文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

反逆のテクノロジー(その9)私たちを支配するシステム

私たちが生きている世界は、時間と空間によって成り立っていますが、どちらも連続しています。

 

静岡県って、どこだっけ?」

「神奈川県の向こうだろう」

 

私たちは、大体、こんな風に考える訳です。空間は連続している。その連続性の中で、位置を認識するのです。

 

「昭和って、いつだっけ」

「平成の前だよ」

 

時間も同じですね。地球という惑星が生まれて以来、いや、そのもっと前から時間の流れが途切れたことはありません。

 

ミシェル・フーコーは、動物の種別についても連続していると述べています。原始的な生物と人間の間には、サルがいる。鳥と哺乳類の間には、ムササビがいる。私たちを取り巻く自然というのは、この「連続性」によって構成されている訳です。そして、この「連続性」という原理が、人間の認識方法に強い影響を与えてきた、と主張するのです。

 

フーコーは、各時代を支えるエピステーメーという概念を提唱した訳で、エピステーメーは変化する訳ですが、にも関わらずこの「連続性」に支えられた認識方法は、変化していないと考えたようです。文献5から、引用させていただきます。

 

- エピステーメーの変化の間に存在する深い非連続性にも関わらず、実は「同一者」による連続性の原理・思考が、人間の知を常に秩序づけ、規定し続けてきたという事実なのである。(P.43)-

 

民俗学折口信夫やその他の文化人類学者たちは、「古代人は類似性に着目していたが、現代人は差異に注目している」と永年考えていたようですが、それは間違いであって、人間はこの「連続性」を基礎として認識しているとするフーコーのこの説が正しいように思います。これで一つ、疑問が解消されました。

 

確かに私たちが生きている時間と空間によって成り立つこの世界や、自然界におきましては、この「連続性原理」が生きている。では、人間の社会に目を転じた場合は、どうでしょうか。こんな例を考えてみました。

 

あなた自身 → 面白い人 → 少し変わった人 → かなり変わった人 → 狂人

 

人間にも色々いる訳ですが、そこにも「連続性」がある。では、あなたは上記の区分で、どこら辺の人までであれば、付き合ってもいい、話が通じる、と思うでしょうか。仮にあなたは結構、寛容な人だったとして「かなり変わった人」までは、話ができると考えたとしましょう。すると、「かなり変わった人」と「狂人」との間で、断絶、非連続性が生ずることになります。

 

あなた自身 → 面白い人 → 少し変わった人 → かなり変わった人 /(断絶!)/ 狂人

 

こうして、私たちが認識する世界から、「狂人」は除外されることになります。そして、私たちにとって認識することができない「狂人」は、私たちにとって「他者」となるのです。西洋の歴史は、この「他者」を徹底的に排除する歴史でもあった訳です。カトリック教徒は、他者であるプロテスタントと戦い(宗教戦争)、ドイツの人口は3分の1まで減少した。フランス人は、パリの居住者の4人に1人を収容所に監禁した。ナチスドイツは、他者であるユダヤ人を虐殺した。

 

そしてフーコーは、それらの原因の一つにカント哲学を挙げたのでした。そもそもカントは、自律的な思考を推奨したのです。これは一見正しいようにも思えますが、裏を返せば、それは他者を排除することを意味している。文献6から引用させていただきます。

 

- 換言すれば、人間の意志からは「他者」との関わりの一切が理性の道徳的判定に悪しき影響を与えるものとして、すなわち「他律性」として取り除かれ、ただすべてはア・プリオリに規定された定言的命法の命ずるところによって行為されなければならない。カントが思い描くのは、こうした「他者」抜きの、ただ普遍的道徳法則にのみ依拠した実践の可能となるような、いわば絶対零度の真空空間である。(P.50)-

 

上記引用文に記されたようなカント的な考え方をフーコーは「人間学」と呼び、「言葉と物」の中で批判したのです。ただ、1960年代の西洋においては、カント的な「理性」を批判するのは、時代の趨勢になっていたのだろうと思います。そして、その中心的な役割を果たしたのは、構造主義者だった。

 

「言葉と物」は、第10章の第6パラグラフで終わります。このパラグラフには題名がありませんが、「人間の終焉」が描かれているのです。そして、その直前の第5パラグラフのタイトルは「精神分析文化人類学」となっているのです。ここで、フーコーが2つの学問を取り上げているのには、理由があるように思うのです。ここからは、私の想像だと思って読んでください。

 

西洋哲学が生んだ「理性」は、他者を排除してきた訳ですが、それではいけない、というのがフーコーの立場です。それは、フーコーの「狂気の歴史」を読めば明らかでしょう。そして、当時の西洋において、理性が理解できないもの、すなわち他者に光を当ててみようとする学問が登場していたのです。その一つが、フロイトの提唱した精神分析ということになります。これは、構造主義者であるラカンによって、継承されます。フーコーフロイトラカンのことも高く評価していました。そして、かつては精神病理学の資格を持ち、大学で心理学の講義を受け持っていたフーコーにしてみれば、フロイトラカンの仕事というのは、とても身近な分野であったに違いないのです。彼らは「無意識」という暗闇の中に潜む「他者」に光を当てたのです。それは、とてもりっぱな仕事だった訳ですが、どうもフーコーにはしっくりと来なかったに違いない。精神病理学精神分析の仕事というのは、患者を治療することを目的としています。すなわち、狂人をこちら側の世界、理性の世界に連れ戻そうという企てに他なりません。それは、フーコーが望んだことではなかった。かつてパリの精神病棟で感じたあの違和感、フーコーは忘れていなかったに違いない。

 

次に、共時態で見るという構造主義的な方法を提案した記号論ソシュールがいて、ソシュールの方法論を用いて文化人類学構造主義を立ち上げたレヴィ=ストロースがいる訳です。フーコーは、彼らの仕事も評価していたようです。確かに、言語や無文字社会も構造を持っている。そして、彼らの仕事によって、アフリカや南米に暮らす無数の民族が救済されたのです。素晴らしい。しかし、文化人類学は、現代の自由主義諸国に暮らす我々自身を救済することはできない。構造、それは確かに存在する。しかし、フーコーは、他の構造主義者たちが措定したよりも、更に大きな、更に深い、そして「現在」に関わる構造を解き明かそうとしたのではないでしょうか。

 

そして1970年代、フーコーは権力について考え始める。何故なら、権力にも構造があるからです。ただ、フーコーはあえて「構造」という言葉は使わなかった。それは、自分が構造主義者であるというレッテルを貼られることを嫌ったからでしょう。フーコーは、「構造」と言う代わりに、例えば、「システム」という言葉を使った。再び、文献5から引用させていただきます。

 

- それは主体や実存への情熱ではなく、「システム」への情熱であった。人間の主体の手前に既に存在し、主体を深層において支え、そして統御する「システム」に、この時期のフーコーは明らかに魅了されていたのだ。(中略)人間というものが、実存主義現象学の考えるような主体のイニシアティヴを発揮しうるものではなく、主体以外のものによって動かされるものなのだという思想は、フーコーにあっては、その時々に応じて、その主体以外のものが「システム」、「言語」、「エピステーメー」、「言説の規則」、(中略/以下の注を参照)「権力」といった様々な形をとりながら、晩年のいわゆる自己の倫理の問題系に至るまで変わることなく展開していく。-

