文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

領域論(その15) 自己領域 / 私とは何か

 

長い道のりを経て、とうとう私も、この永遠の問いとで言うべき論題に辿り着いた。その論題とは、「私とは何か?」という単純な設問のことである。

 

この話、一体どこから始めればいいのか私にもよくは分からないが、とりあえず「時間」について、記述してみることにしよう。まず、過去の時間というものがある。それは、138億年前のビッグバンまで遡る訳で、これはもう想像を絶するほど永い。確かにそれはとても永いが、しかし、昨日という日もあった訳で、その延長線上で考えれば、理解できないこともない。また、未来という時間もある。それがどれだけ続くのか、それは誰にも分からない。しかし、こちらも明日という日があって、それがずっと続くと考えれば、分からないでもない。しかし、時間にはもう1つの概念がある。それは、「現在」である。138億年も続いてきた過去という時間と、ほとんど永遠とも思える未来という時間がせめぎ合うその瞬間が、現在なのである。そして、私たちは常にこの現在という時間を生きている訳だ。これほど不思議なものはない・・・と私は思う。

 

そして、「私」の中には、この摩訶不思議な現在という時間に付き合っている部分がある。それを意識と呼んでもいいと思う。私たちは常に現在という時間の中で、何かを欲し、何かを恐れ、近未来に起こるであろう何かを想像しながら生きている。私たちは毎日、食欲を満たそうとしているし、例えば、地面がグラッと揺れるとそれを地震だと認識し、更に大きな揺れが来るかも知れないと想像し、怖れる訳だ。

 

そして、私たちは現在という時間の中で、何かをやってみようとか、何かを捨てようとか、意志することもある。私であれば、この領域論なる原稿を書いてみようとか、ロックバンドをやってみようとか、そういうことだが、意志を決定するに際しては、過去の経験などに拘束されることになる。このブログにおいて、私は、既に3千枚を優に超える原稿を掲載してきたし、それは私にとって左程、苦痛を伴うものではなかった。従って、この領域論を書き上げることができるであろうという自信があったので、始めたのである。他方、私が今からロックバンドをやれるかと言えば、それは過去の経験からして、とても無理だという結論になる。曲を書いて、バンドで練習してという作業には、膨大なエネルギーが必要なのである。そのことを経験上、私は知っているし、現在の私にそのようなエネルギーは残されていない。このように、現在を生きる意識や意志は、過去に拘束されているに違いない。

 

ここで理解を助けるために、一つのたとえ話をしよう。これをちなみに、「荷車を曳く人」と名付ける。

 

ある人が荷車を曳いているとしよう。荷車は、リヤカーと言い換えても良い。荷車には沢山の荷物が積んである。それを曳くのは、難儀だ。特に上り坂では。

 

短くて恐縮だが、「荷車を曳く人」は、以上である。

 

この話における荷車を曳いている人とは、現在の意識である。そして、荷車に乗っている重い荷物とは、現在の私を拘束する過去の遺物のことである。そして、それらの総体が、すなわち「私」なのだ。荷車に乗っている過去の遺物、それを無意識と言い換えても良い。

 

そもそも、「私」が「私」について考えるとは、どういうことなのだろう。主体と客体が同一なので、この仕組みを理解することは困難だと思う。しかし、「荷車を曳く人」になぞらえて、荷車を曳いている人が振り返って、荷車に積載されている重い荷物について考える、という風に考えてみればどうだろう。これで、主体と客体を分離することができる。

 

蛇足かも知れないが、このように考えると次のことが分かる。つまり、「荷車を曳く人」を救済するには、2つの方法があるということだ。1つには、荷物を軽くするという方法だ。これを目指すのが、1つには、宗教だと言えるのではないか。もう1つの救済方法は、荷車を曳く人自身の足腰を鍛えるという方法である。その方法の1つが、すなわち哲学である。

 

ちなみに、「主体」という言葉を哲学用語辞典で調べてみると「主体とは行為や意志の発動者」であると記されている。上の例で言えば、荷車を曳く、その人自身を「主体」と呼ぶことになる。

 

それでは、まとめてみよう。主体とは、現在を認識しようとする意識のことであって、そこには常に欲望や恐怖がある。また、主体は想像力によってあらゆる記号を認識しようと努めているに違いないのだ。主体は、何らかの行為について意志決定を下す。そして主体は、身体と共にあると思う。西洋の思想においては、身体と精神とは別だと考えるようだが、他方、東洋の思想においては、これらを同一視する傾向が強いように思う。私は、東洋思想の方が正しいと思う。意識と共に、私の体は振り向いたり、立ち上がったりするのだから。

 

加えて、主体を構成する重要な要素として、「言葉」を挙げることができる。これは内心を構成するのであって、発話されるとは限らない。従って、パロール話し言葉)とは異なる。また、内心の言葉は記述される訳でもない。従って、エクリチュール(書き言葉)とも異なる。まさに、「言葉」と言う他はない。

 

次に、荷車に載った重い荷物であって、無意識に属する事柄を、ここでは「自己領域」と呼ぶことにしよう。そこには、膨大な知識があり、過去の経験や、経験に基づく記憶が潜んでいる。過去に失敗した経験などが、コンプレックスとして主体に影響を及ぼしている。そして、眠ると人は無意識に影響された夢を見る。その領域を更に掘り下げていくと、そこには狂気が潜んでいるに違いない。

 

さて、うまくできたかどうかは別として、これで7つの領域と「主体」について、定義することができた。すなわち私たちは、8つの積み木の木片を手に入れた訳だ。これを組み合わせることによって、様々な、形を作ることができるだろう。主体があって、その主体が7つの領域を巡る。これは、私たちの人生の、私たちの文明の、私たちが生きている世界のメカニズムであるはずなのだ。

