文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

ソクラテスの魂(その8) 思想を持つということ

 

ソクラテスが登場する以前から、自然哲学と呼ばれる思想の試みがなされていたのであって、これはその後の自然科学へとつながったに違いない。ソクラテスもそれを学ぶが、やがて、決別する。つまり、哲学と自然科学の緊張関係は、その起源から始まっていたことになる。ソクラテスが到達したその後の思想とは、正義(魂への配慮)と真理(不知の自覚)の追求だった訳だが、自然科学はある種の真理を追究することはできたとしても、決して人間社会における正義を思考することはできない。これは重要な問題なのであって、例えばこう述べることができる。核兵器を開発したのは科学者であって、哲学者ではない。ソクラテスが自然科学的な方向を否定し、哲学へと向かった理由の1つが、そこにあるような気がする。そして、この哲学と自然科学との緊張関係は、2400年後の現代社会にまで持ち越されているのだ。

 

また、ソクラテスは哲学と政治の関係についても言及している。「ソクラテスの弁明」に次の記述がある。(段落番号19)

 

- 諸君に対してにせよ、その他の人民大衆に対してにせよ、律儀に反対して国のうちに多くの不正なことや違法なことが起こらないように妨げる人で、命を全うできる者は世に一人もいないのである、むしろ正義のために本当に戦おうとする者は、わずかな間命を全うしようとする場合でさえも、私人として暮らすべきで、公人として働くべきものではないのである。-

 

この箇所に対する解釈は、難しい。まず、「国のうちに多くの不正なことや違法なことが起こらないように妨げる人」というのは立派な人だと思う訳だが、ソクラテスはこのような人は「命を全う」できないと言っている。では、命とは何かと考える訳だが、当時の理解としては、多分、命というのは身体が生きているということと、そこに魂が入っているということの双方を意味していたのだろうと思う。

 

生命 = 身体 + 魂

 

そしてソクラテスは、身体よりも魂を重視していた。極論すれば、身体が生きていたとしても、そこに魂が入っていなければ、人間は生きていることにならない。そのような理解を前提とした上で、上記引用文の「命を全う」という箇所を読み返すと、その真意に近づくことができる。

 

また、「公人として働くべきものではない」という箇所の公人とは、政治家を差しているのだろう。そうしてみるとこの箇所を簡単に言い換えると、「正義と真理を追究すること、すなわち哲学を志向しようとする人は、政治家になるべきではない」ということになる。この問題は、本質的な深さを持っている。そもそも正義と真理を探究するということ、すなわち哲学をするということは、人間には困難な厳しい挑戦なのであって、誰でも気軽にできるということではない。哲学をするためには、大衆に迎合してはいけない。権力に屈してはいけない。そのためには、お金や名誉を欲してもいけない。そう考えれば、哲学を目指す者は、政治家になどなってはいけないことになる。

 

そもそもソクラテスにとって、哲学をするということは、街中へと出掛けて行き、だれ彼となく話しかけ、得意とする問答法によって相手を論破するということだった。そんなことをするから、ソクラテスアテナイの人々から嫌われたのであって、そのことは本人も自覚していたのである。すなわち、ソクラテスのように人間社会の非合理に気付いた者は、必然的に社会から孤立していくのだ。このように孤立した者をこのブログでは「単独者」と呼んでいる。ソクラテスアテナイという都市国家を大きくてのろまな馬に、そして自らをその馬にひっつく虻(アブ)に例えている。これは単独者であるソクラテスの立ち位置を表わす良い比喩だと思う。

 

すなわちソクラテスは、自ら正義と真理の探究に励もうとしたのであり、そのためには科学者や政治家になることは許されず、社会とは距離を取って単独者として生きようとしたのである。しかし、それはとても困難な生き方だ。そんなソクラテスのような生き方を真似出来る人間など、ほとんどいないのではないか。

 

そもそも、ソクラテスの哲学に向かう態度は、とても外向的だと言える。何故、ソクラテスがそのように現実の論争相手を必要としたかと言うと、それはソクラテスパロール(音声言語)に固執したという事情が深く関わっているに違いない。これに対して、エクリチュール(文字言語)を基礎として、ひたすらソクラテスの物語を記述し続けたプラトンは、内向的だったと言える。プラトンは、死ぬ直前まで書き続けていた。

 

ソクラテス ・・・ パロール ・・・・・・ 外向的

プラトン ・・・・ エクリチュール ・・・ 内向的

 

軽々にどちらが優れているとは言い難いが、哲学の歴史を考えると、圧倒的にプラトンのようにエクリチュールに向かい、内向するタイプの哲学者が多かったと言えるだろう。そして、哲学に対してそのような態度で向き合うという方法は、ソクラテスのような態度を取る場合ほど、困難ではない。

 

では、ここまでの話の要点をまとめてみよう。まず、人間の社会には理不尽なことが沢山ある。ソクラテスの時代で言えば、詭弁を弄する知識人(ソフィスト)、正義を求めない自然学者、自分の名誉やお金のことばかりを考えている政治家、自らが不知であることに気付かない人々などがいた。(現在の日本も同じだ。)そんな社会にあって、正義と真理を追い求めようとすると、すなわち哲学をしようとすると、必然的にその人は社会と敵対し、単独者となる運命を背負うのである。単独者としていきる方法は、大別すると2つあって、1つはソクラテスのように外側に向かうという方法で、2つ目はプラトンのように内向するという方法である。但し、ソクラテスが取った態度を真似ることは極めて困難だが、プラトンが取った内向するという態度であれば、それを真似することは比較的容易である。そして、プラトンが取った態度を根源から支えたのは、エクリチュールなのだ。社会と適正な距離を保ちながら、それでも単独者として正義や真理を探究しようとした場合、それを可能とする記号はエクリチュールだけなのである。つまり単独者にとっては、エクリチュールこそが希望なのだ。

 

ところで、オーストリア出身の哲学者ウィトゲンシュタイン(1889-1951)は、他の多くの哲学者同様、過酷な人生を過ごした。生きている間に彼が発行した哲学書は、「論理哲学論考」ただ1冊だった。今日、彼が得ている名声は、彼の死後にもたらされたものである。しかし、末期ガンで死亡する直前、ウィトゲンシュタインは付き添ってくれていた女性に対し、次のように述べたのである。

 

「皆に伝えてください、私の人生は素晴らしかったと」

 

