先日、長年顔見知りだった方々に、焼鳥屋へ連れて行っていただきました。メンバーは50代で寡黙な男性と、同じく50代で饒舌な女性。私を含めて3人です。そして、お酒が回るにつれ、女性が身の上話を始めたのです。聞けば、息子さんが2人おられたのですが、うち1人が若い頃に亡くなられたとのこと。すっかり酔って、店を出た時のことでした。その女性が私にこう尋ねてきたのです。
「山川さん、神様っていると思う?」
ちょっとセンシティブな話題ですし、飲むのは初めての方なので躊躇したのですが、私はこう答えました。
「俺は、いないと思うよ。天国や地獄なんてものも、存在しないと思う」
後段の天国や地獄の下りは、ジョン・レノンのイマジンからの引用です。こういう、一瞬の判断を迫られた時、ジョンはやはり、頼りになります。すると、女性はこう言ったのです。
「そうだよね。神様なんて、いないよね。いたら、私の息子が死ぬようなことはなかった」
私は何度も大きく首を縦に振ったのですが、続ける言葉が見つかりませんでした。
さて、彼女は個人的な経験に基づいて、「神は存在しない」という大変な思想に至った訳です。なるほど。経験と思考との間には、密接な関係がある。
そうしてみると、心的領域論には修正が必要かも知れません。すなわち、私は「2次性」と呼んでいる心の領域が関心を示すものが「物と経験」であると考えてきたのですが、経験は1次性や3次性にも関係している。少なくとも上記の例におきましては、明らかに「経験」が3次性の領域に影響を及ぼしている。
そこで、経験とは何かと考えてみますと、これにもいくつかの種類のあることが分かります。まず、1次性に関わるのが「集団的な経験」ではないか。例えば昭和の暴走族は、一緒に暴走行為を繰り返すことによって、すなわち「集団的な経験」を経て、友情を育んでいました。暴走族の1人が、こう述べていました。
「俺は暴走族やって良かったと思っているよ。だって、そこで本当の友達ができたから」
この発言も、かなり本質を突いているように思います。人は、同じ経験を積むことによって、親和的な関係を築く。経験の先に、人間がいるのだと思うのです。これは、人間と動物に興味を持つ1次性の特質ではないでしょうか。日本の政権与党が、オリンピックに力を入れるのも分かります。これは、国民にとって「集団的な経験」となり得るため、結束力を強める効果が期待できる。
次に、物語的思考というのも、実は、3次性ではなく1次性の産物ではないかと思えてきました。物語的思考というのは、その典型は聖書にある訳ですが、同じような例は、日本にも沢山あります。例えば、こんな話があります。昔、日本が日照りに見舞われた。そこで、殿様が最澄に雨乞いを命じた。最澄は雨乞いの儀式を執り行ったが、雨は降らなかった。困った殿様は、空海に同様の命令を下した。空海が雨乞いの儀式を行うと、今度は、雨が降ったというのです。もちろん、こんな話は事実ではありません。しかし、空海を支持する人たちにとっては「だから空海の方が偉いんだ」という主張の論拠になり得る。こういう物語的な思考というのは、集団の結束力を強めるに違いありません。これも1次性ではないか。現代の企業におけるブランド戦略にも、この物語的思考が利用されています。創業者や伝説的な商品に関する物語を強調して、顧客や従業員に対しアピールする。例えば、カルロス・ゴーン氏が日産に来て最初にやったのは、フェアレディーZという日産の伝説的な商品を復活させることでした。また、日産は三菱自動車を買収しましたが、再びゴーン氏は、同社の伝説的な商品であるランエボ(ランサー・エボリューション)を復活させたのです。(エンジンはフランス製だったようですが・・・) このように、物語的思考というのは、現代にも生きている。そこに論理性はありません。この思考形態というのは、どうも3次性とは決定的に異なる。1次性であると考えるべきではないか。
次に2次性における「経験」とは、物と自然に関わる経験だと言えないでしょうか。物に関わる魚釣りにしても、陶芸にしても、自然との深いつながりがある。また、バイクに関しましても、その愛好家には2種類あることが分かります。最初の類型は暴走族で、彼らはバイクという物(2次性)と、仲間との友情(1次性)に関心を持っている。他方、中高年のライダーは、山や海などの自然を目指して走る。こちらは、純粋に2次性だけのメンタリティであると解釈できます。
そして、3次性においては、冒頭に記した例のように個人的な経験がベースになる。
このように考えますと、集団的な経験に準拠する1次性と、個人的な体験に準拠する3次性が対立する理由も納得できます。
誠に混乱してしまい、申し訳ありません。整理する意味で、予め評価項目を定め、1次性~3次性まで、それぞれを今後の原稿でまとめ直してみたいと思います。