です。国民の最近の政党支持率は、0.6%~1%程度なのです。そこで、今度の参院選の結果次第で、国民は消滅する可能性がある。立憲民主党の幹部は、そう見ている。そこで立憲の幹部は、今度の7月の選挙で、まず国民を潰し、その後の選挙で自由にやろうと考えているという見方がある訳です。太郎さんは、立憲のこのような態度を批判している。

 

そこで、「今は、野党が協力して安倍政権を倒すべきだ。野党間の批判は、慎むべきだ」という意見について考えてみましょう。

 

このような場合私は、「達成すべき目標は何か」と考えてみます。それは言うまでもなく、現在不足しているマネーストックを増やし、景気を回復させることです。そして、そのための手段として、消費税廃止や“れいわ新選組”が掲げているその他の政策がある。

 

他方、このまま野党が共闘して、仮に、政権を取った場合はどうでしょうか。

 

権力の構造は、こうなっています。

 

大企業 → 経団連 → 自民党 ・・・緊縮財政、増税路線
大企業 → 連 合 → 立憲  ・・・緊縮財政、増税路線

 

自民党も立憲も緊縮財政、増税路線です。してみると、このまま野党が共闘して、立憲主導で勝利を収めたとしても、本来の目的である「反緊縮、財政出動」路線(マネーストックを増やす)にはなりません。すなわち、目標は達成されないことになります。

 

してみると、ここは「喧嘩上等」という太郎さんの判断が正しいことになる。

 

そして、昨日(6月20日)、立憲が記者会見を開き、同党の経済政策が発表されました。この様子は、同党のHPから動画を見ることができます。これを見た最初の印象は、暗い、ということです。記者会見なのか、お通夜なのか、分からない。結論から言えば、立憲の立場は消費税据え置き(8%)ということでした。

 

目前に参院選を控え、記者の方々に政策をアピールできる貴重な場です。例えば、パワポを使って様々な指標を説明しながら、「だから、わが党はこう考えるんだ」と熱弁を振るうべき場だと思うのですが、そういうことは一切ありませんでした。

 

結局、立憲は自民党の批判はできますが、経団連や連合、そしてその先にある大企業と戦うことはできないのです。(旧)民主党時代の政策も踏襲しようとしている。手かせ足かせが多すぎて、まともな経済政策を作ることができない。

 

連合との関係を清算しない限り、立憲は、日本国民のための経済政策を策定することができないのではないでしょうか。