結局、哲学をする、いや、もう少し広い意味で思想と言おう。つまり、思想を持つというのはそういうことなのだ。人間は、普遍的な真理に到達することはできない。しかし、個別的な真理を獲得することは可能なのだ。そして、個別的な真理を獲得した者は、幸福な人生を送ることができる。つまり思想とは、個別的な真理を目指すことであって、それは自己の魂の救済を図ることに他ならないのである。

 

ソクラテスの魂(その7) 魂と知

 

まず、前回の原稿における私のミステイクについて、訂正すると共にお詫び申し上げなくてはならない。前回の原稿で私は、「ソクラテスの弁明」について、1回目の採決の後で、2回目の採決の直前に弁明がなされたのではないかと述べたが、これはとんでもない誤りだった。「ソクラテスの弁明」は3部構成になっていて、各々、発言がなされたタイミングは異なる。

 

ちなみに「ソクラテスの弁明」(“弁明”)に関しては、過去に基準となる文献があって、そこで用いられた各部分を参照するための管理番号が振られているので、これに従って簡単に概要をまとめてみたい。私が参照しているのは30年以上も前の角川文庫だが、ここで用いられている段落ごとに振られた漢数字(“段落番号”)を参考までに記載することとする。裁判の進行と発言の順序は、次の通りである。

 

陪審員の選任手続・・・くじ引きにより500人の陪審員を選任する。(但し、偶数人数だと賛否が同数になる可能性がある。そのためか、陪審員の人数は501人だったとする説もある。)

 

原告側の冒頭陳述・・・原告側が、裁判を提起した理由について陳述する。

 

ソクラテスの発言・・・これが弁明の第1部である。(段落番号一番~二十四番)

 

有罪か無罪かに関する採決・・・有罪:265票 無罪:235票

(段落番号二五において、ソクラテス自身が、投票結果は30票差だったと述べている。そこから逆算すると上記の投票数となる。)

 

原告側の求刑・・・上記の経緯でまず、有罪であることが確定した。次に罰の重さ、すなわち量刑の議論に移る。確証はないが、このタイミングで原告側から死刑を求める旨の発言があったものと思われる。

 

ソクラテスの発言・・・これが弁明の第2部である。(段落番号二十五番~二十八番)原告側が死刑を要求したのに対し、ソクラテスは自ら罰金刑(30ムナ)が妥当であるとの主張を行う。

 

量刑に関する採決・・・死刑に賛成:360票 罰金刑に賛成:140票

 

ソクラテスの発言・・・これが弁明の第3部である。(段落番号二十九番~三十三番)ソクラテスはまず、「有罪と評決を下した陪審員たち」に語りかける。次に、「無罪と評決を下した陪審員たち」に、最後に「陪審員たち全員」に対して語りかける。(翻訳上は「裁判官」と訳されているが、判決を下す裁判官とは異なるので、投票権を持つ「陪審員」とした方が正確であると思う。昨今の日本における刑事訴訟の「裁判員」と同じ意味である。)

 

ところで、学者でこんなことを言う人は少ないと思うのだが、私は、ソクラテスの思想や人生の基盤となった当時の社会システムが「シャーマニズム」にあったことを指摘したい。シャーマニズムについては、このブログで既に述べて来たことなので詳細は述べないが、簡単に言うとそれは普遍的な古代社会の制度であり、経典を持たない原始宗教のことである。日本で言うと邪馬台国卑弥呼はシャーマンだったし、天皇制の起源もシャーマニズムにあると私は推測している。シャーマニズムは当初、シベリヤ地方で確認されたが、その後、世界各地に普及していたことが確認されている。

 

話をソクラテスに戻そう。彼の思索は、ある出来事を契機としている。まず、彼の友人のカイレポンという男が、デルポイという場所にある神殿を訪れたのである。そこで、神殿の巫女さんに尋ねた。(デルポイについては、聖域の名称である、神託所の名称である、都市国家の名称である、などの説がある。)

 

ソクラテス以上の知者はいるか?」

 

すると巫女さんは、多分、祈祷を行った後、次のように答えたのである。

 

ソクラテス以上の知者は、誰もいない」

 

これが神託である。言わば神のお告げだった訳だ。そして、自らを知者だと考えていなかったソクラテスに疑問が生ずる。そこで、自分以上の知者を発見できれば、神託が誤りであることを証明できると考えたソクラテスは、著名な知識人などを訪ねては、問答を繰り返したのである。

 

もし、巫女さんが別のことを言っていれば、ソクラテスは哲学者になっていなかっただろうし、それはすなわち西洋哲学があのような形で生まれていなかった可能性を示唆している。

 

また、ソクラテス自身、ダイモニアの声を聞いていた点も、見逃せない。ダイモニアについて、ソクラテスは弁明の中で、次のように述べている。

 

「ダイモンたちをわれわれは神々か、あるいは神々の子供たちと信じてはいないか」

 

ソクラテスをはじめアテナイの人々はゼウスやアポロン(ゼウスの息子)などの神々を信仰していて、その子供、神々と人間の中間的な存在として、ダイモニアを位置づけることが可能なのだ。

 

ゼウスなどの神々 - ダイモニア - ソクラテス

 

このような位置関係を推定することができる。そして、ソクラテスはこのダイモニアの声を子供の頃から頻繁に聞いていたのである。またその際、ソクラテスは、「一種の忘我状態になってしまう。それは恍惚境に入ったように見える」とのことである。(出典:ソクラテス /中野幸次著/清水書院/82頁) この状態はシャーマニズムにおける「トランス状態」と酷似している。いや、同じではないか。すなわちソクラテス自身、シャーマンだったとも言えるのだ。

 

また、ソクラテスは詩人たちに対し、次のように述べている。

 

「何でも彼らの作るものは知恵によってではなく、予言者や神巫(かんなぎ)のように、自然の生まれつきによって、あるいは神がかりになって作るのだということを。」(段落番号七)

 

つまり、詩人たちはトランス状態になって、詩を書いていたことが示唆されているのだ。また、弁明とは離れるが、ソクラテスの友人、エウチュプロンは予言者だった。(プラトンは「エウチュプロン」というタイトルの作品を残している。)

 

すなわち、ソクラテスが生きていた古代ギリシャには、神殿があり、そこに巫女さんがいて、詩人は神がかりの状態になって詩を書き、予言者たちがいたのである。これはもう、完全にシャーマニズムの世界だと言える。

 

