文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

開放系の中間集団

驚くべきニュースがありました。5月31日に時事通信社が配信した記事です。「消費増税の着実実施を=連合が自民に要請」というものです。記事によれば、同日、連合の相原事務局長が、自民党の岸田政調会長に対し、今年10月に予定されている消費税増税の着実な実施を求めた、ということです。連合が係る事項を要請した理由は、社会保障の持続可能性を重視する立場から、とのこと。

 

ちょっと待って欲しい。前回税率を上げた際は、増税分のわずか16%しか社会保障の充実には充てられなかったのではないか。残る84%の大半は、国の借金の返済に使われたのではなかったか。そもそも連合とは、労働者の権利を守るのがその使命ではないのか。そうであれば、本来、連合が主張すべき事項は、消費税の減税と法人税増税ではないのか。連合は、テーブルの下でケイ団連と手を握っているのではないか。そう疑わざるを得ません。

 

そして、立憲民主党と国民民主党は2018年11月30日に、連合と政策協定を結んでいる。ということは、両党とも、緊縮財政、増税派であるとみなさざるを得ません。私は、国民民主党には最初から期待していなかったので腹も立ちませんが、「立憲よ、お前もか!」と言いたくなってしまいます。更に、本年5月29日には市民連合が仲介する形で、野党5党派の間で政策協定が取り交わされていますが、ここには消費税増税派の野田佳彦氏も加わっている。すなわち、今年10月の増税には反対するが、少し景気が上向けば増税しても良いということなのでしょうか。

 

この点共産党の幹部は、今年10月の増税には反対で、その先は5%への減税、更には消費税廃止を目指すと述べています。

 

“れいわ新選組”が立ち上がって、一番困っているのは、立憲民主党ではないでしょうか。そもそも、同党の支持者というのは、比較的政治に関心のある層だった。しかし、山本太郎さんの街頭演説会などによって、消費税と法人税の関連など、実態が明らかになりつつある。MMTに関する論議も活発化している。一部の情報によりますと、立憲の内部からも消費税は廃止すべきであるという意見が出始めている。しかし、立憲の幹部は一向にMMTに関する論議に応じる様子がない。

 

今年の参院選に向けて、各党は政策を発表しつつある。しかし、立憲民主党は“立憲ビジョン2019”として発表するとは言っているものの、未だ、それは公表されていない。同党のホームページを見る限り、具体的な経済政策というのは、ほとんど皆無に等しい。どうしたいのか、ということは述べられていますが、どのように実現するのか、その“How”がないのです。

 

私の立憲民主党に対する最終的な評価は、同党の経済政策が発表されるまで、留保することにします。期待はせずに、それを待つことにしましょう。ただ、1億2千万人の国民を乗せた日本丸が沈没しそうだという危機的な状況にあるのに、野党第一党の主要政策が「選択的夫婦別姓制」というのはあり得ないと思いますが、いかがでしょうか。

 

さて、このブログでは、個人と国家との中間に位置する集団を“中間集団”と呼んでいます。私の記憶では、この言葉は憲法学において使用されているものです。思えば、世の中の不正や人権侵害の多くは、この“中間集団”という位相において発生している。列挙してみます。

 

・家庭・・・DV
・学校・・・イジメ
・地域別集団・・・村八分など
・職業別集団・・・新規参入障壁/カルテル
・会社・・・セクハラ、パワハラ
・労組・・・政治活動の強制
・省庁・・・省益を優先し国益を損なう
・宗教団体・・・思想的迫害、経済的収奪
・民族団体・・・ヘイトスピーチ

 

もちろん、世の中には個人の犯罪や、国家犯罪としての戦争ということもあります。しかし、上の一覧を見るといかがでしょうか。中間集団に属すると、ろくでもないことが起こる。現代社会において、中間集団が弱体化されてきた理由の1つが、ここにある。

 

更に困ったことには、個人が国家という位相の集団に参加するには、やはり中間集団の存在が欠かせないということです。例えば、テクノロジーがもっと発達すれば、国民がPCやスマホを使って瞬時に投票できるようになるかも知れません。しかし、YesかNoかを決定するだけで、政治が動く訳ではありません。やはり、そこには論議が必要になる。そして、全ての国民があらゆる論議に参加することは不可能です。すると、自分と同じような考え方をしている人間の集団を支持することによって、政治に参加するのが良かろうということになります。政党政治ですね。但し、この政党政治というものは、政治家だけで成り立つものではありません。そこには、当然、支持者の存在が不可欠となる。政治家と支持者を一つの集団として考えた場合、これを政治集団と呼ぶことにしましょう。

 

政治家 + 支持者 = 政治集団

 

この政治集団をどのように運営すべきか、どうあるべきなのか。そこにイジメやセクハラがあってはならないし、思想や良心の自由も確保されるべきです。しかし、そんな中間集団というものは、存在し得るのか。

 

アメリカには、昔、黒人教会というものがあった。これはかなり自由な集団だったと思うのですが、社会学的に言えば、これは特段の目的を持たない集団(ゲマインシャフト)だったと思います。では、目的を持つ集団(ゲゼルシャフト)でありながら、自由で平等な中間集団というものは存在したでしょうか。私は、実例を知りません。

 

しかし、今、その可能性を探っているのが、“れいわ新選組”という政治集団ではないかという気がします。“れいわ新選組”には、誰でも参加できます。寄付をすれば、それはもうりっぱな支持者ということになります。お金がなくても、ボランティアとして登録できる。もっと言えば、心の中で応援するだけでも良い。そして、脱退するのも自由です。気が変わったら、別の政党に投票すればいい。“開放系”とでも言いましょうか、出入り自由なんですね。ここら辺は、宗教政党とは、全く異なる。平等か、という問題もありますが、太郎さんの街頭演説会を見ますと、老若男女、様々な人びとが聞き入っている。時折、拍手をしたりする。手を挙げれば、誰でも発言のチャンスがある。かなり、平等だと思います。

 

ただ、私のような年代になりますと、いろいろなことを考えてしまうのも事実です。今はまだ、小さな集団です。政治家は太郎さんと蓮池透さんしかいません。しかし、徐々に人数が増えて来ると、政治家の間で序列を付ける必要が出て来るに違いありません。その時に至ってもなお、自由と平等を確保することができるのか。そこが課題ではないでしょうか。

 

いずれに致しましても、“れいわ新選組”というのは、壮大な社会実験だと思います。