 

 

<領域論/主体が巡る7つの領域>

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失

自己領域・・・無意識、知識、経験、記憶、コンプレックス、夢、狂気

(主 体)・・・意識、欲望、恐怖、想像力、意志、身体、言葉

 

領域論(その14) 喪失領域

 

人間を集団で見た場合の5つの領域については、既に述べた。しかし、それだけではどうしても説明し切れない現象が、人間の世界には存在する。それを私は、「喪失領域」と呼ぶことにした。この領域においては、境界線というものが失われるのだ。善と悪、生と死、永遠と刹那。これらの間の境界線が失われるということは、すなわち認識するということ自体が消失するのであって、その状態はカオスと言って良い。

 

アフリカのサバンナや南米のジャングルにおける野生動物の生態を見ていると、彼らの世界に境界線を見つけることは困難だ。そこは弱肉強食の世界であって、生と死は隣接している。そこにあるのは動物たちが発するエネルギーだ。彼らは、必死に生きようとする。何の境界線も存在しないそのような世界の中で、ただ、エネルギーだけが存在するのだ。人間もかつてはサルだった訳で、そのようなカオスの中で生きていたに違いない。すなわち、この喪失領域は、原始領域よりも古くから存在するはずなのである。そしてそれは、今日においても生き続けている。

 

では、人間社会のどのような場面において、この喪失領域がその姿を現出させるかと言えば、それは、芸術の世界において、と言うことができる。

 

絵画の世界で言えば、例えばジャクソン・ポロックの作品にそれは描かれている。そこに美しい自然は存在しないし、人間も登場しない。形すら姿を消し、もっぱら色彩と線だけが描かれている。作品には、画家が投じた鮮烈なエネルギーが投影されており、そこに秩序を見出すことはできない。

 

 

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 ジャクソン・ポロック / ブルー・ポールズ

 

 

音楽の世界で言えば、フリージャズと呼ばれたオーネット・コールマン、後期のジョン・コルトレーン、1970年前後のマイルス・デイビスなどの演奏を挙げることができる。

 

喪失領域は、文学の世界にも登場する。川端康成の「眠れる美女」という作品を取り上げてみよう。随分と昔に読んだ作品だが、記憶を辿ってみることにする。舞台は、会員制秘密クラブを運営する旅館である。特殊な睡眠薬を飲んだ若い女性が、布団で眠る。そこへ会員となっている老紳士がやってきて、添い寝をするのである。行為に及ぶことは、禁じられている。そのことを保証するために、会員になるにはそれなりの高齢者で、紳士であることが要件とされている。添い寝をする老紳士は、舐めるように眠れる美女を見つめる。そして、美女が眠りから覚める前に立ち去らなければならない。なんという淫靡な作品であろう。

 

通常、眠っている美女と老紳士という組み合わせは、成立しない。その両者の間の境界線を取り払った所で、この作品は成立している。とても反道徳的な作品だとは思うが、作品の中でそのようなことは、一切語られない。善も悪もないのだ。

 

「境界線の喪失」という観点で言えば、それは三島由紀夫の「金閣寺」にも描かれている。これは吃音に悩む若い僧侶が、金閣寺に放火するという事件を描いた作品である。金閣寺は圧倒的な美を誇る文化遺産であって、人に触れられることを拒絶するだけの崇高な美を誇っている。この金閣寺と若い僧侶との間には、目には見えない強固な境界線が引かれていたに違いない。その境界線を、主人公である僧侶は火を放つという行為によって、超えてみせたのである。若い僧侶という個別的な存在と、金閣寺という普遍的な象徴とが交錯するのだ。そして作品の最後は、主人公が煙草を吸いながら「生きようと思った」という一文で締め括られる。そこに合理性は、存在しない。認識することを拒絶した主人公の生き様が、描かれているに過ぎない。

 

上に述べたような境界線を喪失した領域は、ごく稀にではあるが、現実世界においても登場する。そもそも「金閣寺」自体、現実に発生した犯罪事件に着想を得たものだし、今日においても理由の分からない犯罪事件は、新聞の3面記事において、紹介され続けている。通り魔と言えば、お分かりいただけるだろう。犯行の動機について犯人たちは「誰でもよかった」などと言うのである。そこに合理性はない。認識不可能なのである。犯人自身にとっても、私たちにとっても。

 

時間と空間とがあって、そこにエネルギーだけが存在する。そのような領域を記してきた訳だが、エネルギーさえもが消失した世界も存在する。自殺である。理由の判然とした自殺も存在するであろうが、多くの場合、合理的な理由をそこに発見するのは困難なのではないか。自分が何故、自殺をするのか。その理由を合理的に記した遺書が発見された、という話は聞いたことがない。もしそれを論理的に記そうとすれば、原稿用紙100枚でも足りないのではないか。そして、そのような遺書を書くことのできる人は、そもそも自殺などしないような気がする。理由の分からない自殺。その瞬間、彼らは生と死、永遠と刹那の間にある境界線を越えるのである。

 

さて、これで7つの領域のうち6つまでを記述したことになる。これら原始領域から喪失領域までを総称して、「文明」と呼んでいいと思う。

  

<領域論/主体が巡る7つの領域>

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

喪失領域・・・境界線の喪失、カオス、犯罪、自殺、認識の喪失

自己領域・・・

 

領域論(その13) 秩序領域

 

権力が、秩序をもたらす。そのことを端的に示すのが、この「秩序領域」である。

 

