遊びや大衆文化というものは、大人たちや時の政権、軍部には、嫌悪されてきたのだと思います。その理由につきましては、50年戦争の期間、政府によってそういう価値観が国民に刷り込まれたからだ、という見方もあるようです。確かに、戦時中のモットーは「欲しがりません。勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」というものでした。遊んでいる国民は、けしからんということだったのしょう。しかし、本質的には、もう少し別の理由もあったのではないかと思うのです。すなわち、遊びとか大衆文化というのは、新たな秩序を生み出す可能性を秘めている。それが、時の政権側にしてみれば、どうにも嫌だったのではないでしょうか。類似する事例としては、キリスト教が、熱狂的な祭祀を禁止した、ということがあります。お祭りにおいて麻薬などを使用し熱狂していると、幻覚が生じ、自ら神の声を聴いてしまう可能性がある。すると、そこから新たな宗教が生み出されるかも知れない。既存のキリスト教徒は、かかる事態を避けなければならない。だから、熱狂する祭祀というのは、禁止されたんですね。更に、アメリカのFBIや入国管理局がジョン・レノンを嫌がった。これも同じ理由だと思うのです。正に自由人であったジョン・レノンは、何を言い出すか分からない。だから、ベトナム戦争を推進していた当時のアメリカ政府としては、ジョン・レノンの奔放さに対し、過敏に反応した。
近代以降、人間には個性がある、それを伸ばすべきだという考え方があります。しかし、日本の社会が認めてきたのは、言わば“管理された個性”だったように思うのです。例えば、「君は足が速いね。素晴らしいことだ。では、野球の1番バッターをやりなさい」という具合に。このように、その子の個性は、野球という既存の秩序の中に組み込まれていく。「君は、絵が好きなんだね。では、美術部に入りなさい」。これが、個性というものを記号化し、既存の秩序に組み入れていく方法だと思うのです。しかし、本当に自由な発想とか、個性というものは、既存の秩序の中で育まれることはない。それは、遊びとか、大衆文化の中でこそ、発揮されるのではないか。
現代社会に通底するメンタリティというのは、近代的な芸術というものを生み出さない。これはもう仕方がないと思うのです。時代が変わったんです。しかし、これから生み出される新しい何かが、人々に衝撃と感動を与えるのであれば、それは必ずしも近代的な芸術である必要はない。そしてその新しい何かというのは、必ず、大衆文化の中から生まれてくる。更に、その萌芽というものは、既に育ち始めているのかも知れません。例えば、それはスタジオ・ジブリが制作しているアニメーションかも知れません。CGという技術が、何か、使い古された文化に伊吹を与えるかも知れません。これから普及するロボットや人口知能が新たなリリーサーとなり、人々は全く新しい遊びを発明する。
全ての文化は、遊びから始まった。だから、遊びや大衆文化を否定することは、文化の起源を否定することに等しい。そう思いませんか? 遊びや大衆文化を肯定し、その中で、人生を謳歌していく。現代という時代には、そういう生き方が相応しいと思うのです。