文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

見え始めた米国の孤立化(その1)

 

最近の選挙における投票行動だとか、世論調査の結果を見ていると、日本人のメンタリティーの中心には、恐怖とヒューマニズムがあるように思えてくる。まず、世界情勢としてはウクライナ戦争があり、イスラエルのガザ虐殺がある。これは恐怖だ。そこで日本人は何とか、米国に守ってもらいたいと思ったに違いない。すると高市総理が来日したトランプに連れられて米軍の空母を訪れる。そして、トランプの横に立ち、笑みを浮かべながらピョンピョンと飛び跳ねて見せたのである。日本人の多くは、高市総理であればトランプとうまくやってくれるだろうと思ったに違いない。その直後に行われた衆院選で、自民党は圧勝した。

 

そして、イラン戦争が始まった。米軍のミスにより、イランの女子小学生165人が殺害された。これは、可哀そうでならない。新聞の世論調査でイスラエルと米軍によるイラン攻撃を支持するかという設問があったが、8割以上の日本人が「支持しない」と答えた。私はこの結果を見て、日本人の心の中には、正常なヒューマニズムが残っているのだと思い、安堵したのである。

 

恐怖とヒューマニズム。言ってみれば、日本人とは素朴な人々なのかも知れない。

 

次に、米国のミサイル不足について。最近、米国の迎撃ミサイル不足が話題になっている。当初、私は、イスラエルのアイアンドームに使用するミサイルが不足しているのだと思っていたのだが、AIとの会話を繰り返すと、もっと根本的な問題のあることが分かった。すなわち、米国では長年に渡って製造業が軽視されてきたのである。製造業は利益率が低い。もっと儲かるのは金融やITである。そちらの方に注力した結果、米国における製造業が衰退し、ミサイル等の生産能力も落ちたというのである。実際、日本が米国に迎撃ミサイル(パトリオット)を売却するという話があるし、韓国に設置されていた迎撃ミサイル(サード)をイスラエルに移設するという話もある。日本が武器輸出に関する法制度を変更したのも、米国の製造能力低下に起因している。AIによれば、ロシアは米国のミサイル在庫が枯渇するのを待って、ウクライナ戦争を引き延ばしているという説まである。これはもう、世界に誇る米軍の衰退ではないか?

 

米軍におけるミサイル等の在庫不足が本当であれば、当然、米国はイラン戦争の早期終結を望む。一方、イスラエルはイランを徹底的に叩くことを希望している。そして、イランは、国と民族の存亡を賭けて、徹底抗戦する構えである。すると、この戦争は長期化することになる。長期化すれば、それは米国の財政にも悪影響を及ぼす。米国は貿易赤字、財政収支の赤字、経常収支の赤字に苦しんでおり、米国内には約30万人のホームレスがいるとも言われている。但し、戦争が長期化した場合の米国やトランプが抱える最大のリスクは、イスラエルの敗北ではないのか。

 

現在Xには、イランのミサイルが雨のようにイスラエルのテルアビブに降り注ぐ映像が、無数にアップされている。それら映像の中で、アイアンドームはほとんど機能していない。但し、これらの映像はAI(grok)がことごとくフェイクだと判定している。従って、それら映像の真偽を私が判断することはできない。しかし、イスラエル国内でひっきりなしに避難警報が鳴り響いていることは、マスコミも報道しており、この点は確実だと思われる。そこに、米国やイスラエルの側の迎撃ミサイル不足という情報を加味して考えれば、既に、イスラエル国内で相当程度の被害が出ているであろうことは、容易に想像できる。また、イスラエル最大の弱点は、国土が狭いことではないか。同国の国土面積は、大体、日本の四国と同じ位である。イランは、その狭い国土を集中して攻めれば良いことになる。なお、イスラエルは自国の死亡者数を公式には発表していない。

 

イスラエルが敗北する可能性がある、というのは私の個人的な見方である。但し、追い詰められたイスラエルが核兵器を使用するリスクがあると指摘する専門家はいる。してみると、私の見方が必ずしも的はずれとは言い切れないのではないか。イランが必死なら、イスラエルも必死なのだ。そして、どのような結果になろうと、トランプと米国に何らかの責任があることは言うまでもない。

 

複雑な心境

 

最早、この世への未練を失った私ではあるが、それでも生きている訳で、心静かに暮らしたいと願っている。本でも読もうと思い、本棚を眺めて見ると、今の私に丁度良い本が見つかった。「ソフィーの世界」である。帯にはこんな宣伝文句が書かれている。

 

- 世界で一番やさしい哲学の本 -

 

奥付を見ると初版が1995年で、私が持っているのは1996年版である。つまり、私は30年前にこの本を読んだのである。一度読んだとは言え、もう内容は忘れているし、今の私ならば、当時よりもこの本を深く理解できるに違いない。そう思って読み始めた訳だが、現実世界においては、私の心をざわつかせる出来事が後を絶たないのである。

 

1つには、イスラエルと米国によるイラン攻撃(Epic Fury)である。これは全くもって摩訶不思議な軍事侵攻なのだ。イスラエルは中東における覇権を求めており、同国がイランを攻撃する理由は明白だ。問題は、何故、米国がこの攻撃に加わったのかという問題である。米国を起点にして見れば、イランはほとんど地球の反対側にある。また、米国は自国内でエネルギーを調達できるし、ベネズエラから購入することもできる。イランは核開発を止めることに前向きだったし、米国にとっては何ら安全保障上のリスクはなかったように思う。それでも米国はイスラエルに引き摺られるような形で、徹底的なイラン攻撃を始めた。以後、トランプは多くの言説を公表しているが、どうも信用できない。嘘が紛れ込んでいると言うよりは、ほとんど嘘しか言っていないように見える。こんな人間を大統領に選び、米国民は恥ずかしくないのだろうか、と心配になってしまう程だ。

