文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

フェアネスということ

今回は通し番号無しの、すなわち非公式な原稿となります。

さて、北朝鮮からのミサイルが我が国の上空を通過し、民進党からの離党ドミノが止まらない中、安倍総理は28日に召集予定の臨時国会の冒頭で、衆議院を解散するのではないかと報道されています。多分、多くの人々が予想する通り、与党が大勝し、野党が敗北するでしょう。

野党の連携につきましては、小沢一郎氏が呼び掛けている“オリーブの樹構想”が現実的だと思います。しかし、民進党にとっては、共産党がネックになる。共産党と連携すると支持母体である連合や党内の保守派が離れていく可能性がある。かと言って、共産党を巻き込まないと自民党に勝てない。そういうジレンマにあるのだろうと思います。しかし、この問題を解決しない限り、民進党が二大政党制の一翼を担うことは困難ではないでしょうか。従って先般の代表選で、前原氏、若しくは枝野氏が大きな決断をすべきだったのではないか。すなわち、引き続き連合の支持を得たいと思っている右派と、政策によって無党派層を取り込もうとする左派に分党する。少し遠回りにはなっても長い目で見れば、その方が国民のためになったのではないでしょうか。決めるべきことを決めない。だから、安倍総理に足元を見られる。

そんなことを含め、つらつらと考えていたところ、“フェアネス”という言葉が浮かんで来ました。記憶を辿りますと、私がこの言葉に出会ったのは、アメリカの独禁法の勉強をしていた時のことでした。(日米で法律の構成はかなり異なっています。アメリカでは、独禁法と言うよりは競争法、Competition Lawと言った方が一般的かも知れません。)概略は、こんな感じだったと思います。

アメリカは、自由の国だ! 規制なんか、要らない。個人も企業も自由に競争をして、利益を追及していい。但し、自由に競争をするためには、一つだけ前提がある。それは、各人がフェア(公正)に競争するということだ。アメリカは、不公正な競争については、断じて許さない。

私は、上記の考え方を支持しています。“遊び”について検討した際に述べたことと、ちょっと重複するかも知れませんが、ルールを守らなければ、ゲームは成立しない。例えばサッカーの試合において、審判が見ていなければ手を使ってもいい、と考える選手がいたとします。すると、サッカーの試合は途端につまらなくなってしまう。仮にボクシングの試合で、相手を蹴とばしてしまう。そんなことがあれば、その時点で、その試合はストップです。ルールがなければ、そしてルールが遵守されなければ、ゲームというものは成立しない。

スポーツの世界だけではありません。例えば、株式などを取引するためには、証券取引所という機関が必要です。しかし、仮に“東京証券取引所では、インサイダー取引が多い”ということになったら、どうでしょう。誰も、東証で取引をしなくなってしまう。そんな、一部の不正を働く人だけが儲かるような機関を使う人はいない訳です。証券取引所だったら、大阪にも、香港にも、シンガポールにもある。従って、各証券取引所においては、公正に取引が行われていることが、とても大切なんです。そのため、日本にも証券取引等監視委員会という強力な機関があって、日々の取引を厳しく監視しています。

正義と言うと概念が大き過ぎて、一体、何が正義なのかという哲学的な論議になってしまいそうですね。しかし、フェアネス、公正さ、と言えば、上の記述で概ね説明できているように思います。

 

フェアネス、それは民主政治の前提条件である。私としては、そう言いたいのです。

 

冒頭に記しましたように衆議院が解散された場合、投開票日は、10月22日、又は29日だろうと言われています。既得権を有する多くの支持団体が自民党を応援するでしょう。その活動量に定評のある創価学会の婦人部が、公明党を応援するでしょう。そして、与党が大勝するでしょう。そうなったとしても、それが現在の日本の民主主義の選択である訳で、私に異議はありません。

しかし、森友・加計学園の問題は別です。これは、安倍政権のフェアネスに関わる問題であり、北朝鮮からミサイルが飛んで来ようが、選挙の結果がどうなろうと、必ず真相を明らかにしていただきたい。一国民として、そう思います。

特に加計学園の問題につきましては、その設置を認可するのか否か、その最終判断が文科省の設置審において、10月末に下される予定になっています。仮に、認可するということになれば、愛媛県今治市によって96億円が加計学園に支払われる可能性が高まります。ご案内のこととは思いますが、この金額は建設費の水増しなど、不正に算出されている可能性があります。他方、認可しないということになれば、加計学園は校舎等の工事費192億円の損失を被る可能性があります。10月下旬に投開票日を設定するということは、この文科省判断から国民の目をそらそうという目論見があるように思えてなりません。