文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

山本太郎と東京都知事選(その6) 埼玉より愛を込めて

権力をシステム化したもの、それが組織である。このテーゼを起点に考えてみますと、どうやらとても本質的な所に論議が及びそうなのです。

 

子供たちの世界には、ガキ大将が存在する。ガキ大将は、体が大きかったり、喧嘩が強かったりする訳で、子供集団におけるリーダーということになる。しかし、このポジションというのは、とても流動的だと思う訳です。より体の大きな子供、より喧嘩の強い者がその集団に加入してくる場合がある。もしくは、喧嘩に凶器を持ち込む子供が登場するかも知れない。すると、リーダーの立場は他の子供に移動する。

 

豪族が権勢をふるっていた聖徳太子の時代にも、同じことが言えそうです。戦国時代もそうですね。権力というのは流動的で「栄枯盛衰は世の習い」だとか「盛者必衰の理(ことわり)」などと言われる所以です。

 

そもそも、権力というものをこの世から無くしてしまえばいい訳ですが、人間の社会というのは理不尽なもので、なかなかそうもいかない。そこで、組織というものが生まれたのではないか。すなわち、元来、流動的で不安定なポジションにあった権力者の地位を安定化させる様々な試みがなされた。中世の殿様であれば、現実空間の中に城を築き、自分の側近たちに役職を与え、自らは権力組織のヒエラルキーの頂点に君臨した。食料を蓄積し、兵隊を雇った。これが、権力のシステム化であって、そこから生まれたのが権力組織だと思う訳です。

 

ところが、このシステムでも安定しなかった。権力組織同士の戦いが止むことはなかったのです。そこで、ヨーロッパにおいて国家というものが誕生する。当初、国家には2つの特徴があった。1つには、宗教を切り離すということ。宗教を切り離すと、世襲という制度が崩れる。マルティン・ルターが「万人祭司」を主張して以来、人々の中に平等という概念が生まれる。そうだ、殿様や王様が偉い訳ではない。神の下に人々は平等なのだ、ということに人々は気が付いたのでした。そして、民主主義が誕生する。これは素晴らしいということで、以来、民主主義を批判する人というのは、ほとんど出現していない。日本においても丸山真男など、偉い学者が民主主義を超える制度は存在しないと主張し、これが定説となる。常識と言ってもいいと思いますが。

 

このように考えますと、民主主義というのは、権力を前提とし、それをシステム化したものが権力組織であり、権力組織のトップは選挙で選ぼうという構造を持っていることになるわけです。

 

本当に、それが正しいのでしょうか? あのヒトラーを生んだのも、民主主義だったのではないか。

 

現在の日本においては、民主主義によって選任された「嘘つき晋ちゃん」が総理大臣を務め、それを権力組織たる官僚組織や自民党が支えている訳です。どうやら「権力→権力組織→民主主義」という構造が、うまく機能しているとは言い難い。

 

元来、人間というのはとても愚かな存在なので、民主制によって、正しいリーダーを選ぶことは困難なのです。加えて、この権力組織というのは経路依存性を持っており、その目指すところは「現状維持」なのです。加えて権力組織の内部で特権を持った者は、それを手放そうとはしない。そして、老害が生まれる。社会の動向や新しい考え方に対する柔軟な思考力と未来を切り開く情熱を失った人たち。これらの人々を、年令に関わらず、私は老害と呼びたい。

 

官僚組織や、現在の大企業が権力組織であることに疑いはありません。また、自民党公明党もそうです。加えて言いますと、立憲民主党共産党も、本質的には何ら変わりがない。これらリベラル左派の政党は、学歴偏重、学歴エリート主義に毒されており、ある意味、自民党よりもたちが悪い。

 

立憲民主党の本音は、対米従属、大企業優先なのではないか。そうでないと言うのであれば、何故、枝野氏はアメリカのシンクタンクであるCSISを訪問したのか。何故、立憲民主党は日米FTAに本気で反対しなかったのか。何故、連合の支持を受け続けるのか。連合東京は、今回の都知事選で「緑のたぬき」を支持しており、その本性が大企業の利益優先であることは明らかだと思います。

 

共産党が何故党名変更をしないかと言うと、重鎮である不破哲三氏の存在を無視できないからだと言う説があります。不破氏は現在90才であるにも関わらず、共産党の常任幹部会委員を務めている。90才! 志位委員長は、既に、共産党の委員長を20年も務めている。20年! これが民主的な政党だとは、とても思えません。

 

私(64才)などの世代よりも、若い世代の人々はもっとこの「権力→権力組織→民主主義」という構造に、嫌気が差しているのではないか。立憲民主党に離党届を3回提出したという須藤元気氏が、「上の人はもう引退して欲しい」と涙ながらに訴えておられましたが、本当にその通りだと思います。

