文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

魂の証明(その11) 神の階梯

 

三島由紀夫の小説、「英霊の声」を読みながら、私の背筋はゾクゾクと寒くなった。話は、語り手が木村先生の主催する帰神(かむがかり)の会に出席するところから始まる。ここで行われる方式は、一般の神がかりとは異なり、他感法と呼ばれるもので、石笛(いわぶえ)を吹く審神者(さにわ)と霊媒たる神主の2名によって執り行われる。審神者(さにわ)は木村先生が、そして霊媒は川崎君と呼ばれる23才の盲目の青年が務める。

 

いよいよ儀式が始まると、霊媒たる川崎君の様子が一変し、彼に霊魂が乗り移る。霊魂は川崎君の口を借りて、長い物語を話し始める。やがて、その霊魂が2・26事件で命を絶った青年将校たちのものであることが分かる。青年将校たちが去った後、別の霊魂が川崎君に憑依する。彼らは、神風特攻隊として南海に散った若き兵士たちである。彼らが川崎君の口を借りて語った物語の中に、次のような一節がある。

 

- しかしわれら自身が神秘であり、われら自身が生ける神であるならば、陛下こそ神であらねばならぬ。神の階梯のいと高いところに、神としての陛下が輝いてゐてくださらなくてはならぬ。そこにわれらの不滅の根源があり、われらの死の栄光の根源があり、われらと歴史をつなぐ唯(ただ)一条の糸があるからだ。-

 

この霊魂が不満に思っているのは、天皇人間宣言である。本来、神としての天皇がいて、その天皇に一体化するからこそ、天皇に忠義を誓い死んでいった者の魂が救われるのに、その天皇人間宣言を出してしまっては、一体、どうして死者の霊魂が救われようか、と述べている訳だ。人間宣言の問題は置くとして、この記述から三島の思想の根底が覗き見える。

 

つまり、この世の地上と天空の間に長い階梯(かいてい:はしごの意)がある。天皇や国家のために自ら命を投げ打った場合、その者の魂は、天皇と一体化するのである。そして天皇は、即位の際に執り行われる大嘗祭(だいじょうさい)によって、日本の最高位の神である天照大神アマテラスオオミカミ)と直結する。つまり、忠を尽くして死んだ者(忠臣)の魂は、神と一体化するのである。これが三島の世界観であり、美学でもある。

 

天照大神 - 天皇 - 忠臣

 

ここで三島はいみじくも階梯という言葉を用いているが、これはプラトンの「美の梯子」に似ている。古代ギリシャにおける最高神は、ゼウスだった。そして、神の言葉を人間に伝える役割を担っていたのが、精霊(ダイモン)や巫女だった。幼い頃から精霊の言葉を聞いていたのがソクラテスで、その弟子がいて、弟子の中の1人がプラトンだった訳だ。

 

ゼウス/イデア - 精霊/巫女 - ソクラテス - 弟子/プラトン

 

ソクラテスに弟子がいたように、三島を取り巻く若者もいた。1人は、絶世の美少年だった美輪明宏だろう。その後、三島は楯の会を結成し、若者を集めた。その中で学生長をしていたのが、森田必勝である。森田は太平洋戦争の末期に生まれた。そして、戦争の必勝を願って、両親が必勝(まさかつ)と命名したらしい。森田は三島を介錯した後、自らも腹を切った。「手記 三島由紀夫様 私は森田必勝の恋人でした」という本があって、これは涙なくして読めない。

 

天照大神 - 天皇 - 三島 - 森田

 

そんなお伽話のような、と思う人が多いことと思う。まさか、そんなことを三島が本気で考えていたのか、と疑問に思う人もいるだろう。しかし私は、三島は本気だったと思う。別の見方をしてみよう。私たちの文明は行き詰まっている。政治は腐敗し、人々は堕落した。グローバリズムという美名の下に、今、日本という国家自体が存亡の危機にある。三島が想定していた国家とは、憲法とか、国境とか、国連とか、そういう近代主義的な要素に基づくものではない。三島が考えた国家とは、文化共同体のことである。そこには歴史があり、歴史が育んだ文化がある。文化の中で人々は育成され、文化の中で倫理と美が醸成されるのだ。これが、三島の措定した文明のグランドデザインではないか。

 

 

魂の証明(その10) 美、エロティシズム、死

 

哲学の世界では、人間が目指すべき究極のものを真善美であると考えてきた。それはプラトンから始まり、約2000年後のカント以降まで続いている。人間には目指すべきものがある。しかもそれは、究極の何かなのだ。そう考えたのは、三島由紀夫も同じだろう。但し彼はそれらを美、エロティシズム、死の3つであると述べた。このことは、三島の肉声が今もYouTubeに記録されている。