 

実態としては、米国の大統領でさえも抗うことのできない権力システムがあるのではないか。例えば米国内の軍産複合体や、トランプの支援団体であるキリスト教福音派など。その他にも米国とイスラエルにまたがる国際金融資本や、エプスタイン事件の真相を把握している勢力なのかも知れない。そうであれば、最早、この問題は政治のレベルでは解決できないことになる。誰が大統領になろうと、この権力システムに逆らえないのだから。

 

日本に目を向けても、同じような問題に行き当たる。高市総理は、3月19日に訪米するようだが、そこで彼女が日本の国益に沿った交渉を行うとは思えない。日本の外交や安全保障に関する方針は、政治家ではなく外務省などの官僚が決定しているという説がある。そして、官僚組織は日米合同委員会などを通じて、米国に牛耳られている訳だ。すると、日本の政治家にも、決定権はないことになる。政治家は選挙で代わるが、官僚組織が変わることはない。誰が総理になっても同じなのである。

 

その昔、私は、日本は独立国家だと思っていた。その後、本を読んだりネットで調べたりするうちに、日本は米国の属国だと知った。すると自然の成り行きとして、日本は独立すべきだと考えるようになった。しかし、更に詳細な情報に触れるにつけ、日本が独立するのは困難だと思うようになった。米国のベネズエラ侵攻や、今回のイラン戦争などを見るにつけ、私には恐怖心が生じた。米国は怖い国だ、逆らったら何をされるか分からない。但し、そのような恐怖心を抱くのは、私だけではないはずだ。日本国民の多くが、同じような恐怖心を抱いているのではないか。

 

そこまで考えると、米国が世界を震撼させるような戦争を起こす度に、日本では自民党が選挙で大勝ちするという因果関係が見えてくる。自民党は自ら米国に隷従するので、国民としては、とりあえず安心できるという訳だ。米国が行なった戦争と、高い支持率を得た自民党の総理大臣を列記してみる。

 

アフガン侵攻・・・中曽根康弘

イラク戦争・・・小泉純一郎

北朝鮮の挑発、イスラム国・・・安部晋三

ベネズエラ侵攻、イラン戦争・・・高市早苗

 

このように考えると、先の衆院選で自民党が圧勝した理由も分かろうというものだ。

 

私の心をざわつかせるもう1つの出来事があって、それはれいわ新選組に関するものだ。最近のれいわの支持率は1%前後なので、興味を持っている人は少ないに違いない。私は同党が結成された2019年当時、大変な支持者だった。献金もした。しかし、大西恒樹氏の除名問題があり、山本太郎が東京都知事選に立候補したあたりから懐疑的となり、その後アンチへと変わった。山本太郎のおしゃべり会というのがあり、これはYouTubeで公開されている。当初は見ていたが、次第にマンネリになってきた。また、良く聞いていると山本太郎が質問に答えないことにも気づく。例えば、安部晋三の国葬が開かれた時のこと。質問者は、山本の元にも招待状は来たか、と尋ねた。山本は準備していたスライドに基づき、20分にも渡り国葬の説明をしたが、結局、招待状を受け取ったのか否か、その答えはなかった。どんな質問を受けても自分が話したいことを話すばかりで、質問や意見には答えないのである。

 

今年の2月に実施された衆院選で、れいわは壊滅的な結果となった。それまで9議席あった(多ケ谷氏の離党前)のが1議席になった。それでも山本は党の代表職と選挙対策委員長の座を明け渡しはしなかった。代表職は党の金を握り、選挙対策委員長は党の公認権を握る。同一人物が両役職を兼任するとは、すなわち独裁ということではないか。ましてや衆院選で大敗したにも関わらず、山本は雲隠れしたままで、支持者に対する説明も謝罪も一切していない。そこで、ネット上では支持者とアンチの間で不毛な論争が沸きあがることになる。

 

そして本日、れいわに関する醜聞が「デイリー新潮」によって、公開された。ヤフーの記事にもなっている。明日は「週刊新潮」において、更に詳しい記事が公開される予定。最早、独裁者山本太郎とその取り巻きを一掃しない限り、れいわは終わると思う。かつての支持者としては、複雑な心境である。

 

この世への未練

 

このブログでは、昨年の暮れに掛けて「魂の証明」というタイトルでシリーズ原稿を掲載した。書き進めながらも漠然とした課題を抱えていたのだが、ある日、突然ひらめいたのである。そして私は、12月29日に「あとがき」を書いた。その時私は、私の思想が一応の完成を見たように感じたのである。生意気なことを言うようで恐縮だが、私がこのブログを始めてから、今年の7月で10年になる。石の上にも3年という言葉があるが、その3倍以上の年月を費やしているという事情に鑑み、ご容赦いただきたい。

 

本稿では、その後の心境の変化について、書いてみたい。例えば、ストレスが激減したということがある。まずは、次の文章をお読みください。

 

