文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 248 憲法の声(その15) ロックの経験論

 

ブログの更新、諸般の事情により、大分間が空いてしまいました。申し訳ありません。

 

さて、少し論点を整理しましょう。ルターとカルヴァンは、概ね、宗教論に終始していました。しかし、ホッブズから突然、複雑になる。これには、次のような事情があったようです。

 

すなわち、当時は宗教戦争が吹き荒れ、科学の世界も行き詰まっていた。そして、ギリシャ語で書かれた「著名な哲学者の生涯と学説」という本が、ラテン語に翻訳され出版された。これを契機に、古代ギリシャの思想に関心が集まったというのです。(文献16)

 

ホッブズ古代ギリシャの哲学者、エピクロスの影響を受けたようですが、ロックも同じだったようです。まず、古代原子論というのがあった。これは、物質というのは分解していくと、原子に行き着くという考え方です。紀元前からそういうことを考える人がいたというのは、驚きです。最初に誰が言い出したのかは分かりませんが、レウキッポスから、デモクリトスエピクロスへと継承されたようです。ロックもこの考え方を踏襲します。してみると、次のように記載できる。

 

神話 → キリスト教 + ギリシャ哲学 = 立憲主義、民主主義

 

また、ホッブズやロックの主張点は、概ね、3つのジャンルに分類できそうです。(ホッブズが数学に興味を持ち、ロックが医者だったという事実は省略します。)

 

・宗教論
・認識論
・政治論

 

宗教論の説明は不要かと思います。次の認識論については、そもそも人間とは何か、特に、個々人が世界をどのように認識しているのかという問題で、私はこれを認知、認識、思考の3要素に分けて考えています。これから述べるロックの経験主義、カントの理性主義なども認識論に含まれます。

 

政治論には、政治権力、人権、社会契約論などの要素が含まれます。ホッブズについて、分解してみると、次のようになります。

 

ホッブズの場合
宗教論・・・カトリックへの批判
認識論・・・感覚について など
政治論・・・あたかも一つの人格を持つかのように機能する群衆(リヴァイアサン

 

ロックの場合は、相変わらず王権神授説を唱える論敵がいて、真っ向からぶつかったようです。代表作とも言える「統治二論」の前半は、王権神授説に対する批判に終始しています。次に認識論の分野でロックは、「人間知性論」という文献を出版しています。ロックはこの問題を死ぬまで考え続けたようです。そして政治論について、ロックは前述の「統治二論」の後半でこれを展開しています。

 

ロックの場合
宗教論・・・王権神授説への批判
認識論・・・人間知性論、経験論
政治論・・・統治論

 

これで、少し整理がついたのではないでしょうか。本稿は「憲法の声」というタイトルであって、最終的には、様々な思想や史実を経て、日本国憲法が出来上がるまでのプロセスを記述することを目標としています。よって、主眼は政治論ということになりますが、私自身は認識論にも興味がある。宗教論は卒業ということで、今後とも認識論と政治論を中心に進めていきたいと思います。

 

古代原子論を継承したロックは、まず物は原子によって構成される、というところから出発します。原子とは小さな粒子ですから、人間が肉眼によって、これを観察することはできません。この、観察することが困難な状態の原子の塊をロックは、“物そのもの”(things themselves)と呼びました。

 

さらにロックは、“物そのもの”の1次性質として、形、大きさ、固性、運動、静止などの要素があると考えました。ただ、それだけでは、人間は“物そのもの”を認識することができません。そこでロックは、“物そのもの”には色、味、熱さ、冷たさなどの要素を伝える能力があるのだと主張します。ロックは、この能力を2次性質と呼びました。更に、2次性質と呼ばれる能力によって、“物そのもの”は人間の感覚器官に働き掛ける。この作用のことをロックは“触発”と呼びました。

 

“物そのもの” → 触発 → 人間の感覚器官

 

