文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

戦争と文明(その6) 憲法と米国の対日占領政策

 

前回の原稿において、「1947年に日本国憲法が施行されたのだが、奇しくも、その年に米国の基本政策が転換された可能性が高い」と書いた。米国は、日本に対する占領政策を何故変更したのか。この問題がどうしても気になって仕方がない。そこで、いつもの本屋(ジュンク堂)へ行ってうろうろしていると、次の本を見つけたのである。

 

文献1: 戦後史の正体(1945-2012)/孫崎享創元社/2012

 

早速、購入して読み始めた訳だが、これがどうにも止まらない程、面白いのである。そして、概ね、米国が方針を変更した理由も分かったので、まずは、その経緯を振り返ってみたい。

 

まずは、日本国憲法制定の経緯から始める必要がある。

 

1945年5月8日、第二次世界大戦において、ドイツが降伏した。この時点で、日本についても敗戦がほぼ、確定的となったのである。そこで、1945年7月26日、米英支の3か国はドイツのポツダムにおいて、宣言を交付する。ポツダム宣言である。その趣旨は、日本に降伏を促すもので、日本が降伏しない場合は、その後、徹底的に攻撃を仕掛けるという強迫的な内容をも含んでいた。但し、ポツダム宣言は思いの他、先進的な内容も含んでいたのだ。ポツダム宣言は日本に対し、次の事項を要求している。

 

10項 (前略)言論、宗教、及思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし。

 

12項 (前略)日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ平和的傾向を有し、且つ責任ある政府が樹立せらるるに於ては聯合国の占領軍は直に日本国より撤収せらるべし。

 

日本の一般市民にとっては、この時点で日本が降伏した方が、余程幸せだったのである。そうすれば、広島、長崎に原爆を投下されることもなかったのだ。

 

同年8月15日に、天皇陛下による玉音放送がなされ、日本国民は敗戦を知る。

 

同年8月30日、連合国最高司令官としてのマッカーサーが来日する。

 

同年9月2日、東京湾に停泊していた米国戦艦ミズーリ号において、日本は正式な降伏文書に調印する。この降伏文書において、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏したのである。そこで、問題が生ずる。ポツダム宣言を受諾したのだから、日本にはその10項と12項を遵守する責任が生じたのだ。日本はその国民に対し、言論、宗教、思想の自由を保障し、基本的人権を尊重しなければならない訳だが、当時の明治憲法にそのようなことは書かれていない。つまり、憲法を改正する必要が生じたのである。

 

そこで、状況を察知した学者など、政府機関とは別に、換言すれば民間ベースで、憲法草案を策定する動きが生ずる。特筆すべきは、鈴木安蔵らが立ち上げた憲法研究会が1945年12月26日に公表した「憲法草案要綱」である。

 

当初、日本政府は憲法改正に消極的だったが、マッカーサーは1945年10月4日に国務大臣を務めていた近衛文麿に対し、そして、同年10月11日には幣原(しではら)首相に対し、改憲に取り組むよう促したのである。そこで、日本政府は憲法問題調査委員会を設置し、松本国務大臣を委員長に据えた。

 

同委員会が策定中だった改正案については、1946年2月1日に毎日新聞がこれをすっぱ抜いた。その内容に失望したマッカーサーは、同年2月3日、GHQのスタッフに憲法改正草案の起草を命じると共に、自らの考えを記したノートをGHQの民政局に提示する。これがマッカーサー・ノートと呼ばれるものだ。マッカーサー・ノートには、次の3項目が記されていた。

 

マッカーサー・ノート>

 

憲法調査委員会は翌1946年2月8日、憲法改正要綱をGHQに提出した。便宜上、以下「松本案」と言う。

 

そもそもマッカーサーの基本方針は、日本が2度と戦争などできないような国にすることだった。換言すると、マッカーサーは日本を貧しく、平和主義で、民主的な国にしようと考えていたのである。それに対し、松本案は相変わらず天皇に強い権限を認めるなど、とてもマッカーサーの意に沿うものではなかったのである。

 

マッカーサーは、急いでいた。と言うのも、同年2月26日には11か国によって構成される極東委員会が発足することが決まっていたからである。極東委員会が立ち上がってしまうと日本の憲法を制定する権限も同委員会へ移転される。その前に、マッカーサーは自らの手で日本の憲法を作り上げてしまおうと考えていたのである。

 

マッカーサーの命を受けて、憲法改正草案を策定したGHQは、2月13日、それを日本政府側に手交した。その際、GHQ天皇の戦争責任を引き合いに出し、日本政府側にマッカーサー草案の受諾を迫った。

 

- 1946年2月13日、マッカーサーの右腕だったGHQのホイットニー民政局長が、吉田外務大臣をはじめとする日本政府関係者と会合をもち、自分たちがつくった憲法草案を受け入れるよう強く求めます。ホイットニーは、当時日本側が作成中だった憲法草案を完全に否定し自分たちの草案を採用しなければ天皇が戦犯になるかもしれないとおどしました。 (文献1)P. 68 -

 

<1946年当時の経緯>

2月1日:  毎日新聞が松本草案(試案)をスクープ報道。

2月3日:  マッカーサー・ノートがGHQ民政局に示される。

2月8日:  GHQに松本案が提示される。

2月12日: GHQマッカーサー草案をまとめる。

2月13日: マッカーサー草案が日本政府に手渡される。

2月26日: 極東委員会発足。

11月3日: 日本国憲法、公布。

 

以後、日本側はマッカーサー草案をベースに検討を進めた。但し、このマッカーサー草案がどのように作られたのかという点については、議論がある。文献2においては、上に記した鈴木安蔵らが立ち上げた憲法研究会の「憲法草案要綱」が参考にされたと述べている。文献3は、国連憲章がベースになっていると主張する。但し、国連憲章天皇制の記述などはないし、国連憲章の基本スタンスは、集団的自衛権を認める点にある。一方、日本国憲法を素直に読めば、個別的自衛権のみを認めている。よって、国連憲章日本国憲法の共通点を認めるには、少し無理があるように思う。(この点、2015年の安全保障関連法案において、日本政府は不適切にも憲法解釈を変更し、集団的自衛権を認めることとした。)

 

