文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 112 文化のダイナミズム(その2)

少し前に、アメリカでゴジラという映画が作成されたのは、ご存じでしょうか。既に何作もの作品が上映されていて、日本人としては、ゴジラに少し飽きていた。しかし、アメリカ人の映画関係者にとって、ゴジラは新鮮だった。つまり、アメリカ人にとってゴジラにはリリーサーとしての価値が十分にあったということだと思うのです。そこで、最先端のCGを駆使して、ゴジラの新作を作って、これは大ヒットしたのです。このように、ゴジラという文化は、時代を超えてアメリカに渡り、復活したと言えます。こんな例は、枚挙にいとまがない。アメリカには、現在、忍者になるための訓練をしている人たちのグループがある。このように文化とは、ある時代にある地域で流行したものが、時代を超え、空間を超え、復活するケースがあるんです。少しオーバーかも知れませんが、文化というのは、時空を超えるダイナミズムを持っている。

 

以前このブログで、「文化は科学に敗北したのか」という記事を掲載させていただいたことがあります。その時点では、敗北しそうだけれども、文化には頑張って欲しい、という気持ちでした。しかし、今の私なら、こう言うことができます。多くの科学者が努力して、何か、新製品を生み出す。すると好奇心を刺激された人たちが集まってきて、首を捻り始める。「ふむふむ。これって何だろう。これで何か、遊べないだろうか」。そして、その新製品は文化という枠組みに取り込まれていく。例えば、科学者が自転車という乗り物を発明する。これも、ゴムや鉄などの材料があって初めて成り立つものなので、相当な技術の蓄積を必要としている。そして、自転車という新製品が生まれると、好奇心に駆られた無数の人々が、それで遊び始める。ハンドルはこういう形の方がいいとか、サドルはこうしよう、タイヤは細い方がいいとか、カゴを取り付けたいとか、それはもうありとあらゆる試みがなされる。最近では、高級な折り畳み自転車というのがあって、折りたたんだ自転車を持って電車で移動する。目的地で自転車を組み立てて、サイクリングを楽しむなんてスタイルまで確立されているんです。最近テレビ(イッテQ)で見たのですが、東南アジアのある国では自転車の前輪を取り外して、子供たちが楽しんでいる。正に、人間の好奇心に限りはないと思います。このように、文化と科学とは、必ずしも対立するのではなく、互いに刺激し合いながら、発展してきたように思います。(但し、兵器だけは別です。科学者が新兵器を生み出した場合、その使用を抑制する知恵を文化の側が持っているとは言い難い現状があります。戦争は、文化の敵です。)

 

さて、遊びについてですが、現代に生きる私たちにとって、遊びと仕事は明らかに異なります。ここでは遊びについて、次のように定義してみます。文化の基本原理の全部または一部のプロセスによって生み出される行為であって、未だ広く普及はしていないもの。

 

ところで、遊びの起源というのは、どうなっているのでしょうか。遊戯の起源(文献1)によれば、ニホンザルは次の遊びを行っています。

(1)  取っ組み合い

(2)  追いかけっこ

(3)  馬跳び遊び

(4)  雑巾がけ遊び(地面に両手をつき前進、あるいは後退する)

(5)  枝引きずり遊び(物を持っている子ザルを追いかけてそれを奪い、新たに物の持ち手になった方が逃げ手になる。)

 

また、ニホンザルよりも人間に近いチンパンジーでは、「何らかの物を使った遊びは合計229件の行動事例が観察された」ということです。

 

言葉を持たないサルでさえ、上記のように遊んでいる。そうしてみると人間の場合でも、遊びの起源というのは、言葉の発生よりも古いと言える。人間の文化というのは、言葉から始まったということを以前、このブログで申し上げましたが、お詫びして訂正させていただきます。文化の起源は、遊びにあった!

 

1938年にヨハン・ホイジンガという人が、その著書「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人という意味)の中で、次のように述べているそうです。(文献2

 

「人間文化は遊びのなかにおいて、遊びとして発生し、展開してきた」。

 

(参考文献)

文献1: 遊戯の起源/増川宏一平凡社/2017

文献2: 日本遊戯思想史/増川宏一平凡社/2014