- ある者は飽くことなき貪欲にとりつかれ、ある者は無益な仕事に懸命に汗を流す。ある者は酒びたりとなり、ある者は怠惰にふける。ある者は政治への野心を抱くが、他人の意見にふりまわされ続けて、疲れ果てる。ある者は、商売でもうけたい一心で、あらゆる土地とあらゆる海を、大もうけの夢を見ながら渡り歩く。ある者たちは戦(いくさ)をしたくてうずうずしている。そして、四六時中、他人を危ない目にあわせようと画策したり、自分が危ない目にあうのではないかと心配したりしている。また、感謝もされないのに偉い人たちにおもねり、自分からすすんで奴隷のように奉仕して、身をすり減らす者たちもいる。-

 

現代の日本人に対する風刺として、大変的確だと思う訳だが、この文章を書いた人は古代ローマの哲学者、セネカである。

 

(出典:人生の短さについて/セネカ/中澤務 訳/光文社古典新訳文庫

 

2300年も前の古代ローマ人と、21世紀の日本人との間に、大差はないのである。と言うことは、これはもう人類には越えられない課題だと言える。人間は、本質的に愚かなのである。従って、人間が愚かだといくら主張しても、それは意味のないことではないか。

 

私は2019年からある政党を支持してきたが、それも止めることにした。

 

次に、私は自らの思想を築くために、時には読みたくない本、難解過ぎてよく分からない本も、無理をして読んできたのである。しかし、最早、その必要もなくなった。これからは、読みたい本だけを読むことにした。

 

肉体の衰えもあって、いつの間にか、物欲と無縁になっている自分がいる。最早私は、ギブソンのギターも、ピナレロの自転車も、BMWのスポーツカーも、欲しいとは思わない。

 

最早、私には、この世に対する未練というものがない。こんなことを言うと「頑張って生きなさい」という声が聞こえてきそうだが、では、この世に対する未練を持ったまま死ぬのと、未練を残さずに死ぬのと、どちらがいいと思うのか。私は、そう反論したいのである。私のような老人になると、死とは、相対的に近いものとなる。いつ死ぬか、分からない。いつ癌の告知を受けたとしても、不思議はない。そうなってから慌てることこそ、愚かだと思う。私は、もう準備が整ったのである。それは死にたいと思うのとは違う。私は、私の主人として、これからも思索を続けながら、日々の暮らしを楽しみたいと思っている。

 

どういう訳か、私は考えることが好きな人間に生まれた。いつか、気のすむまで考えたいと思ってきた。そして、その望みは叶えられたと言える。私は、既に気のすむまで、考えたのだ。

 

 

魂への配慮

 

<知性について>

 

調べてみると人間の知性の起源は、相当古い。古代ギリシャにおいてピタゴラスらが天文学や数学を研究するはるか以前に、エジプトやメソポタミアの文明が、それらに着手していたのだ。今から5千年前のことである。例えば、エジプトのピラミッドを見れば、それは一目瞭然だろう。ピラミッドの建設には、数学が必要だった。つまり、人間はもう5千年もの間、数学に取り組んできたことになる。私のような門外漢からすれば、そろそろ数学という学問は完成の域に達したのではないかと思う訳だが、未だに解けない問題があるらしい。

 

知性は商品を生み、商品は経済を拡大させてきた。拡大した経済とは、すなわちグローバリズムのことである。しかし、それとて臨界点に達し、今は反グローバリズムの時代となった。年明け早々に、米国がベネズエラに侵攻し、大統領を拉致したが、このようなニュースに接するにつけ、私は、知性によって文明が救済されることはないと思うのである。米国は、昔の帝国主義へと退行している。

 

知性は格差生み、格差は権力の源泉となる。お金が欲しければ、大なり小なり権力に屈することになろう。一流大学に入り、一流企業に就職するか、若しくは高級官僚を目指す。上役のご機嫌を伺い、おべっかを使う。それが出世の秘訣なのだから、仕方がない。なんとつまらない世界だろう! 近年、AIが文明の救世主になり得るというような幻想を語る人が少なくないが、私は、そうは思わない。

 

ちなみに、現在、世界を牛耳っている権力は何かというと、私は、ユダヤマネーと米軍だと思う。

 

ところで、ソクラテスは数学について、どのように考えていたのか。この点、クセノフォンという人が書いた「ソクラテスの思い出」という本があって、そこに興味深い記述があった。

 

- しかし、難解な図形を扱うところまで幾何学を学ぶことに、彼は賛成しなかった。なぜなら、彼が言うには、それが何の役に立つのかがわからないからである。(中略)このような勉強は人生をまるごと費やすほどの時間を要し、ほかの多くの有益な学びを妨げてしまうと彼は言っていた。-

 

ソクラテス天文学についても、同様の意見を述べている。私は、ソクラテスの意見に賛成である。

 

<文化について>

 

文化の1つの側面は、ローカリズムにある。同じ方言を話し、同じ物を食べ、似たような服を着る。そこに共感が生まれ、人々は漠然とした共同体を感得する。そして、その共同体への帰属意識をベースとして、自己を確立する。文化とは、形のない人間に様式を提案するものだ。それは私たちの日常生活を支え、そこに美をもたらす。文化がなければ、私たちは日々の食事にすら困ってしまう。野菜を食べる。魚を食べる。それらの食材は、ローカルなものである。そして、調理法にも地方に固有のこだわりがあって、それこそが文化なのだと思う。つまり、文化とは、グローバリズムに対抗するものなのだ。近年、多文化共生ということが言われるが、そんなものが成立するはずはない。文化とは排他性を基盤として成立する。

 

プラトンが述べたエロスの道(美の梯子)という話は、文化の本質を言い当てているように思う。エロスから出発して、美に至る。これは文化共同体における1つの理想型を示している。

 

