文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化認識論(その26) 論理的思考の限界

本日、近所のドラッグストアへ行きましたら、トイレットペーパー等、平時の3分の1程度ではありますが、在庫があり、販売されていました。皆様、冷静に行動しましょう。

 

さて、「認識の6段階」など、人間の認識方法、認識能力ということを考えますと、その最高峰に位置するのは「論理」とか「論理的思考方法」にある。そして、これらの認識方法を総動員しなければ解決できない問題というのが、現代社会には存在する。その一つの例として、前回の原稿ではリスクマネジメントについて検討してみました。そして、リスクマネジメントという考え方、思考方法は、新しい何かを生み出す能力において限界があると考えた訳です。

 

そして私たちの社会は、論理的思考の頂点に位置する「憲法」というものを持っている。そこで、憲法に限界はあるのか、あるとすれば何処なのか、ということを含めて、検討してみたいと思います。

 

結論から申し上げましょう。憲法には、人を感動させる力がない。それが憲法の限界だと思います。但し、それは憲法の役割ではない、という反論もあるでしょう。では、もう少し普遍化した言い方をしましょう。論理的思考方法には、人を感動させる力がない。それが限界だと思います。

 

ところで、皆様は憲法を読んで感動したことはありますか? 私は、あります。前にも書きましたが、それは12条の前段です。

 

12条(自由・権利の保持の責任とその濫用の禁止)(前段)
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。

 

では、何故、私が12条に感動したのか。それは、12条が国民、すなわち私自身に語り掛けているからではないのか。そう思って憲法を読み返してみますと、憲法が直接国民に呼び掛けている条文は、この12条しかない。言うまでもなく憲法とは、権力者を拘束するものであって、それは99条にそう書いてある。

 

ちなみに「おしどりマコ」さんは、憲法97条に感動したと言っていました。

 

97条(基本的人権の本質)
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 

はっきりしませんが、こちらの条文は、やはり権力者に向けて書かれたものだろうと思います。

 

また、憲法が提示している価値観には、いくつか水準があるようにも思うのです。具体的には、次の3種類。

 

絶対的価値観
相対的価値観
法律への委任

 

絶対的価値観とは、「ここだけは譲れない、この価値観は絶対的なものであって、未来永劫これを変更することはできない」とするものです。具体的には、平和主義、国民主権基本的人権の尊重の3項目を挙げることができます。平和主義と国民主権について、憲法の前文には、次のように記されています。

 

(前文)
これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 

そして、基本的人権の尊重については、第11条に規定されています。

 

11条(基本的人権の享有)
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。

 

このようになっていて、平和主義、国民主権基本的人権の尊重の3項目は、憲法の基本原則であるとも言われております。なるほど、これは素晴らしいと思う訳ですが、一方、19条には次のように書かれています。

 

19条(思想及び良心の自由)
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 

こちらも素晴らしいと思うのですが、では、基本原則の3項目に反するような思想を持った場合は、どうなるのか。こんなことを言いますと、「屁理屈を言うな!」という声が聞こえてきそうですが、現実問題として「他国が攻めてきたらどうするのか」という9条に関わる問題がある訳です。

 

次に、憲法には基本原則の3項目ほど自信がある訳ではないが、一応、こうだろうと考えている「相対的価値観」も記されています。例えば、26条。

 

26条(教育を受ける権利、教育を受けさせる義務、義務教育の無償)
① すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

 

なんとなく読んでおりますと、見過ごしてしまいがちですが、ちょっと待って欲しい。「その能力に応じて」とは、どういうことなのか。人間の能力というのは、オギャーと生まれてきた時点では、全て等しいのではないか。能力の違いというのは、生まれた後の環境によって、左右されるのではないか。私は、そう思います。従って、「その能力に応じて」という箇所には賛成できません。

 

また、27条には次のように記載されています。

 

27条(勤労の権利及び義務、勤労条件の基準、児童酷使の禁止)
① すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。

 

これなんか、ちょっと酷くないですか? 私事にて恐縮ですが、私などは現役時代、37年の長期にわたり馬車馬のように働いてきたのです。心身共に疲れ果て、今は、年金暮らしをしています。そんな私にまで、憲法は働けと言うのか! あまりに腹が立ったので、憲法の教科書を読んでみたのですが、この問題については、何も語られていませんでした。

 

怒りが込み上げてきたついでに言いますと、憲法には政府の説明責任についても規定すべきだと思います。政府というのは、主権者である国民が選んだ議員と役人によって構成されている。彼らは、税金によって生活している訳です。当然、現在の国家が抱える課題は何なのか、それらの課題にどう対処していくのか、例えば1年間取り組んだらその成果はどうだったのか、意思決定を行ったら何故、そのような決断を下したのか、説明する義務があるはずだと思います。安倍政権は、まったくこれらの説明責任を果たしていないじゃありませんか。更に、環境問題、安楽死尊厳死の問題など、私たちが直面している課題は少なくない。憲法はこれらの問題についての指針を定めるべきではないでしょうか。

 

少し落ち着いて、話を戻すことにしましょう。

 

