文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 113 文化のダイナミズム(その3)

No. 111の原稿に添付致しました「文化の構造図」に従って、次は、大衆文化について考えてみます。これは遊びが普及し、ある程度体系化されたものということになります。決して、悪い文化、程度の低い文化、という意味ではありません。

 

大衆文化の本質を考えますと、これにはどうやら2種類あると思うのです。一つには、構築しかかった秩序を壊してでも、変化を求めようとするもの。例えば、アートの世界なんかは、典型的にこのタイプだと思うのです。現代アートというのは、秩序を破壊することによって、成立している。このブログでも取り上げました画家のジャクソン・ポロックもそうです。60年代に発生したフリー・ジャズもそうですね。身近なところでは、プロレスもこのタイプだと思います。プロレスにも一応、ルールはありますが、新たなルールを生み出すところにプロレスの面白さがあります。チェーンデスマッチと言って、選手の手首をと手首を鎖でつないで戦うとか、金網の中で闘うとか、凶器を使ったりもします。プロレスでは、およそ人間が考え得るありとあらゆるものが凶器として使用されてきました。変わったところでは、ピラニア(リングの中央にピラニアの入った水槽を置き、相手をその中に沈める)とか、マムシというのもありました。今、DDTという人気団体がありますが、この団体はリングでやるのがプロレスであるという概念に挑戦していて、街中、キャンプ場、本屋、電車の中などで試合をしている。先日は、東京ドームを借り切って、観客なしの試合をしていました。

 

この変化を求める大衆文化というのは、時として天才が現われ、これを前衛芸術の域にまで高める。ビートルズがそうでしたね。ロックンロールとモータウンサウンドという大衆文化から出発して、遂にはA day in the lifeのような芸術作品に至った。マイルス・デイビスもそうです。70年代のマイルスは前衛的なジャズの頂点にいましたが、体調を崩し1975年にシーンから消えました。そして、1981年だったと思いますが、突如として復帰したのです。復帰後のマイルスは、シンディ・ローパーのTime after timeとか、マイケル・ジャクソンのHuman natureなど、ポピュラーな曲を取り上げたのです。ある日、インタビュアーが、何故、そのようにポピュラーな曲を録音したのか尋ねると、マイルスは「驚くことはない。俺は昔、当時のポップスだった“枯葉”を録音したことだってあるんだぜ」と答えていました。つまり、マイルスはいつの時代でもポピュラー音楽から出発し、新たな音楽を創造していたということなんです。天才芸術家とは言え、その人がゼロから出発して、作品を生み出すのではない。無数の人々が長い時間を掛けて築いたジャズという音楽の、遊びから大衆文化に至る蓄積があり、その上に立脚していたからこそ、マイルスはあのような芸術作品を残すことができたのです。そして、そのことを一番知っていたのは、マイルス本人だったに違いありません。

 

ちょっと余談ですが、マイルスがシーンから消えていた頃、デイブ・リーブマンという若いサックス奏者がマイルスの自宅を訪ねたことがあったそうです。マイルスはまず、サッチモ(ジャズ草創期のトランぺッター)の写真を指さしてこう言った。“From him, to me”そして今度はデイブ・リーブマンの胸を指さしてこう言った。“From me, to you”。これはもう、私などはシビれてしまいます。

 

ところで、芸術というのは、前衛だからこそ芸術足り得るのではないでしょうか。未知なるものを生み出すからこそ、人々に衝撃を与える。しかし、それが永遠に続く訳ではない。人々はそれに親しみ、やがて、衝撃は薄れていく。するとその前衛だった芸術作品は、大衆文化という巨大な領域に飲み込まれていくんだと思います。

 

人間が芸術を生み出す仕組みについては、このブログの“芸術を生み出す心のメカニズム”に詳述したので、ここでは繰り返しません。

 

さて、大衆文化の二つ目の類型として、あくまでも秩序、様式の完成を目指そうというものがあります。例えば、ドラマの水戸黄門などは、ワンパターンなんですね。最後には必ず「この印籠が目に入らぬか」と言って、ハッピーエンドで終わる。そう言えば、最近、テレビの2時間ドラマがなくなりつつあるそうです。理由はいくつかあるのでしょうが、これもパターン化されていて、そろそろ飽きられてしまったのではないでしょうか。まず、事件が発生する訳ですが、その裏に20年前の別の事件が絡んでいたりして、最後は何故か、犯人が崖の上で真相を告白して終わる。ちなみに私は“男はつらいよ”(フーテンの寅さん)は、48作全部見ているのですが、初期の作品と後期の作品とでは、ちょっと違うんです。これもワンパターンではあるのですが、そのスタイルは少しずつ変わっている。そして、後期の作品の方が、完成度が高い。様式の完成を目指していたのだろうと思います。

 

この秩序、様式の完成度を高めて行こうとする大衆文化は、それが続いていくと、やがて伝統文化になる。分かりやすい例で、大相撲というのを考えてみましょう。まず、これは子供たちの取っ組み合い、すなわち遊びから始まったのだと思います。やがて、地面に円形を描き、その中で闘うというルールができる。そして様式を追求し、現在では呼び出しから土俵入りから、全てその型というものが決まっています。柔道、剣道、歌舞伎、古典落語などもそうではないでしょうか。これらの伝統文化というのは、主に中世が生み出したものだと思います。そして、そこには階級制がある。大相撲では横綱大関、関脇などの階級があり、柔道、剣道には段位がある。落語の世界でも真打になるとどうとか、その他の伝統文化でも免許皆伝なんてことがある。どうも、この様式を重んずる伝統文化というものには、中世のメンタリティが深く関係しているように思えます。