 

注)2つ目の「中略」とした箇所には、「外部」、「他者」と記されています。ただ、この文脈において、これらを「システム」と同列に記すのは分かりづらいと思い、この箇所は引用文から省略させていただきました。

 

結局、人類の歴史とは、世界の秩序化に向かうプロセスだったのです。まだ、人類が原始的な動物だった頃、人類は自然やカオスと共に生きていた。やがて、人類は言語を獲得する。言語は、人間のあり様を一変させた。人間の認識能力は、飛躍的に高まった。そして、人間の認識能力を支えてきたのは「連続性原理」だったに違いない。しかし、人間の認識能力には限界があって、それを超える何かを人間は、理解しえないもの、他者として、排除するようになる。この他者を排除するシステムは、幾多の悲劇を生んだ。しかし、このシステムは少数者の努力にも関わらず、ひたすら膨張を続けている。それは貨幣経済や権力構造を伴い、今も、世界を支配している。

 

こんなことなら、私は、もっと早くにフーコーを学ぶべきだった。そういう後悔の気持ちがあります。しかし、考えようによっては、随分と回り道はしたけれども、まだ、このブログをやっている時点で、フーコーに出会えたことは、とてもラッキーだったと言えるかも知れません。

 

(参考文献)

文献1: FOR BEGINNERS フーコー/Cホロックス/白仁高志訳/現代書館/1998

文献2: フーコー今村仁司・栗原仁/清水書院/1999

文献3: 言葉と物/ミシェル・フーコー渡辺一民佐々木明訳/新潮社/1974

文献4: ミシェル・フーコー、経験としての哲学/阿部崇/法政大学出版局/2017

文献5: ミシェル・フーコーの思想的軌跡/中川久嗣/東海大学出版会/2013

文献6: 図説・標準 哲学史/貫 成人/新書館/2008

文献7: 哲学中辞典/尾崎周二 他/知泉書館/2016

文献8: フーコー・コレクション1 狂気・理性/ミシェル・フーコーちくま学芸文庫/2006

反逆のテクノロジー(その8) フーコーの地図(思想経歴概略)

初めての街を歩くときは、どんなに粗雑な地図であっても、ないよりはあった方が良い。それと同じで、フーコーの思想を学ぼうとしている今、私は、極めて単純な地図のようなものを提供したいと思ったのです。遂に、フーコーの思想が夢に出てきてうなされるようになった私には、そうする資格があるように感じています。

 

では、駆け足で行きます。(末尾に「フーコー年表」を再掲しておきますので、必要に応じて、ご参照ください。)

 

16才で哲学の勉強を始めたフーコーは、超エリートが集まる高等師範学校に入学するが、22才、24才のときに、それぞれ自殺を企てる。2回とも未遂に終わった訳だが、その理由はエリート学校の校風が合わなかったことと、フーコー自身がゲイだったことに理由があると言われている。当時のフランスでは、日本で言うところの軽犯罪法のような法律によって、同性愛は禁止されていた。ゲイであることがバレると、出世にも影響する。フーコーは自身がゲイであることを隠し続け、生涯を通じてカミングアウトすることはなかった。

 

フーコーが最初に向かったのは精神病理学だった。フーコーは精神病院に通い、そこで医師と患者の実態を観察すると共に、大学で心理学の講義を行った。フーコーの授業は面白いと評判になった。受講生の中には、後年、哲学の世界で名をはせるジャック・デリダもいた。

 

フーコーは、1954年に「精神疾患とパーソナリティ」を出版するが、この頃、自らアルコール依存症になり掛ける。心配した父親の勧めもあって、フーコーは自ら心理療法を受ける。

 

1961年、博士論文として執筆した「狂気の歴史」を出版する。当時、大学のシステム上、博士論文は公に出版されていることが必須条件だった。「狂気の歴史」は狂気を歴史学的に考察するというユニークなものだった。これは膨大な論文だが、高い評価を得たと言われている。以後、歴史学的に考察するというフーコーの方法論は、終生続くことになる。

 

1966年、40才になったフーコーは「言葉と物」を出版する。人々は菓子パンを買うようにこの難解な哲学書を買った。実際、週刊誌のベストセラーランキングで第5位に入った。エピステモロジーの影響を受けたフーコーは、この「言葉と物」においてエピステーメーについて論じる。フーコーは、本文献の中で、次のように時代を区分し、それぞれのエピステーメーについて論述している。

 

ルネッサンス・・・16世紀まで。

古典主義時代・・・17世紀~18世紀

近代・・・・・・・19世紀

 

3つの時代があるということは、その間、2回の歴史的断絶があったことになる。しかしながら厳密に言うと、フーコーは4つ目の時代区分として、近未来を措定している。そして、この大著の最後において、フーコーは近未来における「人間の終焉」を予言する。文章の末尾のみ、引用しよう。

 

- (前略)そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。-

 

人間が消滅すると言うのだから、物議を醸したのは当然のことだった。サルトルをはじめ、当時のビッグネームはこぞってフーコーを批判した。それまでは一介の大学教員だったフーコーだが、この「言葉と物」の出版によって、一躍、ベストセラー作家となると同時に世間から批判を浴びる身に転じたのだった。2つの週刊誌がフーコーに質問状を送付したらしいが、その結果、フーコーがどこまで答えたのかは定かでない。

 

ところで、フーコーの著作は、難解だ。ちなみに私は、ねじり鉢巻きを締めて、右手に黄色のマーカーを握り締め「言葉と物」を通読したが、20時間、いや、それ以上の時間を費やした。但し、翻訳に際しては、プロの翻訳家が2人がかりで7年を費やしたとのこと。ご苦労様と申し上げたい。

 

ここで、何故そんなに難解なのか、という話をしておきたい。

 

1.そもそも、ポストモダンの作家は難しいという話がある。フーコーの他にも、デリダラカンは難解だと言われている。ドゥルーズも同じ。

 

2.若手書きだから難しい。若いうちは肩に力が入って、難しい文章になる。フーコーの場合、「狂気の歴史」「言葉と物」「知の考古学」の3作が、特に難解だと言われている。

 

3.言葉の定義が曖昧。「言葉と物」における主要概念は「エピステーメー」にある訳だが、フーコーはこのような言葉に対する定義づけを行っていない。従って、本が出版された後で、「そもそもエピステーメーとは何か」という論議が起こる。

 

4.レトリックが頻繁に用いられる。すなわち、華美な形容だとか、比喩が多くて、文章が長くなる。だから分かり難いのだ。この点、純粋なロジックを表現する文体というのは、法律の条文だと私は思っている。そこには、無駄がない。あるのはロジックだけ。法律の条文には「賭けてもいい」というような表現は出てこない。反対に、レトリックに終始する文体は、文学の世界で使用される。そしてフーコーの文体は、その中間に位置すると言える。このレトリックの部分が、分かりづらいのだ。と言うよりも、フーコーの文体というのは、100%理解されることは、拒絶している。

 

5.最後に、これが一番重要なのだが、そもそもフーコーには、分かりやすく書こうという気持ちがない。自ら「普遍的な真理というものに、私は懐疑的だ」と語っているように、物事を断定的に述べたくないと思っているのである。この点、後程、補足します。