憲法の名宛人は、権力者や役人であって、一般の国民ではない。だから普通の人は、憲法に興味を持ったりしないし、ましてや憲法を読んで感動したりすることもない。では、日本に暮らす一般の国民は、どのような思想を持てばいいのか。どのような価値観を醸成すべきなのか。その点、憲法は「自由である」と述べるに留まる。確かに、それがいいのかも知れません。思想の自由は大切だ。権力者や、その他の誰かにマインド・コントロールされるのは困る。しかし、日本に暮らす人々が参考にすべき、価値観の手引きのようなものも必要ではないか、と思うのです。それは、時代を中世に戻すような教育勅語のようなものであってはなりません。宗教の経典でもありません。古代ギリシャから脈々と続いて来て現在の民主主義に至った思想の系譜を反映させたものであるべきです。

 

しかし、私たちの文化は、未だそれを持っていない。

 

何故か。それは多分、私たちが認識すべき大切なことについて、ほとんど何も分かっていないからではないでしょうか。

 

では、まとめてみましょう。

 

1. 人間には、様々な認識方法や段階があるが、その最高峰に位置するのは「論理的思考」であり、人びとはその段階を目指すべきだ。
2. 「論理的思考」は、社会制度や法律を作り、政治を遂行し、説明責任を果たすためには不可欠である。また、リスクマネジメントを行う際にも要求される能力である。
3. 但し、「論理的思考」は新しい何かを生み出し、直面する課題を解決しようとする際には、あまり有益ではない。
4. 「論理的思考」は、人々に感動を与えない。
5. また、「論理的思考」によっても、大切なことの大半は、未だ、認識されていない。

 

では、新しい何かを生み出し、人々に感動を与えるものは何か、と考える訳ですが、それは遊びであり、芸術ではないでしょうか。クルマに例えて考えますと、「論理的思考」というのはヘッドライトやハンドルに該当する。そして、遊びや芸術とは、クルマを前進させるための原動力を生み出すエンジンに該当する。どちらも必要で、その総体が文化ではないか。

 

文化認識論(その25) 認識能力の限界

今回は、以下の記事の続きを書いてみたいと思います。

 

記号から論理へ(その20)
https://www.bunkaninsiki.com/entry/2020/02/02/183224

 

前回同様、次の6項目を用いて考えることにします。便宜上、これを「認識の6段階」と名付けることにしましょう。

 

1. 記号
2. 情報
3. 因果関係
4. 概念
5. 原理
6. 論理

 

少しややこしい話なので、上記の記事と若干重複するかも知れませんが、もう一度、「認識の6段階」について、説明致します。

 

記号というのは、人間が五感によって認知するシグナルのようなものです。例えば、部屋にいてピンポンとチャイムが鳴る。このピンポンという音が、記号です。すると、私の部屋に誰かがやって来たことが分かる。チャイムの音とは、そういうものだということを私は、予め理解している。この能力がなければ、記号の意味を理解することができません。この能力のことをパースは、interpretative thought of a sign(解釈思想)と呼んだ訳です。

 

チャイムの音に続いて、インターホンから声が聞こえてきます。向こう側から、人の声が聞こえて来ます。向こう側で、誰かが言葉をしゃべっている。この言葉も記号です。例えば、こんな言葉が聞こえて来る。

 

「宅急便です」

 

すると私は、チャイムの音と言葉によって、すなわち複数の記号を組み合わせることによって、私宛の荷物があって、それを運ぶ人が玄関まで来ていることを認識する訳です。これが情報です。

 

情報を記憶すれば、それは知識となります。そして、この知識の量を競い合うのがクイズ番組であったり、学校のテストだったりする訳です。私の説、すなわち「認識の6段階」に従って考えますと、知識というのは極めて原初的なステップであって、これをいくら増やしたとしても、たいしたことはありません。

 

知識は、経験によっても得ることができます。例えば川があって、そのある場所でよく魚が釣れる。あそこで釣りをすれば、よく魚が釣れる。そう思う訳ですが、それは情報に過ぎません。しかし、魚を沢山釣りたいと思っている人は、そこで想像力を発揮する訳です。何故、あの場所で魚が釣れるのか。そこで、観察してみると、ある種の水草を発見する。すると、魚はあの水草を食べているのではないか。そのために魚があの場所に集まって来るに違いない。そういうことが分かってきます。沢山魚を釣りたいという欲望があって、疑問があって、因果関係を認識することになる。

 

ただ、人間にはなかなか理解できないこともあった。かつて人間は火を見て、これはどこからやって来たのだろうと考えた。そうだ、その昔、火というのはトキイロコンドルが持っていたに違いない。何しろ、トキイロコンドルの赤いくちばしは、炎のように見える。そして、人間が火をトキイロコンドルから盗んだのだ。だから今、我々は火を使うことができる。このようにして、人間の想像力が神話を生んだ。神話というのは、人間が外界を認識するために作った因果関係に関する仮説ではないでしょうか。

 

様々な因果関係についての仮説、すなわち神話を組み合わせていくと、やがて概念が生まれる。そして、人間は神、天国、地獄などの概念を生み出した。それが宗教となる。やがて、人間は文字を発明し、因果関係や概念について記した聖書や経典というものが登場する。これらは文字で記載されているが故に、柔軟性を欠いた。勝手な解釈は許されない。文字で記載されたことだけが真理なのだ。そう考えた宗教家たちの思考は、そこで停止する。

