昨日から、ミック・ジャガーのソロアルバムを聞き続けています。アルバムタイトルは、Goddes in The Door Wayというもので、中でもDancing in The Starlightという曲が、頭にこびりついて離れません。たった一曲のロックナンバーが、人生の全てを教えてくれているような気がします。
さて、前回のシリーズで述べてまいりました1次性から3次性にいたる人間心理と文化に関する説ですが、これを心的領域論と命名させていただくことにしました。これと記号原理の2つの論理で、私の文化論の骨子は固まったように感じております。表象文化についての検討は終えていませんが、多分、明確なロジックというものはないのではないか。人間の持つ心的イメージを具現化したものが表象文化と呼ばれているのだと思いますが、それでは文化に関する意味ある解体がなされているとは言えない。私の心的領域論の方が、正確に人間と文化を分析している。僭越ではありますが、今は、その確信に似たものがあります。
簡単に振り返ります。
1次性というのは、人間の身体性に関わる心の領域であって、そこには性や暴力、非論理性が秘められている。この心的領域を反映したのが、祭祀である。人はこの心的領域に駆られて、歌い、踊る。そして、人間集団の中で自らの位置を獲得するために、人は着飾り、化粧をし、時には入れ墨を施す。人はこのように、自らを記号化することによって、他人との関係性を模索しているのだと思います。この1次性という心的領域は、人間の動物的本性に由来しているものであって、生命力そのものを司っているに違いない。
2次性という心的領域は、人が外界と幸福な関係を持とうとするところに本質がある。人は、長い歴史の中で経験を通じて、物と親和的な関係を持つ術を学んだのだ。その一つには、物に願い込めるという文化形態があって、これが呪術である。次に、物に何かを象徴させるということもある。何かを象徴させた物を大切にすることによって、人は心の平安を得る。物との関係で言えば、遊びもこの心的領域に属しているに違いない。
3次性という心的領域の起源は、死者に対する恐れにあったはずだ。それがアニミズムであり、これを契機に人は思考するようになった。様々な自然現象や、自分達の生い立ちなど、人々は考え続けた。そして、融即律という直観に依存する思考方法に至る。これが更に進化し、人々は神話を生み出す。神話というものは、一見、無茶苦茶なように見えて、その底流には論理がある。その論理構造にチャレンジしたのが、レヴィ=ストロースだった。但し、物語性によって思考しようとする習性は、現代にも生きている。例えば、現在、オリンピックのニュースで持ちきりですが、そこには必ずと言って良いほど、メダリストたちの物語がついて回る。前回のオリンピックではメダルを逃した選手が、いかに立ち直って今回の成果につながったか。怪我をどのように克服したのか。これらの情報というのは、実は、事実だけを述べているものではない。神話的な手法によって、人々はメダルの意味を理解しようとしているに違いない。
現代にも生きているとすれば、それは「神話的思考」と呼ぶよりも「物語的思考」と呼んだ方が適当かも知れない。実は3次性に関して、お詫びがあります。当初の原稿で、私は「誰もが3次性を持っている」と述べてしまいましたが、前回の原稿では「誰もが3次性を有している訳ではない」と記載しました。正確に言えば、多分、誰もが3次性という領域を持っている。ただ、それは融即律であったり、物語的思考である場合がある。それらを越えた純粋論理を有している人は、少ないという意味です。
純粋論理という言葉も、本当は「純粋理性」と言いたいところです。とにもかくにも、純粋理性批判を読んだ上で、この言葉を使わせてもらいたいと思います。
1次性から3次性までの心的領域があって、それぞれの領域を作動させるのが記号原理だと考えれば、論理が整合すると思います。
ところで、ユングの分析心理学では、(表層)意識、個人的無意識、集合的武意識の3層構造によって人間心理が説明されています。私の心的領域論の1次性は、集合的無意識に、2次性は個人的無意識に、それぞれ類似しているようです。そして、(表層)意識は、私の説では記号原理に取って代わります。すると、心的領域論の3次性について、ユングは述べていないことなりそうです。そう言えば、ユングは神話を集合的無意識との関係で位置付けていました。
なお、記号学のパースに対する最大の批判は、「生涯を通じて、体系的に考えることができなかった」点だと言われています。体系がないとは、あの時に述べられたことと、今回述べられたことが矛盾している、ということだと思います。この批判は、このブログにもそのまま当てはまります。体系がない・・・。
日々の思索の過程をそのまま記載してきたので、そのような結果になるのは当然のことです。しかし、公式のものだけでも、180本もの原稿を掲載してきた訳で、記号原理と心的領域論なる考え方に到達したのも事実です。読者の皆様には、寛容なご判断をお願いする次第です。
さて、些細なことでも構わないので「意味」を発見しろ、または「意味」を創出しろ、というのが記号論のメッセージでした。そして、2次性への回帰を目指せというのが、心的領域論の主張です。
私自身、今後、「意味」を探しに出掛けるか、2次性への回帰を目指すのか、それとも記号論と心的領域論を統合した「文化論」の完成を目指すべきなのか、思いあぐねています。よって、しばらくブログの更新は休むことにさせていただきます。ただ、何らかの心境の変化が生じた場合には、このブログで報告させていただきます。
有り難うございました。