このブログの開始当時、私は、文化と科学を対立概念として捉えていました。「文化は科学に敗北したのか」という原稿も書いております。その後私は、言葉、呪術、祭祀、宗教などの精神文化に関する検討を終えました。そして、ぼんやりと「精神文化というのは目に見えないのが特徴だが、例外的にそこから派生する呪術の産物(藁人形、テルテル坊主、折り鶴など。今後は「呪術物」と呼びます)や芸術作品というものがある」と考えていたのです。そんなある日、テーブルの上にあった楊枝立てが目に止まったのです。
これは、私が箱根に遊びに行った時に購入したものです。埃が入らないので、気に入って使っています。さて、問題はここからです。これは文化だろうか? この楊枝立ては、目に見えているし、触ることだってできる。しかし、呪術物ではないし、芸術作品でもない。確かに木材を丁寧に組み合わせてあって、綺麗な感じがします。しかし、芸術作品とは違う。何が違うのだろう? そうか、芸術作品とは違って、これには楊枝を保管しておくという機能がある。では、これは文化の産物だろうか。少なくとも、科学の産物ではないような気がする。
そこで、私はある仮説を立ててみました。この楊枝立ては目に見えているが、このモノ自体が文化なのではなく、その作り方が文化なのだ。そう考えますと、作り方というのは目に見えないので、一応、当時の私のロジックに合致するように思えます。
しかし、仮に作り方が文化だとすれば、例えばゴッホの絵は文化ではなく、ゴッホの絵の描き方が文化である、ということになります。では、ゴッホの描いた“向日葵”と“麦畑”の描き方がどう違うのか、説明できるだろうか。もちろん、そんなことはできません。やはり、芸術の本質というのは、その作品にある。
このように考えた結果、私は初めて“物質文化”の存在を認識したのでした。
その後、ネットで調べてみますと“物質文化”という概念が一般に存在することを知りました。しかし、そこには「物質文化は、芸術作品などを含む」という記載があったのです。そんな馬鹿なことがあるだろうか。例えば、壊れた傘を捨てるように、あなたは誰かがあなたのために折ってくれた千羽鶴を捨てることができるでしょうか。物質文化の産物(今後は、「文化物質」と呼びます)というのは、その機能が失われた時に価値をなくす。しかし、呪術物や芸術作品の価値というのは、機能にその本質がある訳ではない。本質の異なる2つの要素を同じカテゴリーに分類した場合、そこから導かれる結論も間違っているに違いありません。
そうしてみると、精神文化、物質文化とあって、もう一つ、第三の文化カテゴリーというものを想定せざるを得ないということに気付いた訳です。更にネット検索を続けますと“表象文化”というものが見つかった。私には、これが第三の文化類型であるように思えるのです。しかし、“表象”(representation)とは何かというのが、なかなか分からない。どうやら、この“表象”とは哲学用語で、その起源はカントにあるようなのです。ということで、カントの純粋理性批判を読んでみることにしました。ボリュームのある本なので通読できるか、自信はありませんが・・・。
余談ですが、昨日、「パースの記号学」という本を読み終えました。追って、感想などを記します。