 

話を戻そう。フーコーが「言葉と物」において主張したエピステーメーという概念は、ある時代を区切って、その時代に共通する認識や価値観を表わすものだった。これはソシュールが言った「共時態」で考えていることになる。そこで、「フーコー構造主義者だ」という論議が巻き起こった。この点、確かに単独のエピステーメーを考えた場合、それは「共時態」で見ていることになるが、フーコーは少なくとも3時代のエピステーメーとのその間に存在する2つの断絶、非連続性を見ているのであって、つまり「共時態」と「通時態」の双方の見方を採っていることを意味している。従って、フーコーは明らかに、ソシュールとは違う。フーコー自身は次のように述べている。「私は、構造主義的な方法を採用したことはあるが、構造主義者ではない」。

 

長くなるので、「言葉と物」の話は別の原稿を準備することにして、先に進もう。

 

1969年、フーコーは「知の考古学」を出版する。ここでフーコーが注目したのは、ディスクールである。日本語で言えば「言説」ということになる。フーコーにはそれなりの思いがあってこの言葉を使っているので、ここではディスクールという表現をそのまま用いることにしよう。これが何かと言うと、記号の集合体のことである。そう言ってしまえば、身もふたもない訳だが、実際問題、どういうものを指すのかと言うと、これが判然としない。具体例を挙げて説明してくれれば分かりやすいと思うのだが、私が読んだ本の範囲では、その説明がない。そこで、想像する訳だが、例えば、監獄における業務日誌というのはどうだろう。精神病院におけるカルテなども考えられる。これらは記号の集合体であって、加えてポイントとなるのはそこに権力の関与があるということだ。フーコーディスクール自体が何を語っているのかということは無視して、そのディスクールがどのような経緯で、どのような「由来」で、存在するのか、という点に注目した。すると、そこには何らかの形で、権力の影響があると考えたのだ。そして、フーコーは「ディスクールの由来」を考えるという学問形式を「系譜学」と名付けた。系譜学は、反権力の学問ということになる。また、この時期のフーコーは、主体ということを中心には考えていなかったのが特徴である。ディスクールを誰が書いたか、どのような気持ちで書いたか、そのようなことは一切排除して、ひたすらその由来を考えるのが系譜学だった。

 

そして、フーコーの70年代が始まる。

 

1970年、フーコーコレージュ・ド・フランスの教授に就任し、アカデミズムの頂点に立つ。思えば、このコレージュというのは英語のcollege に相当するフランス語なのではないか。ドというのは定冠詞に違いない。するとこれは、「ザ・フランス大学」という意味で、随分大仰な名前なのである。ただ、面白いのはこの大学、誰でも参加できる言わばオープンセミナーのようなものを開催していたらしい。フーコーの講義もこの形式で行われた。多分、大学で一番大きな教室が使われたのだろうが、フーコーが教壇に立つときは、立見席まで含めて何百人もの聴講生で満員になったそうだ。

 

講義の内容はありきたりな「哲学の歴史」というようなものではなく、その都度、フーコーは自らの研究成果を発表していたのである。つまり、聴講生としては、世界で最高峰の、そして最新の知性を表象するフーコーその人の言葉を、生で聴いていたのである。

 

70年代のフーコーは、大学で講義を行う傍ら、デモや抗議運動などに参加していた。従って、70年代、フーコーのまとまった著作は少ない。但し、講義録の一部などは、多分、ちくま学芸文庫の「フーコー・コレクション」(全7巻)に収められている。また、フーコーの権力論は1976年に出版された「性の歴史I-知への意思」に記述されている。

 

ところで、フーコーは権力について、どのように考えていたのか。君主制や戦時中の権力というのは、暴力によって大衆の命を奪うものだった。他方、戦後の自由主義社会における権力は、大衆の命は奪わない。あくまでも生かしておく。しかし、巧妙に「知」を支配し、経済的に収奪する。そのように変化したとフーコーは考えていた。

 

前述の通り、「性の歴史」の第1巻が出版されたのは1976年のことだが、その第2巻「性の歴史II-快楽の活用」が出版されるのは、それから8年後、1984年のことである。この間に、フーコーの内部において、何らかの転換があったのではないだろうか。そしてフーコーは、主体の問題に回帰していくのである。また、カントの啓蒙主義を再評価するのである。

 

この時期のフーコーは、性道徳がどのように作られてきたのか、という点に関心を持っていた。それは例えば、キリスト教における「懺悔」「告白」の問題などと結び付けられる。そこでフーコーは、キリスト教の影響が生じる前、すなわち古代ギリシャまで視野を伸ばして、研究を続けたのである。

 

晩年のフーコーは、講義の中で「パレーシア」ということを述べたそうだ。これは師匠と弟子の関係になぞらえることができる。師匠が弟子に具体的ことを教える。しかし、それだけでは、弟子は1人立ちすることができない。そうではなくて、師匠は弟子に対して、その背後にある事柄や考える姿勢、そのようなことを教えるべきなのだ。すると弟子は、やがて師匠の力を借りることなく、自ら思考できるようになる。フーコーは、最初から、そう考えていたのである。

 

真理とは、個別的なものである。そして、ある人が自らの真理に辿り着くためには、権力と戦うことによって人格を磨き、自己変容を続けるしかない。フーコーの思想に結論があるとすれば、そういうことなのかも知れない。

 

 

フーコー年表

 

1926年(0才)                    10月15日。フーコー生まれる。

 

1942年(16才)                  哲学の勉強を始める。

 

1945年(19才)                  高等師範学校不合格。第二次世界大戦終結

 

1946年(20才)                  高等師範学校合格。

 

1948年(22才)                  自殺未遂。

 

1950年(24才)                  自殺未遂。大学教員資格試験に失敗。

 

1951年(25才)                  大学教員資格試験に合格。

 

1952年(26才)                  精神病理学高等教育終了証書を取得。

                                                リール大学文学部哲学科の心理学助手に就任。

 

1954年(28才)                  「精神疾患とパーソナリティ」を出版。

                                                  アルコール依存症になりかけ、心理療法を受ける。

 

1961年(35才)                  博士論文として書かれた「狂気の歴史」が出版される。

(狂気と非理性―古典主義時代における狂気の歴史)

 

1963年(37才)                  「臨床医学の誕生」出版。デリダが「狂気の歴史」を批判。

 

1966年(40才)                  「言葉と物」出版。

 

1969年(43才)                  「知の考古学」出版。

 

1970年(44才)                  コレージュ・ド・フランス教授に就任。初来日。

 

1975年(49才)                  「監視と処罰-監獄の誕生」出版。

 

1976年(50才)                  「性の歴史I-知への意思」出版。

 

1978年(52才)                  2度目の来日。

 

1984年(58才)                  「性の歴史II-快楽の活用」出版。

                                                  「性の歴史III-自己への配慮」出版。

6月25日、フーコー死去。(誕生日前なので、享年は57才。)

 

反逆のテクノロジー(その7) 文体について

こんなブログではありますが、4年もやっておりますと、私なりに「もっと自由に書ける文体はないか」、「もっと深く分かりやすく表現できる文体はないか」などということを考えます。小学校の頃、「だである調」と「ですます調」というのを習いました。原則として、これらをミックスするのは禁じ手なのです。しかし、このブログにおいて読者の皆様に語りかける部分は、「ですます調」にならざるを得ません。一方、こればかりだと文章にスピード感が出て来ない。そこで、このブログでは両者をミックスして使い分けるというスタイルを採ってきたのですが、果たしてそれが良いのか?