1つの文化を成立させるためには、どれ程の時間が必要だろう。科学的にそれを証明することはできないが、100年では足りないのではないか。最低、300年と考えてはどうだろう。それだけの時間がなければ、文化は確立しない。つまり、人間にとってそれだけ貴重な歴史的遺産が、文化なのである。但し、それを失うのは一瞬である。武士道には千年の歴史があるが、それは廃刀令によって消滅させられた。

 

人間にとってそれだけ貴重なものなのだから、文化を守れと主張したのが、三島由紀夫である。そして、三島は文化を博物館の陳列棚に展示するのではなく、文化そのものを生きるべきだと主張したに違いない。彼の主張は、一貫している。今の私には、三島の言葉が腹に落ちる。

 

しかし、文化が万能だと言う訳ではない。同じ方言を話す、同じ物を食べる、それだけに止まらないのが文化の本質だ。もう1つ、同じ神を信じる、ということがある。未だに日本各地には、神社や寺があり、そこには古くから伝わる神話があり、毎年、伝統的な祭りが繰り返されている。同じ神を信じるという条件があるから、そこに同調圧力が不可避的に発生する。文化が強い影響力を持っている田舎では、人と人との距離が近く、都会人には鬱陶しいと言われるが、その原因は同調圧力にあり、同じ神を信じるべきだという暗黙の掟が人心を縛っている。

 

私は三島の文学的な才能には、敬服している。しかし、彼の文化至上主義とでも呼ぶべき思想に、もろ手を挙げて賛成という訳ではない。私は無神論者であり、全ての宗教に反対する立場である。

 

<主体について>

 

広辞苑によれば主体とは、「認識し、行為し、評価する我をさす」とある。つまり、主体とは「私」のことである。そこに最初に着目したのは、多分、ソクラテスだろう。本稿の表題にした「魂への配慮」とは、ソクラテスのこの思想を端的に表す言葉として、一般に用いられる表現である。

 

但し、この「魂への配慮」というシンプルな言葉の意味は、なかなかにして深い。まず魂だが、これは心の中にある。私の中に心があって、心の中に魂がある。これに配慮しろというのだが、配慮するのが誰かと言うと、それも私なのである。つまり、「魂への配慮」とは、配慮する側の私と、配慮される側の私の2人の存在を前提としている訳だ。この2人の私をどう理解するか。そこで私は考えた訳だが、これを私の中の意識と無意識という風に考えてみてはどうか、と思ったのである。何らかの学説がある訳ではなく、これは私のオリジナルの発想である。配慮する側の私を意識とし、配慮される側の魂を無意識であると考えると、問題が解ける。

 

心の中の大半は、無意識によって構成されているが、これをコントロールすることは極めて困難なのである。この無意識に何等かの問題が生じると、その問題は精神疾患として現われる。そこで、何とかこの無意識に生じた問題を解消しようとして、フロイトユング精神分析や分析心理学が誕生したのである。夢分析、連想法、箱庭療法などがそれである。

 

無意識が被った傷は、社会的な現象として表出する場合もある。例えば、敵国の兵士を惨殺しまくった米兵が、帰国後にPTSDに襲われる。酷い場合は、自殺にまで追い込まれるらしい。

 

文学の世界で言えば、ドストエフスキーに「罪と罰」という作品がある。これは主人公のラスコーリニコフが、高利貸しの老婆を殺害する所から始まる。高利貸しなどという反社会的な仕事をしている老婆なのだから、殺したって構わないと主人公の意識は判断した訳だ。しかし、そこから無意識の反乱がラスコーリニコフの内部で生ずる。この小説はラスコーリニコフが反省する場面で終わる。正に罪を犯した者が、自ら罰を受ける訳だ。ドストエフスキーは、ロシア正教を信仰していたらしく、その点、私には不満があるが、小説の主な構成は、上記の通りである。

 

このように、一見、単純に思える「私」という人間には、意識と無意識という2つの要素があって、私たちが配慮すべきはこの無意識の方なのだ。

 

紀元前に生きたソクラテスが、どこまで認識していたのか分からないが、「魂への配慮」という言葉からすると、人間の内面における複雑さを知っていたとしか思えない。

 

「魂への配慮」とは、言ってみれば自分で自分を評価するということだ。ところが現代社会においては、学校へ行けばテストがあって、会社に入れば上司の査定がある。全て外部による、他者による評価なのだ。だから、現代人は自己評価、自らの意識によって、自らの魂(無意識)に配慮するという習慣を失っているに違いない。

 

私たち全員が、1つずつの魂を持っている。そして、魂の中には権力や同調圧力に屈しない正義が宿っているに違いない。だから、私たちは魂に配慮し、また、魂をより良く、より強くするよう、日々、努めるべきなのだ。そうすることが、すなわち私たちが成長するということである。1人ひとりがより良い人間になれば、社会だって良くなるに違いない。

 

これが私の考える「魂への配慮」という言葉の意味である。このことこそが、個人にとっても、また人間集団にとっても、最も大切なことだと思う。どうやら、私の思想は完成の域に近づいたようである。(ソクラテスは「不知の自覚」を持てと主張したので、ソクラテス主義者となった私も、「分かった」と言う訳にはいかない。)

 

本稿を締め括るに当たって、ソクラテスの言葉を引用したい。「ソクラテスの思い出」から。これ、人生の奥義なり。

 

- 私が思うに、できるかぎりすぐれた人間になることに誰よりも気を配る者が最良の人生を送り、前よりもすぐれた人間になっているということを誰よりも強く感じる者がもっとも快い人生を送るからだ。-

 