 

世代交代を進めよ! 老害と言われる前に、権力者は自ら身を引くべきです。

 

しかし、希望が全くないかと言うと、実は、そうでもない。例えば、若い人が会社を立ち上げる。その起業家の理念に共感した人が、その会社の株を買う。特に環境分野において、こういうことは既に起こっています。例えば、農薬を使わず有機農法で野菜を作る。多少高くても、その野菜を買う。そういうことも増えつつあります。

 

多分、こういうことって、これから更に増えていくと思うのです。権力を前提としない。ある個人が何かを思い立って、行動を起こす。その行動に賛同した人が、自発的に協力する。そうやって、政治や経済が回っていく。

 

例えば、誰かが独自の教育理念をもって、学校を立ち上げる。その理念に賛同した者がその学校に通う。このパターンは、既に大隈重信早稲田大学などの例がありますね。コロナの影響で、パソコンを使ったリモート授業が始まっているようですが、すると離れた場所にある学校にでも、入学することが可能となる。すると、生徒や学生たちが学校を選ぶ際の選択肢というのは、各段に増えていく。会社にも同じことが言えて、リモートワークが増えてくると、労働者の就職先の選択肢も拡大する。現在はそうなっていないとしても、やがてそういう方向に社会は向かっていくのではないか。

 

権力や権力組織を解体した後に現出するであろうポスト民主主義の社会。その時、人々が見るのは、組織ではない。宗教やイデオロギーでもない。利権でもない。行動を起こしたその人を見るのである。その人の人格を見るに違いないのです。

 

このポスト民主主義の社会システムの本質は、シャーマニズムにあると私は思います。

 

例えば、東京都知事選に立候補している山本太郎さんは、現在、地方債(都債)を最大で15兆円発行したいと主張しています。私は、それなりにMMT(現代貨幣理論)を理解しているつもりだし、通貨発行権を持っていない東京都が地方債を発行することの当否については、大西つねき氏や池戸万作氏の解説によって勉強しています。そして、これは可能だと思う訳です。しかし最近、理論的な当否よりも重要なことがあるように思えて来ました。それは、そのことを主張している太郎さんの人格であり、情熱ではないかと。

 

7月5日は、東京都知事選の投票日になっています。どうか、都民の皆様、投票に行ってください。埼玉より愛を込めて。

 

“Winter” Long Version / Mick Taylor & Rolling Stones
https://www.youtube.com/watch?v=wnvT_Izb90M

山本太郎と東京都知事選(その5) 野党共闘という欺瞞

現在行われている東京都知事選におきましては、立憲、共産、社民などの野党勢力は宇都宮氏を推薦しており、彼らは山本太郎さんが立候補したことについて「野党共闘の足並みを乱す行為だ」として、陰に陽に強力な批判を加えています。太郎さんを応援している私としては、そこに権力組織の腐臭を感じる訳です。そこで、彼ら、すなわち緊縮左派の野党勢力が持っている欺瞞について、述べておきたいと思います。

 

このブログでは、「緊縮左派」という用語を使って来ましたが、池戸万作氏の用法にならい、今後は「緊縮リベラル」と言うことにします。現在の政治勢力に関する分析としては、池戸氏が以下の動画で説明している図が、適切だと思います。50分ありますが、お時間のある方は、是非、ご覧ください。

 

緊縮リベラルの正体/三橋TV 池戸万作 氏
https://www.youtube.com/watch?v=rjhfAPnkE28

 

簡単に勢力図のサマリーを以下に記します。

 

緊縮リベラル  |  緊縮保守
―――――――――――――――――
反緊縮リベラル |  反緊縮保守

 

区分ごとの主要な政党が、次の通り。

 

緊縮リベラル・・・・立憲、共産、社民
緊縮保守 ・・・・・自民、公明、維新
反緊縮リベラル・・・れいわ新選組
反緊縮保守・・・・・該当なし

 

コロナ禍の影響下にある現状に鑑み、現在、最大の政治的対立軸は「緊縮 対 反緊縮」にある。そして、反緊縮を標榜する政党というのは、左右を見渡してもれいわ新選組しか存在しない。そういう政治状況にある訳です。

 

そもそも太郎さんは、去年の4月にれいわ新選組を旗揚げした時から、全くブレていない。最初から太郎さんは「消費税の廃止」を訴えてきた。但し、緊縮リベラルの政党が「消費税を5%に減税すること」に合意するのであれば、野党共闘に協力する。その場合は、れいわ新選組の旗を降ろしてもいい、とまで言っていたのです。そして、今回の都知事選において、立憲は太郎さんの擁立に動いた。しかし、立憲は「消費税を5%に減税すること」には合意しなかった。だから、太郎さんは野党統一候補として知事選に出馬することを断り、れいわ新選組単独の公認候補として、立候補した訳です。緊縮リベラルから批判される所以など、まったくないのです。