私自身としては、憲法研究会の「憲法草案要綱」が参考にされているとする文献2の意見に反対すべき理由はないと思う。加えて言うならば、1928年に取り交わされたパリ不戦条約と日本国憲法9条との類似を指摘したい。どちらも戦争をする権利を放棄しているのである。1928年と言えば、第一次世界大戦終結し、国際連盟が設立され、未だ第二次世界大戦が開戦される前の時代だ。国際連盟は、カントの論文「永遠平和のために」を参考として設立されたのである。すると、カントの時代から脈々と受け継がれてきた哲学の歴史が、パリ不戦条約へと結びつき、その血流が日本国憲法にも注がれているに違いないと思うのだ。

 

1795年: カントが「永遠平和のために」を執筆。

1914年~1918年: 第一次世界大戦

1920年: 国際連盟設立。

1928年: パリ不戦条約。

1932年: アインシュタインフロイトによる交換書簡。

 

話を元に戻そう。

 

第二次世界大戦が終わると、ソ連が台頭した。

 

- 終戦後、米英とソ連は、たがいの勢力圏をどう確定するかで激しく対立するようになりました。そして「冷戦」が始まります。ソ連は占領したポーランドチェコスロバキアハンガリールーマニアブルガリアアルバニアで次々と共産党政権を樹立します。これに西側諸国が反発します。(文献1)P. 94 -

 

- 1947年6月、マーシャル国務長官は、米国がヨーロッパに対して大規模な復興援助をあたえる用意があることを表明します。西欧諸国はこれに応じますが、ポーランドチェコスロバキアなどの東欧諸国は結局参加しませんでした。これで東西対立が鮮明になります。 (文献1)P.95 -

 

このような状況変化に応じて、米国の対日政策が180度変化した。1948年1月6日、米国のロイヤル陸軍長官が演説を行った。残念ながら演説を行った場所については、参考文献にもネットにも情報がない。この演説においてロイヤル陸軍長官は、将来、ソ連との間で戦争が勃発した場合、日本を防波堤として使いたい、そのためには日本の経済を復興させたい、という趣旨のことを述べた。これはGHQの政策を真っ向から否定するものだった。マッカーサーは反論したようだが、やがて権力闘争に敗れる。

 

こうして、「逆コース」と呼ばれる米国の日本占領政策の方向転換が図られ、日本は平和主義を捨て、封建的な国家建設へと向かうことになったのである。今日、GHQの姿を目にすることはない。しかし、相変わらず日本国内には5万人もの米軍が駐留し、その経費の一部を日本が負担している。米国の意向を尊重し、媚びへつらい、日本人を誘導してきたのは自民党である。台湾を巡る米中対立が先鋭化しつつある今日、日本が戦争に巻き込まれるリスクも高まっていると言わざるを得ない。

 

<参考文献>

文献1: 戦後史の正体(1945-2012)/孫崎享創元社/2012

文献2: 日本国憲法【第3版】/播磨信義 他/法律文化社/2016

文献3: 知ってはいけない/矢部宏治/講談社現代新書/2017

文献4: 日本国憲法/長谷部恭男解説/岩波文庫/2019

 

文明と戦争(その5) 統一教会とグローバリズム(その1)

 

宗教と国家の間には、永い相克の歴史がある。簡単に述べてみよう。

 

古代において、シャーマニズムを基軸とするローカルな集団が誕生した。部族と言っても良い。彼らは、自分たちの価値観や信仰をうまく伝えることはできなかったはずだ。彼らは、歌い、踊っていた。しかし、何故そうするのか、彼ら自身、それを説明することは困難だったはずだ。すると、彼らの価値観や信仰を、他の部族に伝えることは困難であったと推測することができる。その後、文字が誕生する。文字によって、宗教上の経典が記されることになる。すると彼らの価値観や信仰の対象は、容易に説明することが可能となる。そこで、彼らは彼ら自身の信仰を拡散しようとしたに違いない。こうして、少人数のグループは、徐々にその規模を大きくしていったのだろう。こうして、宗教集団が生まれた。

 

拡大を続ける宗教集団は、互いにぶつかり合い、宗教戦争が始まる。戦争は熾烈を極め、あらゆる種類の残虐行為が繰り広げられた。これは酷い、もう戦争はごめんだ。そう考える人たちが登場して、新たな思想が誕生する。ホッブズ、ロックを経由して、ルソーが確立した社会契約論がそれである。更に、アメリカの独立戦争フランス革命を経て、近代国家が生まれた。

 

近代国家は、憲法を制定し、立法権、行政権、司法権を確立した。そう言えば聞こえは良いが、端的に言うと、近代国家は徴税権を持つと共に、徴兵制を敷き、軍隊を持ったのである。近代国家は、曖昧さと慣習に頼っていた宗教団体とは比べ物にならない程、強固な権力を確立したのである。この時点で、宗教は国家に敗北したのである。

 

ここまでの経緯を日本に照らして考えてみよう。

 

古代日本にもシャーマニズムとしての神道があった。その後、インドで生まれた仏教が、中国を経て日本に伝えられた。つまり、日本にはローカルな神道と、ある程度グローバルな特質を持った仏教とが併存したのである。どちらも民衆の間に根強い支持があって、これを区別することは困難となった。そこで、「神仏習合」と言う現象が生ずる。神でも仏でも、どっちでもいいよ、ということ。やがて、1868年に時の政府が神道を国教として定め、これが「国家神道」となる。詳しい経緯は分からないが、多分、日本人が日本人としてアイデンティティーを求めたのだろう。外国から伝わった仏教を奨励する訳にはいかなかったに違いない。そして、1870年に「廃仏毀釈」が実施され、多くの仏教寺院や仏像が破壊された。また、1890年に施行された明治憲法の第1条は、次のように記された。

 

大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス

 

こうして、日本においては仏教が敗北し、神道が勝利したのである。仏教は、存亡の危機に陥ったと言っても良い。そして、日本は真珠湾を攻撃し、第二次世界大戦に突入する。すると悲しいかな、多くの仏教徒は仏の教えを捨て、国家に擦り寄り、積極的に戦争に加担したと言う。その詳細は、次の本に詳しい。

 

仏教の大東亜戦争/鵜飼秀徳/文春新書

 

敗戦後の1947年に施行された日本国憲法においては、その第20条において、政教分離の原則が定められた。こうして神道は国教としての位置を否定され、ある意味、国家に敗北したと言えよう。

