文化認識論

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No. 54 孤高の前衛 ージャクソン・ポロックー(その3)

ここまでを振り返ってみますと、ジャクソンは貧しいながらも芸術的には恵まれた環境下で10代を過ごしたことが分かります。20代になると、ニューヨークでの極貧生活が待っていた。そして、25歳から31歳まで、足掛け6年もの間、アルコール中毒の治療を受け続けています。

当時の美術界、特にシュールレアリストの間では、オートマティスム(自動記述法)に関する論議が活発になされていたようです。前提としては、芸術を創作するには、自分の無意識から出発すべきだということがあります。そのためには、絵を描く際に意識的なコントロールを極力排除する必要がある。予め構図などを決めず、キャンバスに向かうその瞬間、自分の無意識だけを頼りに描くべきだ、という考え方なんです。言葉で説明するのは簡単ですが、実際に行うのは大変だと思います。ジャクソンも苦労して、オートマティスムに取り組んだようです。

また、進んだヨーロッパの美術理論なども、ニューヨークの若き画家たちに強い影響を及ぼしていました。ジャクソンも必死になって、キュービズムの勉強をしたことでしょう。後年ジャクソンは、「何か新しいことをやろうとしても、それは既にピカソがやってしまっていた」と発言しています。貧しい生活、アルコール中毒との闘い、先には見えるが決して追いつくことのできないピカソの背中。

1945年と言えば、第二次世界大戦終結した年ですが、この年の10月、ジャクソンはクラスナーという女性芸術家と結婚しました。そして、ニューヨークの南東に位置する島、ロングアイランドのスプリングスという場所に家を購入し、新婚生活を始めます。翌1946年には3回目の個展を開催しますが、これはなかなか評判が良かったようです。

そして1947年になると、ジャクソンは初めてキャンバスの全面をポアリングで描いた作品を発表し、一大センセーションを巻き起こします。「ジャクソンは氷を砕いた!」などと絶賛する評論家も現れます。他方、ポアリングに対して「ヨダレのようだ」と批判するメディアもありました。いずれにせよ、全く新しいものが登場した際、世間というのは両極端な反応を示すのでしょう。しかしそれは、ジャクソンにとって悪いことではなかった。世間から注目され、作品は高額で飛ぶように売れたはずです。

ポアリングという技法は、ジャクソンにとって、オートマティスムに対する解決策だった。絵筆に絵の具を付け、キャンバスに描く。この作業では、どうしても意識が介在してしまう。意識を介在させないためには、キャンバスに向かうその瞬間、無意識の赴くまま、絵の具をキャンバスに滴らせる。もしくは、叩きつける。そうすることによって、自分の無意識をストレートに表現することが可能になった。この方法だと、思わぬ所に絵の具が飛び散ったりしそうなものですが、ジャクソンは明確に「そこに偶然はない」と言い切っています。既に、高度なポアリングの技法を身に付けており、自信があったのでしょう。

いい時には、いいことが続くものです。1948年、ジャクソンは遂に禁酒にも成功し、猛烈な勢いで、傑作を産み出し続けます。そして1950年、このブログ(No. 52)でも紹介致しました“One”という作品を完成させたのです。この作品は、やはりジャクソンが乗りに乗っている時期に創作したものだったんですね。

世間の注目は高まる一方で、ジャクソンの創作活動をテーマとした短編映画まで作成されます。これは1950年の9月から10月に掛けて撮影されています。その一部は、日本語の字幕付きで、You Tubeで見ることができます。

この期間、すなわち1947年から1950年が、ジャクソンにとっての絶頂期だったと言えるでしょう。

短編映画の撮影が終わったある日、ジャクソンは自分の作品の前で、妻にこう尋ねたそうです。「これは、絵画だろうか?」と。そして、1950年10月、38歳のジャクソンは再び酒に手を出してしまう。前衛芸術家として、作品を発表し続ける重圧に、耐えられなかったのでしょうか。