文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

自民党の憲法改正案

ここの所、ブログの更新が滞っております。日常生活における些事に翻弄されているのがその主因ではありますが、少し考えをまとめるのに時間を要しているのも事実です。憲法とは、やはり複雑なものだと改めて感じております。

 

そこで、今回は比較的簡単なトピックということで、自民党改憲案について述べることにしました。憲法論の本筋からは離れますので、通し番号無しの非公式原稿とします。

 

まず、自民党は下野している時期、2011年に憲法改正草案というものを出しています。これは、自民党の支持団体である日本会議に擦り寄るような内容で、まるで中世に時計の針を戻すようなものでした。あまりに酷い内容だったので、その後、自民党内からも批判が上がり、事実上、これを取り下げた経緯があります。

 

しかし、安倍政権としては、何とか日本会議等の支持を失いたくはない。今年の7月には参議院選挙だってある。そこで、自民党が出して来たのが9条2項を残し、3項に自衛隊を明記するという案だった訳です。(追加の条文として9条の2を設けるという説もあります。)その具体的な文案は、野党が憲法審査会の開催を拒否していることから、未だ明らかにはなっていないと思います。(ネットで検索してもヒットしません。もし、既に公開されているようであれば、ご容赦ください。)

 

安倍政権の改憲案の骨子は、上記の9条問題に加え、緊急事態条項、教育無償化の3点であると言われています。順に検討します。

 

まず9条の問題から。そもそも、9条の2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定められているのに、日本は自衛隊を保持している。こういう、それこそ哲学的な問題から出発する訳です。そこで自衛隊違憲かどうかという問題が持ち上がります。この問題に決着をつけるための方法としては、裁判を起こして裁判所に判断してもらう、という方法が考えられます。実際、憲法81条は、次のように規定しています。

 

第81条(最高裁判所の法令等審査権)
最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。

 

国会が憲法に違反するような法律を制定した場合、国民は最高裁に対し、その無効であることの判断を求めることができる。最高裁のこのような権限を「違憲立法審査権」と呼びます。しかし現実問題としては、そうなっていない。最高裁は高度に政治的な事項については、審査しないのです。従って、例えば2015年に制定された安全保障関連法(別名、戦争法)は違憲ではないのか、という理由で訴えたとしても、最高裁はかかる申し立てを受理しないのです。このように、高度に政治的な問題について、最高裁は判断しなくていいんだという立場を統治行為論と言います。統治行為論の論拠としては、そもそも国会議員というのは主権者である国民によって選ばれている。他方裁判官というのは、内閣によって指名されているに過ぎない。(憲法6条2項)従って、国民主権の原理からして、国会が定めた法律を裁判官が覆すのは良くない、という考え方です。実際アメリカでは、議会の定めた法律を裁判所がことごとく否定し、混乱したというケースもあるそうです。ちなみに私は、統治行為論に反対で、最高裁はあくまでも憲法81条に基づき、違憲立法審査権を行使すべきだと思っております。それをしないということは、憲法尊重擁護義務(憲法99条)違反だと思います。

 

加えて、法律ができただけでは、最高裁としては判断をしない。何か、具体的な問題が起こらないと審査をしない、という原則もあるようです。

 

従って、2015年の安全保障関連法(戦争法)が成立したからと言って、最高裁は何も判断しない。こういう現実はおかしい、最高裁違憲立法審査権を行使すべきだ、と考える人たちは、それでは憲法裁判所を作るべきだと主張しており、私はこの立場に賛成です。

 

さて、それでは現実問題として、憲法に関わる法的な問題は誰が判断しているのか。それは内閣法制局長官ということになります。このように、一応権利を持っている人が解釈することを有権解釈と言います。すなわち、内閣法制局長官が有権解釈を行う。これが日本の実態なのです。

 

戦後長い間、内閣法制局は9条に関する有権解釈として、「日本は、個別的自衛権は有するが、集団的自衛権は有さない」との見解を述べてきました。従って、2015年の戦争法、失礼、安全保障関連法は集団的自衛権を認める内容だったので、内閣法制局長官は当然、違憲であると述べる義務を負っていたのです。ところが、そう考えていた内閣法制局長官は更迭され、安倍政権にゴマを擦っている人が新たにその職に就いたのでした。そして、そのゴマ擦り長官は、従来の見解を覆し、集団的自衛権をも認めるとの判断を下したのでした。