 

このように見て来ると、宗教と国家とは、相反するものであって、それは世界的に見ても、日本の歴史を見ても、同じ現象が生じたと言えよう。宗教は、国家に敗北したのである。

 

ところが、話はここで終わらない。ここから宗教の側からの反転攻勢が始まる。1964年に創価学会を支持母体とした公明党が設立される。但し、公明党は正面切って国家と対立するのではなく、政権内部に食い込むという戦略を取り、今日に至っている。公明党には特段の政策はなく、ただ、創価学会が有する宗教法人としての既得権を守ることを目的としているのではないか。あくまでも自民党に擦り寄り続ける公明党が、「下駄の雪」などと揶揄される所以である。

 

更に、1995年にオウム真理教地下鉄サリン事件を起こす。オウムは、国家と正面切って対立するという手法を採ったのである。

 

国家と宗教。この文脈において、統一教会の問題も考えるべきなのだと思う。

 

統一教会は、世界基督教統一神霊協会として1954年に韓国において設立された。そして、1959年に日本における布教活動を開始している。やがて統一教会文鮮明は、日本の岸信介と出会い、意気投合する。まず、岸信介については、米国のCIAから資金援助を受け、自由党民主党を合同させ、自由民主党を設立したという説がある。この点、私は直接的な証拠を見たことはないが、総合的に考えると、それは多分、事実だったのだろうと思う。同じように、文鮮明についても、CIAが何らかの支援をしていたのだろうと推測している。そう考えなければ、韓国の一カルトが、ここまで権力を拡大するとは考え難い。

 

少し本論とは離れるが、当時の政治状況を振り返ってみたい。1945年に日本は敗戦する。翌年の1946年には、日本国憲法が公布される。これはご案内の通り、社会契約論に起源を持ち民主主義を標榜するもので、国民主権基本的人権の尊重、平和主義を高らかに謳い上げるものだった。当時は、国際連合が設立(1945年)されたばかりで、世界中に平和主義を希求する声が多かったに違いない。そして、1947年に日本国憲法が施行されたのだが、奇しくも、その年に米国の基本政策が転換された可能性が高い。その詳細を私は知らないが、1949年に中華人民共和国共産主義国として設立されたことと密接な関係があるのだろう。米国は基本方針を転換し、日本、韓国、そして台湾を共産主義国家と対峙する防波堤としようと考えたのである。換言すれば、当初、日本の民主化を進めようとした米国は、1947年を契機としてその方針を180度変え、日本を全体主義の軍事大国に作り直そうと考えたのである。そして、そのための日本国内における代理人として、岸信介に白羽の矢が立ったのである。更にその動きは、統一教会とつながっていく。少し複雑なので、年表形式にまとめてみよう。

 

1946年: 日本国憲法公布。

1946年: 極東国際軍事裁判開始。(東京裁判

1947年: 日本国憲法施行。

(1947年に米国の方針転換があったとする説がある。)

1948年: 極東軍事裁判終結A級戦犯だった岸信介は、巣鴨プリズンから釈放される。

1949年: 中華人民共和国設立。

1950年: 朝鮮戦争勃発。レッド・パージ。

1951年: サンフランシスコ平和条約締結。日米安保締結。吉田茂

1952年: サンフランシスコ平和条約の発効と共に、戦時中の権力者が復権を果たす。

1953年: 朝鮮戦争休戦。

1954年: 統一教会、韓国で設立。

1955年: 自由党民主党が合同。岸信介自民党の初代幹事長に就任。

1957年: 岸信介内閣が成立。

1959年: 統一教会、日本での活動開始。

1960年: 安保闘争が激化。岸信介は、左翼活動を制圧するために右翼団体の他、児玉誉士夫を通じ、暴力団組織にもデモ隊制圧を依頼する。(出典:Wikipedia岸信介

日米安保を改定。日米地位協定締結。第1回日米合同委員会開催。7月15日、岸内閣総辞職

1968年: 統一教会文鮮明が韓国に国際勝共連合を設立。

 

このように並べてみると、当時の米国がいかに共産主義国の台頭を恐れていたか、そして、日本に何を期待していたのか、良く分かる。そして、米国の意向を受けた岸信介は、ある意味、その役割を立派に果たしたとも言える。そして、岸信介はその役割を1960年に、一気に完結したのである。あまりに不平等な日米地位協定も、そして、未だ闇に包まれている日米合同委員会も、その年から始まっている。ちなみに、1960年に改定された日米安保条約は、一見、日本の国民感情に配慮する内容だったが、その裏で密約が取り交わされ、圧倒的に日本に不利な条件が維持されたのである。そして、密約とセットで日米安保条約が改定されることを岸信介は知っていたとする有力説がある。

 

話を統一教会に戻そう。

 

(長くなってきたので、今回は、ここまでと致します。近日中に、続きの原稿をアップ致します。)

 

戦争と文明(その4) フロイトの思想、エロスと破壊欲動

 

1932年と言えば、第1次世界大戦が終結し、国際連盟が組織された後で、第2次世界大戦が始まる7年前のことだ。その年、国際連盟アインシュタインに対し、粋な依頼を行ったのである。それはまず、今の文明にとって最も重要であると思われる問いを選定することであり、次にそのテーマについて適切であると思われる相手と書簡を取り交わす、というものだった。そして、アインシュタインが設定したテーマは戦争であり、書簡を取り交わす相手として、彼は精神分析フロイトを選んだのである。その背景として、この2人がユダヤ系であるという共通点を持っていたことも、頭の片隅に入れておいた方が良いだろう。

 

それにしても、何と好奇心を掻き立てる話だろう。一体、彼らはどのような書簡を交わしたのだろうか。幸いこの話について、私たちは2冊の文庫本を通じて知ることができる。

 

文献1: 人はなぜ戦争をするのか/フロイト中山元 訳/光文社古典新訳文庫/2008年/640円

 

文献2: ひとはなぜ戦争をするのか/A. アインシュタイン S. フロイト/浅見省吾 訳/講談社学術文庫/2016年/600円

 

文献1は、フロイトにフォーカスするもので、アインシュタインの書簡は収録されていない。但し、フロイトが書いた他の論文が収録されている。また、解説が充実していて、フロイトの思想的な変遷がコンパクトにまとめられている。他方、文献2はアインシュタインの書簡についても、その全文が収録されている。