すると、ソクラテスが述べた「魂」の意味は、私たち日本人がイメージしているものと大差のないことが分かる。シャーマンがトランス状態に入る際には、脱魂型と憑依型の2種類がある。脱魂型というのは、魂が抜けてしまう状態のこと。憑依型は、何か別の魂がシャーマンに取り付いてしまうこと。日本で言えば、キツネ憑きなどがその例。つまり、魂というのは人間の生命の源のようなものなのである。実際、参考文献(はじめてのプラトン/中畑正志/講談社現代新書)にも、次の記述がある。

 

- 「魂」という言葉は、生きることの源、あるいは生の原理という意味をその芯にもっていた。(P. 91)-

 

すなわち、人は誰しも魂を持っているのであって、これを失うことは死を意味する。そうしてみるとソクラテスの自己の「魂に配慮せよ」という主張は、全ての生きている人間に対するメッセージであることが分かる。なお、魂に類似する言葉として、ソクラテスは「徳」とか「正義」という言葉を用いている。便宜上、ソクラテスのこの主張を「第1ステップ」と記すことにしよう。

 

ソクラテスの主張 第1ステップ

 魂に配慮せよ

 魂 - 徳 - 正義

 

ソクラテスはもう1つ、重要なことを主張している。一般に「無知の知」と呼ばれるものである。但し、これは専門家の間でも誤訳であり「不知の自覚」とすべきだとの意見があり、今後は、こちらを採用することにしよう。「不知の自覚」とは、自らが不知である、知らないんだということを自覚することが大切だという主張である。では、「知」とは何かという問題がある訳だ。この点、ソクラテスは神の知と人間の知の関係について、弁明の中で次のように述べている。(段落番号9)

 

- 実際のところは、神様が知者であって、この御神託でもって言おうとしていられることは次のことらしい、つまり人間として許された知恵の値打ちはごく些細なもの、いや、全く取るに足らぬものであるということを。-

 

上に引用した部分は、いわゆる「人間並みの知」について述べた箇所である。まず、確認しておきたいのは、前述の通り「魂」とは、生きる人間誰しもが持っているものであって、これに対して「知」とは、人間がほとんど持っていないものであるということである。よって、魂と知とは、本質的に異なるのである。ということは、自己の「魂に配慮せよ」という主張と、この「不知の自覚」という主張は、異なるということだ。

 

ちなみに、ソクラテスは人間の知を「全く取るに足らぬもの」であると言ってはいるが、それでも人間はそれを追い求めるべきだと主張している。ここに論理的な背理が見られる訳だが、この点は、「決して得られはしないが、それでも追い求めることが重要なのであって、それは人間に課せられた永遠の挑戦なのだ」という風に私は理解している。

 

ソクラテスデルポイの神託を聞いた後、言わば「知ったかぶり」をしている人々を訪ね、質問を浴びせている。それは、政治家であり、詩人であり、手工業者たちであった。してみると、この「不知の自覚」の方が、「魂への配慮」よりも少し難易度が高いのである。従って、便宜上、これを第2ステップと呼ぶことにしよう。なお、ソクラテスは「知」に類似する言葉として、英知、真理という言葉も用いている。

 

第2ステップ

 不知の自覚

 知 - 英知 - 真理

 

弁明の中で語られたソクラテスの思想の中核は、上記の2点にある。それらの意味は異なるが、無関係という訳ではない。私は段階が異なるという考え方を採ったが、知や真理の方が大きな概念であって、その一部が魂であると解釈することもできるだろう。また、ソクラテスは第1段階の「魂への配慮」は全ての人々に求め、第2段階の「不知の自覚」は知識人や権力者に要求したのではないだろうか。

 

さて、本稿を締め括るにあたり、読者諸兄には、「弁明」における有名なあの一文を読み返していただきたい。そこに2つの意味があることは、ご理解いただけるであろう。そして、人間にとっての永遠の挑戦、知への意志を持てというソクラテスの魂をそこに見て取ることができるだろう。

 

- はばかりながら、君、君は知恵と力とにかけては最も優れていて、最も評判のよい国、アテナイの民でありながら、金銭のことでは、どうすればできるだけたくさん君の手に入るかということに、また評判や栄誉のことに心掛けるのに、英知や真理のことに、また魂のことでは、それがどうすればいちばん優れたものになるかということに心掛けもせず、工夫もしないのが恥ずかしくはないか -

 

ソクラテスの魂(その6) 死に至る経緯

 

そもそも哲学の起源は、どうなっているのだろう。そう思って入門書を調べてみると、最初の哲学者は古代ギリシャタレス(前624頃~546頃)だと記されている。タレスは「万物の大元(アルケー)は水である」と主張したという。その後、空気だとか火などがアルケーであると主張する者たちが登場する。彼らは「自然学者」と呼ばれ、彼らの思想は「自然哲学」と呼ばれる。

 

明らかに自然学者たちの興味の対象は、外界、自然界に向いているのであって、その思想が哲学だと言われると違和感を覚える。むしろ自然学者たちは、自然科学の基礎を築いたような気もする。ちなみに、ソクラテスも自然学者であるアナクサゴラスの文献を読んでいたという話がある。但し、疑問を感じたソクラテスは、その後、自然哲学と決別する。

 

そして、ソフィストと呼ばれる専門家集団が現われる。弁論術にたけた彼らは、詭弁を弄する知識人なのであった。但し、彼らにも一応、功績は認められている。1つには、自然学者たちとは違って、ソフィストは興味の対象を人間に移したということである。また、弁論術によって、人間の認識は大きく左右されるということを彼らは発見した。とは言え彼らの主張はあくまでも詭弁なのであって、そこに本物の「知」を見て取ることはできない。このソフィストたちに対抗して登場したのが、ソクラテスである。

 

私を含めて今日に至るまで多くの人々がソクラテスに魅了されて来た訳だが、その理由はいくつかあるに違いない。例えば、ソクラテスの場合、彼の運命と、人生と、思想とが、互いに関連しながら、1つの物語を構成している。そこにはあたかも小説を読むような臨場感があるのだ。しかし、その魅力の最大の要因は、ソクラテスの思想が今日的な課題をも言い当てているからではないだろうか。国家と個人との関係、倫理、法、認識など、今日まで続く言わば哲学上の課題の大半が、既にソクラテスの物語において登場しているのである。とりわけ、民主主義の限界が、指し示されているように思う。民主主義とは、多数決である。すると、そこにおいて権力を持つのは一般人、すなわち大衆であることになる。そして、この愚かな大衆が誤った判断を下す訳で、ソクラテスはこの権力を持った大衆に殺されたのである。してみると、哲学とは本質的に反権力、反大衆であることが分かる。