 

これは、何かおかしい。背後に権力の腐った臭いがする。彼らは、何かを守ろうとしている。そう考えると、私には思い当たる節があるのです。緊縮リベラルの主要メンバーには、共通する傾向がある。すなわち、弁護士、(元)官僚、大学教授が多いということ。彼らのメンタリティには、学歴偏重の権威主義が潜んでいると言わざるをえない。

 

そこで、「学歴がなんだ、権威がなんだ、そんなものは関係ねえ!」 ・・・という話を少し書きたいと思うのです。

 

まず、弁護士から。実は私、現役サラリーマン時代には29年程、法務という仕事に就いておりました。勤務先の会社が契約する。訴訟に巻き込まれる。そういう場合に、弁護士とも調整しながら課題の解決に努める。そういう仕事をしていた訳です。この仕事、簡単に言うと、次の3つのステップから成り立ちます。

 

1. 事実認定
2. 法的評価
3. 意思決定

 

これ、テレビでやっている刑事ドラマと、ちょっと似ているのです。最初に原因不明の死体が発見される。するとキャリアの若い検事などは、パターン化して考える。自殺か、他殺か。他殺である場合には、大体、怨恨か物取りということになります。しかし、現実は多様で、そういうパターンに当てはまらない場合が多い。刑事ドラマでは、大体、ノンキャリアのベテラン刑事が想像力を働かせて、過去の事件などとの関連を探っていって、解決する。すなわち、最初の「事実認定」が最も重要な仕事となる訳ですが、現実問題としても、これのできない弁護士がどれだけ多いことか。刑事ドラマにおける若いキャリアの検事と、同じ傾向がある。弁護士は、司法試験に合格しているので、確かに法律はよく知っています。だから、法的評価をやらせれば、それは優れた仕事をする。でも、事実認定ができなければ、仕事にならない。

 

次に(元)官僚。高級官僚というのは、上級国家公務員試験に合格している。この試験、司法試験並みに難関だと言われています。そんな試験に合格した人なのだから、さぞかしりっぱな人だろうということになりがちですが、そんなことはありません。森友学園の件で国会において答弁拒否を繰り返した佐川氏。その前だったか後だったか忘れましたが、財務省事務次官のセクハラ事件というのもありました。確かテレ朝の記者を夜中に呼び出して、こう言った。

 

「手、縛っていい? 縛られていい?」

 

ちょっと待てよ。セクハラ以前の問題として、日本語がおかしいではないか!

 

また、官僚というのは縦割りの社会で生きている。例えば、経産省に務めてきた人は、経産省の仕事が国にとって一番重要だと思っている。また、財務省に長く務めた人は、財務省の仕事の方が重要だと思っている。結局、縦割りなので、全体が見えない。

 

そして、大学教授。大学の先生じゃ、それはりっぱな人に違いない。そう思う人もいるでしょう。確かに、りっぱな人もいるに違いありませんが、全ての大学教授がりっぱである訳ではありません。そもそも彼らは、中学、高校、大学と進学し、その後、大学院に進む。そして、非常勤講師などを経て、最終的に教授の地位に就く訳です。すなわち、彼らは学校の外に出ない。世間を知らない。そういう傾向がある。一体、どれだけの大学教授にコロナで雇い止めにあった非正規やシングルマザーの方々の気持ちが分かるでしょうか。そもそも、学問の世界にも派閥がある。目上の人の説を批判などしていては、自分の出世に響く。例えば、自分が師事している憲法学の教授が護憲派であった場合、下の者が改憲を唱えることは困難だ。してみると、学者というのは正に「経路依存性」に陥った人種だと言える。

 

弁護士、官僚、大学教授と見てきた訳ですが、もちろん彼らの中にもりっぱな人は沢山います。但し、それらの高学歴者の全てが立派な人かと言うと、決してそんなことはない。私は、そう思う訳です。そして、緊縮リベラルという勢力を形成しているのは、これらの学歴や権威に依存している人が多い。大衆を見下し、上から目線で発言する。そんなことで、若い人たちの支持が得られる訳はない。大体、緊縮リベラルというのは、頻繁に講演会や勉強会を開催し、その一部はYouTubeにアップされており、私も、随分見ました。そして、多くの場合、その弁士は弁護士か、官僚出身者か、大学教授なのです。彼らは、決して大衆の声など聞かない。

 

