文化認識論

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No. 30 ジョン・レノンが見た夢(その5)

1968年は、ジョンにとってもビートルズにとっても、あまりに多くのことが起こり過ぎた年のようです。

同年2月、ビートルズの一行は、超越的瞑想の導師(グル)であるマハリシに教えを請うため、インドのリシケシュに向かいました。女優のミア・ファローも妹と一緒に同行していたそうです。ジョンは1日に8時間も瞑想していたと言われています。ジョンは、この旅に妻のシンシアを帯同していました。しかし、出会って間もないヨーコから、頻繁に手紙が来る。手紙には、例えばこのようなことが書いてあったそうです。「私は雲。空にいる私を探してちょうだい」。やがて、マハリシミア・ファローに対するセクハラ疑惑事件が起きます。同年4月、マハリシに失望したメンバーは、予定を切り上げて帰国します。

1968年5月20日、帰国したジョンは、妻のシンシアが不在の晩、ヨーコを自宅に招き入れ、二人で実験的な録音作業をします。そして明け方、二人は結ばれたそうです。この日から、ジョンとヨーコの二人三脚の日々が始まったのです。ジョンはすぐにヨーコとの結婚を決意しますが、シンシアとの離婚は訴訟にまで発展しました。

そんな中、ホワイト・アルバムの制作が始まります。制作期間は、1968年5月30日から同年10月14日だったと言われています。しかし、このレコーディングからヨーコが参加し、メンバー間の信頼は、急速に失われていきます。ヨーコの参加は「スタジオに自分の女は入れない」というビートルズの不文律に反する行為でした。そればかりか、ジョンはヨーコにビートルズの作品についてまで意見することを許したのです。ヨーコは、前衛芸術家としては評価を得ていましたが、ロック・ミュージックについては素人です。そんな彼女が、よりによってビートルズの作品について、メンバーに直接意見を言うとは、ちょっと信じられません。しかし、ジョンはそうしたかった。それだけ、ジョンはヨーコに惚れ込んでしまったのだと思います。その理由は、当人同士しか分かりませんが、仮説を立てることは可能です。

当時ヨーコは、「有名人のお尻を撮った映画」を作ったことで、話題を集めていました。兎に角アバンギャルドと言うか、一般人の理解を拒絶するほどに前衛だったんです。一方、ジョンはビートルズの中では、一応、前衛的な曲を担当していた訳です。もともと、そういう資質がジョンにはあった。そして、ジョンは、自分は狂っていると思っていたそうですが、“シュールレアリスム”という言葉に出会って「これこそ自分なんだ、僕はシュールレアリストなんだ!」と思ったと語っています。つまり、ジョンは自分の内なる衝動に怯えていた。そして、ヨーコに出会い彼女が自分以上に前衛的で、シュールレアリストであることに気づいた。ああ、今のままの自分でいいんだ、と思うことができたのではないでしょうか。例えば、ジョンが他の誰にも理解されないようなアイディアを述べた時、きっとヨーコだけは優しく微笑んでくれたんだと思うのです。

ホワイト・アルバムの制作に取り組んでいた頃、ジョンには既にヨーコがいた。そして、自分も前衛芸術の方に向かっていく決心を固めつつあったのだろうと思います。そのためには、もうビートルズは必要ではなかったのでしょう。

一方、ポールの本領は、綺麗なメロディーとラヴ・ソングにある。しかし、どんどん前衛に向かっていくジョンの手前、少しはそういうこともやらなければいけないと思ったのではないでしょうか。だから、ホワイト・アルバムにポールが“前衛”に挑戦した名曲“ヘルター・スケルター”が入っているのも頷けます。

ジョージは、相変わらず東洋哲学を探求していた。居心地の悪さを感じながらも、名曲“ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス”を録音しています。

リンゴはと言うと、メンバー間の険悪な雰囲気に耐え切れず、一時、ビートルズを離脱したそうです。その間は仕方がないので、ポールがドラムを叩いたそうです。

1968年8月30日、シングル“ヘイ・ジュード”が発売されます。バンドが崩壊しそうだというのに、ここら辺が凄いところですね。やはり、メンバーの中で最もビートルズの存続を望んでいたのは、ポールだったのでしょう。

1968年10月18日、ジョンとヨーコは、大麻の不法所持で逮捕されます。

そして、ホワイト・アルバムが発売されます。

1968年11月22日 “ホワイト・アルバム” (10枚目)