文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 87 共同体と個人(その4)

近代思想の時代というのは、正に“思想”の時代だったと思います。例えば日本国憲法には平和主義、個人主義自由主義などが定められています。人々はロジックで物事を考え、その行動を規律するための法律が整備された。日本も法治国家になり、国会では与党と野党が議論を始めた。

近代思想の時代のメンタリティを考えてみると、一つには、現実世界というものが人々の手の届く所にあったような気がします。政治状況や、社会制度というものは、変えることができるんだ、という前提があったと思うのです。例えば、60年、70年安保闘争の時には、多くの学生がデモに参加した。彼らがどれだけロジックで、深く物事を考えていたのかは分かりませんが、少なくともデモに参加することによって、もしかすると政治状況を変えることができるのではないか、少なくとも変えたいんだという希望は持っていたと思うのです。当時は、情熱的だった。

しかし、時代は動き続ける。近代思想の時代にあったロジックと情熱と希望が生み出した対立関係というものが、徐々に消え失せていく。そのプロセスを簡単に考えてみましょう。

まず、左翼思想というものが、衰退したのだと思います。マルクスが主張したように、資本主義は行き詰まらなかった。中国では、文化大革命(1966~1976)と銘打って、反革命的であるとみなされた歴史上の遺産が破壊され、教師が吊るし上げられた訳ですが、やがてそれは単なる政治権力の抗争に過ぎなかったことが分かってくる。以前、ワイルド・スワンという本を読んだことがあるのですが、当時の中国でいかに無茶苦茶なことがなされたのか、詳細に述べられていました。中国は未だに一党独裁国家で、言論の自由は認められていません。確かに一部の中国人は、我々日本人よりも裕福になったかも知れません。それでも大半の日本人が、中国人よりも幸せだと感じているのではないでしょうか。やがて、ベルリンの壁が壊され(1989)、ソビエト連邦が崩壊(1991)します。この頃になると、日本におきましても、社会主義よりも資本主義、民主主義の方が優れているという価値観が、大多数を占めるに至ったのではないでしょうか。

企業もかつては宗教国家のメンタリティをもって従業員を拘束していた訳ですが、次第に人材の流動化が進み、終身雇用制も崩れ始めます。そこに多くの非正規従業員が流入した訳です。時間給で契約する非正規従業員に対し、スポーツ大会に出て来いとは言えない。(労働者派遣法・1985年)

かつては、昭和の頑固オヤジというものが存在して、「理屈を言うな」と怒鳴っては、暴力を振るっていた訳です。これに対して、左翼がかった息子というのが典型的な対立関係を生んでいたのではないでしょうか。しかし、時代も平成になる頃には頑固オヤジもいなくなり、最近ではお友達親子などと言って、親の側に理解があるんですね。そして、親子間の対立というものは解消していった。

かつては、男と女というのも対立する概念だったと思います。例えば、昭和のヤクザ映画などを見ると、男は義理に生きるんです。理不尽なことがあっても、義理を尊重して、耐え続ける。そこに男の美学があった。そして、女は人情に生きる。義理のために果たし合いに出かけて行く男に、女が泣いてすがる。かつて、男は女を、女は男を理解しがたい存在だと思っていた。理解できない。だから、魅力を感じ、惹かれあっていたのかも知れません。しかし、脳科学などが進歩してくると、男と女で、何がどう違うのか分かってくる。部屋の状況を短時間見せて、どれだけの事物を認知できるかという実験がありましたが、女の方が圧倒的に認知能力の高いことが判明しています。なるほど、だから女は男の嘘を見抜くのか、というようなことが分かってくる。そして男たちは、義理やロジックで物事を考えなくなり、女の社会進出も進んでくる。昔は、男と女がどれだけ違うのか、という側面ばかりに目が行っていたように思うのですが、最近、そういう論議はなりを潜めたように思います。実は、男も女もそのメンタリティに着目した場合、大きな違いはないのではないか。こうして、男女間の対立というものも希薄になってきた。そう言えば、「現代はモノセックスの時代だ」と述べている心理学の本もありました。(ユングの性格分析/秋山さと子/1988)

IT技術が爆発的に普及したのは、Windows 95からではないでしょうか。これに伴い、人々は直接顔を突き合せないでも、コミュニケーションを図ることが可能になりましたが、影響はそれに留まることがなかった。次々とゲームが発売され、タブレットが発売され、スマホの時代になった。バーチャルリアリティなどと言いますが、人々の現実感というものは、加速度を付けて希薄になって行ったのではないでしょうか。昨日、ネットで記事を見たのですが、遂に“エア花見”なるものが登場したようです。これは、居酒屋の内部に桜の造花を飾りつけ、そこで酒盛りを行うということだそうです。花粉症の心配もないということで、結構、人気だそうです。

加えて、グローバリズムの波が押し寄せてきた。ボーダーレスなどとも言いますが、人々は、やすやすと国境を越えて異動し、外国の情報はリアルタイムで入ってくる。新聞か何かで読んだのですが、最近では、オーバー・コミュニケーションなどということが言われている。これは、情報の伝達量が多すぎて、文化が均質化してしまうことを言うそうです。

核兵器の拡散という問題もあります。今では、あの小国の北朝鮮ですらそれを手にしようとしている。こうなってくると、いくら国に忠誠を誓って根性を出しても、国を守ることはできない。

これらの変化が何をもたらしたかと言うと、現実世界というものが、人々の手の届かない所へ行ってしまったのではないかと思うのです。トランプなんてけしからんと思う人もおられるでしょうが、ふと気づけば彼はアメリカの大統領で、私たち日本人に投票権はない。トランプ大統領の情報にはいくらでも接することができるのに、その現実に対して私たちが働きかけることはできない。

そして、現代という時代には、そもそも“思想”というものが成立しづらい環境になったように思います。最近、哲学の話をする人なんて、いませんよね。〇〇主義という発想も希薄になりつつある。思想やロジックに成り代わって、例えばコンピューターのシミュレーションや、ビッグデータの解析が重用される時代になったのではないでしょうか。“どうあるべきか”と考えるのが思想だとすると、今は“どうなるか”ということの方が重要なのかも知れません。

こうして、近代思想の時代とそのメンタリティは、幕を閉じたのだと思うのです。