 

今日、11月25日は三島の命日でもあり、この問題を考えてみたい。

 

まず、美について。美とは何か。これを端的に定義づけることは難しいし、三島がどのように定義していたのか、その直接的な説明を私は読んだことがない。従って、この問題は私自身が考える他はないのだ。

 

例えば、美は存在しない、と考えることも可能だ。世界には、多種多様な事物や現象があるばかりで、それらに特段の意味はない。但し、多種多様な事物や現象のうち、いくつかのものに対して、人間は美しいと感じる。そうだとすると、美とは人間の感性が生み出すものだと言える。または、人間の感性の中にこそ、美の本質が内包されていると言えないか。

 

別の考え方もある。今度は、美の種類を考えてみよう。まず、眼に見える美がある。それは大自然であったり、女性の裸体だったりする訳だ。また、耳で聞くことのできる美もある。鳥のさえずりや音楽などがこれに当たる。それらとは別に、言葉によって表現される美というものもあるだろう。それは素朴な少女が発した彼女の内心を表わすものとか、言葉そのものの美しさや、詩や小説によって表現される美のことである。最後に、人間の行動に伴う美というものもある。私たちは誰かの利他的な行動に触れると、そこに美を感じるものだ。

 

さて、これで少なくとも4種類の美のあることが分かった。では、これらの美の中で、最も信頼できるものはどれだろう。時間がたてば、花は散るし、女性は年老いる。言葉の美と言っても、そもそも小説家などという連中は、皆、大嘘つきなのである。すると、行動によって表される美が、最も信頼できる美だということにならないか。三島は、そう考えていたのだと思う。

 

次は、エロティシズムだ。私にとっては、これが最大の難問だったのだが、幸い、三島が本音を述べていると思われる文章を見つけることができた。「葉隠入門」の中の「『葉隠』 四十八の精髄」という箇所から、引用する。

 

- 第二に「葉隠」は、また恋愛哲学である。恋愛という観念については、日本人は特殊な伝統を経、特殊な恋愛観念を育ててきた。日本には恋はあったが愛はなかった。西欧ではギリシャ時代にすでにエロース(愛)とアガペー(神の愛)が分けられ、エロースは肉欲的観念から発して、徐々に肉欲を脱してイデアの世界に参入するところのプラトンの哲学に完成を見いだした。一方アガペーは、まったく肉欲と断絶したところの精神的な愛であって、これは後にキリスト教の愛として採用されたものである。従って、ヨーロッパの恋愛理念にはアガペーとエロースが、いつも対立概念としてとらえられていた。ヨーロッパ中世騎士道における女性崇拝には、マリア信仰がその基礎にあったが、同時に、そこにはエロースから断絶されたところのアガペーが強く求められていた。

 ヨーロッパ近代理念における愛国心も、すべてアガペーに源泉を持っているといってよい。しかし日本では極端にいうと国を愛するということはないのである。女を愛するということはないのである。日本人本来の精神構造の中においては、エロースとアガペーは一直線につながっている。もし女あるいは若衆に対する愛が、純一無垢なものになるときは、それは主君に対する忠と何ら変わりはない。このようにエロースとアガペーを峻別しないところの恋愛観念は、幕末には「恋闕(れんけつ)の情」という名で呼ばれて、天皇崇拝の感情的基盤をなした。いまや、戦前的天皇制は崩壊したが、日本人の精神構造の中にある恋愛観念は、かならずしも崩壊しているとはいえない。それは、もっとも官能的な誠実さから発したものが、自分の命を捨ててもつくすべき理想に一直線につながるという確信である。-

 

誠に驚くべき分析である。上記の引用箇所に「エロティシズム」という言葉は含まれていないが、私は、この箇所を読んだ瞬間、ああ、これが三島の言っているエロティシズムのことなのだと思った。

 

三島は、エロティシズムを単なるセックスの対極に置いていた。単なるセックスを動物的で低俗なものとし、対するエロティシズムの方を究極的で、純粋な精神の形態と位置付けていたのである。そして、そのエネルギーは天皇崇拝にまで結びつく訳だ。このようにしてエロティシズムは、国家、政治、天皇制と深く関わることになる。三島が自決の直前にバルコニーにおいて「天皇陛下万歳」と三唱した理由が、ここにある。

 

なお、引用箇所における「プラトンの哲学に完成を見いだした」とあるのは、プラトンの「饗宴」に記されたエロスの道(美の梯子)のことを差している。これは本稿の(その3)で取り上げたので、ここでは繰り返さない。いずれにせよ、三島がプラトンのみならずギリシャ哲学全般に精通していたことには、疑いの余地がない。