緊縮リベラルは、確かに論理的には優れている一面がある。正しいのかも知れない。しかし、論理的な正しさは、自民党が握っている利権には勝てない。それが現実ではないでしょうか。

 

ここで、NHK世論調査の結果を見てみましょう。

 

NHK世論調査(2020年6月23日)
http://www.nhk.or.jp/senkyo/shijiritsu/

 

政党支持率は、次のようになっています。

 

自民党  32.5%
公明党   4.3%
維新の会  3.8%
   緊縮保守・・・40.6%

 

立憲民主  5.6%
国民民主  0.6%
共産党   1.7%
社民党   0.7%
   緊縮リベラル・・・8.6%

 

れいわ   0.6%
   反緊縮リベラル・・・0.6%

 

支持なし・無回答 49.6%

 

数字をざっくりとまとめますと、「4:1:5」となります。

 

言うまでもなく、緊縮リベラルの野党共闘をしようが、立憲と国民が合併しようが、支持率は1割にしかならない。そんなことで、政権交代を実現できるはずがありません。緊縮リベラルは、内向きだと思います。いくら支援者ばかりを集めて集会を開いても、支持は広がりません。4割を占める緊縮保守に切り込む。そして、5割を占める無党派層に語り掛ける。それができなければ、万年野党に甘んじる他はない。多分、緊縮リベラルを構成している高学歴の人たちは、それでもいいと思っているのだろうと思いますが。彼らは、周囲から「先生」と呼ばれ、本を書けばそこそこ売れる。彼らは、それで満足しており、政権を奪取することなど、考えていない。

 

童話の「桃太郎」を思い出します。

 

貧しい農村があって、そこで人々が暮らしている。ところが、鬼ヶ島から鬼がやって来ては、農作物を略奪し、抵抗すれば暴力を振るわれたりする訳です。現在の緊縮リベラルがやっているのは、農民を集めて、いかに鬼の所業が論理的に間違っているのか、それを講釈するのに似ている。いくら講釈されても、人々は救われない。人々が待ち望んでいるのは、桃太郎の登場なのです。鬼ヶ島へ行って鬼を退治してくれる桃太郎の出現を待ち望んでいるのです。日本一のキビ団子をぶら下げて、サル、イヌ、キジの家来を引き連れて。

 

山本太郎と東京都知事選(その4) エピステーメーと権力組織の経路依存性

つまり、こういうことではないだろうか。すなわち・・・

 

権力をシステム化したものが、「組織」である。

 

上記の組織という言葉は、「権力組織」と言い換えた方がいいかも知れない。社会学においては、目的を持たない人間集団をゲマインシャフトと言い、目的を持つ人間集団をゲゼルシャフトと言いますが、私がここで問題としているのは後者、すなわちゲゼルシャフトの方です。

 

そして、前回の原稿に記したように、権力には以下の特徴がある。

 

<組織と権力に関する3つのテーゼ>
1. 権力の源泉は、社会的な制度やシステムにある。
2. 権力者は変化を好まず、現状を維持しようとする。
3. 組織において世代交代は進まず、高齢化と老害が生ずる。

 

とにかく、権力は変化を拒絶する。一度動き出すと、方向転換をすることができない。これが「経路依存性」と呼ばれる人間集団の特質です。

 

つまり、私たちが生きている世界には、変化し続ける時代の常識や価値観がある。これを哲学者のミシェル・フーコーエピステーメーと呼んだ。反面、この世界にはいつまでたっても変わらない要素というものがある。それは、権力組織の経路依存性によってもたらされる弊害なのではないか。

 

お若い人にはピンと来ない話かも知れませんが、例えばこの50年で、世の中は一変しました。日進月歩のテクノロジーは言うに及ばず、世間の常識も随分と変わりました。セクハラ、パワハラなどという言葉が使われるようになったのは、つい最近のことです。昔は、職場でも当然のことのようにセクハラが横行していました。私がLGBTという概念を知ったのも、比較的最近のことです。昔は、事務所の中でも当然のこととして、煙草を吸っていました。これらの価値観は、確実に変化した。これがエピステーメー

 

ところが、考えてみますと、この50年で変わらないことも沢山ある。環境破壊は止まらない。官僚は大衆を見下し(官尊民卑)、日本の対米従属も継続している。選挙になれば現ナマが飛び交い、三権分立は機能しない。大企業は莫大な利益をあげ、中小・零細企業は困窮している。都市は栄え、地方は貧困に喘いでいる。何も変わっていない。そしてこれらは、権力組織の経路依存性に依拠している。

 

しかし人々は、この権力組織にほとほと嫌気が差してきた。もう官僚組織も、政党も、会社や学校すら嫌になった。そういう多くの人々に共通する無意識のようなものが、蔓延しているのではないか。

 