 

少し、急ぎ過ぎたかも知れない。ソクラテスが死に至った経緯を、もう少し丁寧に見てみよう。

 

まず、当時のギリシャには政治や宗教、文化などを共有する比較的規模の小さな集団が複数存在していた。これが都市国家とか、ポリスと呼ばれるものである。ソクラテスが所属していたアテナイも、都市国家の1つである。当時は戦乱の時代であって、戦争に負けた都市国家の人間は、奴隷として扱われていた。実際、ソクラテスも3回、戦争に参加したと言われている。そして、戦争に強かったアテナイには、参政権を持たない10万人の奴隷と、参政権を持つ2万人の市民が住んでいたのである。但し、参政権を得ることができたのは、30才以上の男だけだった。

 

当時、アテナイには10の部族が住んでいた。そして、各部族から50名ずつの陪審員がくじ引きで選出されるという仕組みになっている。つまり、総計500名もの陪審員が裁判における評決を下す。そして、この訴訟制度に基づき、ソクラテスに対する裁判が提起されたのである。原告は、以下の3名であった。

 

メレトス ・・・ 詩人の代表

アニュトス・・・ 職人と政治家の代表

リュコン ・・・ 演説家の代表

 

いずれも、ソクラテスによって自尊心を傷つけられた者たちの代表である。そして、原告である上記の3名が訴訟を提起した原因(訴因)は、次の2点であった。

 

訴因1: ソクラテスは、国家の定める神々を認めず、ダイモニアを導入している。

訴因2: ソクラテスは、青年を腐敗させた。

(求刑: 死刑を要求する)

 

まず、「訴因1」におけるダイモニアについてだが、これは「神霊」と訳すのが良いと思う。シベリア地方のシャーマンが、森の「精霊」の声を聴くように、ソクラテスも「神霊」の声を聴いていたのである。この神霊、すなわちダイモニアを差して、原告たちはアテナイが認める神とは異なると主張した訳だ。しかし、ダイモニアは神と人間との中間的な存在であり、若しくは神の声を人間に伝える媒介者であると言えるのであって、ソクラテス自身は、アテナイの定める神々を信仰していたのである。ちなみに、後のキリスト教社会においては、他の宗教が崇拝する神々をデーモンと呼ぶが、この言葉はダイモニアに由来しているものと思われる。

 

次に、「訴因2」の「青年を腐敗させた」ということだが、これはソクラテスが時に「若者愛」と呼ばれる性的な関係を基礎として、青年たちを教育していたことが非難されているのであろう。この原告らの主張は抽象的であって、具体性に欠ける。

 

そして、1回目の採決が行われる。この採決において問われたのは、まず、ソクラテスを有罪とするか、無罪とするか、という点である。投票結果は、次の通り。

 

有罪 ・・・ 265票

無罪 ・・・ 235票

 

これでソクラテスの有罪が確定した。続いて、量刑の審議が始まる。アテナイにおいては、死刑、名誉刑、財産刑の3種があったが、原告であるメレトスは改めてソクラテスの死刑を求めたのである。そこで、2回目の採決が行われた。すなわち、ソクラテスの死刑に賛成するか否かという点が問われたのである。投票結果は、次の通り。

 

死刑に賛成 ・・・ 360票

死刑に反対 ・・・ 140票

 

こうして、ソクラテスに対する死刑が確定したのである。ちなみに、「ソクラテスの弁明」は1回目の採決の後、2回目の採決が行われる直前に行われたものと思われる。そう思ってこれを読み返すと、感慨もひとしおである。(「ソクラテスの弁明」は2回目の採決の後で行われたとする説が、存在するかも知れない。しかし、そうであれば「弁明」する意味はない。よって、私は、2回目の採決の直前だと考えている。)

 

死刑という残酷な評決が下った後、ソクラテスは約1か月の間、監獄に収監された。その間、多くの友人や弟子たちが訪ねて来て、ソクラテスに脱獄を勧めた。しかし、ソクラテスは頑として譲らず、獄中で自ら毒のもられた盃を飲み干したのである。

 

ここまで述べると、先に述べた私の理解を説明することができるだろう。すなわち、ソクラテスは、「権力を持った大衆」に殺されたのである。この「権力を持った大衆」とは、原告の3名と、彼らを支持していた詩人、職人、政治家、演説家などである。そして、陪審評決において死刑を支持した、奴隷ではなく、30才以上の、360名の男たちだった。彼らにとって、ソクラテスは他者だったのだ。すなわち、「権力を持った大衆」は、ソクラテスの思想や言動を理解することができなかったのである。理解できない他者に、彼らは死をもたらしたのである。私は、そこに民主主義の限界があると思うのだ。戦後教育を受けた私は、とにかく民主主義は素晴らしい、それが最高のシステムだと教わってきた。しかし、そうではない。愚かな大衆は権力を持ち、そして賢者を抹殺するのである。そういう深刻なリスクを孕んでいるのが民主主義の真の姿だと言わざるを得ない。確かにそれは、愚かな人間が考案した最良のシステムかも知れない。しかし、決してそれがベストだと思ってはいけない。

 

ところで、「権力を持った大衆」は、本当にソクラテスを殺害することができたのだろうか。ソクラテスは本当に「権力を持った大衆」に殺されたのだろうか。そう考える訳だが、この問題は、簡単に次のように述べることができる。すなわち、彼らはソクラテスの身体を殺害することには成功した。しかし彼らは、ソクラテスの魂まで葬ることはできなかったのだ、と。こう述べて、異論を差しはさむ人はいないだろう。

 

ソクラテスの魂(その5) 希望としてのエクリチュール

 

それにしても、酷い世の中になった。コロナウイルスが蔓延しているからではない。疫病の流行は、何も、コロナが初めてのことではない。そうではなくて、政府の対策がことごとく失敗していることの方が、私にしてみれば、余程危機的だと思えるのだ。そもそもコロナの感染メカニズムは、飛沫感染ではなく、空気感染だと考えるのが妥当なのだ。従って対策の主眼を飲食店(=飛沫感染)に置くのではなく、職場や学校の換気をターゲットにすべきだと思う。

 