魂の証明(その16) あとがき

 

読み返してみると、本稿もまた散漫であり、分かりにくいものとなってしまった。しかし、もう年末だし、ここで一区切りを付けたいと思う。但し、私には満足感というか、安堵感もある。

 

このブログを始めて、ほぼ10年がたつ。スマホでご覧いただいている方々には見えないと思うが、実はブログタイトルの下に「世界を記述する」と書かれている。それは私の希望だった訳だし、このブログを始めた理由でもあった。そして、本稿をもって、私なりにその目的を達成できたように思う。簡単に言えば、それは次の2つの公式によって示される。

 

文化 = 言葉 + 身体 + 物

 

文明 = 知性 + 文化 + 主体

 

たったこれだけのことを理解するのに、私は10年という歳月を費やしたことになる。我ながらあきれ果ててしまう訳だが、誰も教えてはくれなかったので、自分で考える他はなかった。また、簡単な足し算のような式を用いて、文明を説明しようとしたのは、私くらいのものだろう。オリジナリティーだけは自信がある。

 

さて、本文の中で書きそびれてしまった事項について、若干、補足したい。

 

〇 真善美と知性、文化、主体の関係

 真理とは何か。ピュタゴラス派の人々は、宇宙を貫く原理のことだと考えた。但し、別の定義を置くことも可能なのであって、例えば私はかつて「全ての人々を幸福にする方法」だと考えた。いずれにせよ、真理を目指すのは、知性だろう。

 

 次の問題は、善とは何か、ということになる。善は、正義とか、倫理と言い換えても良いだろう。この問題はカントやロールズが検討した経緯があるが、なかなか妥当と思えるような結論に至っていない。そもそも、善とは人間が経験する様々な場面における解答のことではないか? しかし、人間の経験とは多種多様なもので、これを一律に定義づけることは困難だと思う。従って、善、正義、倫理という問題は、それぞれの場面に出くわした個人が、個別的に判断せざるを得ないのだ。つまり、これは主体の問題なのだ。善を目指すのは主体、ということになる。

 

 残るのは美だ。美にもいくつか種類がある訳だが、大別すると眼に見える美と見えない美がある。それらの美とは、なかなか個人の力で発見したり創造したりすることは難しい。例えば、祇園の舞子さんなど、私はとても美しいと思う訳だが、彼女たちを支えている着物や踊りは、長い伝統に支えられている。これは文化だと言える。

 

知性 → 真

主体 → 善

文化 → 美

 

近年の人々は、あまり真善美などと言わなくなったが、これは文明の堕落である。また、AIがもてはやされる昨今ではあるが、そんなものが真善美を生み出すことはありえない。

 

〇 知性と権力

知性とは何か。これを記述するには膨大な作業が必要になるが、ここでそんなことをするつもりはない。はなはだ乱暴な言い方ではあるが、大学で教えていること。それが知性である。では、権力にはどのような種類があるか。その表層を確認するのであれば、政府機関を見れば良い。そして、大学の学部と政府機関との間には、緊密な関係がある。大学には法学部があり、政府機関には法務省がある。大学には医学部があり、政府機関には厚労省がある。つまり、知性と権力とは密接につながっているのだ。

 

核兵器を生み出したのも人間の知性である。このような知性の暴走に、私は反対の立場である。

 

知性が全くもって不要だとは言わないが、知性と権力は、抑制されるべきなのだ。

 

〇 文化と差別

文化や伝統が万能かと言うと、そうではない。古い価値観には、特に女性に対する差別思想が含まれている。旧約聖書の話は既に述べたが、では、ギリシャ神話はどうか。たまたま読んだ本によると、こちらにも明確な女性差別があった。かつて、人間は火を所有していなかった。それをある神がゼウス(最高神)から盗んで、人間に与えた。怒ったゼウスは、人間たちに女を送り込んだのである。女は男にとって、災厄をもたらす厄介者である。こうして、神 ― 男 ― 女 ― 動物 という序列が作られた。

 

私は、過去の女性差別には反対である。一方、今日の男女平等主義にも行き過ぎたものを感じる。徴兵制の問題である。男女平等なのだから、女性も男と同じ義務を負うべきだ、よって、女性も兵役に服さなければならないと考える国が、増えているのではないか。しかし、非力な女性を過酷な戦地に赴かせるのはいかがなものか。私は反対である。日本は、どうなることだろう?

 

〇 私の立脚点

ここで、私の思想的な立場を明確にしておきたい。私が最も重要だと思うのは、主体である。例えば、日本は法治国家だと言われている。法とは、すなわち知性である。そして、法律は守らなければならない。しかし、現実はどうだろう。政治資金規正法という法律はあるが、実際には裏金や賄賂がはびこっている。また、クルマで道路を走れば、制限速度が40キロとか60キロとか定められているが、これを厳密に遵守している者は、ほとんどいない。制限速度を守っていると、後続車からクラクションを鳴らされてしまうのではないか。憲法だって、解釈改憲が繰り返され、有名無実化している。法治国家というのは、建前に過ぎない。知性の生み出す法律というものは、権力によって捻じ曲げられているのだ。それよりも、個々人の倫理観の方が、余程重要だと思う。

 

