文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

構造と自由(その6) 芸術と美

 

前回の原稿で、私は、芸術を再定義することが必要だと述べた。では、どのように再定義すべきなのか。今回は、そのことについて述べてみたい。

 

西洋と東洋とでは、異なる歴史的な背景を持っている。それは芸術についても言えるだろう。まず、簡単に西洋に対する私の見方を述べよう。西洋においても最初に原始宗教があったと思うが、早い段階で、新旧の聖書が書かれる。そこから、宗教が一挙にその勢力を増したに違いない。そして、その反動として14世紀にルネッサンスが勃興し、本格的な芸術が生まれたと考えてはどうだろう。ルネッサンスは「人間復興」と訳されるように、西洋における芸術は、主に人間を興味の対象としたのだと思う。ダビンチの「モナリザの微笑み」やボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」などが有名だが、これらの絵画を見ると、当時の画家が女性の持つ美しさに惹かれていたことが分かる。

 

対する東洋だが、こちらは日本をベースに考えてみよう。まず、原始宗教があって、それは人々の生活と不可分の関係にあったに違いない。やがて、人々の暮らしに余裕が生まれる。そこで、養生法などの身体技術と衣食住に関わる生活技術とが発展を遂げる。この2つの技術を総称して文化と呼ぼう。西洋が戦争と宗教に時間と労力を費やしている間に、日本人は比較的平和に暮らし、生活に、すなわち文化に注力したのである。こうして、日本は文化大国となったのだ。食文化がその代表例だが、その他にも日本は世界に誇れる文化を豊富に蓄積している。

 

日本人は文化の中で、すなわち生活空間において、様々な美を追求してきた。食事の盛り付けや食器へのこだわりは、多分、世界一だろう。日本家屋における美については、谷崎潤一郎が「陰影礼賛」において指摘した通りである。また、豊かで美しい自然の中で暮らしてきた日本人は、自然との調和に美の源泉を見出してきたとも言えよう。

 

生活の中に見出された美は、何らかの具体的な有用性を持っている。食器であれば、それは食事をするのに役立つし、美しい衣服や住居も生活の支えとなる。やがて、生活とは切り離された場所で、つまり有用性を持たない、独立した美の追求が始まる。これが様式化された美だと言って良いのではないか。絵画や音楽は、必ずしもそれがなくても、生活に支障をきたす訳ではない。

 

但し、この様式化された美も単純に語ることはできない。美しい花、美しい女性をそのまま描く場合もあるが、やがて人々はそのような外見的な美しさに飽き足らず、例えば人間の内面に興味を抱いたに違いない。この人間の内面の美しさを表現する手法としては、音楽や絵画よりも文学の方が適していると思う。

 

このように美の概念自体、多様なのであって、それは人間の行動に現われることもある。自らの危険を顧みず、誰かを助けようとした人の話などを聞くと、私たちは感動を抑えることができない。つまり行動とは、ある人の内面が持っている美しさの表出なのである。

 

そう考えると、美とは、楽譜や、キャンバスや、原稿用紙の枠の中に納まらないことが分かる。更に言えば、行動の積み重ねとは、私たちの人生そのものではないか。様々な状況下にあって、私たちはどのように行動したのか。その集積こそが、私たちの人生なのだ。

 

では、このように重層的な美について、身体に近い方から列挙してみよう。

 

・身体そのものが持つ美

・生活に関わる美

・人の内面に関わる美

・行動に関わる美

・人生に関わる美

 

ミシェル・フーコーの言葉を引用させていただこう。

 

- 私が驚いていることは、私たちの社会ではアート(技芸=芸術)が諸個人や人生=生活ではなくて、もはや物体にしか関係を持たなくなっていることです。つまり、アートとは専門的な1つの領域、すなわち芸術家といった専門家たちのための領域であるかのようです。しかしながら、すべての個人の人生=生活とは、一個の芸術作品でありうるものなのではないでしょうか。なぜ、絵画や建物が美術品(芸術対象)であって、私たちの人生=生活がそうではないのでしょうか。(フーコー今村仁司・栗原仁 共著/清水書院/1999)-

 

芸術とは、美を求めるあらゆる人間の営為のことである。そう定義することはできないだろうか。このように考えると、芸術は、そこかしこに存在するのだ。そして芸術は、美を求める人間がいる限り、そして、たった1回の人生なのだからより良く生きたいと願う人がいる限り、不滅なのである。