また、コロナ対策における最重要項目がワクチンの接種にあることに、私は、反対していない。実際、65才の私は、既に2度のワクチン接種を完了している。しかし、何らかの事情でワクチン接種を拒否する人も少なくない。アレルギー体質だとか、既往症だとか、年令だとか、中には宗教上の理由による場合だってある。それらの人々にワクチン接種を強要することはできない。どうだろう。他の先進国においても、ワクチンの接種率は、概ね、7割程度が上限となっていて、それ以上は増えないのではないか。そうしてみるとコロナ対策は、ワクチンのみに頼るのではなく、PCR検査と隔離、下水道からのウイルス検出など、複数の方策を総合的に講じていくべきことになる。

 

しかし、日本の政府と御用学者たちは、一向に対策を講じようとしない。マスコミは何も追求せず、オリンピックなどという利権にまみれた娯楽を優先しようとしている。

 

そもそも私は、スポーツが嫌いだ。いくら身体を鍛えて飛んだり跳ねたりしたところで、その人の魂が磨かれることはない。そんな暇があったら「魂のこと」に専念すべきなのだ。それがソクラテスの思想である。

 

かつて私は、人間を以下の4種類に分類するという説を書いた。

 

・権力者

・大衆

・芸術家

・単独者

 

それはそれである種の正しさを持っていると思うが、私は今一度、オルテガの「大衆の反逆」を思い出すのだ。オルテガの説によれば、かつて西洋社会においては、それなりに立派なことをした人が貴族となり、社会を統治していたのである。そこで終われば良かったのだが、何故か、貴族という身分は世襲によって継承されたのである。そして、取り立てて立派なことをしたことのない2世、3世の貴族が、社会を統治するようになった。この「取り立てて立派なことをしたことのない人」をオルテガは、大衆と呼んだ。そして、この大衆が権力を持つに至った現象を「反逆」と言ったのである。

 

オルテガの主張は、現代の日本にも当てはまるだろう。日本の権力者とは「権力を持った大衆」のことなのである。そして、権力を持たない大衆が権力者を支えていると考えれば、辻褄が合う。人間誰しも、自分には理解できない他人を嫌う。そして、自分に似た者を支持するのである。こうして、大衆が支持する大衆による支配構造が完成されるのだ。中学生並みの言語能力しか持たない男が総理大臣になり、官僚はすぐにばれるような嘘をつき、メディアの人間は何事に対しても疑問を持たないのである。

 

ソクラテスの時代に話を戻そう。フーコーの「性の歴史」によれば、古代ギリシャにおいては、「若者愛」という制度が確立されていた。これは、成人男性と未成年男子との間における同性愛を差す。実は、この奇妙な関係と哲学との間には、密接な関連があるのだ。すなわち、男子はある程度の年令に達し、誰かから何かを学びたいと思うと、師匠の元へと弟子入りするのである。そしてこの弟子入りが、すなわち「若者愛」という形を取るのである。師匠と性的な関係を持ち、濃密な時間を過ごす訳だが、その間に様々な教育を受けるのである。

 

そうしてみると、気になるのはソクラテスとその弟子、プラトンとの関係だ。プラトンソクラテスに弟子入りした訳だが、その際の年令にはいくつかの説がある。二十歳だったという説もあれば、16才だったという説もある。ここから先は私の想像だが、それは多分、16才だったのだろう。そして、ソクラテスプラトンは、「若者愛」の関係にあったのではないか。ちなみにアリストテレスも、16才のときにプラトンに弟子入りしたらしい。こちらも、多分、そういう関係にあったものと推測される。

 

また、ソクラテスは生涯を通じて、一冊の本も書かなかったのである。その理由についても諸説あるのだろうが、上記の「若者愛」との関連で考える必要があるのではないか。ソクラテスには多くの弟子がいたし、広場に出かけては誰かれとなく話しかけて議論をしたそうだ。すなわち、ソクラテスは徹底してパロール話し言葉)を尊重したのである。

 

そして、ソクラテスの言動を今日、私たちが知ることができるのは、プラトンの功績による。ソクラテスの死にショックを受けたプラトンは、ソクラテスの思想をとにかく書き留めたのである。ソクラテスの思想を広く社会に伝えたい、後世に伝えたいと考えたプラトンは、膨大な著作を残したのである。こちらは、エクリチュール(書き言葉)に注力したと言える。

 

このようにパロールエクリチュールの問題は、古代ギリシャの時代にまで遡るのである。

 

ちなみに最近の文献によれば、パロールは音声言語、エクリチュールは文字言語と訳すらしい。確かにこちらの方が正確だと思うので、私も今後は、こちらを採用することにしよう。

 

ソクラテス ・・・ パロール ・・・・・・ 音声言語

プラトン ・・・・ エクリチュール ・・・ 文字言語

 

西洋の社会においては、永い間、パロールの方がメインでエクリチュールは補助的な役割しか果たさないと考えられてきた。これに異議を唱えたのはポスト構造主義ジャック・デリダである。私は、デリダの思想を勉強したことがないし、デリダはどうも肌に合わない。(デリダフーコーを批判した経緯があり、フーコーを支持している私としては、どうもいけ好かないのである。)

 

デリダはさて置き、私なりに思うところがあるので、このパロールエクリチュールの問題について、述べてみたい。

 

結論から言おう。私は、エクリチュールこそが大切なのであって、そこにこそ希望があると考えている。

 

そもそも現代日本において「若者愛」という習慣はないし、そんな制度によって何かを誰かから学びたいとは思えない。この「若者愛」による思想の伝承が成立する一つの要因は、年令差である。経験の少ない若者であればこそ、師匠の教えを素直に聞いたのではないか。それが同年代ともなれば、当然、意見の相違が生じるに違いない。実際、広場でソクラテスに議論を吹っ掛けられた多くの人々は、不愉快な思いをしたのである。

 

パロールは必ず、それを聞く相手を前提としている。相手がいるから、その相手に向けて話すのである。そして多くの場合、何かを話すという行為は、相手方の共感なり同意を求める。この行為は必然的に、パターナリズム(上から目線)、同調圧力、マウンティングなどの弊害を伴うことになる。人間は千差万別、十人十色なので、同意に至るなどということは、まず、ないのである。実際ソクラテスは、人々から嫌われ、死刑宣告を受けるに至った。

 

他方、エクリチュールは、特段の読み手を想定せずに書かれる場合も少なくない。例えば、現在、私はこの原稿を書いている訳だが、どこのどなたにお読みいただけるのか、皆目、分からないのである。また、読者の側からすれば、この原稿が気に入らなければ、そもそも読まなければいいのである。つまり、エクリチュールというコミュニケーション手段においては、先に述べたパターナリズム等の弊害を回避することが可能なのだ。そもそも、エクリチュールがなければ、私たちはフーコーソクラテスの思想に触れることすらできない。エクリチュールは、時空を超える。