また、日本人はもっと真剣に国家について考えるべきだと思う。実質的に言えば、日本は米国の属国なのだ。日本国の最高権力は、米国が握っている。そこで、米国にしっぽを振る政治家がはびこる。世界の政治的な課題は、米中対立にある。しかし、米中両国とも大量の核兵器保有しているので、直接戦う訳にはいかない。そこで、極地戦とか代理戦争が起こる。ウクライナ戦争の出口が見え始めてきた昨今、戦争屋が次に目を付けているのは、台湾である。戦争屋に忖度して、日本を中国との戦争に巻き込もうとする自民党を中心とした政治勢力が台頭しているのが、今日の実態だ。正気か? 中国が既に保有している核弾頭は、600発以上だ。対する日本はゼロ。これで日本が中国に勝てるはずがない。反中感情を煽って、日本が中国との戦争に突入すれば、日本は滅びるかも知れない。今後、2~3年が危機の山場ではないか。

 

私は、知性や文化が不要だと言っている訳ではない。暴走する知性に歯止めを掛け、悪しき風習を改める。そのような力を持っているのは、結局、主体なのである。どんな法律や制度を作っても、最終的に人間を拘束することはできない。人々を救済することはできないと思うのだ。結局、良い世の中を作るには、1人ひとりの良心に頼る他はないのだと思う。

 

私たちは、今日においても魂という言葉を使う。輪廻転生から離れて、この言葉を使っている。その意味は、強い意志や、これだけは絶対に譲れないという個々人の価値観の中核を差しているのだと思う。そのような意味で、魂こそ主体の核心なのだ。

 

ところで、本稿のタイトル「魂の証明」について、付言しておこう。本稿は、ソクラテスの死と三島の死を中心に取り上げてきた。2人の死には、共通点がある。それは、お金よりも大切なものがある、もっと言えば人間には命よりも大切なものがある、そのことを自らの死をもって証明して見せたということだと思う。だから2人の死について、今も生きる私たちには、語り継いでいく責任があると思ったのだ。

 

では皆様、どうか良い年をお迎えください。

 

魂の証明(その15) 文明の誕生

 

この世界には、人間が関与しない自然がある。また、人間が関与しているものもある。こちらの方は、文明と呼ぶことにしよう。

 

世界 = 自然 + 文明

 

では、ソクラテスが登場する前の文明はどうなっていたのか。そこには、文化があった。換言すれば、文化しかなかったとも言える。

 

文明 = 文化

 

文化の基本形は、シャーマニズムとも呼ばれるもので、それは神話、祭祀、呪術によって構成される。実際、ソクラテスが登場する前のギリシャにおいても、豊富な神話が語り継がれていた。また、様々な祭祀も執り行われていた。男たちが酒を飲みながら語らう「饗宴」と呼ばれる風習もあったが、これも祭祀の1形態だと言えよう。そして、デルポイという場所があって、そこでは頻繁に予言が行われていた。「ソクラテスの弁明」にも登場するデルポイの巫女による予言(神託)は、当時、多くの人々が利用していたらしい。予言は占いと同じで、すなわちこれは呪術の1類型である。

 

文化 = シャーマニズム = 神話 + 祭祀 + 呪術

 

神話は言葉であり、歌や踊りを伴う祭祀の中心にあるのは身体で、呪術は物に働きかけることにより成立する。すなわち、文化を構成する要素は言葉、身体、物であるとも言えよう。

 

文化 = 言葉 + 身体 + 物

 

そして、ソクラテスが登場する。ソクラテスの主要な主張は「自らの魂に配慮せよ」ということだった。魂は、個々の人間が1つだけ持っており、そしてそれは他人が持つどの魂とも違っている。現代的に言い換えると、それは自分の心に忠実であれ、ということになる。従って、ソクラテスの主張において、人類は初めて主体というものを認識したことになろう。ここで、文明に大きな変化が生じた。

 

文明 = 文化 + 主体

 

続いて、ソクラテスの弟子のプラトンが登場する。プラトンイデア論を提唱し、ソクラテスが主張した主体の概念を発展させた。それと同時にプラトンは、あるべき教育の姿を検討し、ソクラテスよりも先にピュタゴラス派が取り組んでいた音楽や天文学について、教育プログラムに加えるべきだと考えた。ピュタゴラス派は、音程を軸に思考し、どの音とどの音が調和するのか、その間隔はどうなっているのかということを数学的に分析していた。従って、ここに言う音楽とは、数学に近似している。なお、ピュタゴラス派の天文学は、天動説に基づいていた。いずれにせよプラトンの教育論や国家論によって、人間は知性を発見したと言えよう。ここで再び、文明に大きな飛躍が生まれたのだ。

 

文明 = 知性 + 文化 + 主体

 

(現代文明に対する影響の大きなものから、順に左端から記載した。)

 

ソクラテスプラトンの時代から、概ね、2400年が経過した訳だが、この公式に示される文明の構成に変化はないと思う。このように俯瞰して見ると、彼らの功績が如何に大きかったか、ということが分かる。但し、知性に対してソクラテスは懐疑的で、対するプラトンは好意的だったという差はある。

 

またプラトン自身は、人間の知性なるものが如何に増長し、人間に危害を及ぼし始めるかという点については、知る由もなかった。人間は、文字などによって記録する能力を持つ。そのため、誰かの発見や発明が、忘れ去られるということはない。人間の知識は、一方的に増加する。今日に至るまで、この動きを止めた人間はいない。

 

但し、知性が悪い面ばかりかと言うと、そうとも言えない。知性のおかげで、不治の病の多くは、今日では治療が可能になった。また、人間には権利がある。人権というものがある。このような思想も、知性が生んだと言えよう。

 

知性が文明の最先端に躍り出て脚光を浴び始めたのは、約200年前にイギリスで発生した産業革命が契機だったのだろう。その後、いつの頃からか物質文明という言葉が用いられるようになったのだ。精神文化から、物質文明へと変化してきたのが、最近、200年の歴史ではないか。