 

 

構造と自由(その5) 芸術の使命

 

無文字社会においては、いや現代日本社会においても、その底流には原始宗教が息づいている。そして、原始宗教を構成する3大要素は、呪術、祭祀、神話である。やがて文字が普及し、これら3つの要素も発展を遂げ、今日的な意味での宗教が生まれたに違いない。そして、これら3つの要素は、芸術を生んだとも言える。呪術は美術を、祭祀は音楽を、そして神話は文学として結実した。

 

このように考えると、宗教と芸術のルーツは同じであることが分かる。しかしながら、両者の間には、決定的な差異がある。宗教は権力を生み、人間社会に秩序をもたらすが、本物の芸術は、権力に迎合したりはしない。この宗教と芸術との対立関係が最も顕在化したのは、14世紀のヨーロッパにおいて勃興したルネッサンスだろう。キリスト教が生み出す厳しい戒律と秩序に嫌気が差した芸術家たちが、人間復興を唱えて立ち上がったのだ。

 

1969年をピークとしたロック・ムーブメントにも同じことが言えるのではないか。ベトナム戦争と資本主義が作り出す秩序の中で、窒息しそうになったミュージシャンたちが決起したのが、ウッドストックだった。彼らは愛と平和、ドラッグとセックスを高らかに謳い上げた。第2のルネッサンスとして、私たちはこのムーブメントを記憶に留めておくべきだと思う。

 

芸術は、身体と主体の間に存在する。身体(大衆)に寄り添いつつ、秩序の中では生きていけない人間の姿を描く。それが芸術の本質だと思う。

 

例えば、ゴッホは「馬鈴薯を食べる人々」を描いた。

 

https://artoftheworld.jp/rijksmuseum-vincent-van-gogh/1292/

 

ここには、薄暗いランプの明かりを頼りに、馬鈴薯を食べる貧しい農民たちの姿が描かれている。そのゴツゴツとした手の形が、彼らが従事している過酷な労働を表わしている。明らかにゴッホは、これらの貧しき人々に寄り添っている。誤解を恐れずに言うならば、ここに知性はない。正義も悪徳も存在しない。希望もなければ、絶望もない。私には、そう見える。ここにあるのは、「まったくもって、どうしようもなく、そうなっている」人間の身体だけなのだ。この身体こそが、芸術の一方の極なのだと思う。

 

芸術についてのもう1つの極は、主体である。主体とは、人間の心の奥底から湧き上がってくる内発的な意思のことで、多くの場合、それは権力や秩序と対立関係を結ぶ。

 

近年、主体は液状化したと主張する人がいるらしい。また、経験の多様性が失われたことに伴い、主体もまた消失したとする説がある。しかし、私は必ずしもこれらの意見に賛成はできない。芸術の世界のみならず、現実世界においても、主体は犯罪という形をとって、その姿を現わす。例えば、安倍元総理に対する銃撃事件なども、主体に基づく犯罪だと思う。この主体こそが、芸術の存在する領域におけるもう1つの極なのだ。そして芸術は本質的に権力や「知」、特に科学と対立する。

 

現在も多くの人々は、息苦しく、過酷で、若しくは退屈な日常生活を送っているに違いない。そもそも学校や会社は、そこに通う人々を時間と空間の双方において拘束する。家に帰ればそれらの拘束から解放されるという人もいるだろう。しかし、家族という人間集団も多くの問題を抱えている。そんな日常生活にあって、芸術は人々に異世界を提示する力を持っている。簡単に言えば、私たちの日常生活においても、大きく言えば人間の文明においても、芸術は不可欠の領域なのだ。

 

しかしながら、現代社会において、芸術は衰退していると言わざるを得ない。美術の世界で言えば、かつてアクションペインティングのジャクソンポロックは、次のように述べた。

 

- 何か新しいことをやろうと思っても、それらは全てピカソによって試されていた。

 

そうかも知れない。ピカソが、若しくはそう述べたポロック自身が、最後の前衛芸術家だったのかも知れない。

 

ロックの世界で言えば、未だにビートルズジミ・ヘンドリックスを超える者は登場していない。ジャズについても同様のことが言えて、マイルス・デイビスが死んだ時に、ジャズもその歩みを止めたのである。