 

しかし、神話から宗教へと向かった系譜とは別に、現実の世界を直視しようとする思想が古代ギリシャに生まれていた。それが哲学になった。やがて、哲学から自然科学が分岐していく。それでも哲学の世界に留まった者たちの関心は、人間に向けられた。人間とはどのような存在なのか、人間はどのように認識しているのか。そして彼らは、原理に辿り着く。

 

原理とは物事を決定づける法則なので、これが分かれば普遍的な認識を得ることができる。例えば、権力は必ず腐敗する。これは、現在の安倍政権に限ったことではなく、古今東西の権力者に共通して見られる原則であって、つまり原理だと言える。では、どうすれば良いのか。そこで、論理的な思考が登場する。こうすれば良い。こうすればうまくいくはずだ、という思想が生まれる。これを私は、論理だとか、論理的な思考と呼んでいる訳です。例えば、権力が必ず腐敗するのであれば、三権分立にすれば良かろう、ということになる訳です。

 

ちなみに、現在、世界の先進諸国において施行されている法律には2つの系統があります。一つは英米法で、コモンローとも呼ばれますが、過去の判例に従って現在の事例を判断しよう、というものです。もう一つは大陸法と呼ばれるもので、制定法とも呼ばれます。こちらは、法律は予め条文にまとめておこう、というものです。フランスの法律を真似た日本は、こちらの制定法を採用しています。そして、英米法も大陸法も、その起源は古代のローマ法にある。このローマ法を近代化したのも、哲学者たちだった。

 

さて、ここまでの話をまとめてみましょう。

 

1. 記号
2. 情報 ・・・・ 知識(記憶力)
3. 因果関係 ・・ 神話(想像力)
4. 概念 ・・・・ 宗教
5. 原理
6. 論理 ・・・・ 法律

 

人文科学の世界における人間の認識能力について、私は、概ね上記のように考えています。また、あくまでも情報の段階に留まるクイズ番組や、現代日本の教育制度などについては、はなはだ遺憾だと思っている訳です。その先へ進むべきだ。そして、最終的には論理の段階まで到達しなければならない。

 

しかし、本稿の主題がそこにある訳ではありません。どうやら第5段階の原理や、第6段階の論理においても、そこには限界があるのではないか。前置きが長くなって申し訳ないのですが、ここからが本論です。以下、構造主義、リスクマネジメント、憲法の3点について検討していきます。

 

構造主義

 

構造主義の元祖であるレヴィ=ストロースは、未開人の社会にも隠された構造があって、それは近代西洋文明にも匹敵するものだ、と主張した。構造とは変わらない要素と、変動する要素から成り立っているもので、それを彼は神話群のテクストや未開人の親族構造から読み解いたのでした。すると、人々には疑問が湧いてくる。

 

それが一体、何なのさ?

 

誰だって、そう思いませんか? とても長くて難解な論文を読まされて、こうなっている、こういう構造がある、と言われても「だからどうした?」と言いたくなる。

 

レヴィ=ストロースの場合には、その答えがあった。「だから、ヨーロッパ中心主義や植民地支配は間違っているのだ!」ということになった。これで、当時の人々は納得したに違いない。そこで、構造主義は大ブームを引き起こしたらしいのです。つまり、柳の下の2匹目の泥鰌を求めて、多くの思想家たちが「これこそが隠された構造だ!」と主張し始める。しかし、彼らも同じ疑問に晒される。

 

それが一体、何なのさ?

 

その先を説明できなかった構造主義者たちは、批判されたようです。つまり、構造主義における構造というのは、あくまでも原理の段階にあった。その先の「こうするべきだ」という論理的な主張を用意できたのは、レヴィ=ストロースだけだったのではないか。そこで、ポスト構造主義が誕生する。そういう経緯が、「ポスト構造主義」(キャサリン・ベルジー岩波書店/2003)という本に書いてある。

 

構造主義の限界が、ここにある。

 

こういう話を知ってしまうと、構造主義に対する興味も色あせてしまいますね。ちなみに、ポスト構造主義者であるジャック・デリダの「エクリチュールと差異」という本には、彼の論文が11本収録されています。中には、こういう論文があるのです。

 

小説家Aが書いたBという小説を、構造主義者である批評家のCが論評する。その論評をデリダが批判する。浅学の私などは、AもBもCも知らない。すると、デリダが何を言っているのか、さっぱり分からない。せめて、夏目漱石志賀直哉の作品を扱ってくれれば、少しは分かると思うのですが。これはもう、文化的基盤の違いとしか言いようがない。そういう事情もあって、構造主義というのは日本ではあまり注目されなかったのではないでしょうか。

 

<リスクマネジメント>

 

未だ発生していない損害を予測して、予め、対策を打っておくのがリスクマネジメントです。これは、人間の認識能力を総動員しなければならないとても複雑な取り組みだと思います。当然、自然科学の知見も関わってきます。リスクマネジメントの中で、特に、深刻な損害に対応するのが危機管理です。新型コロナウイルスの問題は、正に危機管理の問題ですね。

 