 

では、アインシュタインの書簡とフロイトの返信について、その要旨と私の所感を述べることにしよう。

 

アインシュタインの書簡>

 

アインシュタインはまず、彼が設定した課題について述べる。それは「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるか?」というもの。そして彼は、人間の心の中にこそ、戦争の問題の解決を阻むさまざまな障害があると考えている。この問題については、物理学者である自分よりも心理学者であるフロイトの方が、より深く、適切に考察できるだろうというのである。

 

次にアインシュタインは、国際連盟の役割と限界について言及している。すなわち、国際社会が1つの機関を作り上げ、その機関に国際的な紛争解決に関する立法権司法権を付与すれば、戦争によらずして国際的な紛争を解決できるというアイディアについて述べている。これはカントの思想に基づいて設立された国際連盟を差しているものと解釈できる。但し、実際にその機関(国際連盟)の決定に当事国を服従させるためには、そのための権力が必要となる訳で、それを持たない国際連盟の役割には自ずと限界がある。

 

アインシュタインのこの書簡は、上記のような疑問から出発する訳だが、疑問が疑問を呼ぶような構造になっている。つまり、この文章には起承転結というものがない。このような文章を要約するのは困難であり、むしろ、彼の疑問を箇条書きにした方が分かり易いと思う。

 

疑問1: (課題)「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるか?」

 

疑問2: 「少数の権力者たちが学校やマスコミ、そして宗教的な組織すら手中に収め、その力を駆使することで大多数の国民の心を思うがままに操っている!」。その理由は何か。

 

疑問3: 「人間の心を特定の方向に導き、憎悪と破壊という心の病に冒されないようにすることはできるのか?」

 

少し、私の所感を述べよう。「疑問2」において、アインシュタインは権力論を展開している。彼によれば、少数の権力者がいて、その権力者が戦争を始めるのだ。そして、その権力者に追従する者たちがいる。1つには、武器商人たちである。その他の例として、上記の引用文に登場する学校、マスコミ、宗教団体などが挙げられている。これは、人間の社会を集団単位で見ていることになる。すなわち、それは哲学、憲法学、社会学などが扱うべき分野の問題なのだ。それが、「疑問3」になると一気にブレイクダウンして、個々人の心の問題、すなわち心理学上の問題へと転換されている。そのようなアプローチが可能なのか、これは思考実験であり、フロイトとしても厄介な問いを投げ掛けられたものと解釈して良いだろう。

 

フロイトの返信>

 

フロイトは、アインシュタインが提示した問題に対し、はじめに「私の力の及ぶところではない」とか「政治家が取り組むべきものではないか」などと弱気な態度を示した上で、持論を展開し始める。

 

フロイトはまず、「法による支配」など、法律学政治学的な論点から説き起こすが、ここにはあまり見るべきものがないので、割愛する。フロイトの説の真骨頂は、彼の欲動理論にあると言って良い。広辞苑によれば、「欲動」とは、「人間を行動に駆り立てる内在的な力」のことである。そしてフロイトによれば、欲動には2種類あって、簡単に言えば、それは愛と憎しみのことなのだ。ただ、フロイトが語る欲動はもう少し複雑なのであって、更に彼はそれを複数の名詞に置き換えているので、若干の混乱が生じているように思う。彼が使っている代表的な言葉を選定して、その定義を明確にしたい。

 

エロス: エロス的欲動。性的欲動。一般に言われる「性」という言葉よりも幅広いものを意味する。生への欲動。保持し、統一しようとする欲動。

 

破壊欲動: 破壊し、殺害しようとする欲動。攻撃本能。破壊本能。死の欲動

 

フロイトによれば、エロスが善で、破壊欲動が悪ということではない。2つの欲動は互いに結びついており、一方の欲動が他方の欲動と切り離され、単独で活動することなど、あり得ないのである。また、実際の人間の行動は、エロスと破壊欲動が結びついて出来上がった1つの欲動によって引き起こされるのではない。ほとんどの場合、人間の行動は、いくつもの欲動が合わさって、引き起こされるのだと言う。すると人間を戦争に向かわせる欲動にも、多くの種類があることになる。

 

更に厄介な問題がある。そもそも生命体は、異質なものを外へ排除し、破壊することで自分を守っているのだ。そうしてみると、破壊欲動は生命体にとって、生命を維持していく上で必要不可欠な、そして健康的な欲動だとも言える。但し、破壊欲動の一部は生命体へ内面化されるのだ。つまり、破壊欲動が自分自身に向かうことがあり、これはとても不健康な現象なのである。換言すれば、暴力的で、非理性的で、他人の権利を蹂躙するような人間の方が生命体としては健康であり、反対に理性的で他人の権利を擁護しようとする人間の方が、病んでいるということになる。このような考察から、フロイトは1つの結論を導く。便宜上、これを結論Aとしよう。

 

結論A: 「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうもない!」

 

これは困った。結論Aに従えば、人間は戦争を止めることができないのである。フロイト自身も頭を抱えたに違いない。そこでフロイトは、2つの対策を提示する。1つ目は、破壊欲動の反対、すなわちエロスを呼び覚まそうというものだ。そして、2つ目の対策としては、文化の発展を促す、というもの。該当箇所を引用してみよう。

 

- はるかなる昔から、文化が人類の中に発達し広まっていきました(文化という言葉よりも文明という言葉を好む人もいます)。 (中略) 文化が発達していくと、人類が消滅する危険性があります。なぜなら、文化の発達のために、人間の性的な機能がさまざまな形でそこなわれてきているからです。(中略)文化の発展が人間の心のあり方に変化を引き起こすことは明らかで、誰もがすぐにきづくところです。(中略)ストレートな本能的な欲望に導かれることが少なくなり、本能的な欲望の度合いが弱まってきました。文化が生み出すもっとも顕著な現象は二つです。一つは、知性を強めること。力が増した知性は欲動をコントロールしはじめます。二つ目は、攻撃本能を内に向けること。好都合な面も危険な面も含め、攻撃欲動が内に向かっていくのです。(文献2 P. 52以下)-

 

こうしてフロイトは、結論Bに至り、このアインシュタインへの返信は幕を閉じる。

 