 

日本文学について言えば、その最高峰は谷崎潤一郎川端康成三島由紀夫の3名ではないか。その後、これら3名を超えた作家を、私は知らない。

 

芸術が衰退した理由は、無数にあるだろう。しかし、突き詰めると上に引用したポロックの発言に尽きるような気がする。すなわち、全ての可能性は、既に試されてしまったのである。

 

このような芸術に対する絶望感は、構造主義とマッチする。音楽を例に説明しよう。音楽とは、リズム、和音、メロディーなどの構造を持っている。そして、それらは全て研究し尽くされているのだ。リズムをはずす訳にはいかないし、和音の種類にも限度がある。そして、メロディーは和音の進行に拘束される。してみると、音楽とは音楽の構造の外に出ることができない、という結論になる。美術にも文学にも、同じことが言える。構造の外に出ることはできないのである。

 

そこで私は、芸術の再定義が必要だと思うのだ。つまり、美術、音楽、文学などが芸術の全てではなく、芸術の新たな分野を開拓すべきだということである。芸術の本質は、身体と主体の間に存在するということであって、それを表現する記号さえあれば、新たな芸術分野が誕生する可能性は低くないと思う。それは既に始まっているかも知れない。例えばそれはYouTubeの世界において、若しくは現実世界において。

 

構造と自由(その4) 権力と身体

 

 

権力とは何か。そう考えると難しい。しかし、権力が何らかの「知」を背景に持っていると考えれば、「知」の類型に従って、権力の類型を推し測ることが可能となる。そして、「知」には身体と親和的な関係を持つもの、反対に身体と対立するものがある。また、権力の創出に向かう「知」と、反対に主体の側に向かう「知」がある。この主体の側に向かう「知」について、私は、それを哲学と呼ぼうとしている訳だが、この点については後述しよう。

 

現代社会を支えている主要な「知」の1つに、宗教がある。実際、プーチンロシア正教の司祭と面会しているし、ゼレンスキー大統領は先日(5月14日)、ローマ教皇と面談した。どちらも、自らの正当性をアピールしようとしているに違いない。

 

現代社会を統制しているもう1つの「知」は、科学である。科学は商品を生み出し、それが現代社会の経済を動かしている。従って、経済上の権力というものが存在するはずだ。加えて、科学は武器を開発し続けている。よって、軍事上の権力も存在するに違いない。大きな権力には、これら3種類があることになる。

 

・宗教上の権力

・経済上の権力

・軍事上の権力

 

これらの権力は、身体を攻撃する。宗教上の権力は、人々の家庭や生活を拘束し、その主体的な思考を阻害する。キリスト教は伝統的に同性愛を規制し、人口妊娠中絶に反対する。統一教会は、結婚制度にまでその触手を伸ばしている。結局、宗教が目指している秩序とは、家父長制に行き着くのではないか。これには2つの意味があって、その1つは、男尊女卑であり、もう1つは、年長者は年少者よりも偉いという価値観である。何故そうなっているかと言えば、結局、男は女よりも、年長者は年少者よりも、権力に弱いからではないか。権力に弱い者を家庭における権力者にしておけば、宗教上の権力者にとっては都合がいいに違いない。

 

「女は弱し、されど母は強し」という言葉があるように、子を持つ女は、時として権力にも負けない強さを持つ。他方、男たちは、権力に負けっぱなしなのである。また、人間誰しも年を取ると新しい発想や自由への欲求が希薄になる。これが、家父長制の正体だと思う。

 

次に、経済上の権力は、人々に過酷な労働を課す。裕福になってしまうと、人間は働かなくなる。従って、経済上の権力者は、決して、人々に多額な給付は与えない。とにかく、働かせて、そこから税金を徴収するのだ。そして、その税金から自らの利益を掠め取るのが権力者のやり口なのである。

 

最後に、軍事上の権力だが、これは徴兵制や戦闘行為によって、人間の生命自体を危険に晒そうとするものだ。最悪の権力だと言えよう。現在、米国にも徴兵制はない。しかし、学生たちに多額の学費ローンを組ませて、その返済を免除する代わりに兵役に就かせようとしている。この仕組みは、経済的徴兵制と呼ばれる。現在、日本に徴兵制は存在しない。大変、好ましいことだ。そんなもの、世界から永遠に消え去ってしまうことを願うばかりである。

