文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 82 プレモダンのメンタリティ

人間の心のあり様、これはメンタリティと言っていいと思うのですが、これを3つの時代区分で考えるというアイディアは、河合俊雄氏の文献にヒントを得たものです。これが、なかなか興味深い。

<3つの時代区分>
プレモダン・・・・前近代
モダン・・・・・・近代
ポストモダン・・・近代後、現代

但し、メンタリティも文化と同じで、旧来のものが簡単になくなる訳ではありません。現在がポストモダンの時代だとしても、未だにプレモダンとモダンも生きている訳で、これはあたかも積み木を重ねていくような仕組みになっていると思います。従って、上記の区分は、それぞれのメンタリティが発生した時期の区分、ということになります。

人類の歴史が10万年だとすると、大半がプレモダンの期間ということになります。まず、人類が文字を持つ前の時代についてですが、これは、このブログの冒頭の記事に詳述していますので、ここではそのポイントのみを振り返ってみます。

人類はまず、言葉を獲得しました。すると、様々な自然現象などについて、疑問を持つようになります。そして、仮説を立て、それらの不思議な現象を理解しようとします。その仮説が、神話や民話などの“物語”として、語り継がれていきます。次に、現実世界に対し、能動的に働き掛けようと考えます。例えば、病気を治したいとか、恨みを晴らしたいと思う。そこで、人類は“呪術”を発明します。まじないの言葉、特定の植物や動物の骨などを使って、何かを可能にしようとする。呪術は1人で、または少人数で行われます。やがて、人類はトランス状態になることを覚えます。その方法は、大別すると2つあって、1つには長時間踊り続けるなどの方法があります。2つ目は、麻薬を利用する方法です。それが“祭祀”の起源だと思われます。呪術と違って、祭祀は大人数で行われます。すると、メンバーの中から、トランス状態になり易い人、トランス状態をコントロールできる人が現われます。その人が、やがて“シャーマン”となる。グループを代表してトランス状態になり、精霊などと意思疎通を図り、“お告げ”のようなものを得る。

上述の“言葉”から“シャーマニズム”に至る期間は、例えば“無文字社会の時代”と呼べるかも知れません。この時代のメンタリティの特徴としては、まず、“融即律”というものがある。これは、対立する2つの概念があったとして、一方を肯定することは、他方を否定することにならない、というものです。また、“類化性能”ということもあります。これは、合理的に考えれば特段の関係がない複数の物事に対し、その類似性なり関係性を認める、というものです。いずれにせよ、現代に生きる我々からしてみれば、非合理な考え方、と言えます。(但し、現代においても、天才的な芸術家などはこれらのメンタリティを“直観”として維持している、というのが私の意見です。)

ところで、上記の無文字社会の時代においては、人間の個性というものはどのように考えられていたのでしょうか。もしかすると一人ひとりの人間が特徴を持っているという発想がなかったのかも知れません。そうではなくて、当時の人々は、人間の集団に特徴を持たせることに腐心していたように思えます。例えば、トーテミズム。これは、特定の動物などと、特定の人間集団を結びつけるものです。日本にトーテミズムはなかったと言われていますが、日本には家紋があり、屋号があり、暖簾があり、各地域を象徴するような神社があります。従って日本も例外ではなく、人間の個性は注目されず、各人が所属している共同体と、その内部における結束力が重要だった。

伝統文化が、人間の個性というものに注目していない理由がここにあると思うのです。以前、盆踊りの行列に出くわしたことがありますが、全員が同じ浴衣を着て、リズムに合わせて同じように踊り、笠を被って顔が見えないようにしている。そこに、個性という発想は見受けられません。また、茶道、華道、歌舞伎、日本画などにも流派というものがあって、基本的には師匠の技を弟子が継承していく。あまり、個性には注目されていない。

やがて、人類は文字を発明します。すると、シャーマニズムの体系化、組織化が可能となり、宗教が生まれます。そして、宗教と渾然一体となった国家が生まれる。宗教国家とでも言いましょうか。日本で言えば、仏教を採用した聖徳太子が17条憲法を作ってから、第二次世界大戦で敗北するまでの期間がこれに相当すると思います。宗教国家の時代は、宗教上の戒律、封建制、曖昧な法律などが人々を縛りあげ、個人の自由は否定された。この時代のメンタリティを簡単に言うと、個性と自由を否定するものであった。戦時中の話は、私が述べるまでもありません。

さて、ここで少し、個人的な体験について、述べさせていただきます。

私は、昭和の時代に地方で製造業を行っている会社に就職しました。その会社での1年のサイクルは、まず、正月に上司の家に集まることから始まるんです。そして、桜の時期には、花見がある。若手社員は上司の命令で、仕事は早めに切り上げて、花見の場所取りに行かされます。お酒を飲み過ぎて、喧嘩になるようなこともありました。夏には、全社を挙げて夏祭りを開催します。秋には、慰安旅行もあります。当然、夜は宴会になる訳ですが、その際にはセクション単位で、隠し芸をやらされるんです。今の人からすれば、信じられないと思いますが、昭和の会社というのは、結構そういうものだったんです。折角の日曜日でも、野球大会をやるから出て来い、というようなことがしょっちゅうある。休日がどんどん潰されていく。当時、先輩が「若い者に暇を与えると、悪い本でも読んで共産主義に染まるから、時間を与えないんだ」ということを言っていました。私は、共産主義には染まらないので自由にさせて欲しい、と心の底から思ったものです。今から思えば、当時、その会社のメンタリティは、プレモダンだったんですね。個性は顧みず、自由は与えない。共同体としての会社組織があって、その内部の結束力が重要だった。そういう価値観だった。

その会社は、10年程前にスウェーデンの会社に買収されました。私としては、ヨーロッパの会社なので、合理的な会社になるだろうと期待したものです。しかし、ある時、スウェーデンまで呼び出されたのですが、そこで何をしたかというと、グループに分かれて海辺でカニ釣りをするんです。1メートル程の釣竿を渡されるのですが、先端にタコ紐がついている。岩肌にへばりついている貝を石で叩き割って、それをタコ紐の先端に結びつける。水際にそれを垂らして上下させていると、運が良ければ小さなカニが採れる。もちろん、親睦とレクリエーションとしてやっているのですが、私としては12時間もかけて、ほとんど地球の反対側から来ている訳で、やり切れませんでした。また、別の機会には、ホテルの大ホールを借り切って隠し芸大会をやる。目的は共同体の結束力強化であって、結局、スウェーデンの会社もプレモダンだったんです。

スウェーデン人を批判する訳ではありません。人口9百万人の小さな国です。それなりの事情もあるのでしょう。しかし、数日前、ネットである記事を見つけたのです。記事によれば、スウェーデン徴兵制が復活されるということです。さもありなん、という感じがします。このように、政治状況と人々のメンタリティには、密接な関係があると思うのです。