 

ところで、良い文章、優れた文体とは何かと言いますと、1つの見方としては、生き生きと情景を描写できているか、ということがあります。

 

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」

 

川端康成の「雪国」の冒頭部分ですが、これなど名文だなあと思う訳です。前にも少し書きましたが、私たちは時間と空間の中に生きております。上に引用した文章で考えますと空間についての記述が「国境の長いトンネル」と「雪国であった」という部分ですね。そして、この2つの空間に関する記述を「抜ける」という動詞で接続している。このたった一つの動詞によって、ある瞬間が表現されている訳です。暗いトンネルの中から抜け出した瞬間にまぶしいばかりの光景が目に飛び込んでくるあの瞬間のことです。こちらが、時間を説明している。この瞬間、時間を描写することによって、文章は輝いてくるのだろうと思います。

 

「古池や 蛙飛び込む 水の音」

 

この芭蕉の句にも同じことが言えます。「飛び込む」という動詞があることで、読者はある情景をリアルにイメージすることが可能となっています。

 

ちなみに芭蕉の句には「蛙」という主語が含まれていますが、「雪国」の方では「抜ける」という動詞に対応する主語が省略されていますね。ここら辺が「日本語は述語の言語である」と言われるゆえんだと思います。

 

いずれにせよ、空間を表現する名詞と、その名詞を修飾する形容詞というのは豊富にある訳ですが、そればかりでは面白くない。そこに動詞を加えることによって、優れた情景描写が可能になる。私たちの言語に「動詞」というものがあって、本当に良かったと思います。

 

ところで、あなたは「植物図鑑」と「動物図鑑」は、どちらが先に生まれたか知っていますか? ミシェル・フーコーが調査した結果によると、「植物図鑑」の方が先だったようです。

これの作り方というのは、意外と簡単なのです。まず、チェックポイントを決める。当時の人々が決めたのは、根、茎、葉、花、果実の5項目だったそうです。当時、西洋の人々はよく移動していた。アフリカへ行く、中東へ行く。アメリカ大陸を発見する。すると、各地域に珍しい植物を発見する。そして彼らは、その植物にまず名前を付けたのでした。次に、前記のチェックポイント毎に植物の様子を記述していく。そうやって、植物図鑑はできあがった。これ、とてもシンプルですね。しかし、同じことが社会的にも行われていたのです。個々の人間についてもカテゴライズして、名前を付ける。狂人、売春婦、怠け者、身体障碍者など。そして、これらの者を片っ端から収容所に収監したのです。これは、植物図鑑を作る手法に似ていないこともありません。

 

やがて西洋人は、動物にも興味を抱くようになる。植物図鑑ができたのだから、今度は動物図鑑を作ろう。そう考えたのでしょう。しかし、動物は動くので、植物のように簡単に記述することができない。例えば、魚は何故、水の中で生きていられるのだろう? そこで人々は、魚のエラに注目する。魚はエラを使って呼吸しているのだ。そういうことに気づく訳です。そこで人々は、機能に注目することになります。フムフム、動物の体というのは、それぞれ機能を持っている。そして、機能を表現するためには動詞が必要だった、ということになるのです。肺は呼吸機能を、心臓は循環機能をつかさどっている。そこで、人間の認識方法というのは、飛躍的に進歩する。

 

また、人間は頭が痛いとか、腹が痛いと言って死んでいく訳ですが、そのような人々の死体を解剖してみよう、とメスを持った医者が考えたらしい。そして、医学が進歩する。この医学の進歩は、人間の体を総体として見るのではなく、例えば、肺の専門家、心臓の専門家、胃の専門家といった具合に細分化されていくのです。

 

更に時代が進みますと、肉眼では見ない物事の本質について考えるようになります。例えば、狂人がいる。では、この人は何故、狂人になったのか。その理由なりメカニズムが分かれば、治療することが可能になるはずだ。人々は、より深く考えるようになった訳です。そこで、2つの注目すべき学問が登場する。1つは、文化人類学です。人間の起源に物事の理由があるとすれば、重要なのは古代ということになる。古代や、未だに古代人と変わらない生活を送っている無文字社会を研究すれば、人間の本質が見えてくるに違いない。そういうバックグラウンドが文化人類学にはある。2つ目は心理学です。心理学には長い歴史がありますが、無意識というものの存在を証明し、精神分析という学問を提唱したのはフロイトでした。すなわち、より古いものを研究しようとした文化人類学と、より深く考えようとしたフロイトの心理学は、その根底において、つながっていると言えるのです。そして、より古いもの、より深いものを見ていくと、そこに「構造」というものがあることが分かってくる。これが「構造主義」ということになります。

 

多くの構造主義者たちは、人間の社会や個人の心にも構造というものがあって、それを前提に人間は成り立っているので、構造の方が人間よりも上位に位置すると考えた。すると、デカルトが言った「我思う、故に我あり」とか、そういう人間中心の考え方が崩壊することになります。何かを考えようが、怠惰に過ごそうが、所詮人間は構造の中に存在しているのだから、特段の違いはない。そういうことになってしまう。

 

では、構造というものの存在を是認した上で、私たちはどう生きるべきなのか。そこで、「主体」という問題が浮上する。ここが重要で、フーコーがどう考えたのか、私も知りたいと切望している訳ですが、私の勉強はまだ、そこに辿り着いていないのです。しかし、ここまで勉強した結果を総合しますと、その答えはフーコーの遺作「性の歴史」に書いてあるはずなのです。

 

少し、整理してみましょう。まず、「名詞の時代」があった。そして、「動詞の時代」がやってくる。更に奥深くを探る「構造主義」の時代となり、最後に「主体」の問題に行き着く。フーコーの思想について、私は概ね、そんな風に考えているのです。

 

反逆のテクノロジー(その6) 他者の力

「君、今日は寒いだろ。だから、これが欲しくなるんだよ」

文芸評論家の秋山駿さんは、ホワイトホースの水割りの入ったグラスを揺らしながら、そう言って笑った。早稲田の文学部近くにある喫茶店でのことだった。寒いのに、何故、氷の入ったものを飲むのだろう。そう思ったものだが、もちろんそんなことは言えない。

 

私の隣にはもう一人、見知らぬ男子学生がいて、向かいに秋山さんが座っていた。もう、44年も前のことだが、どういう訳かその時のことは、鮮明に覚えている。私は、何とか大学祭で秋山さんの講演会を主宰しようと思っていて、その承諾をもらおうと必死だったのだ。私は法学部の学生だったが、文学部で行われている秋山さんの講義に忍び込み、教室の最後部で講義を拝聴していた。講義が終わると、いつも秋山さんは喫茶店で水割りを飲む習慣があったようで、そこに同席させてもらっていた。

 

「ところで君、他者って何だい? 他人のことかい?」

 