その理由の1つには、情報革命の影響がある。ネットを通じて、情報は瞬時にして駆け巡る。昔は、現在ほど政治家の不祥事に関する情報というのは、出回らなかったように思います。それらの情報を得る手段というのは、ほぼ、新聞と週刊誌しかなかったからです。しかし、今は各段に情報量が増加している。内部告発が活発化したということもある。結果として、権力者の悪事が、比較的容易に暴かれるようになった。例えば私は安倍政権にうんざりしていますが、彼らの悪事というのは、徹底して白日の下に晒されている。他にもあるのだろうとは思いますが、暴かれた安倍総理の悪事というのは、モリ、カケ、サクラと枚挙にいとまがない。「ケチって火炎瓶」というのもありました。もう隠せない。そういう時代になったのではないでしょうか。

 

アメリカのBlack Lives Matterの運動が終わらないのは、第2、第3の事件が続発しているからだと言われています。全米各地で、警察官が黒人を虐待している。そして、そういう場面がスマホで撮影され、ネットに投稿される。

 

今や世界中で、ネットにアクセスできる世代の人々は、この権力組織というものに嫌気が差している。日本でも「#検察庁法の改正案に抗議します」というのがツイッターでバズって、結果、この法案は廃案となりそうです。

 

このような環境下にあって、現在、東京都知事選が繰り広げられている訳です。私は、山本太郎さんの主張の特徴は、反緊縮の財政政策にあると思ってきましたが、それよりも本質的な問題が、上に記した「権力組織」との闘いにあるような気がしてきました。自民党の政策というのは「緊縮」ということもありますが、例えば電通に中抜きさせる。パソナピンハネさせるという、あくまでもそれらの権力組織の利益を優先させるものです。対する太郎さんが掲げる政策は、権力組織をターゲットとするのではなく、個々人としての都民をターゲットにしている。そう思うのです。だから、私は山本太郎さんを支持しているのです。

 

山本太郎と東京都知事選(その3) 権力と組織

そもそも、権力とは何か。そんなことを考える訳です。権力は、政治を動かし、経済を動かし、社会を支配している。その源泉は、どこにあるのか。

 

権力とは、人間が望んでいる事柄を実現するための手段だと思う訳ですが、では、そもそも人間は何を望んでいるのでしょうか。お金か。それもあるでしょう。しかし、それだけではない。例えば、ヨーロッパで繰り広げられた宗教戦争においては、カトリックプロテスタントが戦った。自分が、自分たちが正しいと思っていることを他の人にも押し付けようとするものだった。この「自分たちが正しいと思っていること」とは、信仰であり、時に思想であり、イデオロギーと呼ばれることもある。そういうことを社会的に実現させたい。人間は、そういう強い願望をも持っている。また、性に関わる場面を想定することもできる。男は女よりも優位な立場に立ちたいと願う。そこで、キャバクラという商売が成り立つ。女も同じような願望を持っていて、ホストクラブという場所が用意されている。

 

例えば、砂漠であれば、人々は飲料水を欲しがる。コロナ禍に見舞われた現在の日本であれば、人々はマスクを手に入れたいと願う。

 

このように人間の欲望というのは、多様なのです。そして、この欲望を満たすための手段が、権力だということになります。そして、権力を持とうとする者は、組織を作る。組織は他の組織と反目し、組織の内部は序列という内部構造を持つ。

 

まったくもって、人間というのは何と愚かな存在なのだろうと思います。

 

話を戻しましょう。人間には様々な欲望があって、それらの欲望を満たすための手段が権力だということになります。そして、権力を創出し、維持し、行使するために組織というものが結成される。そういう関係にあるのではないか。では、組織を支えるものは何か。それは社会的な制度ではないかと思う訳です。システムと言ってもいい。それは例えば、明文化された法律である場合もあるし、暗黙のうちに了解された慣習である場合もある。そのような制度、システムこそが、権力の源泉なのではないか。

 

金さえあれば何でも手に入る。権力の源泉とは、金だ。そう考える人がいるかも知れません。しかし、お金の価値というのは変動するし、一度に手に入れられる金額には、限度がある。例えば江戸時代であれば、殿様がいて、庶民から年貢を徴収していた。一年の間に徴収できる年貢には限度がある。但し、それを制度化すれば、毎年、一定数量の年貢を手に入れることができる。すると、このシステムこそが殿様の権力を保証することになる。すなわち、一時の金銭や年貢米よりも、権力者にとっては年貢という制度の方が有用であることになる。ここで、1つ目のテーゼを導くことができます。

 

<テーゼ その1>
権力の源泉は、社会的な制度やシステムにある。

 