その外観に注目して、人間は植物図鑑を作った。そして、それぞれの機関が持っている機能に注目し、人間は動物図鑑を作った。そのようにして、ある総体を要素に分解することによって、人間は認識能力を向上させてきたのだ。それは、主に自然科学の分野で成果を挙げたに違いない。しかし愚かな人間は、その手法を人間自身にも適用させようとしたのではないか。そして、監獄が生まれる。その経緯は、フーコーの「監獄の誕生」に詳しい。

 

人間はまず、働くことが可能か否か、という点で区分けされたのである。そして、監獄のシステムが誕生する。これはまず、囚人を1か所に集める所から始まり、次に時間割に従って、囚人を訓練するのだ。すなわち、空間、時間の双方において、人を管理するのが監獄システムだと言える。そこでは厳しい規律が定められ、監視される。そして、規律に従わなかった囚人には、処罰が加えられる。

 

18世紀の中頃、イギリスで産業革命が起こり、工場で働く労働者が急増する。やがて、工場労働者の生産性や技術はテストされることになる。テストで優秀な成績を収めた者の賃金は上昇し、そうでない者は落ちこぼれていく。軍隊や学校、そして企業も同じだろう。どれも似たようなシステムによって管理されている。

 

これらシステムの内部において、人間は階級によって認識される。集団やシステムにとって都合の良い尺度でテストが行われ、その結果に応じて、階級が決定されていく。このような集団を組織と呼んでもいいだろう。組織には組織の論理があるのであって、個々人の主体性は排除されていく。上意下達なので、個人の思想が醸成されることは、ほとんどないだろう。集団が認識する自己(階級)が、自己認識となる。階級が、主体を凌駕する訳だ。

 

この監獄システムは今日においても生きていて、それは政党、官僚組織、企業、大学の運動部、自衛隊などにおいて採用されている。統一されたルールを定め、その中で人間を戦わせる。そして、序列を決めるという点において、オリンピックはこの監獄システムの一例だと思う。そこに、個人の自由や主体の独立性は認められない。

 

これはどう考えても、人間にとって過酷なシステムであるに違いない。既に、様々な組織においてそのほころびが見え始めている。自民党においては、老害が顕在化している。官僚組織においては、離職率が上がっている。企業においては、フレックスタイム制が導入され、現在はコロナの影響で在宅勤務が浸透しつつある。自衛隊においても、採用が難しくなりつつある。

 

また、監獄システムは別の理由によっても変容を遂げているに違いない。工場労働を例にとって考えると、まず、人間が機械を操作し、その人間を監督者と呼ばれる他の人間が監視していた訳だ。やがて、オートメーション化が進み、原則的には何でも機械が行えるようになる。すると、人間は、機械が正常に作動しているか、それを監視すればよくなる。更に時代が進むと、工場に大量のロボットが導入される。ロボットの構造は複雑なので、人間にはこれを監視することが困難である。そこで、コンピューターがロボットを監視する。

 

人間 → 人間

人間 → 機械

コンピューター → ロボット

 

こうして、工場労働者の人員は、急速に減少していった。

 

多くの労働者は、第2次産業から第3次産業へと移った。今日の現状を見ると、そこには更に進展したシステムを見ることができる。宅配便の配達員は、小荷物を抱え、いつも走っている。労働者の4割が、非正規雇用となった。現代の労働者は、見方によっては、監獄システムよりも過酷な監視下に置かれているのではないか。

 

今日的なシステムの例として、フランチャイズがある。多くのファミレスやコンビニを運営するシステムのことである。まず、ブランドを所有する巨大企業がある。この巨大企業がブランド戦略、商品戦略、物流管理などの一切を決定し、個々の店舗を運営する個人事業主を募る。そして、ブランドを所有する巨大企業と、個人事業主が契約を締結する訳だが、ここに問題がある。契約書は小さな文字でびっしりと書かれている。契約に関する知識の少ない個人事業主は、これにサインする訳だ。大企業の方は、法律の専門家を使って、法律に適合するギリギリの条件を契約書に定めている。一度サインすると、後戻りすることは困難である。このようにして個人事業主は、大企業側に有利な条件を飲まされることになる。

 

最近、この問題が顕在化したのは、コンビニの24時間営業という業務形態である。365日、24時間営業では、休む暇がない。バイトの学生を沢山雇えば、個人事業主の負担は軽減するが、それでは利益が圧迫される。バイトの学生を常時雇えるかと言えば、そうではない。地域差もあるだろうし、時期的な問題だってあるだろう。そこで、外国人労働者を雇い入れることになる。

 

個人事業主も年と共に年令を重ねる訳で、深夜から早朝にかけての時間は、休業したいと思う。そう申し出ると、大企業の方はそれを拒絶する訳だ。結果、過労死する個人事業主まで出ている。この問題は、れいわ新選組の三井よしふみ氏が取り組んでいる。

 

このフランチャイズと前述の監獄システムを比較した場合、明らかな差異がある。監獄システムの方は、誰が権力者なのか、その人の顔を見ることができる。監獄であれば看守が、企業であれば社長が、学校であれば教師が、権力者なのである。他方、フランチャイズの場合、権力者の顔が見えない。それは、ブランドやシステムを保有している大企業であるのは確かだが、その会社はアメリカ企業であったりする訳だ。個人事業主が、大企業の日本法人を飛び越えて、英語でアメリカの本社と交渉することなど、不可能である。

 

昨年10月、みずほ銀行が驚くべき発表を行った。週休3日、4日制を導入するというのだ。一瞬、うらやましく思ったものだが、現実は甘くない。働く日数に応じて、給料も減少するというのだ。そもそも同行は、第一勧銀、富士銀行、日本興業銀行という日本を代表する3つの銀行が合併して誕生したのだ。合併とは、言うまでもなくリストラ策である。そこで、相当な人員削減が行われたに違いない。加えて今回の週休3日、4日制の導入である。これはワーク・シェアリングである。つまり、少ない仕事量を従業員の間で分配しようという施策である。いよいよ、日本もここまできたか、という感慨がある。

