文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 130 集団スケールと政治の現在(その4)

(集団スケール一覧/本稿に関係する部分のみ)
1.個人
2.血縁集団
3.帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲。

もう10年以上も前のことですが、年末にクルマで首都高速を走っていた時、暴走族の集団に行く手を阻まれたことがあります。何やら後方から爆音が聞こえて来る。ルームミラーには、クルマの間を縫って迫って来るバイクの一団が見える。改造したバイクが1台、2台と私を追い越して行く。すぐに5台、6台とバイクの数は増え、気が付くとバイクの集団が私のクルマを取り囲んでいました。バイクの後部座席に座った少年が、私に向かって何かを叫んでいる。彼は、手にこん棒のようなものを持っていました。窓を開けると、どうやら左の端に寄れと言っているようでした。私は、ウインカーを出してクルマを寄せたのですが、その直後、何十台というバイクが脇をすり抜けて行ったのです。そして、瞬く間に2本の車線は彼らに塞がれてしまいました。しかし、本当に困ったのはそれからでした。何しろ、車線を塞いだ彼らは、爆音を響かせ、蛇行運転を繰り返すのですが、走行速度は20キロにも満たない程度なのです。暴走族なんだから、もう少しスピードを出さないものかな、などと理不尽な思いに駆られたのを思い出します。遠くにパトカーのサイレンが聞こえましたが、私が直面している現場に警察は一向にやって来ない。そのうち、後部座席に座っていたある少年が、バイクを降り、歩き出しました。見ればパンツ一丁で、靴すら履いていません。覚せい剤でもやっていたのでしょうか。その少年は両手を上げ、踊るような仕草をしていました。バイクに乗った仲間たちが、彼をからかっているようでした。結局、そんな状況が小一時間程続き、分岐に差し掛かったところで、幸い私は彼らとは別の方角に向かうことができたのです。

YouTubeを見ておりますと、昭和の暴走族を取材した番組がいくつかありました。私の興味を引いたのは、ある暴走族の集会の模様です。特攻服に身を包んだ現役のメンバーが、腰の後ろに腕を組み、整列している。皆、髪はリーゼントで、ハチマキをしています。そして、数人のOBが、気合を入れるんです。OBがどんな発言をしていたか、ちょっと箇条書きにしてみます。

- お前ら、もっと気合いを入れて走れよ。
- 走ってて、オマワリや他の族と出会っても、ビビんじゃねえぞ。
- 俺らはよう、喧嘩するために集まってんだ。
- 俺だって人間だからよう、殴られれば痛えよ。でもよう、俺は今では先輩たちに何度もヤキを入れてもらって良かったと思ってるよ。
- お前ら、もっと狂えよ。
- お前ら、死ぬ気でやれ。

集会の最中に、OBは現役のメンバーを拳固で殴ったりします。これに対して、現役のメンバーは“押忍”と応えます。

場面が変わり、ある現役メンバーがこう言います。「暴走族に入って、良かった。本当の友達ができたから」。

さて、昭和の暴走族というのは、随分、特殊な集団のように見えます。しかし、歴史的に見れば、意外とそうでもない。実は、こういうメンタリティというのは、ある普遍性を持っているのではないか。私が注目したのは、暴走族OBの発言の中の、最後の2つなんです。「お前ら、もっと狂えよ」「お前ら、死ぬ気でやれ」。これって、“葉隠”が言っている「武士道は死狂ひなり」と似ていないでしょうか。

葉隠”については、このブログのNo. 85に記載しましたので、ここで詳述は致しません。その趣旨は、いざという時、どうしようかと逡巡していては、タイムリーに行動できない。だから、狂っていていいのだ。狂え、そして命を差し出せ。それが“死に狂い”だ。“葉隠”とはそういう考え方で、武士道の基礎をなし、あの三島由紀夫にも強く影響を与えたものです。

まさか、高校を出たて位の昭和の暴走族OBが“葉隠”を読んでいたとは思えません。しかし、その発言には“葉隠”に通じるメンタリティの萌芽がある。但し、“葉隠”の域には達していない。何が足りないかと言うと、誰のために死ぬのか、という視点が欠けていると思うのです。暴走族集団のために死ぬのか。それは、命を差し出すための大義としては、あまりに小さい。命を差し出すためには、もっと大きな何か、もっと偉大な誰かが必要ではないか。例えば、三島由紀夫にとって死ぬための大義、それが天皇ではなかったのかと思うのですが、この点について述べるためには、本稿をもう少し進める必要があります。

とりあえず、ここでは、昭和の暴走族がどういう心理状態にあったのか、考えてみます。まず、既存の帰属集団からの疎外、ということがあった。高校へ行ってもつまらない。勉強もよくわからない。寂しい。生きている実感がない。そこで、同じように感じている仲間を集め、新たな帰属集団を作る。その帰属集団は、伝統的な価値観を踏襲する。集団はその遵守を強要し、構成員は体を張って、その要請に応えようとする。そこに、集団と構成員の依存関係が醸成される。集団の結束を強めるためには、何かの行動を起こす、誰かと戦う必要がある。戦うことによって、結束力は強まり、仲間意識が醸成される。生きている実感を得るためには、その行動、戦いは危険である必要がある。この行動をこのブログ流に言い換えますと、“敵と味方を識別して集団で戦う”ということになります。

1.帰属集団からの疎外
2.新たな帰属集団の結成
3.伝統的な価値観を踏襲
4.集団と個人の依存関係
5.敵と味方を識別して集団で戦う