リスクマネジメントにも、いろいろな理論があります。ただ、漠然とリスクを恐れていても、埒があきません。そこでまず、クライシスポイントを認識する。新型コロナの問題に照らして言えば、「ウイルスへの感染」がそれだと思います。そして、クライシスポイントの前段階での対策を考える。すなわち、感染への予防策を講じるということがあります。そして、クライシスポイント以後の対策を考える。すなわち、感染してしまった後の対処策を講じるということです。

 

他に、「達成すべき目標」を設定する、という理論もあります。そして、目標達成の阻害要因をリスクとして認識し、個別のリスクに対処していくという方法です。こちらの理論によれば、対策はトータルパッケージで行わなければなりません。新型コロナの例で考えますと、一つには、「日本国内での感染を防止する」ということが目標の一つになるはずです。するとまず、感染者を特定して、感染者を隔離する必要がある。次に、潜在的な感染者からの感染にも対処する必要があります。政府はとりあえず、学校を休みにすることを決めたようです。賛否両論あるようですが、私は、やらないよりはやった方がマシだと思います。しかし、対策はトータルパッケージで行わなければ、効果を望むことができません。満員電車はどうするのか、集会はどうするのか。濃厚接触が避けられない介護の現場では、どうするべきなのか。マスクをする意味はあるのか。また、感染してしまった場合には、どうすれば良いのか。最低限、これらの情報を政府は積極的に開示すべきですが、いかがでしょうか?

 

人類が直面する「認識論」は、新たな段階を迎えているように思います。

 

いずれにせよ、リスクマネジメントというのは、リスクが顕在化する以前に対処しておくべき課題です。事が起こってから、慌てふためいても、手遅れです。現在の日本では、マスクが品薄となり、トイレットペーパーやティッシュまでもが売り切れとなっている。不安に思った私は、本日、近所のスーパーに行ってみたのですが、既に、トイレットペーパーの在庫は一つもありませんでした。こんな日本に誰がした!

 

ちょっと落ち着いて、本論に戻りましょう。

 

認識論の最先端の形態、それがリスクマネジメントだと思う訳ですが、この理論にも限界がある。例えば、リスクマネジメントの理論によって、新型コロナに対処できる新薬というのは、発明できない。

 

例えば、構造的に倒産しそうな会社があったとします。リスクマネジメント理論によっても、この会社を多少は延命させることができる。しかし、抜本的な解決策を示すことはできません。その会社を再生するためには、新商品を開発するか、新たなビジネスモデルを構築するなどの方策が必要な訳です。このような課題を前にした場合、リスクマネジメントに代表される論理や論理的思考というのは、無力だと言わざるを得ない。

 

これが、リスクマネジメントの限界だと思うのです。

 

もう少し普遍化して言いますと、論理や論理的思考というのは、新しい何かを生み出す力が弱いのではないか、ということです。人間が持つそのような力は、論理ではなく、むしろ直観だと言った方が当たっているのではないでしょうか。

 

少し、長くなってしまいました。憲法の限界については、次回にて。

 

文化認識論(その24) 認識論とは何か

どうやら、このブログのバージョンアップに成功したようです。次の独自ドメインを取得できました。

 

www.bunkaninsiki.com

 

悪くない。一人、ほくそ笑んでいた訳ですが、見た目は何も変わらない。自分で設定しないと、何も変わらないのです。そこで、古いデジカメを取り出し、とりあえずはタイトル文字の背景となる写真を取り込んでみました。不器用な私としては、上出来だと思います。何とか、ブログらしくなってきました。

 

設定すべき項目はいくつか残っていますが、おいおいやっていくつもりです。

 

さて、本題に入りましょう。このブログタイトルの「文化認識論」というのは、私の造語ですが、「認識論」というのは、哲学や思想を構成する重要な用語です。今回は、その意味について考えてみることにします。

 

認識論の歴史というのはとても古く、古代ギリシャ哲学にまで遡ります。紀元前500年頃のアテネには、ソフィストと呼ばれる人たちがいて、こんな論議をしていたそうです。

 

「君は、あのカーテンの向こう側にいる人を知っているか?」
「知らない」
「あそこにいるのは、実は、君の父親だ。従って、君は君の父親を知らないことになる」

 

このような主張は、もちろん詭弁です。しかし、人間の認識能力には限界があって、言葉では何とでも言えるということを主張したかったのでしょう。これが最古の認識論ではないでしょうか。

 

中世になると、宗教の時代になる。哲学者たちも宗教、特にキリスト教とどう折り合いをつけるか、奮闘することになります。例えば、全知全能の神という概念と、彼らは格闘した。しかし、ギリシャ哲学の体系と、キリスト教の世界観とは、どうしても折り合いがつかない。そこで、これはもう分離してしまおうという考え方(二重真理説)が生まれたり、反対に双方をなんとか調和させようとする試みがなされたりしたようです。

 