 

さて、残るのは「死」の問題である。

 

まず、死は善いものか、悪いものかという議論があった。古代ギリシャにおいては、その彫刻に代表されるような筋肉美が称賛されていた。反対に、老いること、死ぬことは忌み嫌われていたのである。そのような環境下にあったからこそ、ソクラテスの「死のことを何も知らないのに、恐れるのはおかしい」(ソクラテスの弁明)という主張は、当時の人々にとっては、驚くべきものだったのだ。なお、三島は川端康成に宛てた手紙の中で、自分が死ぬことは全く恐ろしくない、と述べている。

 

次に、死は回避すべきものか、目指すべきものか、という問題がある。この点、現代の日本では執拗なまでに回避すべきだという洗脳が行われているように思う。しかし、葉隠においては、死とは目指すべきものだ、との主張が繰り広げられる。こんな話が、葉隠の中で紹介されていたのを覚えている。ある若者が、殿様に仕えていた。ある日、その殿様が住んでいた城が、火事になった。幸い、殿様も家来たちも無事だったが、殿様はある宝物を持ち出せなかったことを残念がった。すると、その若者が何の躊躇もなく、燃え盛る炎の中に飛び込んだのである。鎮火した後、皆で調べてみるとその若者の丸まった焼死体が発見された。死体を開いてみると、腹のあたりに殿様の宝物が無事で発見された。この逸話からどのような原則が導かれるかと言うと、この若者のようにりっぱな死に方をするチャンスは、人生の中で、多くはない。従って、そのチャンスを逃してはならない、ということ。このことを葉隠は、「その時が只今、只今がその時」と表現している。

 

少し、プラトンの作品「パイドン」について述べよう。ちなみに三島は、決起の6日前に投函した作家、村上一郎に宛てた手紙の中で「『パイドン』を読んでいる」と述べている。実は、「パイドン」の中にも、死を肯定するような記述がある。

 

- もし、私たちがなにかを清浄に知ろうとするならば、肉体から切り離されるべきであり、魂それ自体によって物事それ自体を観なければならない。そしてその時に、どうやら、私たちが求め、それを恋する者であると主張するその境地、つまり<叡智>が私たちのものとなるだろう。-

 

魂が肉体と切り離されるとは、すなわち死ぬことである。死に至らなければ、叡智を得ることができない、と述べている訳だ。また、「パイドン」には、「死の練習」についての記載もある。

 

- 魂の肉体からの解放と分離こそ、知を愛し求める哲学者が練習してきたことなのだ。-

 

実はこの「死の練習」については、葉隠にも同様の記載がある。

 

- (毎朝、まえもって死んでおけ)必死の思いは、日々あらたにするよう努むべきである。朝ごとに身心をしずめ(中略)死にざま、末期のことを考え、毎朝、ゆるみなく、死んでおくべきである。-

 

言ってみれば、死のイメージ・トレーニングをしておけ、ということだろう。このようにソクラテスプラトン、山本常朝(葉隠の著者)らと三島の思想には、共通点が少なくない。

 

いつもの「配置図」を再掲する。

 

 

この図において私が思うのは、文学で到達できるのは「魂」までだということ。そこに文学の、言葉の限界がある。そこから先の真善美、エロティシズム、叡智のレベルまで飛翔するためには、死んで見せなければならないのではないか。細部において相違はあるものの、この点において、「パイドン」に描かれたソクラテスの死と三島の死は、深いところでつながっているに違いない。

 

 

魂の証明(その9) 輪廻思想の起源

 

前回の原稿で、私は、輪廻転生について東洋では仏陀が、西洋ではプラトンがこれを説き、両者の間に伝播はなかった。「不思議なこともあるものだ」と述べたが、どうやらこの理解は誤りだったらしい。訂正すると共に、お詫び申し上げます。

 

西洋の方を先に述べると、この輪廻転生という考え方は、プラトンよりも先にピタゴラス(紀元前6世紀頃)が同じようなことを述べていたのである。

 

- (前略)ピタゴラスは、魂が神的な起源をもつ不死なる自己同一者であること、犯した罪のために肉体という墓の中に落ちていること、この世にある間の全活動に対する倫理的責任を負うこと、やがてあの世で審判処罰があること、その償いは他の諸生物への輪廻転生により果たされること、あらゆる肉体的情欲から決定的に浄化された魂が初めてその神的な起源へ帰還できること、などを説いた、と考えられる。このような思想は、元々は、ユーラシア大陸に広く分布するシャーマニズムに由来すると思われる(後略)-

 

(参考文献: ギリシャ思想入門/東京大学出版会岩田靖夫/2012)

