今更ながら、私は、ほとほと人間が嫌になってしまったのです。競争系のメンタリティを持った序列主義者たち。彼らは、自らの序列を上げるために、格上の者のご機嫌ばかりを伺う。ヒラメ、太鼓持ち、茶坊主、風見鶏。こういった人たちを揶揄する言葉は、枚挙にいとまがありません。
他方、共感を求める身体系のメンタリティを持つ人たち。本当のことを言えば、このメンタリティが、同調圧力の源だと思うのです。私はこう思う。だから、あなたにもそう思って欲しい。そこにロジックは、ありません。外国のテレビCMにこういうのがありました。
家族の朝食風景です。ちょっと、うろ覚えですが、大体、こんな感じだったと思います。
まず、母親が言います。
「パンに付けるバターは、おいしいわね」
そして、バターの入った容器を娘に渡します。
「本当にバターっておいしい」と娘。続いて、父親。
「パンに付けるのは、バターに限る!」
そう言った父親が、今度は息子にバターの入った容器を渡します。そこで、息子がこう言う。
「父さん、僕は、本当はジャムが好きなんだ・・・」
空気は一変し、家族の間に緊張が走る。劇画風に表現すれば、ここでカラー映像が白黒に転換し、ガ~ンという文字が映写される。少し間を置いて、父親が言います。
「息子よ、それでもいいんだよ」
「父さん!」 そう叫んだ息子は、父親と抱き合って喜ぶ。そこで、こんなテロップが流れるのです。
・・・多様性を尊重しましょう!・・・
日本で言うところの政府広報のようなものでしょうか。それにしても、気が利いています。また、理屈抜きで、ひたすら共感を求めるメンタリティというのは、やはり世界共通のようです。
さて、政治に目を向ければ、原発は再稼働されるし、労働者の給料は上がらない。高度プロフェッショナルと称した残業代ゼロ法案が可決され、カジノが解禁され、水道が外資に売られ、大量の外国人労働者が入って来る。こういう法案について、概ね国民は反対しているのですが、それでも政府に対する支持率は、高止まりしている。何故、そうなるんでしょうか?
テレビや新聞などの大手メディアは、まず、そこにCMだとか広告を出してくれる企業の悪口は、言わない。特にテレビは放送法をベースに政府から圧力を掛けられるので、政権寄りの意見に偏りがちだ。いちいち、政府との間でトラブルを起こしたくない、と考えるテレビ局は、差し障りのない芸能人のゴシップばかりを放映する。近頃私は、極力、テレビは見ないようにしています。(但し、メディアの内部にいて、公正な報道を目指そうと頑張っている人たちもおられるようです。例えば、NHKだとクローズアップ現代の関係者など。同じNHKでも、森友事件を追及した結果、退職を余儀なくされた人もいるようです。)
本当のことを言えば、日本の労働者は危機的な状況に置かれている。一般に、老後の資金は65才時点で3千万円必要だと言われています。持ち家があるか、月の支出額はいくらか、もらえる年金の額はどうか。それらの条件によっても異なるとは思います。しかし、その額を貯蓄できる人の割合は、どれ位でしょうか。半分もいないのではないでしょうか。実際、80万人程度の高齢者が、生活保護を受給しています。来年10月には、消費税が上がる。おそらく、年金の支給額は、今後下がることはあっても上がることはないでしょう。オリンピックなど、やっている場合じゃない! 政府はそうやって、国民が政治に関心を持たないようにしようとしている。しかし、政治家や政府に今求められているのは、この国のグランドビジョンを示すことではないのか。例えば、参議院がそういう役目を負うべきではないのか。
話は変わりますが、このブログ、最初は、歴史主義的文化人類学をベースに出発したのです。しかし、その方法では、宗教に至るところまでしか分からなかった。慌てた私は「宗教の他にも、芸術がある!」と思い直して、ジョン・レノン特集の記事などを書いてきた訳ですが、やがて、既に芸術も終わってしまったことが判明する。そして、現代の日本社会において、私は、自分のことを圧倒的なマイノリティだと感じたのでした。加えて、残念ながら、私自身が空っぽになってしまったことを認めざるを得なかったのです。
そんなある日、憲法のことを思い出したのです。とりあえず、入門書的な本を買ってみようと思い購入したのが、次の文献です。
何故、この本を選んだかと言うと、憲法の条文を記した付録がついていたからなのです。この付録は、ちょっと読みかけの本に挟んだり、カバンのサイドポケットに入れておいたりできるので、とても便利なのです。(とりあえず、憲法の条文を手元に置いておきたい方には、文庫本で「日本国憲法」というのが出ていて、お勧めです。)
そしてある晩、私は街はずれの居酒屋で飲みながら、ふと、この付録を取り出してみたのでした。そして、例えば13条を読んでみる。
「すべて国民は、個人として尊重される」
そうだよなあ、本当はそうあるべきなんだ、などと思いながら、もう少し読み進めてみます。そして、19条に行き当たった。
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」
確かに、この国には様々な考え方を持った人たちがいる。価値観も様々だ。でも、それでいいと憲法は言っている。様々な人々が、互いを尊重しあいながら、この国で共に生きていけ。そう諭す憲法の声を、私は確かに聞いたように思ったのでした。私は卑小だ。そして、憲法は私よりも遥か先の頂に、燦然と輝いている。ちょっとオーバーかも知れませんが、この時私は「憲法を胸にこの国で生きて行こう」、そう思ったのでした。
やがて、私と同じような、言わば「憲法大好き人間」が、少なからず現在の日本にも存在することが分かってくる。若い方々には、ちょっと想像し難いかもしれません。しかし、馬鹿馬鹿しく、理不尽で、非合理な人生経験をたっぷりと積んだ後で憲法に出会うと、こういう心情に至る場合があるのです。
更に勉強を続けますと、同じようなメンタリティが、時空を超えて、第2次世界大戦後のドイツに存在したことが分かる。戦争中、ヒトラーの率いるナチスドイツは、無数のユダヤ人を虐殺した。戦況が悪くなるとヒトラーは自殺し、ドイツは降伏した。
1945年4月30日・・・ヒトラー自殺
1945年5月 9日・・・ドイツ国防軍降伏
(あの年の5月、ドイツは早くも降伏していた。同時に日本も降伏していれば、少なくとも広島と長崎に原爆を投下されることはなかった。)
戦勝国によって、当初ドイツは4つに分割され、ほどなく東西の2か国に統合される。困窮する経済事情と共に、国は分断され、ドイツ民族は世界中から非難された。ドイツ人の心はズタズタに引き裂かれたはずです。彼らは、彼らの文化も歴史もナショナリズムも、それらの全てを否定せざるを得ない所まで追い詰められた。言ってみれば、彼らの心は空っぽになってしまった。そして、日本より少し遅れて、西ドイツでも憲法が制定されます。
1946年11月3日・・・日本国憲法 (公布)
1949年5月24日・・・ドイツ連邦共和国基本法
やがて、ハーバーマスという人が、新たに制定されたドイツの憲法を自分たちのアイデンティティの基礎に置こうと提唱した。そういうメンタリティを「憲法パトリオティズム」と呼ぶのだそうです。