 

そもそも、パロールは身体から発せられる声のことで、抽象的な意味での身体性から離れることは難しい。身体があって、音声があって、それによって共感や同意を求めるということは、そこに権力関係の萌芽を見て取ることができる。

 

私も、身体が大切でないとは言わない。しかし、身体よりも大切な魂というものがある。では、その魂について何かを伝える、魂について考える方策としては、何がいいのか。そう考えると、自ずとエクリチュールの重要性が明らかになる。今日まで、いつの時代でも、どこの国でも、魂とは個別的であって、反権力なのだ。

 

身体 ・・・ パロール ・・・・・・ 権力

魂  ・・・ エクリチュール ・・・ 反権力

 

人は、人から学ぶのだ。自らの魂を成長させるということは、先人たちの魂について学ぶことに他ならない。そして、その際に用いるべき記号、それがエクリチュールなのである。自己の魂に配慮するということ、それはエクリチュールと共に生きるということなのだ。無意識から意識へ、狂気から理性へと歩みを進めること。それはエクリチュールによってのみ、可能となる。そこに、大衆に支配された現代社会を改変していくための鍵がある。

 

ソクラテスの魂(その4) 個別的な真理

 

身体は死滅しても、魂は死なない。だから、身体よりも魂の方が重要なのだ。ソクラテスはそう考えたので、自らの魂に忠実であろうとした。そして、死刑の評決に従って、毒の盛られた盃を飲み干して死んだのである。このようにショッキングな死に方をしなければ、ソクラテスは今日のように有名にはなっていなかったかも知れない。

 

そして、ソクラテスの命日は、紀元前399年4月27日なのである。それがどうしたと言われるとちょっと困るのだが、この4月27日という日、実は私の誕生日なのである。一瞬、私はソクラテスの生まれ変わりなのかと思ったりしたが、そんな馬鹿なことがあるはずはない。それでも、ちょっと嬉しい。何しろ、この427という数字は「死にな」と読める。とても縁起の悪い日なのである。しかし、それがソクラテスの命日と重なるとなれば、事情は異なる。このことを私は、何かの本で読んだのだ。どの本だったのだろう? そう思って手持ちの本の頁を繰るのだが、その記述は見つからない。勘違いだったのだろうか? 夢の中にそのような話が出て来て、私は、それを現実のことと勘違いしたのではないか? 半ば諦めかけたのだが、念のため、ネットで検索してみた。「ソクラテス 命日」と打って検索を掛けると、見事に複数の記事にヒットした。それはやはり、4月27日だったのである。そして、ソクラテスを偲んで、この日は「哲学の日」とされているとのこと。なんという偶然! 私の本名は哲学の哲と書いて、サトシと読むのである。

 

哲学の日に生まれたので「哲」になったのであれば、これは随分と教養の高い家庭に生まれたことになる。しかし、実際は違う。私の祖父はタカシで、父はヒトシ。そして、私がサトシなのだ。明らかにこの名は、単なる語呂合わせで生まれたものである。

 

それにしても、ソクラテスの命日が哲学の日となり、その日を誕生日に持つ日本の哲という男が、今、ソクラテスの勉強をしているのである。これはシンクロニシティではないのか!

 

ところで、前回の原稿について、少し補足させていただきたい。ソクラテスの思想には、矛盾がある。その1つにソクラテスは、人間は自己の魂に配慮せよ、すなわち学べ、思考せよと言っている訳だが、それでも人間が真理に到達することはない。それでは何故、人間は思考すべきなのか、という問題がある。この点、どうやらソクラテス自身も悩んだようなのである。この問題を解決するためにソクラテスは、「人間並みの知恵」という概念を作り出した。人間は、この「人間並みの知恵」を得ることができるのだから、学ぶべきだ、思考すべきなのだ。しかし、それはあくまでも「人間並み」なのであって、神の知恵には遠く及ばない、と考えたのである。

 

ここまで書いて、私は、フーコーの言葉を思い出す。

 

「普遍的な真理というものに、私は懐疑的だ」

 

とても複雑で、難解なフーコーの思想も、その骨格はソクラテスに依拠しているのではないか。ソクラテスは人間の能力を「人間並みの知恵」に限定されると考え、フーコーは普遍的な真理に対し、懐疑的だと述べている。似ている。

 

そうしてみると、ソクラテスの思想に現代的な意義を見出すことが可能となるのではないか。ソクラテスは、まず、神の存在を信じた。そして、死後にも生き続ける魂の存在を信じていた。私は、この2点については全面的に否定したい。神や不滅の魂など、存在するはずがない。

 

少し、整理をしてみよう。概念上、「普遍的な真理」というものを設定しよう。これは、いつの時代においても妥当するものである。それは、決して変化することがないのだ。そして、真理と言うからには、それは人間にとってとても重要な何かのことである。今日現在、そのような原理だとか、システムは発見されていない。古代に生まれた芸術も、中世に育まれた宗教も、近代を象徴する理性を基軸とした思想も、決して全ての人々を幸福に導くことに成功はしていない。それどころか、それらの歴史の最先端にある現代において、人類による環境破壊は進み、資本主義はとてつもない格差を生み出し、行き詰まっている。ホモサピエンスという形態に至ってからでも、既に20万年が経過しているというのに、人類は未だに普遍的な真理を発見できずにいる。すると、今後ともそれを発見することはできない可能性がある。それを発見するか、その前に滅亡するのか、それは誰にも分からないので、フーコーのように「懐疑的だ」と述べるのが限界なのではないか。

 

次に、便宜上、「個別的な真理」という概念を措定しよう。これは、ソクラテスが「人間並みの知恵」と呼んだものに相当する。そして、「個別的な真理」は各時代の科学的知見、常識、価値観など(エピステーメー)に影響を受ける。エピステーメーは変化し続けるので、その影響を受けている限りにおいて、人間が普遍的な真理に到達することはない。すると、人間はエピステーメーの外側に出ることができるのか、という問題があることになる。結論から言えば、それは不可能であるに違いない。人間はエピステーメーの内側でしか、思考することができない。それはソクラテスにも言えることで、神や不滅の魂という発想自体が当時の常識(エピステーメー)であったことは明らかだし、その他にもソクラテスをはじめとするギリシャの哲人たちは、当時の社会が容認していた奴隷制に疑問を提起していない。ソクラテスといえども、エピステーメーの内側で思考していたのである。