近代になると、たまたまギリシャ哲学に関する文献がヨーロッパで流行し、古代ギリシャの哲学者エピクロス(BC.341頃~BC.270頃)が紹介される。エピクロスは、知識の唯一の基盤であり、起源となるものは「感覚」だと考えた。「感覚」とは、人間がその五感によって知覚する能力のことです。この「感覚」によって知覚するという考え方は、トマス・ホッブズ(1588 – 1679)に引き継がれる。ホッブズは、その主著である「リヴァイアサン」の第1部、第1章を「感覚について」という項目から書き始めています。また、「感覚」に対する興味は、ジョン・ロック(1632-1704)に引き継がれる。ロックは「ある感覚が与えられるとともに心がそれを何者かとして考える」と主張した。ロックの思想は広範囲に及びますが、彼の思想は「経験論的認識論」とも呼ばれます。すなわち、ロックの思想の中核には「認識論」があったのです。

 

やがて、ロックの思想をパクった、おっと失礼、批判的に継承したカントを経由して、認識論は、チャールズ・サンダース・パース(1839-1914)に継承される。パースは、感覚によって知覚されるもの、それを記号であると考えたのです。

 

更に、キリスト教の世界観をニヒリズムとして捉えたニーチェ(1844-1900)が登場する。ニーチェは、考えた。認識とは単なる模写ではなく、自己保存と生長のために行われる行為なのだ。どんな生命体であっても、食べられるもの/食べられないものを区別する。このように生にとっての有用性という観点から世界を「秩序」づけること、これこそが認識の本質なのである。

 

そして、現代。IT技術が進展し、AIの時代を迎えようとしています。そして、AIの技術者たちが、こぞってパースの記号学を学び始めている。これは、このブログで既述の通りです。(パースについては、このブログの右下の方にある「カテゴリー」という欄から、若干の原稿を参照することができます。)

 

哲学の歴史を概観しますと、認識論の他にも存在論実存主義)の系譜があります。こちらは、キルケゴールから始まって、ハイデガーサルトルへと継承された。しかし、哲学のメインストリームは、認識論にあるのではないでしょうか。認識論の歴史とは、哲学の歴史そのものだとも言える。ただ、人間が何をどう認識しているのかという問題について考えて来たのは、哲学の他にも言語学、論理学、心理学などを挙げることができます。

 

それでは、私自身がこのブログのタイトルに何故、「認識論」という言葉を入れたのか、少し書いてみたいと思います。

 

1つには、折角この世に生を受けたのだから、せめて死ぬ前に私たちが生きているこの世界がどうなっているのか、知りたいと思ったからです。世界を認識する。できればその後で、ポックリ逝きたいと思っています。

 

2点目。文化について考えているうちに、人間が文化を生み出すのは、何かを認識しようとしているからではないか、という気がしてきたからです。例えば、アイヌの女性たちは、鶴の動作を真似て「鶴の舞」を踊る。私たちの身近にいる鶴という鳥は、こんな形をしているよ、こんな風に動くよということを、踊ることによって、認識しようとしているのではないか。例えば、この花はこんなに綺麗だよ、私にはこんな風に見えるよ、ということで、人は花の絵を描くのではないか。

 

それは宗教も同じで、例えば、人々は死者と向き合う。誰かが死んで、生きていた人が死者になる。すると、死んだ人はどうなるのだろう、という疑問が湧いてくる。やがては、自分も死ぬだろう。するとどうなるのか。このような疑問に回答を与えるのが、宗教だと思います。天国や地獄というのは仮説に過ぎない訳ですが、宗教には人々に死後の世界を認識させる働きがある。

 

従って、文化について検討していく上で、認識論というのははずせない。もしかすると、認識論と文化論というのは、表裏一体の関係にあるのかも知れません。そんなことも考えている訳です。

 

3点目。これは、現在の政治状況に関わるものです。もし、日本国民の過半数が、状況を正しく認識し、正しい投票行動を取れば、日本という国家は回復に向かうと思います。しかし、そうはなっていない。政府に対する支持率は、ようやく4割を切ったようですが、それでも自民党公明党がいいと認識している人々は、少なくない。「文化的進化論」の著者、イングルハートは、「必要なのは、現在の主な経済対立がこの99%対1%であると認識することに尽きる。」と述べている。ここでもやはり、人々の認識能力が問題となっているのです。

 

このブログのバージョンアップについて

こんにちは。

 

皆さん、お元気にされていますか? 新型コロナウイルスが猛威をふるい、国会は崩壊しかかっています。本当に大変な時代だと思います。もう、オリンピックはロンドンに譲った方がいい。日本は、それどころじゃありません。

 

さて、このブログのことですが、今まで無料バージョンで運営して来ましたが、バージョンアップする方向で検討しています。

 

よくは分からないのですが、はてなブログの有料コース(はてなブログプロ)というのがあって、そちらへ移行すると独自ドメインを取得できるようです。すると、使える機能が増えるらしい。まだ、よく理解はできていないのですが、近々、セッティングしてみようと思っています。併せて、一定の水準に達していない過去の連載原稿は、バッサリ削除しようと思います。

 

前進させること。大切なのは、そのことだと思うので。

文化認識論(その23) 認識方法と社会システムの変遷

結局、人間の歴史というのは、次のようになっている。・・・と、私は思います。

 

古代 ・・・ 芸術 ・・・ シャーマニズム
中世 ・・・ 宗教 ・・・ 君主制
近代 ・・・ 理性 ・・・ 民主主義
現代 ・・・ 記号 ・・・ グローバル資本主義

 