結論B: 「文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!」

 

では、私の所感を述べよう。賛成できる点と、そうでない点の双方がある。

 

結論Bは、一見、人類の明るい未来を示唆しているようだ。しかし、そうではない。文化を発展させると、人間の破壊欲動は自分自身に向けられる傾向があるのだ。それは、性的な能力の低下をも意味する。実際、先進諸国と開発途上国とを比較すると、先進諸国の方が婚姻率や出生率は、著しく低いのである。すなわち、文化を発展させると人類が消滅する危険性があるのだ。この点は、フロイトもそう明言している。

 

- 文化が発展していくと、人類が消滅する危険性があります。(P. 52)-

 

それでも、戦争を回避するためには、文化を発展させていくべきだ、というのが肝要な主張なのである。この点について、私は賛成である。現在、ウクライナで展開されているような残酷で、理不尽な蛮行を繰り返す位なら、人類は滅亡した方がマシだと思う。但し、人口が減少し続けると、ある閾値(しきいち)に達するのではないか。全ての人々が自然の恵みを充分に得られる程度にまで人口が減少すれば、そこから人口は増加に転ずるのではないだろうか。

 

そもそも、フロイトの説は、基本的な論理矛盾を抱えている。彼は、悲観論としての結論Aと、楽観論としての結論Bの双方を提示している訳だが、結論Aを否定し、結論Bを肯定すべき理由が、明確には述べられていない。最後まで読み通しても、悲観論としての結論Aが何故、否定されるのか、判然としないのである。

 

フロイトの脳裏は混乱しており、その混乱がそのままこの文章に表出していると言わざるを得ない。そもそも、彼は何故、「文化」という用語を用いたのか。そこに過ちの理由があるように思う。上にも引用したが、フロイトは次のように述べている。

 

- はるかなる昔から、文化が人類の中に発達し広まっていきました(文化という言葉よりも文明という言葉を好む人もいます)。-

 

大切なのは、カッコ書きの部分だ。彼は何故、このような注書きを加えてまで「文明」という言葉を使わず、「文化」と言ったのか。ここに私は、強烈な違和感を持った。そして、想像した結論は、次の通りである。

 

フロイトは「戦争」という用語の反対語を探したのではないか。「文明」と言った場合、その良し悪しは別として、「戦争」を含むと考えるのが一般的ではないか。「文明」は「戦争」を含む。従って、「文明」は「戦争」の反対語にはなり得ないのである。卑近な例で言えば、日本国は埼玉県を含む。従って、埼玉県は日本国の対立語にはなり得ない。それと同じことなのだ。一方、「文化」という概念は、「戦争」を含まない。従って、「文化」は「戦争」の反対語になり得る。「戦争」対「文化」。この2項対立を成立させるため、フロイトはここで「文化」という用語を選択したに違いない。

 

フロイト自身が言っているように、文化とは「はるかなる昔から」積み上げられてきたものである。その典型は、衣食住にある。それこそ「はるかなる昔から」ほとんどの人間は、衣服を身にまとい、食事をし、住居に暮らしてきたに違いない。それが文化の本質だ。しかし、人間はある段階から文化とは別に、何らかの秩序を構築しようとしてきたのである。戦争という行為の本質も、そこにあると私は思っている訳だ。戦争というのは、一見、破壊行為のように思えるが、実際は、戦勝国の価値観や社会体制を敗戦国に押し付けるところにある。つまり、戦勝国の秩序を拡大させること。それが戦争のもたらす帰結なのである。

 

すなわち、文化と戦争とでは、位相が異なる。領域が異なるのである。そして、領域が異なるので、いくら文化を発展させたとしても、秩序領域に属する戦争という行為を抑制することは困難なのだ。これが私の認識である。このブログで繰り返し述べている私の文明観は、次の単純な公式によって表現され得る。

 

文明 = 文化領域 + 秩序領域 + 主体領域

 

このように考えると、秩序領域に属する戦争という現象を文化と対立させることによって思考すること自体が、誤りだと思えるのだ。換言すれば、フロイトは文化という用語を用いることなく、ここは文明と言って、その上で論理を構成するべきだったに違いない。

 

また、フロイトが主張するように文化を発達させたからと言って、人間が知性的になるとは限らないのである。我々が住む日本を見るが良い。日本には永い歴史と優れた文化がある。しかし、現在の日本人が知性的かと言えば、答えは否である。

 

・・・・・・・・・・・

 

追記: この「戦争と文明」シリーズ、しんどくなってきましたが、もう少し頑張ろうと思います。次回は、あのカイヨワを取り上げる予定です。

 

戦争と文明(その3) 集団幻想としての対米従属

 

政治学者の白井聡氏の著作、「長期腐敗体制」(角川新書)を読んだ。とても興味深い本で、久しぶりに一気に読み終えた。何が書いてあるかと言えば、日本の権力構造が腐っているということなのだ。しかもそれは、長期に渡って腐り続けていて、かつ、それは誰か特定の個人が腐っているのではなく、「体制」、すなわち構造自体が腐っているという話なのである。

 

そんなに腐っているのであれば、検察とか裁判所がそれを取り締まればいい訳だが、残念ながら検察も裁判所も腐っている。みかん箱の中に、2つ3つの腐ったみかんが入っていたとしよう。この場合は、その腐ったみかんを取り出して、廃棄すれば良い。しかし、全てのみかんが腐っているような状態、それが現在の日本なのである。そして、国家という名のみかん箱自体を廃棄することはできない。

 

こう書くと、違和感を持つ人も少なくないだろう。自分は貧しくないし、現在の日本は平和で、他国よりも幸せだ。そう思う人もいるだろう。しかし、そう思っている人は、日本という国家の全体を見ていないのではないか。自分だけ幸福であればいい。そう思っていないだろうか。

 

政治の世界の表層について、したり顔で語る評論家やコメンテーターは少なくない。そんな中にあって、深部に潜む本質や原理、それを考えようとする白井氏の存在は、とても貴重だと思う。

 

