文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 89 ポストモダンと情報

前回までの原稿で、“近代思想の時代”がいかに幕を下ろしたのか、そこまでは整理できたように思いますが、ポストモダンから今日に至るまでの時代性については、必ずしも検討し切れていないと思うので、ここにフォーカスして、もう少し考えてみます。なお、ポストモダンという言葉に厳密な定義はありませんが、ここでは大雑把に言って1975年以降で今日に至る時代区分、というイメージでご理解ください。

さて、この時代に生きる私たちのメンタリティに強い影響を及ぼしているのは、情報ではないかという気がします。特に、インターネットやスマホがもたらす情報量の急激な増加、という問題があると思うのです。グローバリズムの進展に伴って、外国の情報まで私たちの元へ沢山届くようになった。仮にこれを「横の拡大」だとすると、「縦の拡大」というのもある。これは情報のデジタル化によって過去の情報が良い状態で保存される、という意味です。本もそうですし、音楽もそうですね。例えば、1960年代には、ビートルズローリング・ストーンズなどという特集番組が、ラジオで流されていました。当時、有名なロックバンドって、この2つ位しかなかったんです。今にして思えば、古き良き時代ですね。今ではどうでしょうか。メジャーデビューを果たしているロックバンドというのは、数百、いやもっとあるかも知れません。一方、ビートルズのCDがなくなるかと言えば、そんなことはない。今でも売っている。リマスターなどと言って、むしろ当時よりも音質が良くなったりしているんです。文化というのは、正に積み木のようなもので、過去のものがなくならない。従って情報量というのは、増え続ける一方なんです。どう考えても、情報が多すぎる。この情報過多という現象に、私たちの心はどう対処しているでしょうか。

情報処理・・・仕事でもそうですが、多すぎる情報に、いちいちロジックで対処することはできない。現在は、そういう時代だと思います。例えば、会社で使っているパソコンに、新しいアプリケーションが導入される。時には、OSがバージョンアップされる。そんな時、いちいち説明書など読んでいる時間的な余裕はない。そこで活躍するのが、“感覚”だと思うのです。PCに抵抗感のない若い人は、なんとなくいじっているうちに、そのシステムを理解してしまう。

情報選択・・・多すぎる情報に対処するため、人々は自分に必要な情報とそうでない情報を取捨選択している。特に、共同体から分離されている人たちは、それに代わる何かを探しているような気がします。それが、特定のアイドルグループだったり、スポーツチームだったりする。すると、そういう人たちは、その情報ばかりを集めるようになる。傍から見ていると、いかにも視野が狭い。そして、“オタク”などという、この手の人たちを揶揄するような言葉が生まれたのではないでしょうか。

情報遮断・・・取捨選択するのも大変だということになると、情報を受け取りたくない、と思うこともある。例えば、もう新聞は読まないとか、テレビは見ない、という人たちも増えているのではないでしょうか。そういう気分が高まり過ぎると、“引きこもり”という現象が生まれる。

ポストモダンのメンタリティを持って生きている人たちというのは、かなりシンドイ状況に置かれているのかも知れません。こうなってくると、上に記しました“情報遮断”というのはお勧めできませんが、情報を選択して、周囲からオタクと言われようがどうしようが、自分の好きなジャンルを見つけて、その中でエンジョイしていくのがいいような気がします。