文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 201 第4章: 競争系(その1)

 1.競争系とは何か

 

現代日本に生きる私たちは、子供の頃から徹底して“競争系”のメンタリティを叩きこまれます。例えば、小学校の運動会でさえ、赤組と白組に分かれ、若しくはクラス対抗などの名目で、競い合うことになります。そして、学期末にはテストがあり、個々人の学力が数値化され、順位が決められます。会社に入っても事情は変わりません。どこの業界にもライバル会社があって、企業間、すなわち集団と集団が競い合うことになります。企業の内部では、社長以下、厳格に役職が決められ、個人同士が出世を争う仕組みになっている。事情は、社会主義国でも変わりません。権力内部での闘争が繰り広げられている。

 

世間には、エゴイズムという言葉があります。上に記した現象を説明するには、もってこいの言葉でしょう。そして、このエゴイズムについて考えてみると、次の3種類が抽出されます。

 

・帰属集団のエゴ
・序列闘争に関わる個体のエゴ
・遺伝子のエゴ

 

現代社会においては、ほとんど全ての人々が国家という集団に帰属しており、国家間で争う戦争が“帰属集団のエゴ”の典型です。

 

“序列闘争に関わる個体のエゴ”というのは、例えば相撲の番付表でも見れば、一目瞭然でしょう。誰もがより高い地位につきたい、もっとお金が欲しいと思っている。

 

“遺伝子のエゴ”というのは、自らの遺伝子を後世に残そうとする本能のことですが、時として、このエゴは暴力によって達成されます。その典型はレイプです。(ちょっと数字は明確に記憶していませんが、米軍内部でのレイプの件数という統計値があって、あまりの多さに愕然としたことがあります。)また、ゴリラ、チンパンジー、ライオン、そして稀にではありますが人間社会においても、新たにメスを支配することとなったオスが、そのメスが生んだ別のオスの子供を殺害する。遺伝子のエゴは、愛情と呼ばれる感情を育みます。しかしそれは異性に対する支配欲であり、嫉妬でもあるのです。

 

もしかすると、そんなの当たり前だろう、それが人間というものだ、と考える人がいるかも知れません。そこで、このような競争系のメンタリティに対するアンチテーゼとして、以下にゲラダヒヒの生態について、紹介させていただきたいのです。何故なら、我々人類もかつてはサルだった訳で、サルの生態というのは、人類の過去の生き方を探るための手段になり得るからです。

 

2.ゲラダヒヒの平和主義

 

霊長類研究という分野では京都大学が有名で、世界的にも最先端の地位を確保しているそうです。以下にご紹介する河合雅雄氏も京大のメンバーで、同氏の著書「森林がサルを生んだ -原罪の自然誌-」(平凡社刊 初版1979年 以下「本文献」という)をベースに記します。

 

ゲラダヒヒは、エチオピアの山岳地帯のシミエンに生息する、胸の中央部が赤くなった美しいサルのことです。ゲラダヒヒが構成する最小の集団は“ワンメイル・ユニット”と呼ばれます。文字通り、一頭のオスが数頭のメスとその子供たちを率いている。一夫多妻制の集団ですね。そして、いくつかの“ワンメイル・ユニット”に加え、集団を組んでいるオス、更にはフリーランスのオスが加わり、“ハード”と呼ばれる集団を組成します。“ハード”には主に生活をする“ホームレンジ”と呼ばれる地域が決まっています。

 

1970年代のある日、河合氏はシミエンでEハードと呼ばれるゲラダヒヒの集団を追っていた。Eハードは、105頭からなる集団だ。すると、遥か彼方から、約350頭からなるAハードが近づいて来る。これは大変な戦いが始まる。自分はラッキーだ。ハード同士の戦いを記録した研究者は、まだいない。河合氏は胸の鼓動を抑えながら、16ミリ撮影機を構え、見晴らしの良い岩の上に陣取った。例えばニホンザルのようにまず若者同士が喧嘩を始めるのだろうか、それともボス同士の対決になるのだろうか。そんなことを想像しながら、カメラのファインダーを覗く。河合氏の期待は膨らむ一方だ。しかし、結果としては、何も起こらなかった。まず、EハードとAハードが合流し、そこへ更にFハードとKハードまでもが加わり、総計600頭を超すゲラダヒヒの大集団が、おだやかに採食しながら移動する平和な光景が広がったのである。

 

河合氏は、本文献の中で、次のように述べている。

 

「ところが! ほとんど何も起こらなかったのである。いや予想したことが起こらなかっただけで、本当はとんでもないことが惹起したのである。二つのハードは、いとも自然に合流してしまったのだ。私はぼうぜんとして、大波がうねるようにゆったりと行進する大集団を、夢かとばかり眺めていた。」

 

その後、ゲラダヒヒがどうしたかと言うと、仲良く数日を共に過ごし、再び、各ハードに分かれて、ホームレンジに帰って行ったとのこと。その際、ハード間でメンバーが入れ替わったりすることはない。その後、複数のハードによって構成されるゲラダヒヒの集団は、“マルチハード”と名付けられた。

 

エチオピアの山岳地帯で繰り広げられた上記の光景を想像し、私はジョン・レノンのImagineの歌詞を思い出しました。 Imagine all the people living life in peace.)

 

ゲラダヒヒは、何故、平和裏に暮らすことができているのか。理由の1つは、ホームレンジを持ってはいるものの、それはなわ張りではないということ。理由の2つ目としては、ゲラダヒヒが以下の通り、3層の社会構造を持っていること。

 

・ワンメイル・ユニット
・ハード
・マルチハード

 

河合氏は次のようにも述べています。

 

「なわ張り性を持つ種は、すべて単層の社会であることに注目する必要がある。」

 

私なりに、少し補足させていただきます。なわ張りを持つ種は、そのなわ張りを侵略された場合、逃げることができない。力づくで、なわ張りを守る必要がある。だから、戦わざるを得ない。また、単層社会の場合は、集団に対する帰属意識が強くなり過ぎる。他方、重層社会の場合は、集団に対する帰属意識が分散される。

 

また、河合氏は、人類について次の見解を述べています。

 

「人類の歴史をふり返ってみると、狩猟採集民の多くはなわ張り制を持たなかったと考える方が妥当であろう。」

 

「ヒトは狩猟採集生活をしている間は、なわ張りを持たない平和な生活を送っていた。ところが、農耕牧畜革命によって、人間は再び強いなわ張り制を持つに至った。」

 

私は、上記の河合氏の見解を支持しています。そして、思い出して欲しいのです。私たち人類が持っている文化には、200万年に及ぶ歴史がある。ホモ・サピエンスが登場してからだって、20万年の歴史がある。そして、農耕が始まったのは、わずか1万年前のことに過ぎません。すなわち、戦争という人為的な現象には、わずか1万年の歴史しかないのです。

 

本章 続く