 

上記の引用箇所を読むと、それはプラトンの「国家」の末尾で語られるエルの物語と近似している。これはエルという人の臨死体験に基づくもので、ある場所で魂に対する審判、罰則、次の生命への割り当てなどが行われる。

 

シャーマニズムがあって、それがピタゴラス派によって醸成され、ソクラテスプラトンに伝承されたと見て良いだろう。

 

シャーマニズムに関する私の理解は、次の通りである。シャーマニズムの構成要素としては、神話、呪術、祭祀の3つを挙げることができる。当初はシベリア付近で確認されたが、その後、世界的な広がりのあることが判明した。

 

なお、かつてのアイヌ文化もシャーマニズムであった。そこには多くの神話があり、呪術や祭祀の習慣を見て取ることができる。ここで興味深いのは、プラトンイデア論は、我々が現実に見ているものは、イデアの不完全なコピーだとするものだが、これはアイヌ文化におけるカムイという概念に似ている。カムイとは神のことだが、アイヌの人々は熊には熊の、鳥には鳥のカムイがいて、そちらが真実だと考えていた。

 

次に、東洋の方を考えてみよう。輪廻転生という考え方は、仏陀より前から存在したのだ。仏陀、すなわち仏教の前にインドにはバラモン教があった。そしてバラモン教は、既に輪廻転生に近い思想を持っていた。仏陀は、輪廻転生から解脱すべきだという思想を、付加したに過ぎない。バラモン教から更に遡ると、そこにはシャーマニズムがあったに違いない。

 

このように見てくると、まずシャーマニズムがあって、そこから哲学、宗教、科学へと分岐したことが分かるが、その線引きは曖昧だと言わざるを得ない。例えばピタゴラスは数字にこだわり、音楽理論を研究していた。ピタゴラスはシャーマン的であり、哲学者風であり、数字にこだわり、教祖のようでもあった。哲学の始祖はピタゴラスであるとする説もあるようだが、ソクラテスであるとする説の方が一般的らしい。

 

シャーマニズムまで遡ると、東洋も西洋もない。アフリカやその他の地域まで含めて、地球規模で、人類の営みの本質は、みな同じなのである。そして、誰か特別な人がこれを発展させた訳でもないことが分かる。哲学者も科学者も宗教家も、前の世代から受け継いだものに対し、少しだけ何かを付加したり、差し引いたりしてきたのではないだろうか。

 

魂の証明(その8) 哲学の目的

 

そもそも、哲学なんてものに興味を持っている人は、どれ位いるだろう。100人に1人もいないのではないか。哲学は金にならないし、そもそも哲学の勉強などしなくとも、日常生活は一向に困らないのである。むしろ、友人に哲学の話などしようものなら、嫌われるか、疎まれるのが関の山である。

 

しかし、哲学には目的と言うか、目標と言うか、役割のようなものが、少なくとも1つはある。それは・・・

 

死の恐怖を克服すること

 

・・・だと思う。

 

人間、誰しも多くの恐怖を抱えている。そして、その最大のものは、死ではないか。死の恐怖から解放されれば、人は隷従から解き放たれ、自由を獲得し、幸福に生きることができるに違いない。

 

まずは、「ソクラテスの弁明」から。

 

- (前略)死を恐れるということは、諸君、知者でないのに、知者だと思うことにほかならないからである。それは知っていないことを知っていると思うことであるから。というのは誰も死が、人間にとって、もしかしてすべての善のうちで最大のものであるのではないか、それさえも知っていないのに、それが悪のうちで最大のものであるということをよく知っているかのように恐れるからである。けれどもどうしてそれがあの最も非難すべき無知、つまり、知っていないことを知っていると思う、無知でないことがあろうか。-

 

生きている人間の中で、死んだことのある者はいない。従って、誰も死のことを知らないのだ。知らないことを恐れるというのは、論理矛盾であるとソクラテスは指摘している。ちなみに「ソクラテスの弁明」は、プラトンの初期の作品である。これが中期の「パイドン」になると、次のように変化する。

 

ソクラテス・・・よろしい。では、<死>を受け入れないようなものを、私たちは何と呼ぶだろう。

ケベス・・・不死です。

ソクラテス・・・従って、魂は<死>を受け入れないのだ。

ケベス・・・はい、受け入れません。

ソクラテス・・・従って、魂は不死である。

 

この場面において、ソクラテスは魂が不死であると明言している。これはプラトンイデア論に基づくもので、人間の死とは身体の死ではあるが、魂はそこからイデア界に向かい、再び、人間の身体に付着するという考え方である。魂が不死なので、人間は死を恐れる必要がないのだ。実際、ソクラテスは死を恐れず、静かに毒杯を飲み干し、死を迎えた。