秋山さんは、下から睨みつけるような形相で、私にそう尋ねた。当時の文芸雑誌は「他者とは何か」という問題を頻繁に取り上げていた。まだ二十歳だった私に、そんな難しい問題が分かるはずもなかった。ソシュール記号論も、結構、話題になっていたように覚えている。今からしてみると、当時の日本の文壇は、西洋の哲学の影響を強く受けていたのだろうと思う。そして、もう1つ。秋山さんは、「他者」の問題を頻繁に取り上げる文壇に嫌気が差していたのではないか。秋山さんがいつも言っていたのは、「私とは何か」という問題だった。この問題を哲学の用語で言いかえると「主体」ということになるのではないか。奇しくもミシェル・フーコーの遺稿は「性の歴史III-自己への配慮」であり、フーコーも最後には「主体」の問題に行き着いたのかも知れない。

 

話を戻そう。「他者って、何だい?」という秋山さんの問いに、現在の私なら、次のように答えることができる。

 

「他者というのは、自己が認識することが極めて困難か、もしくは認識することが不可能な誰か、ということではないでしょうか。例えば、西洋にとって東洋は他者である。理性にとって狂気は他者である、という具合に」

 

フーコーが「狂気」に向き合った理由も、そこにあるのだろうと思う。つまり、西洋においては17世紀から、「理性」の側に立つ人間が、自らは理解できない狂気を排除してきた。そこに問題がある。しかし、19世紀の文学において、理性に対する反逆が勃発する。それは文学の世界で起こった。そのことに気づいたフーコーは、文学論に傾倒していく。フーコーは、狂気が最も見えやすい形で姿を現すのは文学だと考えていた。しかし、いつからか文学は、権力に敗北する。

 

フーコーは、次のように述べている。(文献8)

 

- 文学は、十七世紀には規範的なものとして、社会的機能に属していた。十九世紀になると、文学は反対側に移ってしまったわけですが。しかし、現在では、文学自体の一種の摩滅によって、あるいはブルジョワジーの備えている強大な同化力のために、文学というものが通常の社会的機能に復帰しつつあるのではないかと思えるのです。(中略)ブルジョワジーは、強大な適応能力をもつ体制であるということです。ブルジョワジーが文学に打ち勝つところまできているのではないかということなのです。(P.388)-

 

- 文学がこれほどまで体制内に組み込まれてしまったために、文学そのものによる体制破壊はすべて幻影と化してしまったのではないでしょうか。(P.386)-

 

結局、人間集団というのは百人いようが百万人いようが、その全員が同じように認識し、行動していたのでは、新しい文化を創造することができない。他の者とは異なる発想なり認識を持つ者が、何かを表現する。若しくは、何らかの行動を取る。他の人間がその表現なり行動に触発され、文化は前進する。この「他の者とは異なる発想なり認識を持つ者」こそが「他者」なのだ。

 

しかしながら、現代社会においては、高度な管理システムが存在する。フーコーはその管理システムを「ブルジョワジー」とか「体制」という言葉で表現した。何と言えば良いのだろう。「権力構造」とか「経済原理」と呼ぶこともできる。

 

フーコーは、他者の一類型として、道化師、ピエロ、狂人という例を提示した。ちなみにこの類型は、分析心理学のユングが元型の一類型として提示した「トリックスター」に通底している。(ついでに言えば、「寅さん」も同じだと思います。)

 

ただ、文化論の立場から言えば、他にも他者の例を挙げることができる。その1つは子供だ。子供は、未だ体制側の認識に染まっていない。例えば「王様は裸だ」と叫ぶことができる。もう1つは、野生動物である。野生動物は、人間とは別の原理で認識し、生きているのであって、今日においても彼らが何を考えているのか、それを知ることは困難だ。

 

現代社会において、他者は「権力システム」に巧妙に絡め取られてしまう。子供は学校に縛り付けられ、野生動物は動物園に監禁される。餌を求めて街中に現れたイノシシは射殺されるし、日本では毎年、何十万匹ものイヌやネコが殺されている。若い女性がいくら「瑞々しい感性で赤裸々に性の世界」を描いたとしても、その小説が賞を取って、出版社によって宣伝された時点で、作品に秘められた狂気は「経済原理」の中に沈められる。(それは狂気ではなく、正常な経済活動だとみなされる。)かつては反体制の旗手として崇められたローリング・ストーンズの楽曲も、今ではトランプの選挙活動に利用されている。(この点、ミック・ジャガーはトランプ陣営に抗議した。)

 

こうして現代文明は、他者を殺し続けたことによって、他者の力を失ったと言う他はない。何と言う皮肉だろう。本稿のしめくくりとして、フーコーの言葉をもう一度引用させていただこう。(文献8)

 

- 文学において新しい境地をひらくためには、狂気を模倣するか、またはじっさいに狂気になる必要があると言えそうです。(P.417)-

 

(参考文献)

文献8: フーコー・コレクション1 狂気・理性/ミシェル・フーコーちくま学芸文庫/2006

反逆のテクノロジー(その5) 狂気への眼差し

皆様は「狂気」という言葉を聞いて、どのような印象をお持ちになるでしょうか。では、「狂人」と言った場合はどうでしょうか。できれば触れたくない、関わりを持ちたくない、とお感じになるのではないでしょうか。しかしフーコーの場合は、違ったようなのです。

 

正確な時期は分からないのですが、1950年代の半ばと言いますから、まだ20代の後半だった若きフーコーは、リール大学で助手を務める傍ら、パリのサン-タンヌ病院の精神科で精神医学を研究していました。(文献2)医師でも患者でもないフーコーは、言わば傍観者的な立場で、精神科の現場に身を置いていた訳です。そして、フーコーをうちのめしたのは、「監禁する側もされる側も、それがあたかも当然であるかのように過ごしている姿」だったそうです。同じ人間なのです、医師も患者も。それが一方は監禁する側に回り、他方は監禁されることを甘受する。何か、おかしい。そして、若きフーコーは医師が理性を、患者が狂気を象徴していることに気づく。すなわちパリの精神病院において、フーコーは理性と狂気(非理性)の対立構造に直面したのでした。何故、そうなっているのか。一体、いつからそのような構図が生まれたのか。フーコーは、そのことを研究しようと考えた。この着想が、フーコーの博士論文として世に出されることとなる「狂気と非理性-古典主義時代における狂気の歴史」(“狂気の歴史”)へつながっていく。

 

フーコーの研究結果(文献8)は、概ね、以下の通りです。

 

<16世紀頃まで>

欧州において、狂人の存在は許容されていた。貴族社会において、道化師が存在していた。(この道化師がサーカス団にいる“ピエロ”の原型だと、何かの本に書いてあったように記憶しています。)

 

<17世紀>

大きな断絶が起こる。産業社会が形成され始めると共に、狂人の存在が許されなくなった。フランスとイギリスで、大規模な収容施設が作られ、狂人、失業者、不具者、老人、怠け者、売春婦などが収容された。パリでは、人口25000人中、6000人が収容された。これは全人口の24%、すなわち概ね4人に1人が収監されていたことになる。そして、実社会から狂人が消えたことに伴い、17世紀半ば、欧州の文学の世界からも狂人が消え去る。

 