 

さて、人々はこれだけ虐げられている訳だが、すると大衆(身体)の中から、権力に縋ろうとする者が登場する。そのメカニズムを心理学の側から説明したものに「ストックホルム症候群」というのがある。思想の分野からは、ボエシの「自発的隷従論」が報告されている。そして私は、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出すのだ。置かれている環境が過酷であればある程、人は必死にそこから脱出しようと試みる。他人を蹴落としてでも。昨今の新自由主義や自己責任論は、このような人間の本質に妥協するものだと言わざるを得ない。

 

そして、この権力に縋ろうとする者のことを本稿においては、「依存者」と呼ぼうと思う。依存者は、「知」から疎外されている。依存者とは、ただひたすら権力に迎合し、依存しようとする者のことである。

構造と自由(その3) 「知」から権力へ

 

人口密度が高まると、食料不足が発生する。人間同士の距離も近づくので、否が応でも、もめごと、争いごとが発生する。そのような紛争を解決する手段の1つとして、武力が誕生したのだと思う。そして、その武力をいかに効率的に使用するか、いかに勝負に勝つかという「知」が生まれたのだ。それをここでは「戦術」と呼ぶ。素朴な人々が考案した戦術とは、待ち伏せ、不意打ち、騙し討ちなどである。それらの「知」を体系化したものとして、例えば孫氏の兵法(紀元前500年頃)があるし、日本には宮本武蔵五輪書がある。

 

人口密度が高まり、人類は、狩猟採集だけでは食べていけなくなった。そこで、農耕が始まる。正確なことは分からないが、人々の暮らし方が狩猟・採集から定住・農耕へと変化したことと、人類の興味の対象が、野生動物から人間へとその重心を移したことには、何らかの因果関係があるのではないか。

 

人間自身に興味を抱き始めた人類は、その信仰の形態にも変化を生じさせたに違いない。動物信仰を脱して、より抽象的な、より複雑な、宗教を展開し始めたのだと思う。信仰の対象も動物から人や神へと変貌を遂げる。キリスト教は神の代理人であるイエスを、イスラム教は予言者であるムハンマドを、そして仏教はブッダを信仰の対象とした。

 

宗教は、人間集団の規模を飛躍的に拡大した。そして、大規模な人間集団を維持するために、それまでとは異なる権力が誕生したのだと思う。神やその代理人を頂点とし、頂点に近い者がより大きな権力を持つ。そのような序列、階級が誕生した。

 

このように考えると、人間社会における大きな権力とは、何らかの「知」を背景として持っていることが分かる。例えば、腕力の強い男が、力の弱い女性を強姦する。これは暴力である。暴力の本質とは、相手方の心理を無視して、ただ、腕力を行使して屈服させることだろう。他方、権力は、何らかの形で相手方の心理に入り込み、相手方を納得させた上で、服従させる。このように考えると、暴力と権力の相違は明らかである。

 

やがて、自然科学(以下「科学」という)が台頭する。科学の起源は、古代ギリシャの自然学にまで遡るという説がある。また、中世の錬金術が今日的な科学の起源であるとする説もある。実験によって確認できないのが宗教で、確認できるのが科学だという見方も可能だろう。しかし、突き詰めて考えると、その境界線は曖昧なのかも知れない。西洋医学は科学に属すると思うが、では、東洋医学はどうだろう。そして、私たちを悩ませている腰痛などについては、未だに東洋医学に軍配が上がるのではないか。

 

本質論はさておき、人類が科学の力を再認識したのは、16世紀にヨーロッパで発明されたマスケット銃が最初ではないか。これによって、戦争の方法は一変した。そして、18世紀の後半、英国で産業革命が起こる。以後、科学は貨幣経済と共に、現代社会を席捲し続けている。科学は、商品を産出し、武器を開発し続けてきた。つまり、今日における経済と軍事は、科学をその根拠としていると言える。

 

これだけ科学が発達したのだから、宗教はその姿を消しても良さそうなものだが、実際にはそうなっていない。現代社会における主要な「知」は、宗教と科学のハイブリッドではないか。先進国は科学で、途上国は宗教だと言えれば、話は簡単だが、実際には米国においても、宗教はその勢いを維持しているし、日本でも統一教会創価学会が盛んに活動している。そうしてみると、宗教と科学の間には、何らかの共通点があるに違いない。例えば、地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教の主要な信徒は、理科系の一流大学出身者だった。