狩猟・採集を行っていた古代人は、他の動物に触発され、芸術を生み出した。主として狩りを行っていた男たちが壁画を描くなどして、美術を生み出した。動物の真似をした女たちが踊りや音楽を生み出した。そして、動物に想像力を触発された人々が、物語を語り始めたに違いない。古代人は、懸命に何かを認識しようと試みていた。古代人が生み出した認識の方法、それが芸術の起源であり、本質だと思います。

 

そして古代の社会は、幾多の危機に直面した。それは、自然災害や、疫病だった。すると、人間集団の中にリーダーが現われる。その人こそが、シャーマンである。シャーマンは人間集団を代表して、神に祈りを捧げる。シャーマニズムは、人間が発明した最初の社会システムだったに違いない。

 

やがて、文字が発明される。文字によって、人間が想像する世界は拡大した。そして、宗教が生まれる。宗教は3つの芸術、すなわち美術、音楽、文学を吸収し、総合することによって、発展を遂げる。そして、シャーマンという資格は世襲によって継承され、君主となる。この君主制という社会システムは、宗教との親和性が高い。権力者である君主は、宗教を利用して、権力基盤の強化を図った。

 

そして、ヨーロッパにおいて土地と宗教を巡る戦争が勃発する。人々はさんざん殺しあった挙句の果てに、戦乱の世に嫌気が差してくる。なんとか戦争を止められないだろうか。そう考える思想家が登場する。少なくとも、人間には生きる権利がある。トマス・ホッブズはそう考えた。ホッブズの思想は、ジョン・ロック、ルソー、そしてカントへと引き継がれる。カントは考えた。数学の世界はとても発達しているのに、人間の社会は何故、かくも混乱しているのか。例えば、三角形の面積を計算するような能力が人間にはある。同じような能力をもって、人間や人間社会を考えることはできないのか。そこで、カントは「理性」に注目した。

 

イギリスでは、王様の横暴に異議を唱える人々が、議会制による政治システムを主張する。こうして、宗教に代わって、民主主義が生まれた。

 

そこで、アメリカという新天地が登場する。国境をまたぐことなく、自由に広大な土地、市場を行き来することのできるアメリカは、ヨーロッパを凌ぐ経済的な発展を遂げた。ヨーロッパは没落し、アメリカの時代となった。2度の世界大戦を経て、アメリカは世界の中心に躍り出た。アメリカが世界に示したのは、自由主義経済であり、科学の力であり、グローバリズムだった。IT技術の発達もあり、人々は理性を捨て、短絡的な記号によって認識するようになった。これが現代という時代だと思います。

 

このブログを始めて、3年半になりますが、私が認識した世界というのは、簡単に記すと上記の通りです。人間の歴史というのは、すなわち認識の歴史だとも言えるように思います。

 

ちなみに私は、古代と近代を肯定し、中世と現代を否定しています。

文化認識論(その22) 私たちに許された自由

コロナウイルスが引き起こしている新型肺炎についてですが、これは行き過ぎたグローバリズムに対する警告として、受け止めるべきではないでしょうか。あまりに多くの人々が国境を超えて移動するから、ウイルスが世界中に拡散する。そのうち収まるだろうと言う人もおられるでしょうが、既に、人が死んでいる。死んでしまった人にとって、これは取り返しのつかない災厄だと言う他はありません。エイズウイルスや、SARSもそうだった。現在アメリカではインフルエンザで1万2千人を超える人々が亡くなったという情報もあります。国境を超える人々の移動には、大きなリスクが伴う。そのことを私たちは、もう一度、肝に銘じておくべきだと思います。

 

もう一つ。リスクマネジメントを行い得るのは、「論理的思考」だけだと思います。原理を発見し、未来を予測し、予め対策を講じておく。それがリスクマネジメントです。これは、人間の感覚や、感情によってなし得ることではありません。あくまでもそこには、「論理的思考」が必要になって来る。そして、現在の安倍政権にそれを期待することはできないと思います。新型肺炎の問題だけではありません。福島第一原発事故だって、収束してはいない。放射能汚染物質を自然界に放出しようとしている。被災者に対する支援だって不十分です。更に、地球温暖化に伴い、昨今では自然災害が頻発し、かつその規模が拡大しつつある。その対策だって、できていない。道路や橋の老朽化も進んでいる。そのうち、大きな橋が崩落して大事故が起こるのではないか。リスクは多様化し、その規模を拡大している。このような現状に対処できるのは、宗教ではありません。独裁政権でもありません。独裁政権は多くの国民や被災者を切り捨てます。論理的に思考する、民主的で、強い国。早急にそのような国家を樹立しない限り、私たちはリスクに対処することができない。

 

さて、本題に入りましょう。今回の原稿では、文化との関係で、人間の自由について考えてみることにします。項目を箇条書きにしてみます。

 

1.(選択の自由)人間には、選択の自由がある。 文化>個人
2.(思考の自由)人間には、文化を疑い、思考する自由がある。 文化=個人
3.(超越的自由)人間には、文化を前進させる自由がある。 文化<個人

 

では、順に始めましょう。

 

1.(選択の自由)人間には、選択の自由がある。 文化>個人

 