 

在宅勤務と言えば、それはとても良いことのように思えるが、多くの場合、残業代のカットを伴う。既に、副業を容認する企業も出始めている。

 

今日的な意味での「システム」においては、人間不在なのである。そこに人間的なぬくもりはなく、ただ、システムだけが膨張を続けている。私には、そう思えてならない。そして、この社会現象を究明するような学者、学説というのは、まだ出現していないのではないか。急速な変化に、学問が追いつかない。これも悲劇であるに違いない。

  

領域論/主体が巡る7つの領域

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

秩序領域・・・監獄、学校、会社、監視、システム、階級

喪失領域・・・

自己領域・・・

 

領域論(その12) 記号領域 / 奇妙な符号

 

領域論/主体が巡る7つの領域

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

秩序領域・・・

喪失領域・・・

自己領域・・・

 

上に記した一覧の通り、7つの領域のうち、4つの説明までたどり着いたことになる。そこでふと思い出したのが、ユングのタイプ論との関係なのだ。

 

カール・グスタフユング(1875-1961)はスイスの心理学者で、1921年にタイプ論を発表した。ユング、40才のときの思想である。そのポイントは、人間の心理的機能を思考、直観、感覚、感情の4種類に分類し、誰しもいずれかの機能をメインで持っていて、サブでもう1つの機能を保持するというもの。私は長くこの考え方に魅了されてきた。しかし、このブログを始めてから、少しずつ違和感を持つようになった。タイプ論の前提は、人間にはタイプがあるというものだが、本当にそうだろうか。これに対して私は、人間の心というのは次第に成長していく、というイメージを持っている。人間を集合的に見た場合、その歴史が積み重なると共に、人間の持つ文化や思想が堆積される訳で、それはあたかも積み木を重ねていくのに似ている。個人の心理も同じように、経験を積み重ねるにつれ、その機能を拡張していくのではないか。この「領域論」においては、そのような立場を採っている。

 

また、人間の心理は目に見えない訳で、それを相手にするよりも、人間の行動や、人間が作り出してきたものに注目した方が、より確実な見方ができるのではないか。この点、文化人類学無文字社会の人々の暮らしを観察したし、ミシェル・フーコーは現実に存在する精神病院や監獄を観察したのであり、その方が実際的だと思う。(但し、ユングは自ら深刻な精神疾患を有していたので、その治療に向かう、すなわち心理学に向かう必然性を持っていた。)

 

以上の理由により、ユングのタイプ論と私の領域論との間に関係性は存在しないはずなのだが、念のため4つの領域と思考、直観、感覚、感情とを対比してみると、驚くことに、これが見事に合致するのだ。

 

原始領域・・・直観

生存領域・・・感情

認識領域・・・思考

記号領域・・・感覚

 

簡単に説明しよう。直観とは、私が呪術との関係で述べた「超越的因果関係論」のことだと言って良いだろう。星座の動きと人間の運命を関連づける。人間の上半身と魚の下半身を結び付けて、人魚姫が生まれる。直観は、芸術的な発想を生むと言われている。

 

感情とは、好きになったり嫌いになったり、泣いたり怒ったりする精神の働きであって、これは生存領域の中で育まれるに違いない。

 

思考とは論理的な考え方であって、それは認識領域の中で発揮される。

 

記号を認知するのは人間の五感であって、これは感覚と言って良い。

 

私の領域論とユングのタイプ論が何故、このような類似性を帯びるのだろう。偶然だろうか。単に私がユングの影響を色濃く受けているからだろうか。そうではないような気がする。思考、直観、感覚などの言葉は、カントの純粋理性批判の中に登場するし、ユングはカントの影響を強く受けている。つまり、これらの言葉は哲学のメインストリームの中で、その解釈が育まれてきたのである。そして多分、私も哲学の影響を受けている。そのような関係にあるに違いない。

 

但し、人間の心の機能を考えた場合、その他にも「想像力」という重要な要素があるはずだ。この点、私は次のように説明することができる。原始領域を私は、祭祀、呪術、神話、個人崇拝の4段階に分類した。そして、直観は呪術に対応するもので、想像力は神話に対応する。双方とも原始領域に含まれるものだが、呪術と神話とでは、原動力となる心の働きが異なるはずだ。

 

呪術・・・直観

神話・・・想像力

 

タイプ論は、ユングにとっても1つの通過点に過ぎなかった。ユングの真骨頂が発揮されるのは、「集合的無意識」に関する主張である。ユング分裂病患者が見る夢と、神話に出てくるイメージとの間に共通するものを見出し、それを元型と呼んだ。元型には、老賢人、トリックスター、グレートマザーなど、いくつかの種類がある。そこからユングは、人類が時代や人種を超えて持っている普遍的なイメージがあるとし、それを「集合的無意識」と呼んだのである。

 

集合的無意識が存在するか否かと言えば、私は存在するのだろうと思う。では、何故、存在するのかという問題に行き当たるが、ユングはその理由を遺伝に求めた。私は、この点についても懐疑的だ。

 

原始領域のところで述べた通り、人類は、文化的に共通した歴史を持っているのだ。現時点でどの段階にあるかという点は、地域や民族によって異なる。しかし、いずれの場合においても、祭祀 → 呪術 → 神話 → 個人崇拝 という道筋があって、それを歩んでいるに過ぎない。そして、この共通する進化のプロセスの中から、集合的無意識が生まれるのではないか。進化のプロセスが同じなのだから、欧米人もアフリカ人も日本人も、似たようなイメージを心の奥底に持っていると考えるべきではないか。この点は、実は極めて重要な問題を孕んでいる。すなわち、人間は生まれてきた時点で、既に、何らかの因子を持っているのか、それとも生まれてくる時点で、その心は白紙なのか、という問題だ。私は後者の方だと考えている。

