文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 220 第12章: 原始宗教と経典を持つ宗教

 

特に、狩猟採集を生業としていた時代(古代)と、農耕・牧畜を生業としていた時代(中世)の文化を語る上で、宗教の問題を避けて通る訳にはいきません。これらの時代において宗教は、いくつかの文化領域に関連を持たせ、それらの進化を促してきた経緯があります。

 

大きな問題ではありますが、身体系、想像系、物質系などの文化領域に分けて考えれば、検討することが容易になります。更に、人間が文字を発明する以前の、すなわち古代の宗教と、人間が文字を発明し聖書などの経典を作成した後の、すなわち中世の宗教とに分けて考えますと、本質的な事柄が見えてくるように思うのです。ここでは便宜上、古代の宗教を“原始宗教”、中世の経典を持つ宗教を略して“経典宗教”と呼ぶことにします。

 

原始宗教・・・文字を持たない、古代の宗教。

経典宗教・・・文字を持ち、経典を拠り所とする中世の宗教。

 

簡単に、原始宗教の生い立ちを考えてみます。まず、自然界の原理を理解していなかった古代人は、畏怖心を持った。自然災害、疫病、そして死人などを怖れた。これがアニミズムです。そして、自分たちには理解できない、若しくは自分たちではコントロールできない超越的な力を持った何者かが存在するに違いないと考えた。この超越的な存在は、ある時は自分たちに幸運をもたらし、ある時は災厄をもたらす存在だった。すなわち、原始宗教の時代において、幸運をもたらす神という概念と、災厄をもたらす悪魔という概念は、未だ分かれていなかったのではないか。ただ、その超越的な存在は、古代人にとって畏怖の対象だった訳で、神よりは悪魔に近かったのだろうと思います。この神であり、悪魔でもある超越的な存在を、便宜上、“悪魔”と呼ぶことにします。

 

そして古代人は、悪魔の怒りを鎮めるために、歌い、踊った。また、悪魔の力を利用する手段として、“呪術”という手段を考案した。但し、悪魔という抽象概念を理解することは、現実には難しい。そこで、古代人は原始芸術を生み出した。悪魔とは、きっとこんな姿形をしているに違いない。それらは絵画であり、彫刻だった。更に、悪魔と自分たちの関係を理解するために、多くの物語が作られ、口頭で伝承された。また、絵画、彫刻、物語におけるモチーフとして、動物が大きな役割を果たしたであろうことは、想像に難くない。

 

魔よけという呪術を目的として作成されるものに、例えば、神社には狛犬(こまいぬ)という彫刻がある。沖縄には、シーサーがある。シンガポールのマーライアンも、起源は同じではないでしょうか。

 

原始宗教の本質は、“自力救済”にある。何しろ、信仰の対象は悪魔、良く言ったとしても“気まぐれな神様”な訳で、自分たちの側から働き掛けないとご利益は、期待できない。またこの段階では、普遍的な善悪の概念は存在していなかったものと思われます。未だ貨幣は存在せず、経済は原始共産制だったことにも留意が必要かと思います。原始共産制なので、競争系の“序列”も存在していなかったものと思われます。では、一覧にしてみましょう。

 

<原始宗教>
文 字・・・無し
身体系・・・歌、踊り
想像系・・・アニミズム、融即律
物質系・・・原始芸術、呪術、象徴
競争系・・・無し
対 象・・・悪魔(気まぐれな神様)
救 済・・・自力救済
経 済・・・原始共産制

 

善も悪もない時代ですから、例えば、食人という風習を持っていた部族もあったことでしょう。しかし彼らに言わせれば、動物の肉は食べて良いのに、何故、人間の肉を食べてはいけないのか、ということになりそうです。原始宗教について、批判する人がいるかも知れません。しかし私は、素朴で、純粋で、ひた向きに生きようとしていた古代人のメンタリティを否定する気にはなれません。それどころか、ユングゴーギャンのように、もしかすると現代的な課題を解決するヒントが、この時代の文化に秘められているのではないか、と考えています。

 

次に、経典宗教について、考えてみます。

 

文字を持ち始めた人間は、経典なるものを作る。キリスト教で言えば、聖書。仏教においては、お経などを記した膨大な書物があります。これらが、経典です。

 