 

ちなみに、このゴマ擦り長官は、その後、顔面神経痛になったという話もあります。良心の呵責に苛まれたのかも知れませんが、私には、そのようには見えません。

 

ちょっと話が脱線します。集団的自衛権とは、国連憲章(51条)においても認められている。だから、日本だって集団的自衛権を持っていいんだ、という意見もあるようです。しかし元来、集団的自衛権とは、複数の小国が一致団結して、大国からの侵害に備えようというものです。それと、日本が超大国であるアメリカと手を組むというのは、話が別です。私は、日本が個別的自衛権を持つということに賛成しますが、集団的自衛権は持つべきではないと考えています。

 

話を元に戻しましょう。2015年に制定された戦争法でした。この法律によって、日本は地球の裏側まで行って、米軍を助ける、すなわち戦争に参加することが可能となっている訳です。このように極めて危険な状態にある現状において、憲法自衛隊を明記するのは、極めて危険であると言わざるを得ない。これが反対理由の1つ目です。

 

自民党改憲案に反対する理由の2つ目は、自衛隊というのは軍隊な訳で、仮に自衛隊憲法に書き込むのであれば、合わせて自衛隊をどうコントロールするのか、こちらの規定も盛り込むべきだと思うのです。一般に言われているのは、文民統制(シビリアン・コントロール)という考え方ですね。現在も過去も軍人ではなかった人が、軍隊をコントロールすべきだ、という考え方です。加えて、国会の承認手続も厳格に規定すべきだと思います。自民党改憲案には、これがない。

 

3つ目の理由としては、9条2項との関係です。3項で自衛隊を明記するということは、2項を無効化する、もしくは2項に例外を設けることになります。これでは、憲法がますます分かりづらくなってしまう。一体、日本とはどういう国家なのか。

 

自民党改憲案の2番目のポイント。これは緊急事態条項を設けるということですが、これは自衛隊の明記よりも、更に危険なものです。すなわち、大地震などの災害が発生した場合であって、かつ衆議院の解散時期などが重なった場合、政治の空白を作る訳にはいかない。このような場合には、総理大臣が緊急事態を宣言し、宣言が解除されるまでの間、内閣が立法権司法権をも保持する、というものです。これは、ナチスが使った手口と同じだという理由で、批判されています。とんでもない条項案なのです。言うまでもなく、そんな必要はどこにもありません。万一、そういう事態が生じた場合には、一時的に参議院が決議をすれば良いだけの話なのです。実際、憲法の54条2項には、次のように定めています。

 

第54条2項
衆議院が解散されたときは、参議院は同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。

 

自民党改憲案の3つ目のポイントは、教育の無償化です。この発案者は、維新の会だったと思います。自民党としては、維新の会のご機嫌を取るために、この点を改正案に盛り込んだと言われています。論評するまでもありませんが、こういうことは法律で定めればいい。教育の無償化と言ってもその範囲はどうするのか、財源はどうするのか、細部を詰める必要があります。そういうことは、なかなか改正できない憲法に書くのではなく、法律を制定すれば足りる。

 

以上の理由から、私は、自民党改憲案には反対なのです。

 

それにしても、自民党改憲案は筋が悪い。悪すぎる。自民党も本気でこれを通そうと思っているのか、はなはだ疑問です。どうやら、日本会議をはじめとする自民党支持層を引き留めておくために、便宜上、憲法を改正すると言っているに過ぎない。そんな気がします。

 

蛇足ながら、日本の三権分立について、述べておきたいと思うのです。先に述べた統治行為論に加え、裁判官というのは内閣によって指名される。別の言い方をしますと、裁判官というのは、内閣に人事権を握られている訳です。従って、内閣に都合の良い判決を下す傾向が強いと言わざるを得ません。国会と言っても、その多数派が内閣を構成する訳で、その内閣が裁判官に対する人事権を持っている。すなわち、内閣が、特にそこのトップである総理大臣が持つ権限が強すぎる。そこに権力分立という理想は、体現されていない。日本において、三権分立は機能しない。それが現実だと思います。