ところで、白井氏は面白い基本認識を持っている。戦前の日本は、天皇制だった。少なくとも日本人の精神的な支柱は、天皇にあったのである。「天皇陛下万歳!」と叫んで、特攻に出かけた若い兵士は、少なくなかっただろう。やがて、日本は敗戦を迎える。GHQがやって来て、天皇人間宣言がなされ、日本国憲法が公布された。そこから、米国による日本支配が始まったのであり、これは大きな変化であるはずだ。しかし、実際には、天皇が米国に代わっただけで、本質的な構造に変化はないというのである。「長期腐敗体制」から、一部、抜粋させていただく。

 

- この間明らかになったのは、日米安保を基礎とする対米従属は、そもそもは国際関係において成り立ったはずのものが、国際関係を超えて、日本の国家体制、さらには日本社会そのものを腐食させてしまった、ということです。だから、正確に言えば、問題は対米従属そのものではなくて、戦後日本の対米従属の特殊な性格、それが戦前天皇制に起源を持つ、「国体」の構造に基づいて従属していることが問題なのです。

 この「国体」が徹底的に批判されなければならない理由は単純です。それは、「国体」がその中に生きる人間をダメにする、そこに生きる人間に思考を停止させ、成熟を妨げ、無責任にし、奴隷根性を植え付ける、そのようなものだからです。(P. 86)-

 

例えば、戦時中は国家権力の手先だった憲兵が、GHQがやって来ると急に民主主義者になり、朝鮮戦争が始まる頃にはレッド・パージ(共産党弾圧)に奔走する。自分の頭では何も考えず、ひたすら権力におもねる。日本には、そういう連中が沢山いて、それは昔も今も変わらないのである。そして、権力の中枢にいる人間ほど、その傾向が強い。

 

ここから先は、少し、私自身の言葉で記述してみよう。

 

ある時代のある地域や国家には、そこに暮らす人間集団が共通して持っている科学的知見、常識や価値観がある。これらのうち、権力と結びついているものを私は、「集団幻想」と呼んでいる。そして、多くの人々がこの集団幻想の内側で生きてきたのである。この立場から考えると、上に記した奴隷根性というものは、必ずしも日本人に固有の性質ではなく、人類に共通するものだと考えられるのだ。

 

例えば、中世ヨーロッパにおける「王権神授説」がそうだった。王様の権力は神から与えられたものだ、という説だが、王様は庶民よりも神に近いという意味である。

 

カトリックの歴史を見ても、同じことが言える。まず、神という幻想があって、神に近い者、神に仕える者が権力を持っていたのである。これに異議を唱えたのが、マルティン・ルターであって、ルターは「万人祭司」を訴えた。信者は誰でも祭司になることができるのであって、その意味で信者は皆平等だと、ルターは主張したのである。

 

では、対米従属について、考えてみよう。日本は、米国に戦争で負けた。負けたのだから、米国の支配を受けても仕方がない。これはリアルなのであって、幻想ではない。しかし、敗戦から既に77年もの年月が経過しており、未だに日本が米国に従属しているのはおかしい。同じ敗戦国であるドイツやイタリアは、とっくに米国の支配下から脱している。どこかにターニングポイントがあったはずなのだ。例えば、ソビエト連邦が崩壊した時点。これは東西冷戦の終結を意味するのであって、日本が米国に従属する軍事的な理由は消失してもおかしくはない事件だった。

 

それでも、日本の対米従属は続いた。つまり、対米従属はリアルから幻想へと変化したのである。そして、日本の権力者たちは、幻想と化したにも関わらず、対米従属にしがみついて、自らの権力を維持してきたのである。

 

少し日本の権力構造を単純化して考えてみよう。例えば白井氏は、それを「官僚の独裁」と呼んでいる。

 

そもそも、日本の官僚制度の起源は、江戸時代の下級武士が作ったと言われている。つまり、官僚制度は江戸時代から続いているのであって、それは明治維新という社会構造の抜本的な変革の波を乗り越えて、存続してきたのである。更に、第2次世界大戦における敗戦という国家体制の根本を揺るがす事件があった訳だが、官僚体制はここでも生き延びたに違いない。当時、官僚体制の中核は内務省にあり、その体制は戦後にも引き継がれたという説がある。そうだとすると、表向きでは国の形がどんなに変わっても、権力を持つ官僚の体制だけは何も変わらず、今日の日本をも支配していることになる。

 

日本の官僚組織と米国(米軍)は、日米合同委員会によって緊密な連携が図られているに違いない。この点は、次の書籍に詳しく述べられている。

 

知ってはいけない/隠された日本支配の構造/矢部宏治/講談社現代新書

 

ちなみに、日米合同委員会は現在においても毎月2回開催されており、そこに日本の政治家は出席していない。米側の出席者は軍部であり、日本側の出席者は官僚のみである。議事録は公開されず、そこでの審議内容は完全にブラックボックスとなっているのだ。

 

言うまでもなくコロナ対策は厚労省が、原発政策は経産省が決めている。そんなことで、世の中が良くなるはずはないのだ。

 

米国という権威を笠に着た、官僚たちの権力。その周辺に財界があり、自民党がある。そして、この権力構造に異議を唱えようとした政治家は、潰されるのである。日中国交正常化を行った田中角栄もそうだし、陸山会事件に巻き込まれた小沢一郎もそうだろう。

 

少し大きな視野に立ち返って、問題を整理してみよう。

 

ステップ1: 人間集団がある。

ステップ2: 人間集団は、幻想を生み出す。

ステップ3: 幻想の中から、権威が誕生する。

ステップ4: 権威に近いと主張した者が、権力を持つ。

ステップ5: 権力者や権力を持った集団は、経路依存性に陥る。

ステップ6: 経路依存性は、変化に対応しない。よって、強い権力に拘束された集団は、破滅を迎える。

 

これが、人類が繰り返している歴史の本質ではないか。モンテスキューが述べた通り、権力は腐敗するのだ。だから、権力は更新されなければならない。それができなかった集団は、破滅へと向かう。日本も例外ではない。日本は、今、確実に破滅へと近づいている。そして、破滅の1つの形、それが戦争なのだ。

 

戦争と文明(その2) 洞窟の比喩/プラトン

 