 

なお、ユングとその継承者たちが、膨大な数の精神疾患者の治療にあたってきたことは事実であって、私の彼らに対するリスペクトは変わらない。

 

(ご参考)

集合的無意識について説明した私の過去の原稿があるので、興味のある方はどうぞ。

 

ユング集合的無意識(その1)

https://www.bunkaninsiki.com/entry/2016/11/28/192313

 

領域論(その11) 記号領域 / 主体を凌駕する記号

 

記号とは、音、光、形、色、物、人の表情、その他の要素によって構成され、対象を指し示すものであり、人の五感によって認知されるものである。

 

このように定義してみると、私たちが認知している全ての事柄が、記号であることになる。カントの純粋理性批判を丸暗記していたと言われるチャールズ・サンダース・パースが、その生涯を記号学に捧げた理由も、理解できない訳ではない。

 

ところで、「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉がある。このレトリックを借用して言えば、「記号は世につれ、世は記号につれ」と言える。記号には沢山の種類があるし、人間が注目する記号も、その時代、各領域において、変化している。原始領域においては「動物」がそれだったし、生存領域においてはパロール話し言葉)が、そして認識領域においてはエクリチュール(書き言葉)が主要な役割を担っている。但し、それらの領域における記号と人間の関係を考えると、そこには人間の能動的な関与を見て取ることができる。例えば、記号としての動物を見た場合、そこから人間は想像力を働かすことが可能だった訳だ。言葉であれば、それは人間が主体的に発したり、書いたりすることが可能である。しかし、中には記号が人間を凌駕する、記号が主体の関与を拒絶する場合がある。

 

1 + 1 = ?

 

例えば上記の数式を見るとき、そこから私たちは何かを想像することができるだろうか。この数式に対して、私たちは何か意見を言うことができるだろうか。「私は3だと思う」と言うのは自由だが、それは間違えているに過ぎない。

 

このような領域を私は、「記号領域」と呼ぶことにする。

 

人間はまず直線を発見し、それを3本組み合わせて三角形を作る。そこから幾何学が始まり、ピタゴラスの定理が発見される。ちなみに、数式によってグラフ上の曲線を表わすことが可能なのは、広く知られている。例えば、Y=Xの二乗 という数式は、曲線のグラフに転換することができる。難しいことは分からないが、このような対応関係を発見したのはデカルトらしい。

 

数学に限らず物理学や化学の世界においては、記号が記号を呼び、自然科学の体系を構築しているに違いない。

 

歴史的な時間軸の中で、上に記した自然科学が存在する訳だが、その後、貨幣が登場すると、記号が社会に与える影響は急速に拡大する。人々は物事の価値を金銭で測ろうとするようになったし、企業会計なども数字によって管理されるようになる。一定の期間を区切って、その間の損益を認識するために「損益計算書」が作成され、特定の日(期末日)現在の資産状況を把握するために「貸借対照表」が作成される。第2次、第3次産業においては、自然科学が商品を作り、それが貨幣経済のルートに乗り、今日の私たちの暮らしを支えている。その基盤をなしているのは、数字という記号なのだ。

 

別の側面における今日的な状況下においても、記号領域の拡張を見ることができる。

 

今から30年前位だろうか。企業の経営戦略の1つとして、Corporate Identityが脚光を浴びた。これは、Identityすなわち「らしさ」を強調しろということだった。その会社の「らしさ」を目に見えるような形で表現しろ、という意味だ。いくつかの説があったのだろうが、私が記憶しているものは、次の3種類を掲げていた。

 

Behavior Identity

Product Identity

Visual Identity

 

簡単に説明しよう。「Behavior Identity」とは、企業の「らしさ」を従業員の統一的な行動で表現しろ、という意味だ。例えば、デニーズへ行くと従業員が必ず「ようこそデニーズへ」と言う。次に「Product Identity」だが、これはその企業の個性を製品に反映させろということ。そして、「Visual Identity」については、企業のロゴを統一し消費者に訴えろ、という意味である。例えば、それまでトヨタはカタカナの「トヨタ」という文字を用いていたが、このCorporate Identityの流れに沿って、現在の楕円形を組み合わせたロゴを使うようになった。

 

Corporate Identityがもてはやされた理由だが、当時は「商品の成熟化」を挙げる論者が多かったように思う。つまり、商品の品質は各段に向上したのであって、どの企業の製品を買っても同じだ、という状況が生まれていたのだ。その中で自社製品を購入してもらうための手法として、Corporate Identityという主張が成立していたのだ。ただ、トヨタの場合、カタカナのトヨタと表記したのでは、海外の人には分かりづらい。同社がグローバル化を進める上で、楕円形を組み合わせたロゴを作成したのは、必然だったと言っていい。

 

その数年後だろうか、Corporate Identityに代わって、今度はブランドという話になった。ブランドに関する体系的な理論があるのかどうか、私は知らない。ただ、私の理解としては、まず、創業者を特定し、その人をヒーローに仕立て上げる。創業の物語を作る。そして、ブランドマークと共に、それを宣伝するのである。ブランドは、西洋における販売促進の手法であって、グッチとかベンツと言えば、誰でも一定のイメージを持っているに違いない。

 

今にして思えば、このブランドという手法は、キリスト教などの宗教に酷似している。

 

キリスト・・・創業者

聖書・・・創業の物語

十字架・・・企業のロゴ

 