 

ここで私が指摘しておきたいのは、宗教も科学も権力を生み出す方向に向かうという点だ。宗教は階級を生み出すし、科学が生み出す経済の世界は、序列によって成立する企業をその構成単位としている。

 

さて、権力へと向かう宗教と科学に関する「知」は、人間を二分することになる。すなわち、それらの「知」を知っている、若しくはそれらの「知」にアクセスすることのできる者と、そうでない者とに分断するのである。前者を知的エリートと呼んでも良い。そして、知的エリートは、「知」を秘匿する。「知」は秘匿されることによって、それを知っている者に多大な利益をもたらすからだ。そして、知的エリートが権力者を作り上げる。若しくは、自分たちの中から、権力者を選任するのである。こうして、私が「内部者」と呼ぶ特権階級が生まれる。内部者とは、「知」と権力の内部に通じている者のことである。

 

構造と自由(その2) 身体から「知」へ

 

このブログでは、かねてより次の図を掲載してきた。

 

       権力

       |

身体 ――――|―――― 「知」

       |

       主体

 

しかしながら、この図だけでは語り尽くせない事柄がある。変更を加え、書き直す日々が続いたが、ようやく次の改定版に辿り着いた。

 

「構造と自由」と題した本稿の主たる目的は、この図について説明することである。本稿において、他には、図も表も登場しない。簡単に説明しておこう。

 

時間軸に従って考えた場合、まず、身体を中心とした生活にかかわる領域がある。そこから、様々な「知」が生まれる。「知」は、時に身体と調和し、また別の「知」は、身体と対立する。やがて、「知」をその基礎とした権力が生まれる。作用があれば反作用があるように、権力に対抗する形で、人間の世界に主体が生まれたに違いない。

 

これら4つの極の間に、内部者、依存者、芸術、哲学というキーワードを入れてみた。他の要素も無数にあるのであって、それらをちりばめていくと、多分、この図は曼荼羅のような円形を示すことになるだろう。

 

権力と主体は常に対立する。一方、身体と「知」は、権力の側にも主体の側に揺れ動く。

 

この図の上半分を秩序と呼び、下半分を自由と呼ぶ。そして、図の全体を指して構造と呼ぶことにする。この構造とは、一体、何の構造なのか。それは比較的小さな集団から、企業や国家までを含めて、様々な人間集団の構造なのだ。この図によって、人間の文明まで説明できるのか、現時点で、それは私にも分からない。

 

まず、身体についての考察から始めよう。そもそも、我々、ホモサピエンスの身体は、ほとんど変化していない。3万年前と比べると、現代人の脳の容積は15%減少したという説もあるが、大きな変化ではない。つまり、私たちの身体は何万年もの間(もっと長いかも知れない)、変化していないのである。食料事情によって、体が大きくなったり、突然変異によって肌や眼の色が変わったりということはあるが、それらとて、大した変化ではない。

 

実のところ、身体について、判明していることは少ない。例えば、人は何故、眠るのか。眠っているときに、人は何故、夢を見るのか。こんなことでさえ、分かっていないのである。この得体の知れない身体と共に、ホモサピエンスは20万年もの間、暮らしてきたのである。古今東西、これは普遍的な事実である。

 

やがて、人類は道具を使い始める。大きな石を砕くと、鋭利な断面を持った小さな石が出来上がる。これをナイフ替わりに使った。そして、人類は火を使い始めた。これらの技術は、身体にとって有用である。生活技術と言っても良い。

 

また人間は、幾多の危機に直面してきたのである。これらの危機が人間に思考することを教えたに違いない。個人的なレベルで言えば、例えば、腹痛がある。何らかの植物を摂取すると、腹痛が和らぐ場合がある。若しくは、和らいだと錯覚する。すると、それが1つの知恵となって、集団内で共有される。何らかの呪文を唱えると、願いごとが叶うという仮説なども登場する。呪術の誕生だ。個人で、若しくは少人数で行われるそのような行為は呪術として、また、比較的大人数で行われる場合は祭祀として、区別できるだろう。雨乞いの儀式などが、祭祀の典型である。

