文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 48 心の領域

ちょっと予定を変更して、立ち止まってみることにしました。

このブログのNo. 44に掲載致しました芸術メカニズムに関するチャート図なのですが、これが人間の心の領域を示す地図のように見えてきたのです。また、繰り返しにはなりますが、以下に述べますことはユングのタイプ論をベースにはしているものの、それとは似て非なるものですので、ご留意ください。

まず、“感覚”ですが、やはりこれは心の初期段階から存在するもので、誰しもが必ず持っている領域だと思います。企業のマーケティング戦略を考えると、ここを攻めるのが最も効率がいい。そう思ってテレビのCMを見てみると、どれも“感覚”に訴えるものばかりなんです。そこにロジックや感情、ましてや直観に訴えるようなものはほとんど存在しない。そして心の主要な領域が“感覚”に占められている人も、現に存在すると思います。例えば、スポーツ選手とか料理人など、感覚的な能力が要求される職業についている人は、その確率が高いように思います。また、近年、感覚タイプの人が増えていると思いますが、その理由には資本主義経済が影響しているのではないでしょうか。分業が進んで単純労働が増えた。感覚に訴える商品が次々に発売される。また、平和な社会であれば、“感覚”だけでも生きていくことは可能なんだろうと思います。

さて、もう少し複雑で困難な現実に直面すると、別れ道がやって来る。“思考”に進むか、“感情”へ向かうか。その両方を獲得することは可能ですが、その2つが対立した場合、どちらを優先するかという問題が生じる。従って、“思考”と“感情”は対立すると共に、優先・劣後の関係にある。ちょっといい例を思いつかないのですが、姥捨て山の物語を例にとってみましょう。極貧生活の末、家族全員では食べていけないという極限状態になる。やむを得ず、息子は老いた母親を背負って山に捨てに行く。この息子の心中では、家族全員が餓死してしまうよりは母親を捨てた方が良いという“思考”と、母親が可哀想だという“感情”が葛藤していた。そして、物語では“思考”が“感情”に勝った訳です。

ところで、“思考”というのはロジックで考えるということですから、そう難しいことはありません。問題は、“感情”です。感情とは何か。好きか、嫌いかというのが感情なのですが、その本質は“共感”にあるのではないか。このブログのNo. 4(変容し続ける言葉)に書きましたが、人間は何万年もの間、共感を求めて言葉を変容させ続けてきた訳です。人間は、それだけ共感を求めている。もちろん、それは1人では生きていけないという理由もあります。でも、それだけが理由なら、人間は何故“嫌い”という感情を持つのか、説明がつきません。共感できる人々の集団の中では“好き”という感情が醸成され、反対の場合は“嫌い”という感情が生まれる。

感情という機能を豊かに持っている人は、概して、友好的です。このタイプの人は、あまり争いを好まない。周囲の人々との間に、円滑な人間関係を築こうとします。そして、共感が得られる場合には、その親密度は高まります。それが異性間であった場合には、恋愛に発展する場合もあるでしょう。思考タイプの人は、たとえ人間関係を壊してでも、ロジックに固執しようとする場合がありますが、感情タイプの人はそんなことはしません。しかし、ひとたび共感が失われた場合には、簡単に“好き”から“嫌い”に変わってしまう。こうなるとその関係を修復するのは、困難となる。また、共感が維持されているのか否かという判断は、極めて主観的に決定されます。好きか嫌いか、その基準も判断も全て本人次第ということになります。従って、個々の人間が持っている“感情”という共感を尊重するシステムを客観的に説明することは困難であり、その裏にはエゴイズムが潜んでいる。自分がいいと思っていることを他人に強要しようとする場合もあるでしょうし、嫌いな人を排斥しようともする。本人は意識していなくても、他人からすれば、それはエゴイズムに見える。

更に、解決することが困難な心の課題を抱え、その課題と真摯に向き合った人は“直観”という心の領域を獲得するのだと思います。この“直観”という力は、芸術などを生み出すばかりではなく、それらを理解する力の源にもなっているのではないかと思います。よく美術館で、大声を出している人がいますね。そういう時私は「あの人の心には、直観という領域がないのだな」と思ってしまいます。

最後にもう1つ。人間には、自分が理解できないことを聞かされると不愉快になるという傾向があるようです。例えば、心の主要な領域を“感覚”が占めている人に、芸術の話などはしない方が良さそうです。