やがて、ブランディングという言葉が出回る。これは、何の変哲もないありふれた企業に対して、上記のような手法を用いて、差別化、ブランド化を図るという意味である。ここにおいて、主体(この場合は企業)を記号(ブランド)が凌駕するという関係性が成立するのである。

 

記号を巡る進展は、そこに留まらない。最近ではメールを凌ぐ勢いで、ラインが普及している。私は、若い人たちのライングループのお仲間に入れてもらっているが、そこで飛び交うのがラインスタンプだ。これはキャラクターがいて、それが動く訳だが、声を発するものまである。キャラクターと言えば、ゆるキャラだとか、着ぐるみだとか、マンガの主人公など、現在、全盛期を迎えているのではないか。どうも時代はキャラクターを追い求めているような気がしてならない。

 

私の若かりし時代は、ロックの全盛期だった。友人と話をしていても、例えば、「ギターはジミ・ヘンだろう」などと言えば、それだけで私のアイデンティティーを主張することが可能だったように思う。しかし、現代において、ロック・ミュージックのように大きなムーブメントは存在しない。すると若い人たちは、自分がキャラクターを演じることによって、自らのアイデンティティーを確立するしか、方法がなくなっているのではないだろうか。それは友人たちに自らの存在をアッピールすることであり、そうしなければ仲間たちから自分の存在を認めてもらえない。そういう状況が生じているような気がしてならない。よく地方の成人式で若者が暴れるが、それはそのようなキャラクターを演じているのではないか。ここでも、記号(キャラクター)が主体(若者本人)を凌駕している。

 

成人式で暴れる若者たちの映像を見ると、彼らは、強烈な外観を有している訳だ。髪は様々な色に染め、派手な着物を身にまとっている。それらの外観に対して、彼らの中身はどうだろう。直接話したことはないが、外観の割に、彼らの中身が空虚であろうことは、想像に難くない。そこで私は彼らに対して、「空っぽだなあ」と感じることになる。彼らを批判している訳ではない。今から思えば私だって、二十歳の頃は空っぽだったのである。

 

何故このような現象が生まれるのか。その原因は、憲法が定める平等主義にその一因があるのではないか。先の原稿に記載したように、平等主義は、例えば男女の差異すら認識するな、というところまで行っている。その他にも、肌の色、職業、年令、出身地などに基づくあらゆる差別を禁止するというのが憲法だ。その思想が、実は、現代の若者文化の根深い所に影響を及ぼしているのではないだろうか。

 

現役時代に私が勤めていた会社は、和風の会社だった。社員食堂では綺麗に男と女が分かれて、食事していた。その会社の経営は行き詰まり、外資に買収された。直後から、大量の外国人がやってくる。外国人たちは、当たり前のように男と女が一緒に昼食を取るのである。その習慣は、あっという間に日本人にも浸透し、男女が入り混じって昼食を取るのが当たり前になった。

 

今では、体罰は悪いことだと誰もが認識している。すると、親子関係も「お友達親子」などと言われるようになる。男女の識別が弱まり、最近の若い人たちをモノセックスだと言う心理学者もいる。ただ、その背景には、区別しない、識別しない、という憲法戦後民主主義の価値観が底流にあるように思う。

 

ここに来て、私の憲法観に変化が生ずるのだ。

 

つまり、前提として、人間が何かを認識しようとするとき、人間は対象を識別し、時間を制限し、空間であればそれを仕切る必要が生ずる。テレビドラマであれば、最長でも2時間が普通だし、相撲は土俵という限られた空間の中でしか成立し得ない。

 

どの社会でも、いつの時代でも、人間が認識したいと欲するその重要な対象の1つに、人間がいたのは間違いない。そこで、人間は認識の対象であるところの人間を識別し始める。そこから、男女差別、人種差別などが始まるのだ。そして、憲法が持つ価値観は、それら一切の差別を禁じたのである。

 

私は、そのディテールにおいて、憲法に対し異議を持っているが、その底流に流れる思想や価値観は、大いに評価している。人は平等であるべきだ。強くそう思っているし、今日まで、憲法は人間が到達すべき目標地点であると思ってきた。しかし、そのような憲法が新たな問題を引き起こしているのである。それは「人間が人間を認識しづらくなった」という課題である。これは重大な課題であって、何とか、乗り越えなくてはならない。

 

つまり、日本国憲法というのは、到達すべき地点なのではなく、そこを経由した上で、更なる高みを目指さなければならないということに気付くのだ。

 

 

領域論/主体が巡る7つの領域

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・自然科学、経済、ブランド、キャラクター、数字

秩序領域・・・

喪失領域・・・

自己領域・・・

 

領域論(その10) 認識領域 / 「知」を開示せよ

 

先の原稿で述べた通り、大和銀行ニューヨーク支店事件に関する判決で、最高裁は「リスク管理の大綱は、これを取締役会において決することを要す」と述べた訳だが、その際、最高裁の判事がどの程度、リスク管理について理解していたのか、私は、はなはだ疑問に思っている。

 

いずれにせよ、日本の企業にも欧米型の統治機構を持たせようということで、商法の一部を独立させて、会社法(2006年施行)を制定することになる。その際、法務省リスク管理とは何か、ということについて思案したに違いない。そこで彼らが参考にしたのが、全米公認会計士協会が策定したEnterprise Risk Management(“ERM”)というモデルだった。

 

ERMはとても複雑で論点も多岐に渡るが、そのポイントは、リスクを「目標達成の阻害要因」として定義するところにある。まず、目標を設定して、その阻害要因を特定し、特定された個々の阻害要因に対して、対策を講じろというのだ。これは、とても合理的な考え方であろう。

 