いきなり卑近な例で恐縮ですが、今日の私の昼食は、味噌ラーメンでした。味噌ラーメンが590円で、トッピングにバターを選ぶと追加で100円掛かります。合計でも、690円。これはとても安いし、結構、おいしい。そもそもラーメンの麺は、中国に起源があるのではないか。原料は確か、カンスイというものだったように記憶していますが、その詳細を私は知りません。次に味噌ですが、これは日本の伝統に根ざしていている訳ですが、一体、どこのどなたが発明されたことやら。味噌と醤油は和食を支える重要な調味料ですが、それぞれにとても永い歴史があるに違いない。そして、ヨーロッパで生まれたバターにも、永い歴史がある。つまり、わずか690円の味噌バターラーメンにも、時間的、空間的な広がりがあって、私は、その文化の恩恵にあずかっている。私一人では、決して味噌バターラーメンを作り出すことができない。

 

更に、私はそのラーメン屋さんで、味噌バターラーメンではなく、塩ラーメンや広東麺を選ぶことだってできる。そもそも、別の日本蕎麦屋に行くことだって、焼肉店に行くことだってできる訳です。すなわち私たちには、まず、このような選択の自由というものが許されている。デパートへ行ったって、コンビニへ行ったって、私たちは商品を選ぶことができる。そして、その商品には文化的な蓄積があって、それが商品の価値を構成している。

 

商品を購入する場合だけではなく、選挙になれば、どこかの政党を選んで投票することだってできる。

 

この「選択の自由」は、経済的に困窮していない限り、万人に許された自由だと思います。しかし、この自由の特徴とは、既存の文化の範疇の中にあって、実は、とても限定的なものではないでしょうか。例えば、100年後の日本にも味噌ラーメンというものがあったとします。それはきっと、現在、私たちが食べているそれとは、相当に異なるものであるに違いない。味だって、各段においしくなっているでしょう。しかし私たちは、100年後の味噌ラーメンを食べることができない。

 

この「選択の自由」とは受動的なものだと思います。誰か他の人が作り上げた何かを選んでいるに過ぎない訳です。また、文化と個人の関係を考えますと、明らかに文化の力が個人に勝っている。(決して私個人は、味噌ラーメンを作り上げることができない。)この点を記号化してみると、文化>個人 ということになります。

 

2.(思考の自由)人間には、文化を疑い、思考する自由がある。 文化=個人

 

世の中を少し見渡してみますと、もう少し、文化に対し、能動的な姿勢を示している人もいます。例えば、銀座に高級寿司店の「久兵衛」というのがあります。(私は行ったことがありませんが)こちらのご主人は、伝統的な寿司にこだわらず、常によりおいしいネタはないか、より良い調理方法はないかと永年、研究を続けて来たそうです。すなわち、こちらのご主人は、寿司という日本の伝統文化が完全なものであることを疑っている。もっとおいしい寿司を作れる可能性があると信じている。

 

こういうことは、思想や芸術の世界にも言えることです。既存の考え方より、もっと良い考え方があるのではないか。いや、きっとあるに違いない。そう思った人々が、歴史を作ってきた。過去の思想や文化を疑い、果敢に挑戦を試みる。疑う、疑問に思う、そういう所から人間は思考を始めるのだと思います。この「思考の自由」において、文化と個人は対立し、対等の関係になる。記号化しますと、文化=個人 ということになります。ちなみに、このブログなどは、この段階にある訳です。

 

3.(超越的自由)人間には、文化を前進させる自由がある。 文化<個人

 

しかしながら、個人の力が文化を上回る場合も、極めて稀ではありますが、存在します。例えば、相対性理論を発明したアインシュタイン。こう言えば、誰もが納得するのではないでしょうか。ちなみに、ニュートンは物理学の世界に籠っていたそうですが、アインシュタインはカント哲学にも精通していたそうです。

 

そして、ピカソ。何年か前に箱根の彫刻の森にあるピカソ館を訪れた時のことです。作品解説のパネルに、次のようなことが書かれていました。

 

- ピカソも、他人の作品の模写をしていた。ピカソは、他人の作品は大いに真似るべきだ。しかし、決して自分の真似だけはしてはならない、と述べている。-

 

このパネルの解説文を読んだ時、私は、すぐにピンと来たのを思い出します。これ、ジャズのマイルス・デイビスと同じ発想なんです。マイルスは「過去に録音した自分の演奏を聴くことほど、退屈なことはない」と述べている。

 

まず、ピカソの例から行きましょう。他人の作品を模写する、真似るという行為は、自分が持っていない技術なり、発想を習得するという意味があると思います。他方、過去に描いた自分の絵と同じような絵を描いたとしても、自分が習得するものは何もない。それでは、自分の芸術を前に推し進めることができない。そういう意味だと思います。

 

マイルスも同じで、常に新しいアイディア、新しい試みに挑戦するべきであって、自分が過去に行った演奏をいくら聞いても、新しい何かを発見することはできない。それは、その演奏を行った過去の一瞬にやり尽くしている。そういうことをマイルスは言っているのです。

 

ピカソとマイルスの例から抽出される原理とは、前進し続けるためには、過去の自分を疑い、否定するということではないでしょうか。過去の自分を否定することができれば、他人が作り出した過去の文化を否定することは、難しいことではない。

 