 

このエピステーメーの内側の思考とは、正に「人間並みの知恵」に相当し、普遍的な真理には至らないので、これを「個別的な真理」と呼びたい訳だが、これは1つの仮説のようなものである。こうなっているのではないか、こう考えればうまくいくのではないかという仮説。それが宗教であり、イデオロギーなのである。しかし、その正しさが実証されたものなど、1つもないのである。占星術キリスト教マルクス主義も、仮説に過ぎない。もう少し普遍化して言えば、全ての思想は未完なのである。個別的な真理を求め、仮説を立てて、失敗を繰り返す。それが人類の歴史だとも言える。

 

次に魂について考えてみよう。ソクラテスの弟子だったプラトンは、魂とは何かということを真剣に考えた。魂という概念があって、それがデカルトを経て心に変わったという説もある。しかし、ここでは、簡単に次のように考えてみよう。魂、それは心の奥底にあって、その人が決して妥協できない何か、切実に訴えたいと思っている信念のことだ、と定義するのはどうだろう。魂という言葉は現代にも生きているし、現代人である我々は、概ねそのように理解しているはずだ。それは身体と共に滅びるが、だからと言って魂が重要ではない、ということにはならない。

 

そして、自己の魂に配慮せよというソクラテスの主張は、個別的な真理に到達するための方法論であることに留意する必要がある。また、個別的な真理とは、人間集団の中にあるのではなく、それは個々人の魂の中に存在するということを示唆している。私はこの主張に賛成である。そもそも、人間というのは、3人集まれば派閥ができると言われている。2人対1人になる訳だ。そして、数の力が働いて、2人の方が権力を持つことになる。権力を持った者は、それを維持しようとする。権力を持った者が何かを始めると、それは経路依存性を持ち、たとえそれが破滅に向かう道であっても、突き進もうとするのだ。つまり、人間集団の内部には必ず権力が生じ、往々にして権力は集団を狂気へと導く。全ての人間集団と集団の論理は、狂気に充ちているのである。

 

この点、前の原稿で戦争を強行したアメリカ政府と、戦場から戻りPTSDに苦しむ米兵の例を書いた。そんな例は、枚挙にいとまがない。例えば、古くから裁判制度は冤罪を生んできた。集団の側に立つ裁判という制度。これは狂いがちなのだ。そして、刑事事件であれば必ず真犯人がいる訳で、真犯人の魂は、自らが犯した罪について認識しているのである。

 

現在、五輪のスポンサーになっているマスコミは、五輪を開催する方向へ世論を誘導しようとしている。あの朝日新聞毎日新聞でさえも、事情は変わらない。コロナの第5波を迎えつつある現状に鑑み、私は、これらのメディアは狂っていると思う。朝日新聞は、五輪のスポンサーを降りるべきだという意見が、ようやく出て来たが、多分、既にそのタイミングは逸しているのだろう。ここでも、一縷の望みがあるとすれば、それはメディアに働く個々人の良心しかないのである。真実を伝える。正しいことを主張する。メディアに働く個々人が、自らの魂の声を聴くべきなのである。

 

つまり自らの魂に配慮するとは、狂気に充ちた集団の中にあっても、自分だけは壊れない、狂わないようにしようとする強い意志を持つことに他ならないのだ。

 

以上が、私の考えるソクラテスの思想の現代的な意義である。

 

ソクラテスの魂(その3)

 

結局人間は、互いに理解し合うことはできないのではないか。昔から「十人十色」などと言うが、それは1億2千万人(日本の人口)いれば1億2千万色になる訳で、同じ価値観を持つ人間は、2人といないに違いない。

 

例えば、水について研究してみれば、それは必ず高い所から低い方へと流れるし、摂氏100度で気化し、0度で氷結する。このように水には明確な規則性がある。もう少し人間に近いところで猫について考えてみよう。彼らは怒るとシャーと言うし、気持ちが良ければゴロゴロと喉を鳴らす。こちらにも規則性を認めることができる。猫の行動を支配しているのは本能である。リリーサーと呼ばれる何らかの外的な「きっかけ」に出会うと、本能のある部分が開放され、猫の身体が反応するのである。従って、猫の身体的な反応や行動を注意深く観察すれば、彼らの本能を推し測ることは可能なのだ。

 

ところがこの世で唯一、人間だけは、このような規則性を持たないのではないか。例えば、コロナに関するニュースがヤフーに掲載される。するとその記事に対するコメントが一気に書き込まれる訳だが(ヤフコメ)、それを見ると人々の意見がいかに多様であるか、見て取ることができる。相変わらずコロナは風邪の一種でたいしたことはないという楽観論があれば、変異株に対する恐怖を説くものもある。政府や自治体の対策についても、強化すべきとするものと、解除すべきだというものがある。はたまた政府はコロナの感染者数を意図的に多く出しているという意見があれば、反対に少なく偽っているというものもある。

 

人間は皆、個性的な顔を持っている。同じ顔をした人間が世界に3人はいるという説もあるが、私は、私と同じような顔をした人間に出会ったことがない。つまり人間は、顔が違う、持っている知識が違う、経験が違う、生きている時代が違う、加えて利害関係も違うのである。だから、物の見方や考え方も違うのである。少なくとも、誰かと同じ人生を送る人間など、この世に1人もいないのである。

 

本質的に、人間は互いに理解し合うことができない。

 

このように考えると、万人が納得する法律や憲法というものも存在しないことになる。仮に、真理とは万人が納得するものである、と定義してみると、この世には真理すら存在しないことになる。

 

哲学の歴史もまた、この問題に直面したことがある。まず、西洋を中心に発展した近代思想があった。人間には理性があるので、これに従って、社会を構築しようというものだ。だから、多くの哲学者は「法とは何か」という問題に取り組んだし、理性を強化しようと考えたカントは「純粋理性批判」を書いたのである。カント、ヘーゲルマルクスあたりまでがモダン(近代)だと言っていいだろう。ある意味、モダンの思想家は楽観的だった。しかし、そこに登場したのが心理学のフロイトだった。フロイトは、人間の心の大半は無意識に占領されているのであって、人間は無意識に支配されていると訴えた。理性なるものが存在するとすれば、それは意識の側にあるのであって、フロイトの心理学は西欧のモダン思想と対立した訳だ。加えて、2度に及ぶ世界大戦、広島、長崎に対する原爆投下などがあり、モダン思想に対する懐疑が渦巻く。

 