 

呪術や祭祀は、身体と親和的な関係にある。

 

もう少し複雑さを増すと、動物信仰、精霊信仰が誕生する。特に、狩猟採集民族は、動物に関心を抱いていたに違いない。そして、様々な動物に意味や役割を付すことによって、独自の世界観を構築したのだろう。アイヌ民族における精霊は、カムイと呼ばれる。日本の古い神社では、鶴の舞いが行われ、ヤオロズの神々が信仰の対象とされてきた。ヒンドゥー教は、ゾウをガネーシャと呼び、神としてあがめている。

 

そもそも人間は好戦的な動物なのか、平和を志向する動物なのか、という議論がある。好戦的であるとする説が優勢だと思うが、私の意見は違う。この点私は、食料事情と人口密度によって、結果が異なるものと考えている。食料が充分にあって、人口密度が低い場合、人間は戦争をするリスクを回避するに違いない。反対に、食料が不十分で、人口密度が高いと好戦的になる。

 

私は、動物信仰・精霊信仰の段階において、人間は平和に暮らしていたのだと思う。また、この段階において、人間の「知」は身体を離れ、抽象性を獲得したに違いない。

 

但し、動物に限らず植物も含めて、あらゆる生命体は、無制限に自らの種を拡大しようとするものだ。アスファルトの小さな裂け目からだって、雑草の芽が伸びてくる。人間も同じで、世界人口は増加し続けてきたのだ。

 

構造と自由(その1) はじめに

 

近ごろ、ミステリーとかサスペンスと呼ばれるテレビドラマを見ながら、晩酌をするのが習慣になった。最近この手の番組は、あまり流行っていないらしいが、BSで再放送をやっているので、それらを録画して見ている。「温泉若女将の殺人推理」とか「駅弁刑事(デカ)」など、あまりシリアスではないものが、私の好みである。

 

連日、見ていると、どうやらこれらの番組にもパターンのあることが分かってくる。まず、驚くべき殺人事件が起きる。そして、被害者の身元が判明する。これが分からないと、物語は進行しない。次に、被害者の人間関係が明かされる。大体、そこで浮上した人物の中に、真犯人がいる。主人公である刑事や探偵は、様々な仮説を立ててみる。犯行動機を持っているのは誰か、事件発生時のアリバイはあるのか。最後に、凶器や殺害方法に関わる謎を解き、真犯人に辿り着く。

 

このような発見のプロセスは、米国の記号学者であるパース(1839-1914)が提唱したアブダクションという思考方法に似ている。まず、驚くべき事実がある。その事実を解明するために仮説を立てる。その仮説によって、驚くべき事実を説明することができれば、その仮説は正しいことになる。但し、この思考方法には限界がある。ある事実があって、その事実を解明する仮説AとBが同時に成立する場合があるからだ。仮説Aが正しければ、仮説Bは間違っていることになる。

 

しかしながら、私たちが生きている世界には、この仮説によって思考する以外に方法がない事柄、不確実な領域が存在する。1つには、原始時代に関することだ。考古学が物的な証拠によって解明できる過去は、せいぜい1万年程度ではないか。しかしながら、私たちホモサピエンスには20万年の歴史がある。2つ目としては、未来に関する事柄である。例えば、ウクライナ戦争において勝利するのは、ウクライナかロシアか。誰にも分からない。3つ目としては、政治や経済に関する事柄だ。最近、日本政府は米国からトマホークというミサイルを400発も購入することを決めたようだが、これは、まったくもって驚くべき事実だと言う他はない。何しろ、このミサイルは米国が1970年代に開発した古いもので、その速さは戦闘機よりも遅いらしい。何故、このようなポンコツミサイルを購入するのか、国会で質問されても、政府はまともに答えようとはしない。

 

現代社会においては、何かと言うと、事実に基づいて主張しろとか、数字で示せという風潮があるように思うが、私はそのような合理主義には懐疑的なのである。私たちが事実として認識しているのは、社会の表層に過ぎない。様々な事実を総合して、そこから仮説を導く力の方が、より重要ではないか。

 

次に、私が今日の日本に対して抱いている危機感のうち、重要なものを3つ程挙げておきたい。それは、戦争、貧困、原発である。私は、日本人がこれらの危機を乗り越えることを願っている。

 