身体系で言えば、無造作に歌い、踊っていたものが、様式を持ち始めたはずです。そしてその様式が、儀式となる。想像系の世界で言えば、口頭で伝承されていた物語が、書物に代わる。奇想天外な発想をベースにしていた“融即律”という思考方法が、物語的思考に変容する。天地創造の物語が語られ、イエス様はこうおっしゃったとか、お釈迦様はこういう人生を送られたということが、思考のベースになる。ただ、文字によって記録されたということが、問題を引き起こしたのではないか。ここに書かれていることだけが真実だ、と考えた人たちは、フレキシビリティを失った。元来文化とは、人気投票のようなもので、多くの人が支持したものは伝承され、生き残っていく。そうでないものは、失われる。ところが、この経典宗教は、そういう文化の進化プロセスを否定することになった。経典に固執するから、進化しない。進化を拒絶したのが、経典宗教の本質ではないでしょうか。

 

元来、人間というものは、過去の人物を過大評価したり、勝手に物語を作ったりして、英雄を作り出すのが好きです。例えば、聖徳太子という人物が実在したことは間違いなさそうでも、どこからどこまでが彼の功績なのか、判然としないことが近年の研究で明らかになった。そのため、聖徳太子は教科書から消えた。してみると、イエス様やお釈迦様が、本当にそういうことをおっしゃったのか、疑問もないとは言えません。

 

また、論理的に言えば、実験や観測によって立証されないことは、仮説に過ぎません。従って、経典に書かれていることも、仮説に過ぎない。仮説であれば、本来的には「これは仮説です。もしかすると、他の宗教の説明の方が正しいかも知れません。または将来、この仮説を上回る仮説が出てくるかも知れません」と説明すべきところです。しかし、経典宗教というのは、「うちの宗教が言っていることだけが真実であって、他の宗教は間違いだ」と主張する。

 

次に、無数の芸術家を輩出した原始宗教とは違って、経典宗教の時代になると様式が重んじられ、伝統文化が開花することになる。本当の芸術というのは、何をどう表現するか、その全てを芸術家個人が自由に判断するものだと思います。しかし、文字が生まれ、紙が生まれ、記録されるようになると、文化の伝承は容易になり、結果として、様式が尊重されるようになる。流派というものが認識され、お師匠さんについて習うようになる。これが、伝統文化だと思います。これは、明らかにゴッホや、ピカソや、ジャクソン・ポロックなど、本物の芸術家が行ったこととは違う。伝統文化が生み出すのは、芸術ではなく、それは宝物に過ぎない。

 

原始宗教の時代には、漠然と“超越的な存在”として認識されていたものが分化し、神が誕生する。神が悪魔から分化した、と言った方が正確かも知れません。悪魔と違って神様は、自分たちに幸運だけをもたらしてくれる。そこで人々は、どうお願いしようか、という課題に直面する訳ですが、その専門家が登場するんですね。こうやってお願いすればいいんですとか、私があなたに代わってお願いしてあげましょう、ということになる。但し、貨幣経済の社会において、タダで、という訳にはいかなくなります。

 

また、神という存在が認識されたことによって、神という存在に近い者の序列が上で、そうでない者が下、という価値観が生まれる。正に、競争系のメンタリティの起源は、経典宗教にあるのではないか。

 

また、簡単に序列を上がってしまうと、他の人から嫉妬される。これを回避するために、修行が行われる。厳しい修行を乗り越えた人が、序列の階段を上がっていくという仕組みになります。しかし、冷静に考えてみれば、修行によって分かることとは、一体、何なのか。こういうことを尋ねますと、例えば「それは修行を積んだ者にしか分からない」という答えが返ってくる。そこを何とか教えてもらえませんかとお願いすると、例えば「無の境地である」と言われる。

 

原始宗教がその基本的な構造として持っていた呪術が自力救済であったのに対し、神という概念(それに類するものを含む)を持つ経典宗教は、他力本願だと言えるのではないでしょうか。仏教の禅宗は自力本願だと言われているようですが、本当かどうか、私には分かりません。また、自ら思考することが許されるのは上層部だけで、一般庶民は信じていれば救われると教えられるのではないでしょうか。私は、自分の頭で考えたいと思いますが。

 

では、一覧にしてみましょう。

 

<経典宗教>
文 字・・・有り
身体系・・・儀式
想像系・・・物語的思考
物質系・・・伝統文化
競争系・・・神を頂点とする序列社会
対 象・・・神(お釈迦様など、類する者を含む)
救 済・・・他力本願
経 済・・・貨幣経済

 

文化論の立場から言いますと、経典宗教は文化の進化にブレーキを掛けている。課題だらけの現代においては、早く経典宗教を卒業し、次のステップに進むべきではないか、と思います。但し、アニミズムや呪術によって構成される原始宗教について、私はそのメンタリティを肯定しています。