そして、組織の中で上位の役職に就いた者というのは、既存の制度の中で勝ち抜いてきた訳で、制度が変わると自らの権力の基盤が揺らぐことになります。例えば、腕力の強い者が出世するという組織があったとして、その組織の制度が、ある日突然、頭の良い者が出世する、というルールに変わった場合、腕力の強いリーダーは失脚するに違いないのです。

 

そこで、組織のリーダーというのは、必ず、既存の制度を温存しようとする。すなわち、組織のリーダーは、変化を嫌い、現状を維持しようとする。ここで、2つ目のテーゼを提示することができます。

 

<テーゼ その2>
権力者は変化を好まず、現状を維持しようとする。

 

「死に物狂いの現状維持」という言葉があります。これは、「永続敗戦論」を唱えた政治学者である白井聡氏の言葉です。

 

ところが、時間の経過と共に社会が共有している常識や価値観は変化する。そして、組織は旧態依然とした制度に固執する。そこで古い組織は、必然的に陳腐化する。陳腐化するにも関わらず、組織のリーダー層は自らの立場を守るために権力の座に居座ろうとする。結果として、世代交代は進まず、老害と呼ばれる弊害が生まれる。これはもうテーゼその3と言っても良い。

 

<テーゼ その3>
組織において世代交代は進まず、高齢化と老害が生ずる。

 

上に記した3つのテーゼは、与野党を問わず、該当するのではないでしょうか。自民党公明党も酷いとは思いますが、同じことが共産党や立憲民主にも言える。

 

先般、立憲民主を離党した須藤元気さんが訴えておられましたが、もう高齢になった人は、自ら権力の座から去るべきだと思います。権力を手放した後でも、人生を謳歌することはできるのですから。

 

もう少し普遍的に考えますと、権力を維持するための組織という集団形態自体、限界に来ているように感じます。ではどうすればいいのか。組織に代わる何らかの集団形態は成り立つのか、と考える訳ですが、この点は、私にも確たる見通しが立っていないのです。ただ私には、れいわ新選組は、この組織という形態をなんとか回避しようとしているように見えます。れいわ新選組は、「単独者の集団」と言えるかも知れません。

山本太郎と東京都知事選(その2)

また1人、単独者が立ち上がった。立憲民主党に離党届を提出した須藤元気さんのことだ。消費税は減税すべきだ、山本太郎さんを応援したい、上の人には引退してもらいたい、とのこと。立憲の幹部にしてみれば、最後の「上の人には引退してもらいたい」というのが、1番こたえたのではないか。

 

そもそも、現在の立憲は3つの課題を抱えている。危機的な状況にあると思う。1つには、低落傾向が続く政党支持率。いくつかの世論調査において維新に抜かれ、野党第1党の座すら危うくなっている。第2の課題は、国民民主などとの合併協議が、一向に進まないこと。合併を進めなければ、現在の野党そのものの存続が危ぶまれるというのが、小沢一郎氏の意見だが、かく言う国民民主の支持率だって1%程度に過ぎない。第3の課題は、離党者が相次ぐこと。山尾志桜里氏に続き、須藤元気さんまで離党ということになると、今後、離党者が続かないという保証はない。

 

そこで注目されるのが、今年の9月に予定されている代表選。増税・緊縮路線を採る現在の立憲執行部に対し、反緊縮を訴える40名強の若手グループが存在するらしい。彼らはグループのリーダーを選出し、代表選に候補者を擁立するのではないか。その場合、枝野氏が勝っても、若手代表が勝っても、立憲が割れる可能性がないとは言えない。

 

もちろん政党を作るというのはとても大変な作業だし、政党助成金の問題もある。しかし、政治家にとっての最大の関心事というのは、「次の選挙で自分が当選できるか」という点にある。従って、「このまま行けば、次の選挙で自分が落選するのではないか」と危惧した政治家は、行動する。従って、地滑り的に野党再編という動きが生ずる可能性もあるのではないか、と思う訳です。実際、先般、国民民主に入党した馬淵澄夫氏は、野党再編を主張している。

 

次の衆議院選挙はいつかと言うと、それは今年の10月である可能性が高いと言われています。理由の1つには、オリンピックの開催可否判断がその頃には下されるだろうということ。理由の2つ目としては、今年の11月に開催されるアメリカの大統領選で、トランプが敗れる可能性がある、ということ。(最近の世論調査で、コロナ対策に失敗したトランプの支持率はバイデンに負けている。)オリンピックは開催できない、トランプも落選した、ということになると、自民党にとっては決定的に不利な方向に世論が動く。そうなる前に、解散してしまおう、ということです。本日、河井夫妻が逮捕されたこともあり、自民党内部でも安倍下ろしの動きは加速するように思われます。

 