最後に、この原稿のタイトルである「構造と自由」について、その趣旨を述べておきたい。

 

まずヘーゲルがいて、彼は弁証法を提唱した。これは対立するAとBとがあったとして、それが上の段階において、つまり止揚して、Cとして融合するという考え方である。この原理に従えば、歴史的に見ると人間社会は進歩することになる。この考え方を批判的に継承したマルクスは、行き詰った資本主義の次に共産主義が来ると主張した。更に、人間は自由であるということを前提としたサルトルが、実存主義を唱えた。サルトルは、マルクス主義に傾倒していた。ヘーゲルマルクスサルトルの3人の思想の側面をまとめると、次のようになる。

 

1 人間社会は、進歩する。

2 文明人は、無文字社会の人々よりも優れている。

3 人間は、自由である。

 

そこで、構造主義レヴィ=ストロースが登場する。彼は、無文字社会にも文明国にも構造があり、どちらの構造も同じであると主張した。つまり、歴史的な時間軸で見た場合でも、構造に捕らわれている人間社会は、進歩しないということになる。彼の立場を上記の観点に従って記すと、次のようになる。

 

A 人間社会は、進歩しない。

B 文明人も無文字社会の人々も、本質的には同等である。

C 人間に自由は・・・?

 

問題は、上記のCなのだ。それでは、構造の中に生きている人間に自由はないのだろうか? 仮に、自由はないという前提に立つと、困ってしまうのだ。例えば、現在の日本にも権力構造がある。そしてそれは、更に大きな米国が主導する権力構造の一部をなしている。米国には軍産複合体というのがあって、戦争をしたがっている。ウクライナの次は、台湾有事だろう。そうなった場合、日本は中国との戦争の矢面に立たされる可能性がある。もし、人間に自由がないとするならば、私たち日本人にこのような事態に対処する方法はなく、ただ、思考を停止し、成り行きに身を任せる以外に方法はないことになる。本当にそうだろうか?

 

私はこの問題、すなわち構造と自由の関係について、納得できる説明を聞いたことがない。従って、本稿において、この問題を検討してみたいと思う。

 

ちなみに、サルトル以降の主要な思想家の一覧を記してみよう。

 

ジャン・ポール・サルトル/1905-1980/フランス

レヴィ=ストロース/1908-2009/フランス(ベルギー生まれ)

ロジェ・カイヨワ/1913-1978/フランス

ルイ・アルチュセール/1918-1990/フランス

ドゥルーズ/1925-1995/フランス

ミシェル・フーコー/1926-1984/フランス

ジャック・デリダ/1930-2004/フランス

 

全員がフランス人である。ざっくりと彼らを「20世紀のフランス人」と呼びたい。もちろん、彼らには彼らの時代的な背景があったのであって、それは21世紀に生きる日本人が抱える問題とは大きく異なる。私は、21世紀に生きる日本人として、思考したいと思う。

 

秩序の正体

 

ここに言う「身体」とは、人間生活の中核をなすものであって、健康や性に関わる身体技術や食文化などの生活技術を含むものとしよう。また、生活することを人生の基本とする人々を指す。これは、人類史における最古の領域だとも言える。

 

やがて、身体を否定する形で、ある種の「知」が生まれた。

 

ここで久しぶりに、例のバナナ村長に登場してもらおう。

 

昔、ある部族の村長が言った。

 

- 我々の祖先は、バナナである。また我々は、我々の祖先に敬意を払わなければならない。従って、今後、バナナを食べることを禁止する。

 

この話には、ほとんど人類最古ではないかと思われる身体と対立する「知」の誕生をみることができる。身体の側の要請は、当然、バナナを食べたいという欲望にある。そして、その欲望を禁ずるところに、「知」の成立基盤が存在しているのだ。また、このように何かを食べないという規制は、世界各地に存在している。例えば、イスラム教徒はブタ肉を食べない。また、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教などには断食の習慣がある。

 

古代ギリシャの哲人たちは禁欲的だったし、それに続くキリスト教も性を抑圧した。つまり、身体に対するアンチテーゼとして、「知」を確立してきたのだ。

 

そして、バナナ村長の発言の最後の部分、すなわち、「今後、バナナを食べることを禁ずる」という部分に権力の萌芽を見ることができる。権力は、行使されるから存在する。このように、最初に身体があって、身体を否定する形で「知」が生まれ、「知」が権力を生む。