<18世紀の終わり頃>

フランスでは1793年、狂人以外の者は施設から解放された。狂人は病人とみなされるようになる。イギリスでは、精神病院が作られる。

 

<19世紀の初め>

性的な逸脱は、狂気と同じものと考えられるようになる。大詩人たちのエクリチュールの下から、狂気に陥る危険が湧き出てくる。

 

上に記した事項は、単純なように見えて、実はそうではない。まず、16世紀があった。これは欧州においては、ルネッサンス期だった訳ですが、この頃まで、狂人は通常人と生活空間を共にしていた。手に余る場合は、村はずれに小屋を建てて、狂人をそこに住まわせるようなこともあったようですが、原則的に両者は共に暮らしていたようです。時として、通常人は狂人を笑いのネタにしていたのだろうと思います。但し、狂人はそれと意識することなく、真理を語る場合がある。従って、ある側面を取り上げれば、狂人は人間社会に必要とされていたとも言えます。

 

そして、1回目の歴史の不連続性、断絶というものが17世紀に生じる。言うまでもなく、このフーコーの着想は、エピステモロジーから来ている訳です。産業社会が生まれ、狂人をはじめとする「働かない者」を排除しようとする風潮が生まれる。

 

18世紀の終わり頃になると、それまで収監されていた「働かない者」が分別され、狂人だけが収監の対象となる。怠け者や売春婦は、強制すれば働くことができる。強制しても働けないのは狂人だけだ、ということでしょうか。そして、それまでの収監施設は、精神病院へと変容する訳です。つまり、この時点をもって若きフーコーがパリのサン-タンヌ病院で直面した医師と患者の対立構造が生まれたことになります。

 

そして、興味深いのが「19世紀の初め」なのです。梅毒に対する恐怖心の影響などもあって、性的逸脱は狂気と同じものと考えられるようになります。また、狂人というのは病人なのだという認識が生まれ、精神病院ができて、精神医学が発達する。狂人は精神病院に隔離されるのですが、狂気や狂人は何故か、文学の世界で復活する。私には、そこに隠された意味があるのではないかと思えてなりません。フーコーは「言葉と物」(文献3)の中で、マルキド・サドについて語っている。サドはサディズムの語源となった人物で、倒錯した性の世界を文学の世界に持ち込んだ人物です。ネットで調べてみますと、サドの代表作「悪徳の栄え」が発表されたのが1801年とのこと。正に「19世紀の初め」のことだったのです。

 

確証は得られていませんが、マゾヒズムについて描いた谷崎潤一郎ですが、実はサドの影響を受けていたのではないか。存命期間は、それぞれ次の通りです。

 

・マルキド・サド・・・1740-1814

谷崎潤一郎・・・・・1886-1965

 

谷崎はともかく、三島由紀夫がサドを読んでいたことは明らかです。三島は「サド侯爵夫人」という戯曲を書いているので。世界的な文学の潮流があって、それが近代日本文学の最盛期に影響を及ぼしていた。そんな気がするのです。

 

ちょっと脱線してしまいました。私が注目している最大の点は、17世紀に実社会の中から消し去られた「狂気」が、19世紀になって文学の中で復活した、という点なのです。このことをご理解いただくためには、2つの事柄を説明する必要がありそうです。

 

第1に、私は「人間社会にとって、狂気は必要なものだ」という考えを持っている訳です。私が注目している古代において、狂気は明確な形で存在していたのです。古代人は、三日三晩踊り続けることによって、もしくは幻覚をもたらす薬草によって、トランス状態に入る。つまり、心身共に狂気の世界へと立ち入る訳です。そして、精霊や先祖の霊や神の声を聞く。これが儀式となる。この儀式によって、人々は重要な意思決定を下したり、部族の結束を強めたりしていたのだろうと思います。やがてトランス状態に入ることが得意な者が出現する。そして彼、又は彼女がシャーマンとなり、集団を統率していく。こうしてシャーマニズムという社会秩序が誕生し、運営されていたのだと思います。このような人間集団における現象は、今でも大規模なロックコンサートやライブハウスにおいて、再現されているのです。何故か。それは、人間社会が狂気を必要としているからだと思うのです。狂気というのは、人間社会における緊張感を緩和し、芸術を生み出し、文化を前進させる力を持っている。だから必要なものだ、と思うのです。(この点、既にこのブログで詳細を述べていますので、これ以上の説明は割愛します。)

 

第2の点ですが、どうも文化というものは内発的な治癒力を持っている。人間の文化というのは傷を負ったり危機に瀕したりすると、なんとか回復しようとする内的なメカニズムを持っているのではないか。私たちの身体は、外傷を負うと出血します。そして、その血が凝固して、外部から細菌などが侵入することを防ぐ。そして身体は、治癒に向かう。人間の文化には、そういう自発的な治癒力があるのではないか。この点、仮説の域を脱しませんが、私はそう思っている訳です。「文化には内発的な治癒力がある」。私は、こういうテーゼと向き合ってきた訳です。

 

2つのテーゼを並べてみましょう。

テーゼ1: 人間社会にとって、狂気は必要なものである。

テーゼ2: 文化には、内発的な治癒力がある。

 

これで、フーコーが提示した問題を考えてみますと、次のようにまとめることができる訳です。

 

  • 古代より、人間社会は狂気と向き合ってきた。
  • 何故なら、人間社会にとって、狂気は必要なものであるからだ。
  • しかし、17世紀に人間は狂気を閉じ込めてしまった。
  • 文化には内発的な治癒力があり、この力が働いて、19世紀になると狂気は文学の世界において復活した。

 

そういう仮説を立てることができるのではないでしょうか。

 

最後に、フーコーの言葉を引用します。「狂気は社会の中でしか存在しない」と題された対談から。(文献8、P. 203)

 

- 結局、それぞれの文化は、それに似つかわしい狂気を持つことになるのです。-

 

フーコー、おそるべし!

 

 

文献1: FOR BEGINNERS フーコー/Cホロックス/白仁高志訳/現代書館/1998

文献2: フーコー今村仁司・栗原仁/清水書院/1999

文献3: 言葉と物/ミシェル・フーコー渡辺一民佐々木明訳/新潮社/1974

文献4: ミシェル・フーコー、経験としての哲学/阿部崇/法政大学出版局/2017

文献5: ミシェル・フーコーの思想的軌跡/中川久嗣/東海大学出版会/2013

文献6: 図説・標準 哲学史/貫 成人/新書館/2008

文献7: 哲学中辞典/尾崎周二 他/知泉書館/2016

文献8: フーコー・コレクション1 狂気・理性/ミシェル・フーコーちくま学芸文庫/2006

 

反逆のテクノロジー(その4) エピステモロジー(科学認識論)とは何か

ここで、若き日のフーコーを取り巻いていた思想界の状況を見ておくことに致します。

 

まず、エピステモロジー(科学認識論)ということがある。これが何か、良い解説文がなくて探していたのですが、意外にも哲学の入門書(文献6/末尾参照方)にそれを発見することができました。

 