現存する文化やその伝統さえも疑い、過去の自分を否定し、前進し続けること。そうやって初めて得られるのが、「超越的自由」だと思うのです。ピカソは誰も見たことがない絵を描いた。マイルスは、誰も聞いたことのない音楽を生み出した。彼らの作品は、その時点での文化を超越している。個人にとっての究極的な自由が、ここにある。 記号化してみましょう。 文化<個人

 

ピカソが描いた絵画も、マイルスの音楽も、やがて文化によって吸収される。そして、彼らの作品を吸収することによって、文化も前進するのです。

 

文化認識論(その21) 5つの文化領域に対する歴史的考察

私がいつも野良猫用の餌を購入しているコンビニですが、閉店するという噂を聞きました。ここがなくなると、困るのです。困るのは私だけではない。野良猫の“花ちゃん”だって、影響を受ける。そこのオーナーさんとは今までも猫談義をする間柄だったので、単刀直入に尋ねてみました。「来月以降のことについては本部と交渉中」とのことでした。それ以上は聞かなかったのですが、事情は概ね想像できます。売上高が問題なのではない。その店は、とても繁盛しているのですから。問題は、24時間営業という業務形態にある。これが過酷な労働につながり、今、多くのオーナーさんたちが苦しんでいる。詳細は、れいわ新選組の三井よしふみさんが、説明しています。

 

そう言えば、最寄りの駅前通りですが、どうも三分の一位の店がシャッターを下ろしている。私の自宅は埼玉なので、都会ではありませんが、そう田舎でもない。しかし、シャッター通りという現実が、もう私の足元まで忍び寄って来ている。

 

福島原発の汚染物質を海か大気中に放出するという話も出ていますが、とんでもない。これはもう地球に対する冒とくだと言わざるを得ません。

 

このように絶望的な話は他にも多々ありますが、それらの問題については、以下のツイッターをご参照ください。全ての記述に賛成という訳ではありませんが、気付かされる点が多いのです。

 

ツイッター ゆきのちゃん
https://twitter.com/t2PrW6hArJWQR5S

 

さて、本題に入ります。

 

人類の歴史と文化やメンタリティについて考えますと、大昔は、物質系と身体系の2種類しかなかったのではないか、と思うのです。男は狩りに出る。そこで、狩猟に用いる道具を発明し、使用し、物質系の文化を築いてきた。反面、女は出産し子育てを担ってきた。子育て中の女は、子供の健康状態に関心を払う。そこで、身体系の文化を築くことになる。すなわち、男性的な物質系の文化と、女性的な身体系の文化とが対立関係にあったのだろうと思うのです。

 

そこで、言葉が登場する。数万年前の話です。言葉は記号の代表選手なので、人類の記号に対する関心は飛躍的に高まったはずです。当然のことながら、男と女は言葉を使って意思疎通を図るようになる。すなわち、言葉が登場したことによって、それまで2項対立の関係にあった2つの文化が融合される。

 

物質系(男性的)- 記号系(言葉) ― 身体系(女性的)

 

言葉は人間の想像力を触発し、やがて口頭伝承による神話、民話、童話などを生み出す。これらは融和的で、動物との親和的な関係性などが表現されます。これが、想像系の文化ということになります。

 

人間が文字を発明する以前の文化形態というのは、上記4つの領域しか持っていなかったのだろうと思います。例えば、文字を持つ前のアイヌの文化は、この4つの領域によって構成されていた。アイヌ文化の起源を表現した「呪術的仮装舞踊劇」という言葉がありますが、これは上記4つの文化領域に分解することができます。

 

呪術的 ・・・ 物質系
仮 装 ・・・ 記号系
舞 踊 ・・・ 身体系
劇   ・・・ 想像系

 

やがて人間は定住し、人間は農耕、牧畜を始める。すると人間は土地を巡って争うようになり、競争系の文化が誕生する。部族、民族、国家などの集団単位で、戦うのが原点だろうと思います。この競争系の文化というのは、支配的で排他的なものです。これは、想像系の対極に位置するものだと思う訳です。すなわち、想像系の文化と競争系の文化というのは、どちらも記号に依拠しながら、対立している。

 

想像系(融和的) - 記号系 - 競争系(排他的)

 

このように考えますと、現在の閉塞した文化状況というのは、記号を中心として、物質系と身体系が融和しつつ、想像系と競争系が対立している。そういう構図にあるように思います。

 

物質系(男性的)- 記号系(言葉) ― 身体系(女性的) ・・・融和

想像系(融和的) - 記号系 - 競争系(排他的)    ・・・対立

 

上のように記してみますと、現代の文化の構成というのは、奇妙なバランスを保っている。バランスしているから、新しいものが生まれないのではないか。現代という時代が「どん詰まり」になっている理由の一つが、ここにあるのでないかと思うのです。

 

このような閉塞状況を打破するためには、以下の方策が考えられます。

 

1. 競争系の文化を排除する。(オリンピックやプロスポーツを止める。勝敗や順位を付けるイベントは廃止する。)
2.第6の文化を発明する。
3.民主主義よりも良い政治システムを発明する。
4.愚かな大衆の認識能力を向上させる。

 

いずれの選択肢も、楽観を許さないものですが・・・。