文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 61 心のメカニズム(その5)

前回の原稿で、ゴッホは“共感タイプ”で、ゴーギャンは“観念タイプ”であると書きました。ゴッホの方は、多分、皆様も納得していただけると思うのですが、ゴーギャンについて、何故、私がそのように考えるのか、ちょっと補足させていただきます。最大の理由は、彼の描く絵に、記号というか象徴のようなものが多く含まれているからなんです。例えば、黄色いキリストとか、何か意味深な登場人物とか動物が描かれている。特に、“我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか”という作品は、観念に満ちています。作品の右端には赤ん坊が描かれ、中央では青年がリンゴの実を取ろうとしている。これは、アダムとイブの話を暗示している訳です。そして、左端には死を待つような老人が描かれている。作品のタイトルからしても、また、絵画の構成からしても、観念的なんです。

さて、今回はもう少し“心の課題”について考えてみたいと思います。どうも、いくつかのパターンがあるような気がするのです。

“共感タイプ”の人は、共感が得られない時に絶望してしまう、という例があります。ゴッホも、ジョン・レノンもそうだったと思います。時代も分野も違いますが、この2人は本当によく似ている。余談ですが、年上の女性が好きになってしまうところまで、同じなんですね。ゴッホも3番目の恋(10歳年上の女性)が実っていれば、あるいは・・・などと思ってしまいます。

次に“観念タイプ”の人ですが、こちらはちょっと複雑だと思うのです。時代背景や、育った環境にもよりますが、ある程度人間を歴史的に、また、集団として考えた場合、どうしても宗教の問題に突き当たります。そして、宗教を肯定した場合、その人は比較的高い確率で、心の課題に直面しないで済みそうです。一方、何らかの理由で、宗教を否定する、もしくは宗教に対して消極的な態度を取る場合、どうやら“心の課題”に直面してしまう確率が高いように思うのです。それは、人間にとって根源的な問い、すなわち、人間は何故生きているのか、人間が生きていることの目的は何か、という問いにぶつかってしまうからではないでしょうか。すると、実は、人間には存在理由も、人生の目的もない、という結論に達する。なんだ、人生には何の意味もないのだ、と思う訳です。すると、その人はニヒリストになります。

ドストエフスキーの“悪霊”という作品にも、そういう人物が描かれているんです。キリーロフという登場人物で、思いあぐねた結果、無神論者になります。そして、最後は自殺してしまうのです。嫌ですね。

しかしながら、このブログを振り返ってみますと、かく言う私も、ちょっとこのパターンに近いことに気づかされます。このブログの冒頭で、“文化の積み木シリーズ”を掲載致しまして、言葉から始まる文化の生成プロセスを分析した訳ですが、最終段階では、宗教という問題に直面してしまった。そして、自分としてそれを積極的に解するのか、消極的な態度を取るのか、迫られた訳です。観念というのは、言葉、すなわちロジックですから、こういう問題にぶつかると、どっちにするのか自分なりに答えを出さざるを得ない。これはもう、“観念タイプ”の習性なんです。そして、私は宗教に対して消極的な態度を取ることに決めました。すると、「文化の誕生」なんて、偉そうなタイトルでブログを立ち上げたにも関わらず、その検討結果が「全ての文化は幻想である」なんてことになりそうだった訳です。当時の原稿を読み返してみますと、逡巡している様子が見て取れます。そこで考えたのが、宗教だけが文化ではない、ということでした。文化には、もう一つ、芸術という大きな柱があるだろうと。

宗教を否定してニヒリズムに陥るというパターンは、ドストエフスキーの時代からある訳で、もしかすると近代以降の思想というのは、ニヒリズムがスタートラインなのではないかと、今ではそう思っています。ドストエフスキーがキリーロフを描いて、そこからニーチェにつながったとも言われているようです。

では、ニヒリズムの次にどうなるのか、ということですが、これにもパターンがあります。

パターン1: 虚無観に陥る。
パターン2: 人間には存在理由がないことを承知した上で、自分の人生を頑張る。
パターン3: 享楽主義者となり、何事も楽しければ良いと考える。

いかがでしょうか。実は私、上記の3パターン、どれも嫌なんです。折角の人生、虚無感に浸っているのはもったいない。高度成長期でもないし、今さら頑張りたくない。享楽主義というのも、実は、むなしいのではないか。そこで、今の心境と致しましては、宗教以外の文化、それを何と呼ぶべきか分かりませんが、それで遊ぶということなんです。この問題はまだ未消化でもあり、今回はまだ、確定的なことを述べるのは控えておきますが、もしかすると、これがこのブログの本当のテーマなのかも知れません。