例えば、東京五輪組織委員会は、「達成すべき目標」を考えているだろうか。仮に、「五輪を成功させること」という目標を設定した場合、これを中止するという選択肢は排除される。また、「関係者の幸福度を向上させる」という目標を設定した場合、検討すべき範囲は広がるだろう。関係者と言えば、選手がいて、ボランティアがいて、日本国民がいて、協賛企業がある。それら関係者間の利害を調整した上で、幸福度を向上させなければならない。このように目標を設定した場合、当然、コロナの影響を勘案し、中止するという選択肢が出てくるだろう。仮に五輪を開催することによって、世界中から最新で、最強の変異株が日本に集まることとなれば、関係者の幸福度は地に落ちるに決まっているのだ。

 

少し、ERMの範囲を超えるかも知れないが、福島第一原発の汚染水処理の問題について、考えてみよう。膨大な汚染水を海に放出するか否か、という問題だ。この場合の「達成すべき目標」は何だろう。「東電の救済」だろうか。そうであれば、海に放出するという選択肢が採用されるかも知れない。しかし、もっと大きなフレームの中で考えるべきではないか。例えば、「日本国民の健康を維持し、経済的な損失を最小化すること」とした場合はどうだろう。この場合、当然、検討の前提条件を明確にする必要がある。つまり、東電やメディアは「処理水」と呼んでいるが、本当にその液体からは汚染物質が除去されているのか。海洋放出を行って被害が発生した場合、日本が外国から訴えられるリスクはないのか。この問題を放置した場合、いつごろ陸上保管が不可能となるのか。

 

これら検討の前提条件を全て明確にした上で、世界中から最新の知見を集めた上で、あらゆる選択肢を抽出すべきなのだ。そして、個々の選択肢について、評価を行う。そのようなステップが必要になると思うが、それらの情報が開示されたという話は、一向に聞かない。利権が絡んでいるのだろうか?

 

いずれにせよ、リスクマネジメントや意思決定に関する情報は開示されるべきだし、そのプロセスおいては、透明性を確保すべきだと思う。

 

このような話を何故するかと言えば、それは「認識領域」なるものが、確実に存在することをご理解いただきたいからだ。それは、日常生活の中では見えてこない。テレビを見ても、そんな話は一向に語られることがない。最近、哲学は停滞しているように思える。しかし実際には、現在も多くの学者や法律家、そして公認会計士などが、より良いリスクマネジメントや意思決定に関する体系的なモデルを考案すべく、日々、努めているに違いないのだ。

 

それでは、この「認識領域」についてまとめてみよう。この領域の本質は、反権力にある。「知」や情報を覆い隠そうとする権力に対し、その開示を求めるのがこの領域の真骨頂なのである。また、この領域で注目される記号、それはエクリチュール(書き言葉)なのであって、生存領域におけるパロール話し言葉)とは対立する。そして、この認識領域においてこそ、人々は思考し、論理を構築しようと試みているのである。

 

 

領域論/主体が巡る7つの領域

原始領域・・・祭祀、呪術、神話、個人崇拝、動物

生存領域・・・自然、生活、伝統、娯楽、共同体、パロール

認識領域・・・哲学、憲法、論理、説明責任、エクリチュール

記号領域・・・

秩序領域・・・

喪失領域・・・

自己領域・・・

 

領域論(その9) 認識領域 / 国家の統治と企業の統治

 

原始領域と生存領域において、「知」は開示されない。それはむしろ、隠されることによって、一つの権力と結びついている。例えば、祭祀における「知」は、シャーマンが持っていたのだ。呪術においては、呪術師や占い師がその「知」を持っていた。神話における「知」は、神話を書く者、若しくは神話を書かせる者が隠し持っていたに違いない。個人崇拝になると、崇拝される個人が「知」と権力を独占することになる。

 

生存領域においては、師匠や親が「知」を持っているのであって、それはノウハウと呼んでも良いだろう。ノウハウというのは、ちょっとしたコツのようなものだ。料理人や大工などの職人は、このノウハウを持っていて、それは少しずつ弟子に引き継がれる。但し、それが体系的に説明されることは稀だと思う。全てが体系的に開示されてしまうと、その時点で師弟関係は終了する。

 

ところが、この「知」を開示しようという動きが、歴史の中に登場する。それを私は「認識領域」と呼ぶことにしよう。

 

認識論はギリシャ哲学に起源を持ち、法律学古代ローマに由来する。そして、マルティン・ルターから始まったプロテスタンティズム。概ね、この3つの流れが合流して、「社会契約論」に至ったのではないか。

 

主に哲学は文字によって書かれ、本という媒介をもって流布されてきたに違いない。法律も文字によって書かれる。ルターが提唱したのは、文字によって書かれている聖書を尊重せよということだった。この認識領域において「知」は文字によって書かれ、かつ、それが開示されるべきなんだという前提を持っている。認識領域において注目されるべき記号は、エクリチュール(書き言葉)である。

 

社会契約論は、トマス・ホッブズジョン・ロックジャン・ジャック・ルソーによって確立された。ちなみに、その後登場するカントはジョン・ロックの思想を継承しているので、社会契約論は哲学の本流に位置づけられるのだと思う。

 

第2次世界大戦に敗れた日本において、敗戦の翌年、すなわち1946年に日本国憲法が制定される。この憲法は、GHQが1週間で書き上げたと言われているが、その基底をなす思想は、前述の社会契約論にある。

 

日本国憲法の3本柱は、平和主義、国民主権基本的人権の尊重にあると言われている。私がここで強調したいのは、「平等主義」である。日本国憲法の第14条①項には、次のように書かれている。

 

- すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。 -

 

この平等主義は、3本柱の中では「基本的人権の尊重」の1種類であると解釈されているのだろう。

 