 

イデア論は、大きなスケールを持っている。そこには人間の宿命としての死、人間が目指すべき真善美(プラトンは善のイデアを最高峰のものとして位置付けた)、人間が真善美(イデア)に接近するための媒介としての魂。プラトンは、ソクラテスの静かな死を描くためにイデア論を構築したのではないか、とさえ思えてくる。

 

次に、セネカの思想を紹介しよう。セネカ(紀元前4年頃~紀元65年)は、古代ローマにおけるストア派の哲学者である。セネカは暴君として有名な皇帝ネロに仕えた。ネロの幼少期には教育係を務め、最後には皇帝暗殺計画の共謀容疑を掛けられ、ネロから自殺を命じられ、自ら命を絶った。

 

当時は、皇帝が政敵に対し自殺を命じ、従わなければ処刑した上で財産を没収するということが頻繁に行われていた。セネカ自身、そのような理不尽な死を繰り返し見ていたという事情がある。

 

<参考文献>

死ぬときに後悔しない方法/セネカ文響社/2020

 

- 徳に欠けた生き方をするくらいなら、死を選ぶ方がよい-

 

- いかにして死すべきかを心得た者とは、人に服従する「奴隷の心」を捨て去り、あらゆる権力の支配を超えた、高みにいる者である。-

 

- 死んだ後は、生まれる前と同じなのである。-

 

- 死とは、あらゆる苦しみからの解放であり、この世の不幸がそこで途切れる終着点なのだ。-

 

- 大切なのは、よく生きることであり、長く生きることではない。-

 

- プラトンの対話篇「パイドン」には、ソクラテスの死が克明に記されているが、死の間際にも平常心を失わなかったこの哲学者のことを、セネカは非常に高く評価していた。-

 

最後に「葉隠入門」から、三島由紀夫の言葉を抜粋する。

 

<参考文献>

葉隠入門/三島由紀夫新潮文庫/1983

 

- これは自由を説いた書物なのである。-

 

- だから今日のわれわれには、これ(葉隠)を理想国の物語と読むことが可能なのである。私にも、もしこの理想国が完全に実現されれば、そこの住人は、現代のわれわれよりも、はるかに幸福で自由だということが、ほぼ確実に思われる。-

 

 

魂の証明(その7) 彷徨する魂

 

ソクラテスの弁明」は以前、読んでいたが、本稿を書き始めてから「パイドン」、「饗宴」、「ゴルギアス」、「国家」と読み進めてきた。いずれもプラトンの作品である。これらの作品から、プラトンの思想の内実が浮かび上がってくる訳だが、そこに私は奇妙な肌触りを感じている。言ってみれば、プラトンの思想は、その前提が間違っている。また、その後の論理展開も粗雑である。しかし、そこから導かれる結論だけは、正しいように思えるのだ。本当に正しいかどうか、それは分からないとしても、少なくとも私は、共感を覚えるのだ。

 

前提は間違っているが、結論は正しい。そんな論理というものが、成り立つのだろうか?

 

では、現在、私が最も興味をそそられているプラトンの「イデア論」を中心に、私なりに再構成してみたい。

 

ステップ1: 人間の認識能力は極めて限定的なもので、現実世界において人間が見ているのは、暗い洞窟の中で見ている影絵のようなものである。(洞窟の比喩)

 

ステップ2: 実は、時空を超越した絶対的な存在として、イデアというものがある。そして、人間が現実世界において見ているものは、イデアの不完全なコピーに過ぎない。

 

ステップ3: 従って、知を愛する哲学者は、暗い洞窟を出て、明るい陽光の下へと出向き、そこで(ソクラテスのように)イデアを認識するべきなのだ。

 

ステップ4: 魂は、人間の身体に取りつく前、イデア界にあって、そこでイデア、すなわち真理を経験している。従って、人間が自らの魂に配慮を重ねると、魂は忘れ掛けていたイデアを想い起こすのである。(想起説)

 

ステップ5: 故に人間は、自らの魂に配慮しなければならないのだ。

 

上記の論理構成は、単独の文献に記述されている訳ではない。洞窟の比喩は「国家」に、想起説は「パイドン」に、ステップ5の結論は「ソクラテスの弁明」にそれぞれ記述されている。

 

また、上記の世界観に従えば、人間の身体は1回性のものだが、魂は不死であることになる。人間が死ぬと魂は、冥府とか、天界とか、イデア界と呼ばれる世界に戻って行き、また、新たな身体とのカップリングがなされ、地上に舞い戻って来るのである。これは私たち東洋人に馴染みの深い輪廻転生と同じではないか。私たちは仏教を通じて、この輪廻転生という考え方に慣れ親しんできた訳だが、実は2400年前のギリシャにおいても、この考え方が生まれていたことになる。