そもそも、政治の世界というのは、一寸先は闇な訳で、何が起こるかは誰にも分かりません。しかし、上に記した国内の情勢に加え、世界的なコロナによる影響やBlack Lives Matterと呼ばれる黒人の人権擁護運動などの動きを見ておりますと、現在の私たちが大きな変化の中にいることは、間違いないように思います。

 

そして、日本に暮らす私たちの不幸の原因の1つには、信頼に足る確固たる野党勢力が存在しないことにある。換言すると、現在の日本人には、進むべき方向が見えていない。「自民党にはうんざりだけど、野党もね」ということになり、政党支持率は与党も野党も下がり、無党派層ばかりが増える。その原因の1つは、立憲に代表されるような「緊縮左派」と呼ばれる野党の体質にあると思うのです。「緊縮リベラル」と言っても良い。

 

この緊縮左派を支える主要なメンタリティというのは、「正義」を主張する点にある。戦争はいけない、平和を守ろう。それは、そうなのです。私もそう思うし、それが正義だ。自民党政権の金権体質がいけない。この主張も正しい。私も、異議はありません。そして、このようなメンタリティがどこからやって来るかと言えば、それは法律学ではないかと思うのです。法律を学ぶと、論理的な正しさを希求するようになる。それはそれで、とても大切なことですが、いくら正義を主張しても、貧困に苦しむ大衆にパンを与えることはできない。

 

モリ、カケ、サクラ。
アンリ に クロカワ。
電通の中抜きに、パソナピンハネ

 

安倍政権が引き起こした上記の疑惑について、私は、ハラワタが煮えくり返る程、怒りを覚えます。だから、国政調査権に基づいて、国会でこれらの問題を追及することは正しい。そう思う訳ですが、どの疑惑1つとっても未だに解明されていない。

 

冷静に考えてみますと、官製談合があれば、それは公正取引委員会が摘発すれば良いのではないか。税金の無駄遣いについては会計検査院が、そして公選法や刑法に違反する事例については、検察が強制捜査を行えば良い。

 

しかし、現在の安倍政権は官僚の人事権を握っており、公取委会計検査院、検察などの行政組織が適正に機能しているとは言いづらい状況にある。では、どうすれば良いのか。それは、結局、政権を取る以外に方法はない。では、どうやって政権を取るのか。それは、民主国家である日本においては、選挙で勝つ以外に手はない。では、どうやって選挙で勝つのか。それは、国民のマジョリティを構成する大衆に語り掛けるしかない。

 

立憲を離党した山尾志桜里氏は、先日、国民民主に入党届を提出し、会見を開いておられました。その会見だったか、その後のYouTube番組だったかは忘れましたが、このようなことを言っておられました。

 

「政局よりも国家のビジョンや政策を論議すべきだ」

 

これを聞いて、私は少し失望してしまいました。真理や正義を追求するのであれば、それは学者でもできる。国会を閉じている期間こそ、政治家たる者、大衆に語り掛けるべきではないのか。

 

「緊縮左派」の政党には、司法試験合格者が多い。もちろん、彼らは法律の勉強をしている。だから、正義を求める。口を開けば、難しい言葉を使う。パターナリズム(上から目線で意見すること)を嫌う大衆の気持ちは、当然、彼らから離れていく。彼らは自らを正義の味方だと勘違いし、自己満足に陥っているのではないか。

 

法律学も大切ですが、今、一層、求められているのは経済学の方だと思います。そしてそれは、緊縮派の経済学ではなく、反緊縮の方だと思います。これはもう、世界的な潮流になるに違いない。コロナで疲弊した経済をなんとかするために、日本を除く先進諸国では相当額の給付金が国民に配られています。本当に困ったときには、国がお金をばら撒けばいいのだ、ということを先進諸国の国民は体験的に学習しているのです。アメリカで民主党のバイデンが大統領になれば、この流れは加速するに違いありません。(バイデンは、バーニー・サンダースの支持を得ている。)

 

このような流れの中で、東京都知事選の幕が切って下ろされた訳です。メディアは、その争点を小池都知事のコロナ対策とか、オリンピック問題だと報道していますが、そんなことはありません。本当の争点は、「緊縮」対「反緊縮」の経済(財政)政策です。

 

そう言えば、れいわ新選組の主要メンバーだと思われる3人、すなわち太郎さん、大西つねき氏、安冨歩氏の3人は、皆、経済に詳しい。う~ん。れいわ新選組にも強力な法律の専門家が、1人位は欲しいような気がしますけど。

 

山本太郎と東京都知事選(その1)