日本国憲法は、制定から75年が経過するが、その間、改正されたことは1度もない。我が国において憲法は、顧みられることなく、ないがしろにされてきたのだ。ではその間、憲法の持つ偉大な精神や、ここで述べようとしている認識領域がその歩みを止めてきたかと言えば、そんなことはない。残念ながらその動きは日本国内で起こったのではないのだが。

 

実際問題として、アメリカにおける黒人差別がなくなった訳ではないだろうが、少なくとも表面上、それは厳しく規制されるようになった。黒人という表現は禁止され、African Americanと呼ばなければならない。そして、ポストモダンの思想を経て、ジェンダーの問題がクローズアップされてきた。それは言葉の問題にまで遡り、最近ではbusinessmanとさえ言わず、busines personと言うのが普通になっている。

 

長い間、私は「差別はいけないが、区別は必要だ」と考えてきた。例えば、力仕事は男が行い、女はそのような義務を負うべきではないと思ってきた。これは、差別ではなく区別だ。しかし、現代アメリカの動向を勘案するに、その背景には「そもそも、区別するから差別が生ずるのだ」という思想を見て取ることができる。つまり、区別すら許さない、ということになる。

 

同一性と差異に着目して認識する方法については、「識別」と呼ぶのが適当だろう。上のロジックに従えば、アメリカに限らず、先進諸国においては既に男と女を「識別」することすら許さない、という状況にあるのだ。

 

加えて、LGBTの問題がクローズアップされてきた。私は長い間、「欧米には同性愛が多く、日本では少ない」と思ってきた。しかし、それは間違いなのであって、日本においても概ね13人に1人がLGBTであるという統計がある。日本においてLGBTが少なかったのではなく、日本の息苦しい社会が、彼らのカミングアウトを阻んできたに過ぎない。

 

平等主義は、このように人間の識別方法までも一変させるに至ったのである。最早、民族や肌の色、そして性差によって人間を識別することすら許されないのである。このように社会が持つ常識や価値観、すなわちエピステーメーは、急速に変化する。その変化を日々確認することは困難だが、変わるときには一気に変わると言う他はない。

 

次に、日本国憲法には、三権分立という考え方が定められている。これは、はなはだ不完全なもので、現実には内閣総理大臣の独裁を許している。どうにかならないものかと思う訳だが、同じような話が、会社を取り巻く法規制の分野において、目覚ましい進化を遂げている。しかもそれは、株主至上主義とでも呼ぶべき、資本主義の最前線で起こったのだ。

 

事の発端は、相次ぐ企業の不祥事だった。大規模な公害案件、独占禁止法違反、横領など、企業の不祥事が相次ぐ時代があった。このような不祥事があると、企業価値が大幅に棄損され、株主が損失を被る。経営者の責任を追及すると、彼らは口を揃えて「自分は知らなかった」と言い訳をする。これでは投資できない。

 

そこで、コーポレート・ガバナンス(企業統治)ということが言われ始める。企業は、不祥事を起こさないような態勢を作れ、そしてその情報を公開せよ、と言う主張がそれだ。情報公開を十分に行わない企業の株は買わないぞ、という訳だ。

 

日本において、この論議を活性化させた「大和銀行ニューヨーク支店事件」と呼ばれる裁判があった。企業側の対応に業を煮やした株主が、訴訟を提起したのである。そして、日本の最高裁は、次のように判決を下した。「リスク管理の大綱は、取締役会においてこれを決することを要す」。つまり、リスク管理の基本方針を取締役会で決議せよ、その内容が充分であった場合、取締役(個人)は責任を負わないけれども、不十分であった場合、取締役(個人)全員が、連帯して会社に対する賠償責任を負う、というのだ。何しろ、会社が被る損害は莫大なもので、それを各取締役が個人の資産をもって会社に賠償するというのだから、彼らは震え上がったのである。

 

この論議はやがて、会社における権力論に及ぶ。何しろ、コーポレート・ガバナンスは「暴走するワンマン社長を抑止する」ことが目的なので、社長の権力を分散させようという議論に至るのは、当然の帰結だった。そして、社長から後任の役員を指名する人事権と役員に支払われる報酬額の決定権を奪う、という考え方に至る。欧米ではいち早くこのような仕組みが確立されていたが、日本も会社法の制定と共に、そのような企業構造を推奨するようになったのである。

 

従来の日本企業においては、概ね、取締役会があってそれを牽制する監査役会があった訳だが、監査役というのは社長に対するイエスマンが就くポジションであり、体を張って社長に意見をするような人はいない。これに対して、欧米型の企業構造は、取締役会の中に指名委員会、報酬委員会、監査委員会を設置するのである。組織は複雑になるが、確かにこの体制であれば、ワンマン社長も暴走し難い。但し、日産のカルロス・ゴーンの事件などを見ていると、人間のすることなので完全ということはないような気もするが・・・。

 

いずれにせよ、情報を開示せよ、権力を分散させよ、という論議は、憲法とは別の所で進展しているのである。現在、東京五輪組織委員会森喜朗が暴言を吐き、問題となっているが、上のような事情を知っていれば、理解しやすいのではないか。

 

この分野で、アメリカから流入してきた言葉を並べてみよう。

 

disclosure → 情報開示

accountability → 説明責任

transparency → 透明性

compliance → 法令順守

internal control → 内部統制

 

どれも素晴らしい概念だと思うが、日本人が発明したものが1つもないのは、はなはだ残念である。

 

最後に、1つ言えるのは、企業統治に関する論議が目覚ましい進展を遂げているにも関わらず、国家統治に関する論議、すなわち憲法に関する論議は停滞しているということだ。何故、停滞しているかと言えば、それを妨害する権力が存在するからだと思う。