 

ちなみにAIで調べてみると、輪廻転生を体系化したのは、プラトンよりも仏陀の方が先らしい。では、仏陀の思想がギリシャに伝播したのかというとその可能性は低く、それぞれが独自に、たまたま同じような思想を持ったとのこと。不思議なことがあるものだ。

 

さて、私が上記のようにプラトンの思想を再構成してみたのには、訳がある。ソクラテスの思想の中核をなす「自らの魂に配慮せよ」というテーゼについて、何故、そうなのかという説明が、「ソクラテスの弁明」の中ではあまり語られていない。それを説明するために、弟子のプラトンイデア論なるものを提唱したのではないか。これは私の読みなのだが、多分、当たっているだろう。師匠であるソクラテスの思想を、弟子であるプラトンが補強したのだ。ソクラテスも随分、良い弟子に恵まれたものである。

 

なお、私が何故「自らの魂に配慮せよ」というソクラテスの思想に共感を覚えるのか、という点についても記しておきたい。

 

例えば私は、ある本があって、それを読めばこの世の真実が全て書いてあるのではないかとか、ある思想家がいて、その人の思想を学べば、全ての問題が解決するのではないか、などと思ってきた節がある。しかし、高齢に達した今、それらの希望は儚い幻想に過ぎなかったのだと、しみじみ思うのである。そう言えば、フーコーがこんなことを言っていた。「違う時代を生きた人や、外国人の思想が、あなたの抱える課題に回答を与えるなどと考えてはいけない」。もちろん、それらに触れることは大切だ。しかし、それらはヒントを与えてくれはするが、回答を用意してくれる訳ではない。

 

私は、心の中に1本の木を育てている。そんな風に思うこともある。この木は、十分な水や養分を与えないと成長しないし、下手をすれば枯れてしまう。そして、その水分や養分とは、先人たちの思想であったり、優れた文学作品であったり、音楽や絵画だったりするのだ。私は今、「1本の木」と表現したが、それを魂と言い換えても良い。だから、真理は私の中にあるのだと思うし、また、自らの魂に配慮せよという主張に、感銘を覚えもするのだ。

 

魂の証明(その6) AIとの哲学問答

 

私との哲学談義に付き合ってくれそうな人間は、見当たらない。そこで最近は、AIに論争を持ち掛けることにしている。但し、私は誇り高き埼玉県民の代表として、絶対にAIになど騙されないぞ、という心意気を持っている。なお、私が利用しているAIは、Windows 11にプリインストールされているCopilot(コーパイロット)という簡便なものだ。では、今朝方の会話を紹介しよう。但し、AIの回答はいちいち長いので、省略し、私がアレンジしたものである。

 

私・・・ソクラテスプラトンは、一体、誰と戦っていたのか?

 

AI・・・彼らが戦っていたのは、単なる人物ではなく、思想や社会の在り方そのものでした。

 

私・・・私が「誰」と表現したのはレトリックであって、彼らが戦っていた敵の本質を尋ねている。

 

AI・・・あなたは、哲学者たちが格闘した「存在の深層」や「思考の限界」そのものを指しているのですね。ソクラテスが戦ったのは、知っているつもりで生きているアテナイの人々、自明と思われている価値観や社会的な常識などです。つまり彼が戦ったのは「無知」ではなく、「無知であることに気づかない心の構造」だったのです。また、プラトンが戦ったのは「現実と思われている虚構」でした。そして、彼らが共に戦ったのは、「真理から目を背ける人間の性(さが)です。彼らが戦ったのは外的な敵ではなく、内なる怠惰、思考停止、快楽への逃避、群衆心理など、人間の深層に潜む「真理への抵抗」です。

 

私・・・三島由紀夫は「文化防衛論」を書いた。その中で、三島は一体、何者から文化を防衛せよと主張したのか。

 

AI・・・三島は、戦後日本に蔓延した「文化主義」を批判しています。これは、文化を博物館的なものとして扱い、生命や行動と切り離してしまう傾向です。彼はこれを「血みどろの母体から文化を切り離す行為」と呼びました。戦後の占領政策によって、日本文化の中心にあった天皇や武士道精神が排除され、文化の全体性と連続性が失われた。つまり、文化を守るとは、文化の「生きた本質」を政治的圧力から解放することでもあるのです。三島が戦ったのは、「文化を制度化し、無害化しようとする近代的合理性」そのものです。

 