れいわ新選組の総会が開かれ、太郎さんの東京都知事選への立候補が取り沙汰されると、ツイッターを中心として、様々な意見が飛び交いました。驚いたことに、れいわ新選組のコアな支持者たちからも少なからず批判の声が挙がりました。そして、昨日、太郎さんは記者会見を開いて、正式に出馬を表明したのですが、今度は大手のメディアが太郎さんを叩きまくる。これはいけない。私もコロナ疲れなどと言っている場合ではない。この弱小ブログで私が何を書こうと、太郎さんへの支持票が増えるとは思えませんが、黙っている訳にもいかないような気がして、本稿を書く気になったのです。

 

現在、政治的な情報発信は、ツイッターが中心的な役割を果たしています。ツイッターだと、メディアが提供する記事などを添付して、そこに数行のコメントを記載することができます。これはとても便利な機能だと思う訳ですが、他方、ツイッターには文字数制限がある。140字だったでしょうか。その中で、ロジックを語ることは、とても困難だと思う訳です。

 

例えば、太郎さんへの批判として、次のようなものがあります。

 

「私は埼玉県に住んでいて、太郎さんが総理大臣を目指すというから、れいわ新選組に寄付をしたのだ。それが知事選に出るというのでは、約束が違う。寄付金を返せ!」

 

結構な知識人かと思われる人までもが、上記のような発信をしている訳です。そして、「いいねボタン」を押す人も少なくない。気持ちは分からないでもありませんが、論理というのはそんなに簡単なものではない。

 

例えば上記の批判コメントに対して、私はこう考えています。まず、太郎さんが都知事選に出なかったとしても、都知事の任期である4年以内に総理大臣になれる可能性は、限りなくゼロに近い。何しろ、れいわ新選組が擁する国会議員は2人しかいないし、政党支持率だって1%程度で推移している。そのような現状に鑑みれば、仮に都知事になったとしても、4年後に国政を目指せばいいじゃないか、と思う訳です。現在、太郎さんは45才。4年たっても49才。まだまだ、十分に若い。そもそも太郎さんは、都知事選に出るからと言って、総理の座を諦めるとは一言も言っていません。

 

また、実名を出して恐縮ですが、田中龍作さんというジャーナリストがおられます。この方、私はりっぱなジャーナリストだと尊敬しており、同氏のツイッターは「お気に入り」に登録して、しょっちゅう拝見しているのです。そして、明らかに同氏はれいわ新選組を支持してこられた。ところが、今回の件では太郎さんを批判する側に回ったのでした。理由は次の通り。

 

「今回の知事選には、既に宇都宮健児氏が立候補している。山本太郎氏が出馬すると、左派の票が割れて、結果、小池百合子氏を利することになる。従って、山本氏は宇都宮氏の支持に回るべきだ」

 

こういう意見は、とても多いようです。仮に、宇都宮氏の政策と太郎さんの政策が同じであれば、田中龍作さんのご意見は、ごもっともということになります。宇都宮氏は過去に「野党共闘」という大義名分の下に立候補を取り下げた経緯がある。また、ご高齢であることから、宇都宮氏にとっての都知事選への挑戦は、今回が最後になる可能性がある。加えて、宇都宮氏は弱者の味方で、緑のたぬきとは対極にある。若い太郎さんは、ここは譲るべきだ。そういう男気のようなメンタリティが田中龍作さんの主張を支えていたように思います。しかし、その前提は違うと思います。太郎さんの政策は、他の誰とも違う。

 

龍作さん、昨日の太郎さんの出馬会見にも出席されていました。そこで、ここは宇都宮氏に譲るべきではないか、という意見を太郎さんにぶつけていました。しかし、その時点では龍作さんご本人も、どうやら太郎さんの政策の独自性に気づいていたように思われます。質問の最後に龍作さん、「厳しいことばかりを言ってすいませんでした」と太郎さんに謝罪したのでした。太郎さんは笑いながら「いやいや、仕事じゃないですか。気にしないでくださいよ」と言っていました。

 

その後、龍作さんのツイッターを見ておりますと、太郎さんの出馬を支持するツイートばかりをリツイートしているように見受けられます。

 

太郎さんが掲げる政策の特徴は、地方債を発行して15兆円という財源を確保するという点にあります。もちろん、そんなことを言っている候補者は、他に誰もいない訳です。

 

そう言えば、ヤメ検弁護士の郷原信郎氏は、維新が推薦する候補者を支持するという動画を挙げていましたが、昨日の太郎さんの出馬会見を見て感動したようで、今日になって新たな動画をアップされていました。

 

郷原信郎の日本の権力を斬る
https://www.youtube.com/watch?v=p4BCpKF9NyM

 

このように太郎さんの知事選出馬は、ベテランジャーナリストから社会派弁護士まで、俄かには理解しづらいものだと思います。私は、支持していますが。

 

続く