一般に、自然科学というのは段階を経て、少しずつ進化するものだと思われているのではないでしょうか。つまり、去年よりは今年、今年よりは来年の方が少しだけ進んでいる。そして、そのような歴史が連綿と続いてきたのだろう、ということです。このような考え方に反し、そうではなくて自然科学というのは「非連続」に進化してきたのだ、と考える人たちがいた。そのような思想がフランスにあって、それを理論化したのが、以下の2人です。

 

ガストン・バシュラール(1884-1962)

・ジョルジュ・カンギレム(1904-1995)

 

このような考え方がエピステモロジーと呼ばれるもので、フランスに起源があるため、「フランス科学認識論」と訳される場合もあります。

 

バシュラールによれば、アインシュタイン相対性理論ニュートン力学の延長線上でとらえることはできない。

 

ニュートン力学・・・質量は一定量の物質との関係で定義され、速度は質量の関数である。

 

アインシュタイン相対性理論・・・質量は速度の関数である。

 

文化系の私には、何のことやらさっぱり分かりませんが、それらが根本的に異なることは、何となくイメージできます。文献6から引用させていただきます。

 

- カンギレムがとりあげるのは生命科学だが、そこでは、たとえば「正常」と「異常」に関する逆転が生じた。19世紀において、正常(健康)と異常(疾患、病的)との相違は数量的に捉えられ、異常は、統計的な平均値からの偏差とされた。両者の関係は連続的で、正常な身体の「生理学」をもとに病的なものを知りうると考えられた。ところが、身体が認識対象として浮上するのは疾患においてであり、健康とは身体諸器官が沈黙していることである。また、統計的平均値から外れているとしても、環境との関係においては正常となりうる。(中略)こうしてみるならば、疾患のあることは、けっして身体にとって異常なことではなく、むしろ、いかなる不健康をも経験しない者はかえって有害な結果をまねく。生体は、開放的システムであり、疾患や障害を克服して新たな平衡状態を作ることこそが健康である。こうして、統計的平均値という正常(健康)の規範があらかじめあるのではなく、むしろ各生体は、規範を創造するシステムであることになる。-

 

少し、私なりに解釈してみましょう。例えば、人間が風邪をひいて39度の熱が出たとする。19世紀においては、これは人間の体温の平均値よりも高いので、「異常」だということになる。しかし、20世紀になると、風邪をひいたのだから高熱が出るのは当たり前なのであって、高熱が出るというのは人間の身体における防御システムが作動していることを意味している。従って、風邪をひいて39度の熱が出たとしても、それは「異常」ではない。むしろ、風邪をひいているにも関わらず、高熱の出ない人がいたら、そちらの方が「異常」である。すなわち、19世紀と20世紀の間には明確な認識の断絶、「不連続」が認められる。この科学の「非連続性」こそが、エピステモロジーの本質なのだ、ということになります。

 

なるほど、そういうことは沢山ある訳で、私などはすぐに天動説から地動説への転換、ダーウィンの進化論などを思い浮かべるのですが、この話、何かに似ていませんか? そう、このブログで何度か取り上げてきたフーコーの「エピステーメー」という考え方につながっているのです。文献6によれば、エピステモロジーという考え方はアルチュセールに引き継がれ、更にフーコーによって継承されたそうです。実際、フーコーの「言葉と物」には、同じような「非連続性」に関わる話が多く出てきます。

 

なお、エピステモロジーは自然科学の領域に限定された話なのですが、フーコーはこの原理をもっと広く、人間社会全体に適用させたのだろうと思います。

 

もう少し、フーコーの若き時代の思想環境を見てみましょう。そこで、主要な思想家たちの存命期間一覧を以下に示します。

 

カール・マルクス/1818-1883/ドイツ

フリードリヒ・ニーチェ/1844-1900/ドイツ

ジークムント・フロイト/1856-1939/チェコユダヤ系)

フェルディナン・ド・ソシュール/1857-1913/スイス

カール・グスタフユング/1875-1961/スイス

ジャン・ポール・サルトル/1905-1980/フランス

レヴィ=ストロース/1908-2009/フランス(ベルギー生まれ)

ルイ・アルチュセール/1918-1990/フランス

ミシェル・フーコー/1926-1984/フランス

ジャック・デリダ/1930-2004/フランス

 

フーコーが「精神疾患とパーソナリティ」を出版した1954年(28才)を基軸に見てみますと、マルクスニーチェフロイトは既に他界しています。ただ、他の思想家同様、これら3人のビッグネームからフーコーも多大な影響を受けたようです。フロイトは心理学、精神分析学の専門家ということで、哲学の分野と同列にこれを語ることはできないような気もしますが、当時、心理学は哲学の一分野と捉えられていたのではないでしょうか。実際、フーコーは1952年(26才)に精神病理学高等教育終了証書を取得し、リール大学文学部哲学科の心理学助手に就任しています。つまり、文学部があって、哲学科があり、その中に心理学を専門に扱うセクションがあった、ということだろうと思います。

 

1954年当時ということを考えますと、サルトルは現役でバリバリ活躍していたのです。サルトルと言えば、実存主義ですが、その内容を少し見てみましょう。再び、文献6から引用させていただきます。

 

- サルトルによれば、個人に関しては、そのあり方(本質)がさだまる以前に、だれもがつねにすでに現実に存在していることになる。つねにすでに現実に存在している各自のあり方を「実存(existence)」とよぶ。こうしてサルトルは「実存は本質に先立つ」と述べる。(中略)その本質が定まらず、とりあえず現実に存在している各実存は基本的に「自由」である。ただし、なんの指針もない状態で、すべてが自分の選択に委ねられるという状況はむしろ苦痛である。自由は伝統的に、実現すべき理想と考えられていたが、サルトルにおいては逆に、だれもが巻き込まれた事実であり、しかもかならずしもありがたいものでもない。サルトルによれば、「人間は自由でなくなる自由はない」。-

 

そう言われてみますと確かにそうだな、と思う点はあります。人間は、気が付いたときには既にこの世に存在している訳ですが、自分が何者なのかは、なかなか分からない。また、私の人生経験からしても「自由を嫌う人たち」というのは少なからず存在します。例えば、何らかの宗教を信じている人。伝統や規律を重んじる人。しかし、私自身はと言うと、自由を希求している訳で、特に思想や表現の自由を大切に思って生きてきました。してみると、実存主義ってちょっと違うなあ、と思ったりもする訳です。

 

また、「人間は自由である」というテーゼに立つ場合、その基礎となるのは「意識」ということになる訳です。すると、サルトルにとって都合の悪い人物がいた。それが、フロイトだったのです。フロイトは人間の無意識や夢に注目した。人間の心の中には無意識の領域があって、その領域は意識よりもはるかに大きい。そして、この無意識が原因となって諸々の精神疾患が引き起こされる。フロイトは、そう主張したのです。そこで、サルトルフロイトと相容れないことになる。実際、サルトルは、次のように述べたそうです。(文献4)

 

- 多くの場合、彼(フロイト)が使う言語は無意識というある種の神話を生み出すものであり、わたしはそれを受け入れることはできません。わたしは、事実としては、偽装とか抑圧とかの事実(fais)について、全面的に同意できます。けれども「抑圧」、「検閲」、「欲動」といった用語については ―それらはあるときには一種の目的性をあらわし、つぎのときには、一種のメカニズムをあらわすのです― わたしはそれを拒絶します。-

 