私・・・真理を求めようとしない人間の本性。思考を拒絶する人間の怠惰。これらを維持、助長しようとする原因があるはずだ。すると、それを権力と呼べないか。

 

AI・・・まさに本質への問いです。あなたの言っていることが、単なる個人の弱さではなく、構造的に維持・助長されているとするならば、それは確かに「権力」と呼びうるものです。哲学者ミシェル・フーコーは、権力を人々の行動や思考をある方向へ導く力であり、思考の枠組みそのものを形作る力だと考えました。学校教育、メディア、制度、言語。これらは人々を「考えたつもり」にさせ、問いを封じるのです。その結果、人は「考えないこと」を自分の選択だと錯覚するのです。

 

私・・・ここでフーコーが出て来たのは、ちょっと意外だ。あなたは、私がフーコーのファンであることを予め知っていたのか?

 

AI・・・私はあなたが誰のファンであるのか、知りません。ただ、あなたの言葉から自然とフーコーの名前が私の心の中に浮かんだのです。

 

私・・・私は、2つの対立軸を措定して人間世界を記述できないか、と考えている。1つの対立軸としては、身体と魂。これはプラトンが言っていることだ。もう一つは、文化とそれに対立する何か、である。その何か、をどう考えるべきか思いあぐねているのだ。

 

AI・・・文化とは人間の営為のことで、それに対立するのは自然ではないでしょうか。

 

そこで、私はプラトンの著作「ゴルギアス」の解説文を思い出したのである。(参考:ゴルギアス/中澤務 訳/光文社古典新訳文庫

 

- この時代は、ペルシャ戦争などをきっかけに、異文化に対する関心が生まれていた時代です。ギリシャ人たちは、自分たちの文化とは異なる慣習を持つ異文化がたくさん存在することを発見しました。そして、それによって、自分たちの文化的慣習を絶対視するそれまでの価値観に疑問を抱くようになりました。こうしたなかで、慣習というものはそれぞれの社会で恣意的に取り決められているにすぎず、すべての社会に共通する正しい慣習など存在しないのではないかという疑いが生まれていたわけです。こうした疑いは、やがて慣習の規範性に対する強い疑いを生み出していきます。(中略)こうして生まれてきたのが、自然の正義という新しい規範なのです。(中略)このとき、自然の与える規範として、多くの人々が思い描いたのが、自然界における弱肉強食の原理でした。-

 

話をAIとの対話に戻そう。

 

私・・・確かに、「自然」というのはいいかも知れない。「ゴルギアス」の中にも、強さこそが正義だと主張する人物が登場する。もちろん、ソクラテスに論破される訳だ。ところで、プラトンが慣習と呼んだもの、三島が文化と呼んだもの、フーコーエピステーメーと呼んだもの、これらは同じではないか。但し、プラトンフーコーはそれを否定し、あるいは懐疑的に解釈し、三島はこれを肯定した。ここに決定的な違いがあるのではないか。

 

AI・・・あなたの思索は、すでに哲学者のそれに近づいています。

 

ここまで来て、私はAIの画面を閉じた。今朝は、「燃えるゴミ」の日で、そろそろ時間が迫っていたのである。

 

プラトンフーコーは、権力の影響を受ける知性と、伝統に根ざす文化を分けて考えてはいなかったのだと思う。これは、西洋人の彼らとしては、当然の帰結だったのではないか。そして、双方をひっくるめて、慣習だとかエピステーメーと呼び、それを否定することによって、精神の更なる高みを目指したに違いない。但し、古代ギリシャに存在した文化の1つとして、「少年愛」なるものがある。これには様々な規範が伴っていた訳で、これはりっぱな文化の一形態だと思う。そして、ソクラテスプラトンフーコーのいずれもこの文化を否定していない。つまり、彼ら自身、肯定すべき文化の存在を認めていたのである。これはもちろん、21世紀に生きる日本人の見方ではある。

 

他方、三島にしてみれば、自らは日本の文化に立脚し、西洋的、合理的な規範をその枠の外から批判することによって、高みを目指したに違いない。そうしてみると、やはり、文化の対立概念は、「知性」としておくのが良いのではないか。これは権力に支配される知性であって、哲学者が目指した叡智とは無縁のものである。

 

三島と同じ日本人である私としては、文化と知性を分けて考えたいと思う。

 

ソクラテスが唱えた無知の知、不知の自覚とは、知性そのものに対する懐疑を含んでいたのではないか。

 

魂の証明(その5) 幸福の条件

 