このようにして、人間によって知覚される事柄がある。元来、“物そのもの”には色も味もない訳ですが、人間は明らかに色や味を知覚する。それは、“物そのもの”とは異なりますが、人間は心の中で、その対象物を認識する。この心の内側に発生する事柄をロックは、Ideaと呼んだのです。このIdeaをどう和訳するかという問題がある訳ですが、文献16は、「観念」と表記しています。観念と言うと、大変分かりづらいと思うのですが、これは私たちが日常的に認識している状態の物体のことで、“経験的対象”と言った方が分かり易いかも知れません。そして、最後に“心”が観念を知覚する訳です。

 

“物そのもの” → 触発 → 人間の感覚器官 → 観念 → 心

 

現代風に言えば、若しくは私流の言い方をすると、上記の事項がロックの考えた認知システムということになります。

 

ちなみに、ロックの提示した認知システムは、ヒュームを経由して、カントに継承された。そして、カントが記したのが「純粋理性批判」だそうです。こういう基礎知識を持たずに、いきなり「純粋理性批判」を読んでも、理解できなくて当然だったのかも知れません。ロックの用語と、カントが用いた用語を並べてみましょう。

 

ロック・・・物そのもの・・・触発・・・観念
カント・・・ 物自体 ・・・触発・・・表象

 

こうしてみますと、“表象”という言葉の意味も、よく理解できます!

 

ロックが生きた時代は、例えば「人は自らの罪を悔い改めなければならない」ということが、生得原理、すなわち人間が生まれて来る段階で認識されていると考えられていたそうです。これに対して、生まれてくる時点で、人間の心は白紙であるとロックは考えた。そして、白紙の状態である心の中に様々な観念が生じるその原動力について、ロックは“経験”であると主張した。経験は更に2つに分類される。一つは、感覚。他方は、“反省”と訳されていますが、これは思考と言い換えても良いと思われます。

 

複数の観念を統合したり比較したりすることによって、知識が生まれ、知識に基づいて思考することによって原理が発見される。概ね、ロックはそのように考えたようです。

 

(観念 + 観念 = 知識) → 原理

 

ところで、人間が生まれて来る時、その心は本当に白紙でしょうか。皆様は、どうお考えになりますか? 実は、ロックの経験論は、ユングの「元型論」と真っ向から対立するように思われるのです。

 

集合的無意識とは心全体の中で、個人的体験に由来するものでなくしたがって個人的に獲得されたものではないという否定の形で、個人的無意識から区別されうる部分のことである。”

 

そしてユングは、集合的無意識の内容として“太古から存在している普遍的なイメージ”を元型と呼んだのです。

 

一早く神話に注目したユングは、世界の神話を調査した。すると、異なる地域の神話であっても、共通するイメージが登場することに気付いた。そのイメージをユングは元型と呼び、個人的無意識よりも深い所に、集合的無意識が存在すると考えた。この集合的無意識が、実は人間の心理に多大な影響を及ぼしている。

 

概ね、元型と集合的無意識に関するユングの主張は上記の通りですが、では、何故、人間は地域や民族を超えて、同じようなイメージ、すなわち元型を持っているのか。その理由について、ユングは遺伝によると述べているのです。すなわち、ユングによれば、人間は生まれながらにして、元型というイメージを持っていることになります。

 

ロックが正しいのか、ユングが正しいのか。

 

実は人間というのは、深い所でつながっている。私は、永年そういうイメージを持ってきたのです。そう簡単に、ユングを否定する訳にはいかない。

 

では、こう考えてみてはいかがでしょうか。すなわち、人間というのは意識の深い所で、共通するイメージ、すなわち元型を持っている。そして、元型が集合的無意識を作り出す。しかし、元型というのは遺伝によって伝播するのではなく、人間社会が作り出してきた文化によって伝播し、共有される。

 

すなわち、ロックの経験論は正しく、ユングも大筋においては正しい。

 

文献16: ロック入門講義/冨田恭彦ちくま学芸文庫/2017