暗い洞窟の奥深くに、多くの囚人たちが鎖に繋がれている。彼らは、洞窟の壁に映し出される影のみを見て、生きている。彼らは、それが現実であり、この世界の全てだと信じている。ある日、1人の囚人の鎖が解き放たれ、外に出ることが許される。洞窟の外に出た彼は、あまりの明るさに戸惑う。やがて明るさに眼が慣れてくると、彼は、陽光に照らし出された素晴らしい自然界を目撃する。そして、彼は理解するのだ。洞窟の壁に映し出される影は真実ではなく、太陽の下に広がる美しい自然界こそが本当の世界であると。彼はそのことを仲間の囚人たちに知らせようと、急いで洞窟の奥深くへと走って戻る。そして、何とかそのことを伝えようとするのだが、囚人たちは誰も彼の話を信じようとはしない。それどころか、囚人たちは彼を排斥しようとするのだ。

 

これが、プラトンが比喩的に提示した人間の世界である。視覚的に説明した短いYouTube番組があるので、リンクを貼っておく。2分30秒。

 

私たちは洞窟の囚人 / 洞窟の比喩 / プラトン / 2分30秒

https://www.youtube.com/watch?v=QSnkQhkdh7U&t=79s

 

ちなみに、1人、洞窟の外へ出た男のモデルは、ソクラテスだと言われている。そうしてみると、この比喩は、「ソクラテスの弁明」と同じことを説明したものだと解釈することができる。つまり、ソクラテスに死刑を言い渡した陪審員たちに対し、「あなた方は、洞窟の囚人たちと同じなのだ」と言っているのである。

 

この比喩は、秀逸である。2千400年も昔の人が述べた話ではあるが、今日においても充分に通用する。いちいち具体例を挙げることはしないが、私たちの身の回りにも、暗い洞窟の底から出て来ようとしない人々は、とても多い。何しろ彼らは、洞窟の外を見たことがない。だから、外の世界があると言われても信じないのである。

 

それでは、「洞窟の外に出よう」と言えば、ブログの主張としては明快だろう。しかし、本稿の趣旨は、もう少し複雑なのである。

 

 

まず、古代ギリシャの様子を考えてみよう。当時は戦乱の世で、ソクラテスが生きた時代も例外ではなかった。当時は国家というものが、今日のように確立されてはいなかったのである。ポリスとも呼ばれる比較的少人数の都市国家が集団の単位で、ポリス同士で戦争をしていた。ソクラテス自身、少なくとも次の3回の戦争に参加している。

 

・ポティダイアの戦い

・デリオンの戦い

・アンフィポリスの戦い

 

そして、戦争に敗れたポリスの市民には、2つの選択肢が与えられた。1つは、勝利した側の兵士に殺されるか、又は自ら命を絶つという選択肢である。2つ目は、勝利した側の奴隷になり、最低限の食物だけは与えてもらう、というものだった。

 

ソクラテスが所属していたアテナイというポリスは、滅法戦争に強かったので、その帰結として、多くの奴隷が存在していた。また、煩雑な仕事は全て奴隷に任せていたので、余裕のあったアテナイは、多くの哲学者を輩出したのである。

 

このような状況下にあって、ソクラテスは戦争を当然の営為であると考えていた節があるのだ。

 

- アテナイの風雲は休むひまがない。ソクラテスは、まさにその渦中のなかで生きねばならなかった。戦争はすこしの平和をはさみながら続いていた。かれは三度もその戦いに参加した。だれのために、勇敢と忍耐をささげたのであろう。祖国アテナイのためであった。それをかれは不思議にも思っていない。ポリスあっての個人であり、個人あってのポリスではない。-

(出典:ソクラテス中野孝次著/清水書院/人と思想/P.105)

 

つまり、あのソクラテスでさえ、戦争に疑問を持たなかったのである。

 

そろそろ、論点を整理しよう。

 

どの地域や国家においても、ある時代を支配する科学的な知見、常識、価値観などがある。それをある人は「知」と呼ぶ。ミシェル・フーコーはそれをエピステーメーと呼んだ。そして私は、科学的な知見、常識、価値観などのうち、権力と結びついたものを集団幻想と呼んでいる。

 

冒頭に紹介したプラトンの洞窟の比喩。ここで言う洞窟とは、集団幻想のことだと思う。そして、戦争や奴隷制に疑問を持ち得なかったソクラテスプラトンですら、この集団幻想の外に出ることはできなかったのである。

 

但し、私は決してソクラテスを批判している訳ではない。私が思うのは、ソクラテスに限ったことではなく、私自身を含め、全ての人間は集団幻想の外に出ることができない、ということなのだ。例えば、今から300年後、すなわち24世紀の人々からすれば、21世紀の人間はとても奇妙で、愚かな存在だと思うだろう。換言すれば、集団幻想の外に出ることができないという原理は、人間の宿命なのである。

 

自らの魂に配慮せよというソクラテスの主張は、集団幻想の外に出よ、と言っているに等しい。この意味において、ソクラテスは正しいと思うし、その思想は人間の宿命に対する挑戦だと言える。決して叶わぬ夢かも知れない。それでも思考し続けること、物事を根本から疑い続けること、それが大切なのである。

 

「知」、エピステーメー、集団幻想。これらは決して、一朝一夕に変化するものではない。しかし、戦争を疑わなかったソクラテスの時代から2千400年が経過した今日においては、戦争に反対し、平和を求めようとする人々が世界中に存在する。長い目で見れば、集団幻想は確実に変化するのだ。

 

オルテガの著書に「個人と社会」というものがあって、是非これを読みたいと思ったことがあった。書店に注文すると、それが既に絶版になっていることを知った。「個人と社会」とは、何とも興味深いタイトルである。しかし、現在の私は、最早この著作に対する興味を失った。この問題についての、私なりの結論が出たからである。

 

つまり、個人の生き方には、2種類しかないのだ。1つ目としては、集団幻想に縋り付き、わずかな利権を求めて生きるという方法。2つ目としては、あくまでも集団幻想の外に出ようと試み、思考しながら人生を全うするという方法である。これが私の考える「個人と社会」の関係である。

 

戦争と文明(その1) 人間は何を守ろうとしているのか

 

人間は集団を作って、ここまで生き延びてきた。そして人間は、その集団の結束力を強めようとする。結束力の強い集団は、そうでない集団よりも戦闘能力が高い。そして、戦乱の世にあっては、結束力の強い集団の方が生き延びる確率が高い。

 