そこで登場したのが、レヴィ=ストロースで、彼は「悲しき熱帯」において、ヨーロッパ中心主義の誤りを指摘し、構造人類学を提唱した。これが構造主義だ。その後、多くの思想家が様々な構造を提唱したが、然したる成果は生まれなかった。そこで、ポスト構造主義が誕生する訳だが、私の敬愛するミシェル・フーコーもその1人に数えられている。ちなみに、構造主義ポスト構造主義を総称して、近代の後という意味で、ポストモダンと呼ぶ。

 

大雑把に言うと、人間には理性がある、法によって社会を統制し、憲法に従って国家を建立しよう、というのがモダン思想だろう。しかし、その前提は崩れた。するとポストモダンの思想は、2つの選択肢を持つことになる。1つには、人間は無意識によって思考し、行動するので、これを統制することはできない。真理など存在しない、という立場である。勢い、真理など存在しないのだから考えたって無駄さ、ということになる。そして2つ目は、それでも人間は思考せよ、という立場である。フーコーは、それでも思考せよというこの立場を選択した。

 

冒頭に記した「人間は互いに理解しあうことはできない」とする私の意見は、ポストモダンだと言っていいだろう。そして私は、フーコーと同じように、それでも思考すべきだと考えている訳だ。しかし、この立場は重大な矛盾を抱えている。思考すべきだが、真理には到達できないのだ。真理に到達できないのであれば、何故、思考するのかという問題があって、これに対する簡単な回答は、用意されていない。このパラドックスは、人類が抱える永遠の課題なのであって、その宿命から人類が解放されることはないのではないか。私がそう考えるようになったのは、この問題、既に2500年前にソクラテスが提起しているからである。

 

一般に「無知の知」と呼ばれる思想がある。これは誤りであって、正しくは「不知の自覚」と言うべきだとする説もあるが、双方に本質的な差異は認められないので、ここでは一般的な表現に従うこととしよう。おおまかな経緯は、次の通りである。

 

古代ギリシャアテナイに、おせっかいな人がいて、この人は神殿に勤務する巫女さんに「この世で一番優れた人間は誰か」と尋ねた。すると巫女さんは「ソクラテスである」と答えた。そのことを知ったソクラテスは不思議に思う。無知な自分が何故、優秀なのかと。そこでソクラテスは、周囲にいる偉そうな顔をしている人々に、真善美について、片っ端から議論をもちかける。しかし、誰も本質的なことには答えられない。そこでソクラテスは思う。自分は、自分が無知であることを知っているが、他の者はそのことに気付いていない。無知であることを知っている分、自分は他の者たちよりも優れている。巫女さんが言った通りだ。ソクラテスは、そう考えたのである。

 

これが「無知の知」という思想の経緯だが、少し整理してみよう。ソクラテスは、巫女さんの発言を前提に考えているのであって、すなわちこのことはソクラテスが神の存在を信じていたことを意味する。そして、ソクラテスは神のみが真理を知り得るのだと考えていた訳だ。神の次に優秀なのは、無知の知を自覚している自分であって、その他の一般人が最下層に位置づけられる。

 

神 ・・・・・・・ 真理を知っている。

ソクラテス ・・・ 無知であることを自覚している。

一般人 ・・・・・ 無知であることを自覚していない。

 

また、ソクラテスは「自己の魂に配慮せよ」とも言っている。これは矛盾しているのであって、先に述べたポストモダンが抱える課題とよく似ているのだ。

 

仮にある人が「考えた結果、自分は真理を悟った」と言えば、その人は無知であることの自覚を失った訳で、最下層の「一般人」のレベルに転落するのである。他方、自分が無知であることを自覚して考え続けたとしても、真理には到達できない。つまりソクラテスは、永遠に到達することのできないゴールを目指して歩き続けよ、と言っているのに等しい。

 

しかし、人間とはそういうものではないだろうか。ちょっと、ため息が出る。

 

ソクラテスの魂(その2)

名前だけなら、中学生でも知っているであろうソクラテス。私も、軽い気持ちでこの原稿に着手した訳だが、それは誤りだった。もちろん、ソクラテスの思想を現代人である私たちがそのままの形で受け入れることは困難だ。しかしその思想には、混迷を極める現代文明を考えるために必要なヒントが隠されている。

 

ミシェル・フーコーは、若き日にその著書「言葉と物」において、エピステーメーについて述べた。これは、ある時代のある社会が共有している科学的知見、常識、共通する価値観などを差す。しかし、晩年のフーコーは、遺作となる性の歴史シリーズにおいて、ギリシャ哲学へと向かう。そして、そこにおいては、人間にとって普遍的な何かが語られている。例えば性の歴史第1巻のタイトルは「知への意志」であり、これは俗に「無知の知」として知られているソクラテスの思想を想起させる。また、第3巻のタイトル「自己への配慮」は、明らかにソクラテスの「魂への配慮」と呼ばれる思想を反映したものである。

 

結局、人間の社会には変化し続けるエピステーメーがあって、それとは別に、不変の真理があるのではないか。フーコーが最終的に真理の存在をどう考えていたのか、私はそれを知らない。しかし、真理は存在する、と私は思う。少なくとも、真理なるものが存在するのだと信じて考え続けること、知への意志を持ち続けること、それが重要であると言えば、フーコーも反対はしないだろう。

 

では、真理はどこに存在するのだろう。国家か、中間集団か、個人か。それは、個人の心の中に存在するのではないだろうか。人間が集まって集団を形成すると、国家であろうと中間集団であろうと、そこには必ず権力関係が生まれる。そしてこの権力関係が、人間集団を狂わせるのだ。先の戦争もそうだったし、現在、日本はコロナ禍の最中であるにも関わらず、五輪に突き進もうとしている。いつの時代でも、人間集団は狂気に充ちている。

 

例えば、アメリカという国家は、戦争を繰り返してきた。しかし、戦場から帰還した兵士たちの多くは、永くPTSDに苦しめられていると聞く。どちらが正しいのか。戦争を行う国家なのか、戦争を忌避しようとする個々の兵士の心なのか。

 

思えば、思想や文学なども、その筆者や作者は、ほとんどの場合、個人なのである。個人が自分の心と向き合うところから、それらの歴史が始まり、その営みは今日も続いている。

 

心の奥底にある何か、それを魂と呼ぶならば、真理とは魂の中に存在しているに違いないのだ。そのことを差して、ソクラテスは自己の魂に配慮せよ、と述べたのだろう。