 

もちろん、人間の「知」には永い歴史があるし、その種類も様々だ。ちなみに、人類が火を使い始めたのは、180万年前だとする説がある。もう少し最近の話で言うと、まず、呪術的な「知」というものがあった。これは融即律と言っても良いだろう。やがて、それらが体系化され、宗教的な「知」へと発展する。更に、複雑なプロセスを経て、自然科学(以下、単に「科学」という)が誕生する。

 

科学の特徴は、人間の身体が成し得ないことを実現するという点にある。元来、人間は空を飛べないが、飛行機がそれを可能にした。生身の人間は、一度に多くの人間を殺せないが、爆弾がそれを可能にしたのである。身体を超越するのが、科学の目的だと言える。

 

宗教的な「知」にせよ、科学にせよ、それが生まれると人間は集団を組成する。それは人間の本能かも知れないし、若しくは「知」が何らかの利益をもたらすからだとも言える。宗教的な「知」は教団を作り、科学は会社を作る。そして、集団ができると、そこに権力が生まれる。

 

権力は、行使されることによって、その存在が誇示される。権力を誇示しない権力者は、少ない。権力が反復継続して行使されると、規範力が生じ、やがてそれが秩序となる。この秩序は、構造と言い換えても良い。

 

秩序が生まれると、人々はそれに従うと共に、依存するようになる。例えば、クルマの製造技術が生まれると、自動車会社が誕生する。自動車会社は多くの従業員を抱え、大量のクルマを製造する。自動車会社には必ず社長がいて社内を統轄する訳だが、それと同時にクルマの製造技術に関する膨大な特許権等の知的財産権を保持する。これも1つの権力だと言えよう。もう何十年もの間、日本国内で新たな自動車会社が設立されたことはない。それはこの特許権が壁になっているからに違いない。自動車会社の従業員は、会社に勤務することによって給与を得るし、ユーザーはクルマを使用することによって、様々な便益を得る。こうして、クルマに依存する社会が生まれる。

 

クルマならまだいいが、永年日本を支配している自民党にも同じことが言える。自民党が頑なに守っている「知」とは、米国の言いなりになっていれば良い、という暗黙知だと思う。そして、それは秩序となり、その秩序から利益を享受している者が多く存在する。地方の住民は、自民党に頼んで地方交付金をもらう。大企業は、法人税を減税してもらっている。官僚は天下り先を確保できるし、宗教団体は税金を納めなくて済む。テレビ局は放送権を確保し、新聞社も同じ秩序の中にある。

 

自民党や政府は庶民に対しては増税ばかりする訳だが、一体、誰が自民党に投票するのだろう? 私は、永年そんな疑問を持っていたが、答えは簡単だ。税金は、どこかに使われているのであって、そこから利益を得る者がいて、彼らが自民党に投票しているのである。これはもう日本政治の秩序なのだ。

 

身体→ 「知」→ 集団→ 権力→ 秩序→ 依存

 

このような秩序があるのだから、何回選挙をやっても自民党が勝つのである。そこから何の恩恵も得ていない私などは、もう絶望するしかないし、実際、ほとんど絶望している。このような現実を前にして、哲学や思想は無力なのだろうか。

 

しかし、人類の歴史には、秩序に反旗を翻した例がない訳ではない。例えば、14世紀にイタリアで勃興したルネッサンスである。

 

ルネッサンスとは・・・

 

- 教会の伝統的権威に対抗して、(中略)神中心の伝統的世界観からぬけだし、人間性を信頼しつつこれを充実・発展させようとする生活態度であった。(世界史/山川出版)-

 

・・・ということなのだ。

 

つまり、「知」が生まれる以前の段階まで戻って、人間性、私の言葉で言えば「身体」の段階まで戻って、そこから再スタートを切るべきではないか。この身体から生まれてくる価値観、それを私は仮に「身体感覚」と呼びたい。

 

例えば「身体感覚」から、理屈ではなく、次のように主張することが可能ではないか。

 

木を切るな!

 

コオロギなんて食わせるんじゃねえ!

 

原発なんて危ないものは止めろ!

 

戦争に近づくな!

 

税金は下げろ!

 

この原稿には、多くのことを詰め込み過ぎたかも知れない。