文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 71 小川国夫/葦の言葉(その5)

前回から引き続き、小川氏の講演内容について、検討します。

〇 講演内容/美しい葉
ロシア人には共通した、言わば肉体化された観念を構成している昔話がある。
「正しいとされる考え方は、人は来世の永遠の生命を信じるということなんで、特にすぐれた聖者だけが、まだこの世にあるうちに、つまり現世で天国を見ることができるということなんです。その聖者には価値の革命が起こる- たとえば虫が喰った葉っぱでもいいんですが、人には想像もできないくらいに美しく輝いて見えるんですね。これは、そういう聖者がいたという昔話です。その状態は天国ではないまでも天国的であって、聖者はさらに歩みを進めて天国に入りたいと願う。ということはこのうらぶれた現実から死ぬのを願うということです。つまり、キリーロフはこうした聖人譚といいますか、昔話を身をもって実際に演じてみせるわけです。
ただ一つ、いにしえの聖人譚と違うところは、キリーロフは聖者ではないということです。聖者でもないのに聖者の幻想に陥った、だからキリーロフは狂っていることになってしまう」。

コメント: “肉体化された観念としての聖人譚”というのは、集合的無意識だと思います。そして、集合的無意識に従って、キリーロフは自殺を遂げる。もちろん、キリーロフというのは、小説の中の登場人物な訳で、実際には存在しません。しかし、それだけ集合的無意識の力というのは強いんだと、小川氏は言っています。そして、小川氏はキリーロフのことを狂っている、と述べていますが、その理由についての説明はありません。

小川氏の講演内容は、以上です。今回のシリーズを書いてみて、私としては、多くのことを考えさせられました。一つには、言葉が時空を超えるということ。40年も前の小川氏の講演が、今、こうして私に影響を及ぼしている訳です。

もう一つは、小川氏の講演内容が、やはり分かりづらいということもあります。キリーロフは何故、狂っていると言えるのか。小川氏はその理由について、聖者でもないのに、聖人譚を演じたからだと言っていますが、では、キリーロフは何故、聖者ではないのか。そうやって考えるのが、ロジックではないでしょうか。批判するつもりはありませんが、つまるところ、カトリックの洗礼を受けている小川氏としては、無神論者となったキリーロフを肯定する訳にはいかなかったという事情があると思うのです。このことを突きつめて考えると、宗教というものは、ロジックを否定するということです。ロジックを否定する、だから、人々を隔絶してしまうのではないか。小川氏は、自らに厳しい人で、純粋に宗教や文学と向き合った人です。真偽のほどは分かりませんが、若い頃に芥川賞の受賞を辞退したという逸話があります。そんなに立派な人なんです。しかし私は、小川氏を本当に理解することはできません。小川氏と私の間には、決して超えることのできない大河が流れている。それが、宗教だと思うのです。

そして、一番大切なことは、集合的無意識と直観の関係です。桜の話は、集合的無意識だけで説明できる。日本人は、そういう美意識を持っているから、桜を愛するということです。しかし、キリーロフの自殺は、それだけでは説明できません。桜を見るような軽い気持ちで、自殺はできない。キリーロフには、やはり直観が働いたと見るべきだと思います。いずれにせよ、集合的無意識と直観は、互いに関連し、作用しあっているのだと思います。

蛇足ながらもう一つ。今回の原稿には、小川氏の他にも秋山さんや編集者の方々が登場しました。これらの方々は、皆、お金よりも大切な目的をもって、生きて来られたように感じます。それでいいんだな、と思うのです。人間、「こんにちは!」と元気に言いながら、この世に生まれて来る。そして、身体保存行為と、種族保存行為と、文化によって構成される人間社会にデビューする訳です。そんな人間社会の中で、先の2つは程ほどに行いながら、文化に関わり、集合的無意識に参加し、やがてひっそりと「さよなら」と呟きながら、人間社会から去って行く。それが、“文化で遊ぶ”ということの意味なんだろうと思うのです。

 

f:id:ySatoshi:20170203195942j:plain