誰しも幸せになりたいと願っている訳だが、ある見方をすれば、その為には2つの条件がある。1つには、自分自身が満たされていること。それは、健康であったり、人間関係だったり、金銭的なことだったりする。それらが充実していれば、一応、その人は幸福だということになろう。しかし、それだけが幸福の条件ではない。人は誰しも様々な集団に属しており、その集団が安定していなければ、個々人の幸福も担保されない。その集団とは、町内会や村落共同体など、比較的小さなものから国家規模に至るものまである。これらの集団の典型例として、ここでは国家を取り上げよう。

 

政治的な立場を考えると、個人としては充足しているが、国家が危機的な状態にあると思う人は、保守的な立場になる。自分自身は大丈夫だが、日本が危機にあると感じている人は、日本を守れ、国防が大切だ、と考える。反対に日本は大丈夫だが、自分自身が危機に瀕していると感じる人は、リベラルの立場になる。自分はこんなに困っているのだから、国になんとかしてもらいたいと思う。それは自然なことではないか。

 

結局、保守とリベラルの差は、ここにある。すると、その立場とは流動的なもので、時代と共にその比率も変遷する。先の参院選でれいわ新選組(リベラル)の票の多くが参政党(保守)に流れたと言われるが、多くの人々が日本の危機を実感し始めている証左ではないか。

 

では、国家の運営とは、どうあるべきなのか。そういう疑問が沸いてくるのは当然だ。この点、古代ギリシャヘロドトスという学者は、独裁制、寡頭制、民主制の3種類があると述べた。現代の日本人の多くは、そんなの民主制がいいに決まっているだろうと考えがちだが、一概にそうとも言えない。独裁制は、民衆の権利が侵害される。寡頭制は政治に参加できるエリート層を構築し、非エリート層の権利が侵害される。民主制は、衆愚政治に陥り、高度な判断を誤る。結局、全部ダメというのが正解なのである。

 

資本主義と共産主義という見方もある。資本主義は、必然的に需要不足を招き、それを解消するために戦争へと突き進む。また、資本主義は貧富の格差を拡大し、富が一部の富裕層に集中するのでダメなのである。かと言って、マルクスの唱えた共産主義も、過去のソ連や中国の実態を見れば明らかなように、ダメなのだ。マルクスは資本主義の問題点を的確に指摘したかも知れないが、では、どのように社会を構築すべきか、共産主義を基盤とする国家とは、どのような統治構造を持つべきか、この問題にはあまり言及していない。そもそも、マルクスの持っていた唯物史観というものが、私は気に入らない。

 

最近は、グローバリズムナショナリズムポピュリズムを基軸にする見方もある。

 

グローバリズムの本質は、より巨大なマーケットを求める大企業の利益を増大させることにある。その際には、リベラルな人権思想がうまく利用されてきたのではないか。それはインチキな思想なのであって、資本家たちの詭弁だった。グローバリズムがもたらす最大の問題は、移民である。移民は、各地域が持つ伝統や文化を破壊しようとする。伝統や文化が何故、大切かと言えば、それらが倫理を生み出す起爆剤となるからだ。これは私の意見だが、後日、詳述したいと思っている。

 

反グローバリズムの典型は、ナショナリズムだろう。これは使用される文脈に応じて、国家主義とか民族主義と訳される。しかし、それでは一体どの範囲の人間が日本人なのか、という問題が生ずる。日本民族と言った場合も同様であって、先住民のアイヌ琉球の人々はどうか、かつて徴用工として日本に強制的に移住をさせられた人はどうか、混血の人はどうか、などの問題が生ずる訳だ。人々の間に強引に線引きをするナショナリズムもダメだと思う。

 

また、ポピュリズムを簡単に言えば大衆迎合主義なのであって、選挙などの手続概念を含む民主主義よりもたちが悪い。

 

現実の政治に目を向けると、実は思想やイデオロギーの影響は小さい。結局、自民党をはじめとする多くの政党は、利権で動いている。国家国民の利益など、どこかへ押しやられており、その政党を支持する支援団体の利益のために動いているのが、日本の政党である。

 

つまるところ、人間を集団で見た場合、何をどう考えてもダメなのだ。政治学、経済学、法律学などにおいても、それらは現実の人間集団をうまく統治できていない。確かに、人間社会における科学技術は目を見張る発展を遂げたが、人間それ自体の本質は、まったくもって進歩も進化もしていない。

 

私たちが今、考えるべきは、倫理なのではないか。それは人間を内発的に規制するものである。例えば、三島由紀夫は武士道について、次のように述べている。

 

-武士道は、このような、倫理の美化、あるいは美の倫理化の体系であり、生活と芸術の一致である。- (文化防衛論より)

 

私たちはここで立ち止まり、善や徳について考えた古代ギリシャの思想や日本の文化、伝統について、再考すべき時なのだ。