しかし、やがてサルトルにとっては、更なる強敵が現われる。それが、構造主義だと言って良いでしょう。「人間は自由である」とする実存主義に対して、人間や人間社会を動かしている構造というものが存在するのであって、人間は構造から脱出することができない、と考えるのが構造主義だからです。元祖構造主義と言っても良いレヴィ=ストロースは、その主著「野生の思考」の中で、サルトル批判を展開しています。これは、1962年のことですが。

 

いずれにせよ、若きフーコーを取り巻くフランスの思想界における状況というのは、とても活発で、華々しいものだったと言えるでしょう。フーコーよりも8才年上だった師匠のアルチュセールは、構造主義者であり、マルクス主義者でもあった。実際、フーコーアルチュセールの勧めにより、1950年にフランス共産党に入党しています。(後年、矛盾を感じて退会しました。)そして、哲学の世界にはフロイトが大きな影響を及ぼしており、それに対抗する実存主義があった。更に、エピステモロジーがあった訳で、今更ながら「フーコーよ、何処へ行く?」と問い掛けたくなります。

 

追記)先の原稿で、当時のフランスにおいて、男同士でダンスをすることは禁じられていた、と記載しましたが、これは宗教上の戒律ではなく、法律によるものでした。(文献1)

 

(参考文献)

文献1: FOR BEGINNERS フーコー/Cホロックス/白仁高志訳/現代書館/1998

文献2: フーコー今村仁司・栗原仁/清水書院/1999

文献3: 言葉と物/ミシェル・フーコー渡辺一民佐々木明訳/新潮社/1974

文献4: ミシェル・フーコー、経験としての哲学/阿部崇/法政大学出版局/2017

文献5: ミシェル・フーコーの思想的軌跡/中川久嗣/東海大学出版会/2013

文献6: 図説・標準 哲学史/貫 成人/新書館/2008

反逆のテクノロジー(その3) 狂気に愛された哲学者

ミシェル・フーコーは、ゲイだった。多くのアカデミックな文献は、あまりそのことに触れていない。私は、たまたま手にした「FOR BEGINNERS」という入門書によって、そのことを知った。この本には、かなり生々しい記述がある。フーコーの遺作は「性の歴史」というシリーズ化された論文だった。これは全6巻を予定していたが、3巻まで発行されたところで、フーコーエイズで死んでしまう。57才だった。

 

ゲイだからと言って、何が悪いということではない。文化人類学の本を読めば、いつの時代でも、どこの民族にもLGBTが存在したことは明らかだ。最近は、日本人の13%がLGBTだというデータもある。反対に、ゲイだからと言って、何か特別ほめるべきことでもない。

 

しかし、フーコーが生きた時代のフランスにおいては、男同士でダンスをすることは禁止されていたらしい。それがキリスト教の戒律によるものなのか、法律によるものだったのか、その点は判然としないのだが。いずれにせよ、フーコーがゲイであることによって苦しんだことに疑いはない。フーコーは「高等師範学校」と呼ばれる超エリートだけが集う学校に入学していたにも関わらず、22才の時に自殺未遂を図っている。そして自殺未遂は、24才の時にも繰り返される。この時、フーコーに援助の手を差し伸べたのは、担当教授のアルチュセールだった。マルクス主義者のアルチュセールは、後年、精神錯乱を起こし、自ら妻を殺害してしまう運命にある。教授のアルチュセールと学生のフーコー。当時のフランスには、狂気と隣接するところまで突き詰めた雰囲気があったのだろうか。

 

フーコーは自らの内部に狂気を見ていたのではないか。そして、フーコーはその狂気と真摯に向き合った。狂気とは、理性が排除した他者であるに過ぎないのではないか。そう考えたフーコーは、歴史を検証する。そして、「狂気の歴史」が出版される。これはフーコーが博士論文として書いた論文。(正確なタイトルは「狂気と非理性-古典主義時代における狂気の歴史」というもので、「狂気と非理性」と略される場合もある。)

 

40才になったフーコーは、「言葉と物」を発表した。1966年のことだ。これが当時のフランスで、飛ぶように売れたらしい。「まるで菓子パンでも買うように、人々はこの難解な哲学書を購入した」と語り継がれている。フーコーを世に知らしめたのは、この「言葉と物」で、その5年後、45才のフーコーコレージュ・ド・フランスの教授に就任する。そのことは、フーコーがフランスにおけるアカデミズムの頂点に達したことを意味していた。

 

しかし、フーコーの思索が留まることはなかった。そこからフーコーは、知と権力の関係を検証する。一般的には、この時期の「権力と戦うフーコー」というイメージが定着しているらしい。そして、50才になったフーコーは、「性の歴史I-知への意思」を出版する。

 

このように見て来ると、フーコーの思想なり人生には、一貫した何かがあったように思えてくる。マイノリティとしてのフーコーは、多分、「間違っているのは自分ではなく、世界の方だ」と思っていたのではないだろうか。フーコーは狂気を排除した理性を否定し、欧州の歴史を覆し、あらゆる権力に反逆を試みたのだ。それは、孤独な闘いだったに違いない。しかし、現在の世界におけるLGBTに対する人権意識の変化を見ると、フーコーはその戦いに勝利したのだろうと思えてくる。フーコーの人生とは、正に芸術作品のようだと思う。

  

フーコー年表

 

1926年(0才)                    10月15日。フーコー生まれる。

 

1942年(16才)                  哲学の勉強を始める。

 

1945年(19才)                  高等師範学校不合格。第二次世界大戦終結

 

1946年(20才)                  高等師範学校合格。

 

1948年(22才)                  自殺未遂。

 

1950年(24才)                  自殺未遂。大学教員資格試験に失敗。

 

1951年(25才)                  大学教員資格試験に合格。

 

1954年(28才)                  「精神疾患とパーソナリティ」を出版。

                                                  アルコール依存症になりかけ、心理療法を受ける。

 

1961年(35才)                  博士論文として書かれた「狂気の歴史」が出版される。

            (狂気と非理性―古典主義時代における狂気の歴史)

 

1963年(37才)                  「臨床医学の誕生」出版。デリダが「狂気の歴史」を批判。

 

1966年(40才)                  「言葉と物」出版。

 

1969年(43才)                  「知の考古学」出版。

 

1970年(44才)                  コレージュ・ド・フランス教授に就任。初来日。

 

1975年(49才)                  「監視と処罰-監獄の誕生」出版。

 

1976年(50才)                  「性の歴史I-知への意思」出版。

 

1978年(52才)                  2度目の来日。

 

1984年(58才)                  「性の歴史II-快楽の活用」出版。

                                             「性の歴史III-自己への配慮」出版。

             6月25日、フーコー死去。(誕生日前で享年は57才。)

 

(参考文献)

文献1: FOR BEGINNERS フーコー/Cホロックス/白仁高志訳/現代書館/1998

文献2: フーコー今村仁司・栗原仁/清水書院/1999

文献3: 言葉と物/ミシェル・フーコー渡辺一民佐々木明訳/新潮社/1974

文献4: ミシェル・フーコー、経験としての哲学/阿部崇/法政大学出版局/2017

文献5: ミシェル・フーコーの思想的軌跡/中川久嗣/東海大学出版会/2013