 

さて、上の公式を用いれば、思想家の概ねのポジションを理解することが可能になる。例えば、カントは知性に立脚し、知性の可能性を探ったと言えよう。但し、カントは知性という言葉の代わりに、それを理性と呼んだのである。また、フーコーはと言うと、主体を肯定し、主体に立脚した上で、知性を批判したのだと思う。

 

三島由紀夫はどうだろう? 東大卒業後、三島は大蔵省に入省している。すなわち三島は知性の世界においてもエリートだったのである。次に問題となるのが、主体である。思うに三島は徹底的に自己を見つめ、そのような文学作品も多く残している。強烈な個性を持っていたとも言える。つまり、主体に立脚していたと言っても過言ではない。しかし、三島はそこに留まることができなかったのだと思う。戦後日本の民主主義社会への絶望、文学の限界などもあって、三島は古典への回帰を目指したのだと思う。厳密にその時期を言い当てることはできないが、少なくともそれは「豊穣の海」の執筆を開始した頃(1965年)には始まっていたことだろう。

 

古い日本語にも精通していた三島は、日本の古典文学を通じて、昔の人々の感情や感覚を会得したに違いない。三島の理解は言葉の奥底に到達し、言葉の背後にある霊性のようなものにまで及んだのではないか。そのようなものがあるのか、私には断言できないが、その言葉の神秘は、一般には「言霊」(ことだま)と呼ばれる。先の原稿で触れた「英霊の声」にも、それは表現されているし、「奔馬」の中にも鬼気迫る場面がある。明治維新の直後、政府によって廃刀令が発布された。これに反発した当時の武士たち、神風連(しんぷうれん)が決起を企てる。決起の期日について天照大神らにお伺いを立てる訳だが、この儀式を「宇気比」(うけひ)と言う。これは記紀にも登場する古くから伝わる呪術の一種である。

 

つまり、三島は強烈な自我、主体を持っていたが、それを半ば強引に日本の文化、伝統が持つ様式の中に押し込めたのではないか。そして三島は、自ら文化に立脚することを宣言した上で、伝統に則り、自決したのだと思う。三島は知性を否定し、返す刀で主体をも否定したのではないか。

 

魂の証明(その14) 論点整理

 

紀元前399年、アテナイの法廷。被告人ソクラテスは、数百人の陪審員を前に、地声を張り上げて演説を行った。多分、何らかの自己弁護を行うだろうと思っていた陪審員たちに向けて、ソクラテスは説教じみた話を始めた。陪審員たちが憤慨したであろうことは、想像に難くない。実際、「ソクラテスの弁明」の中には、次のような一節がある。

 

- 騒いで話の邪魔をしないでいただきたい、アテナイ人諸君、むしろ私が諸君にお願いしたことをよく守っていただきたい、私が何か言うなら、そのために騒いで邪魔をせず、聞いてもらいたい。-

 

罵声や野次が飛び交うカオスが、その場にはあったのだろうと思う。

 

時空を超えて、今度は1970年11月25日の自衛隊、市谷駐屯地。盾の会の隊員4名を従え、東部方面総監を拉致した三島由紀夫は、要求書を突き付けていた。三島の要求に従い、自衛隊は隊員をバルコニー前の広場に集結させた。そこで、三島は最後の演説を行ったのである。聴衆となった自衛隊員たちから、容赦のない罵声が三島に浴びせられた。上空にはマスコミのヘリコプターが飛んでいた。ここにもカオスがあった。

 

三島由紀夫 最後の演説

https://www.youtube.com/watch?v=ZLW8JbrveeI

 

2つのカオス。ソクラテス三島由紀夫。どうしても、私には似ているとしか思えないのである。

 

さて、本稿も最終段階に近づいてきた。ここで、論点を整理しておきたいと思う。それぞれの論点毎に、まず、ソクラテスプラトンの思想を述べ、次に三島の思想を述べ、最後に2025年現在の日本の状況を述べていきたいと思う。それが分かり易いだろうと思う。

 

論点1: 真理について

 

プラトンは、地上を離れたどこかに、我々が見ている物とは別に、真理があると考えた。それを彼は、イデアと呼んだ。そして、イデアに最も近接したものとして、魂があると主張した。中でも「善のイデア」を最高位に置いた。その後、哲学の世界では真善美という概念が生まれたが、その起源もプラトンにあると言われている。

 

三島は真善美と言う代わりに、「美、エロティシズム、死」を措定した。三島が考えた美は、眼に見える美、肉体の美ということもあるが、それ以上に行動の美を追求していたに違いない。エロティシズムは、エロスから出発するが、その究極的な形は天皇崇拝である。また、死とは美の完成であり、言語による限界を超越する行動を意味していたのだと思う。すると、この3つの要素は互いに関連し、最終的には行動によって、死ぬことによって完成することになる。仮に三島にとっての善が天皇崇拝にあったとするならば、それはプラトンの思想、「善のイデア」に近似すると言えよう。

 

現在の日本において、上記のようなことを主張する思想家を私は知らない。また、三島が腹を切ってから55年が経過したが、三島に続いた者はいないのではないか。かつてピュタゴラス派やストア派は、「真理とは宇宙全体を統べる根本的な原理である」と考えていた。しかし、今日の私たちは万有引力の法則を知っているし、宇宙の起源がビッグバンであるということも、知識としては持っている。現在の日本人は、最早、過去の人類が抱えていた根源的な“問い”そのものを失ってしまったのかも知れない。