では、人間はどのようにして集団の結束力を高めようとしてきたのだろうか。私の見方は、次の通りである。まず、権力者がある仮説を立てる。若しくは、権力者が既存の仮説を捻じ曲げる。そしてその権力者はメンバーに対し、その仮説を信じるように強制し、その仮説を信じた者は、その集団の正式な構成メンバーとして許容されるのだ。もちろんそれは、仮説に過ぎないのであって、未だかつてその正しさが実証されたものなど、1つもない。実証されたことがないのだから、換言すれば、それは幻想に過ぎないことになる。集団によって信じられた幻想。この集団によって支持された幻想のことを便宜上、ここでは「集団幻想」と呼ぶ。

 

民族主義、宗教、国家主義などが、集団幻想の典型である。我々は同じ民族である。我々は同じ神を信じている。我々は、優れた日本国の臣民である。権力者は、そう言って集団の結束力を強めてきたのである。

 

しかし集団幻想は、それらに留まらない。原発安全神話や仮想敵国というものもある。仮想敵国に立ち向かうという目的で、権力者はその延命を図る。権力者は、仮想敵国との間での緊張を高め、その軍事的な緊張がある限界値を超えると、実際の戦争が始まる。

 

元来、集団幻想というのは、権力を維持するための手段に過ぎない。しかし、いつの間にかそれは、目的へと変容する。集団幻想を守ること自体が目的となり、人間は戦争という惨劇を繰り返す。

 

一体、どこでこの不幸なシナリオを断ち切ることができるだろう。その大元まで行けば、そもそも人間が集団を作るという段階にある訳だ。しかし、人間は何らかの集団を作らなければ、生きていけないだろう。集団ができると、次の段階で権力が生まれ、権力者が集団幻想を作るのである。

 

集団 → 権力 → 集団幻想 → 戦争

 

では、権力自体を無くしてしまえという考え方もあり得ることになる。しかし、権力がなければ何らかの紛争が生じたときに、それを仲裁し、解決することができない。そうしてみると、戦争を回避するためには、集団幻想に立ち向かう以外に手はないのだ。集団幻想を解体する。集団幻想の外に出る。そうすることができれば、人間は、戦争を回避することができるに違いない。

 

では、人間は、集団幻想の外に出ることができるか。これが最後の提題だ。この結論を述べることは、とても辛いことだし、述べるべきではないのかも知れない。しかし、現実から目を逸らしてはいけないとも思う。

 

人間は、集団幻想の外に出ることはできない。

 

もしそれができるとすれば、それは文明の構造自体を変更するような大きな出来事が起こるか、もしくは突然変異によって、ホモサピエンスよりも優れた新しいヒトが生まれたときではないだろうか。但し、ここまで言ってしまうと、SFみたいで荒唐無稽になってしまうのだが。

 

結局、人間は、兵士や一般人の生命よりも、集団幻想を守ろうとしているのだ。

 

戦争と文明 はじめに

 

今年の2月24日にロシア軍は、ウクライナへの侵略を開始した。それ以来、戦争という2文字が、私の脳裏から消えた日はない。

 

人間は、何故、戦争を繰り返すのか。そこに原理はないのか。もし、原理があるとすれば、戦争を回避する手段だって、見つかるのではないか。人間は何故、かくも残酷になれるのか。戦争と文明。この対立する2つの概念は、一体、どのような関係にあるのか。

 

多分、この問題はあまりにも大きく、複雑なのであって、私の能力を超えた課題なのだ。それは分かっているのだが、もし、私がこの原稿を書き上げる前に、日本が戦争に巻き込まれてしまった場合、私はきっと後悔するだろう。戦争のリスクが高まりつつある現在において、この原稿に取り組むこと。それは、1人の日本人ブロガーとして、私が果たすべき小さな責任なのではないか。そうも思えてくる。

 

幸い、この問題を取り上げた過去の思想家は少なくない。本稿においては、少なくとも以下の3人を取り上げる予定でいる。

 

トマス・ホッブズ/1588-1679/イングランド

イマヌエル・カント/1724-1804/ドイツ

ジークムント・フロイト/1856-1939/チェコユダヤ系)

 

ホッブズは、戦乱状態にある欧州にあって、人々の人権(自然権)を守るために近代的な国家を設立するべきだと提唱した。その後、世界は、ホッブズが言うように近代的な国家を設立したが、今度は、近代的な国家同士が戦争を始めたのである。ホッブズの目論見は、はずれたのである。しかし、ホッブズが提起したいくつかの論点は、今日においても検証に値すると思う。

 

次にカントだが、彼はその晩年において「永遠平和のために」という短い論文を残している。そこに記されたカントの思想は、第1次世界大戦の後、人々が国際連盟を設立した際の基礎をなしたのである。国際連盟は、第2次世界大戦の勃発を防ぐことができなかった。そこで、国際連合が生まれた訳だが、これもウクライナ戦争を防止することはできなかったのである。そうは言っても、国際連合は「ないよりはまし」なのであって、そこに人々の努力を認めるべきだろう。

 

3人目は、心理学の、とりわけ精神分析フロイトである。フロイトアインシュタインの呼び掛けに応じ、短い書簡を公開した。「人はなぜ戦争をするのか」と題されており、これは私が考えようとしていることをズバリとその表題に据えたものである。心理学者が、戦争という社会的な現象を語ることができるのか、という疑問を抱かれる人もいるだろう。しかし、フロイト文化人類学の研究なども行っていたようで、この書簡においては、興味深い論点が提起されているのだ。

 

何かの本に、こんな話が書いてあった。まず、大きな円を描く。その中に、互いに接する3つの中位の円を描く。更に、中位の円の中にも互いに接する3つの小さな円を描く。この作業を繰り返す。そうしてみると、大きさの大小に関わらず、どの円を見ても、その内部に3つの円を持っていることになる。もし、このような構造が存在するとすれば、ミクロ(小さな円)を観察することによって、マクロ(大きな円)の構造を知ることができることになる。つまり、個別の中に普遍が存在するのだ。

 

フロイトの例に照らして言えば、ミクロとしての心理学がある。それは個人の心の構造を理解しようとするものだ。そして、個人の集合体が繰り広げる戦争というマクロの現象をも心理学が解き明かすことができる可能性があるということになる。

 

まずは、今日の世界的な、そして日本の状況について検討し、その後、少しずつ本質的な論議へと進めて行きたいと思っている。