 

論点2: 国家について

 

ソクラテスプラトンは、アテナイと呼ばれる規模の小さな都市国家(ポリス)に属していた。その人口は20~30万人で、そのうち参政権を持っていた成人男性は3万人程度だった。一般論からすれば、民主主義は国民の数が少ない方が機能し易い。アテナイでは有権者の1票の価値は、3万分の1。現在の日本で言えば、1億分の1しかない。また、参政権者の少ないアテナイでは、直接制民主主義が採用されていた。しかし、プラトンの民主主義に対する評価は、極めて低かった。プラトンは「国家」の中で、国家統治の在り方について、次の5種類があると述べている。ちなみに、一番上の「優秀者支配制」(哲人政治)が理想で、下に行くに従って堕落した形態だとされている。

 

1.優秀者支配制(哲人政治

2.名誉支配制

3.寡頭制

4.民主制

5.僭主性(独裁)

 

なお、プラトンが構想した哲人政治による理想的な国家は存在するのか、という問題があろう。この点、「国家」の中には、ソクラテスが次のように述べる箇所がある。

 

- それはおそらく、理想的な範型として、天上に捧げられて存在するだろう ― それを見ようと望む者、そしてそれを見ながら自分自身の内に国家を建設しようと望む者のために。-

 

三島も国家の統治形態については、深く考えていた。三島はそもそも小説家だったので、表現の自由を重視した。従って、一応、民主主義が良かろうということになる。但し、自衛隊(軍隊)は、その任務において命を掛けなければならない。その時の精神的な支柱として、天皇を置くべきだと考えていたのである。そこで、軍人に対する栄誉の付与などは、天皇の専権事項にすべきだと考えていた。つまり、一般的な政治権力とは別に、軍を統括する天皇、文化的権威としての天皇制の強化を目指していたのだと思われる。何故、そのような思想になるかと言えば、文化共同体としての国家、文化的統合の象徴としての天皇を土台に置かなければ、日本人の倫理、美学、武士道というものが成立しないからであろう。

 

現在の日本はどうかと言えば、米国や国際金融資本が推進するグローバリズムによって、国家の弱体化が進められている。最早、国家のために命を捧げようなどと考える日本人は、極めて少数であろう。

 

論点3: 自由について

 

ソクラテスの時代においても、多くの戦争が勃発していた。戦争の目的は、覇権争い、領土と奴隷の獲得などであった。敗戦国の市民は、戦勝国の市民の奴隷となった訳だ。身近に多くの奴隷がいる環境下にあって、ソクラテスプラトンが自由について、考えなかったはずがない。彼らにとって自由とは、他の何ものによっても支配されないことだった。「国家」の中でソクラテスは魂に関して、次のように述べる。

 

- 魂には、およそ他の何ものによっても果たせないような<はたらき>が、何かあるのっではないか。たとえば次のようなこと ― 配慮すること、支配すること、思案すること、およびこれに類することすべてがそうだ。-

 

ソクラテスにとって「魂への配慮」とは、言い換えるならば、自己を統治せよ、自由を希求せよ、奴隷になるな、ということだったのではないか。こうして、「主体」が哲学上の課題として浮上したのだろう。

 

三島の場合、少し逆説的ではあるが、自由を求めていたことに変わりはない。山本常朝の「葉隠」について、三島は次のように述べている。

 

- (前略)だから今日のわれわれには、これを理想国の物語と読むことが可能なのである。私にも、もしこの理想国が完全に実現されれば、そこの住人は、現代のわれわれよりも、はるかに幸福で自由だということが、ほぼ確実に思われる。-

 

戦時中、天皇制は政治利用され、多くの若者たちを戦地へと駆り出す思想統制の手段となっていた。三島が言っているのはそのような政治利用とは正反対のもので、自らの自由意思に基づいて天皇を崇拝し、究極的には、天皇のために死ぬ、自らの死をも自由にコントロールしようと企んだのだと思う。

 

論点4: 死について

 

プラトンの前期の作品である「ソクラテスの弁明」などにおいて、死は、恐れるに足りないものだという主張が目立つ。便宜上、これを消極的な死の肯定だと言っておこう。ところが、「パイドン」など中期の作品になると、むしろ死を積極的に肯定しているように見える。その理由は、プラトンイデア論に立脚し始めたからだと思われる。プラトンは、身体と魂を分離せよと述べる訳だが、その究極の形は死をおいて他にない。そして、身体から分離された魂こそが、イデアに到達するのである。

 

三島の思想も、死を積極的に肯定している。その背景には、「葉隠」がある。「葉隠」は、生きるべきか死ぬべきか迷った時には、「早く死ぬはうに片付くばかりなり」と主張する。そうすれば、自ずからその死に徳が宿るのである。

 

現在の日本においては、死について語ること自体がタブー死されている。自殺を誘発してはならないという、一応、もっともらしい理由が重要視されている訳だ。しかし、生とは死によって担保されているもので、死とは生が必ず到達する帰結でもある。より良い生を考えるためにも、死を避けて通るべきではない。また、安楽死の問題もあるが、日本においてこの論議は、一向に深まる気配がない。

 

以上、4つの論点(真理、国家、自由、死)を挙げて検討してみた訳だが、こうしてみると現在の日本と日本人が、ソクラテスや三島の理想といかに掛け離れているか、ご理解いただけたと思う。なお、上記の通りソクラテスと三島の思想は通底していると思われるが、相違点もある。その点については、次回の原稿で述べてみたい。