文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化認識論(その12) 心の中身

<認識方法の変遷>
1. 真似る・・・観察、関係性、自然記号
2. 融即律・・・想像力、関係性
3. 介在原理・・・想像力、概念、関係性
4. 物語的思考・・・想像力、概念、因果関係、話し言葉
5. 論理的思考・・・観察、想像力、概念、因果関係、文字
6. 記号分解・・・記憶力、人工記号

※ 1番から4番までの認識方法を総称して、「芸術的認識」又は「芸術的認識方法」と呼びます。

 

ある程度の規模の会社に入りますと、大体、“部”という規模の組織がある。人事部、経理部、製造部、営業部などがその例です。これが横方向の記号分解だと思います。そして、各部のトップには部長がいて、その下に次長、課長、係長、平社員という区分がなされている。これが縦方向の序列による分解です。

 

更に各従業員は、性別、年齢、学歴、職歴などの記号によって分解され、会社に認識される。正に現代の社会は、学校から会社に至るまで、記号分解によって成り立っているように思います。すると、序列に対する依存という心理状態が生まれる。前々回の記事では、少し屈折した事例を挙げましたが、どこの会社にも自分の役職を笠に着て、威張っている人というのは、少なくありません。仕事上の実力のない人、本当は自信のない人に限って、威張り散らかすんですね。これがパワハラにつながる。親会社や銀行、又は役所などから天下って来る人もいます。こういう人は、その会社の業界特性を知らず、社内の人脈もない。勢い、序列依存に陥り易い。

 

序列に依存するようになりますと、自分のポストに固執するようになります。ポストを守るために、上司にはおべっかを使います。そして、部下に追い越されては困るので、自分におべっかを使う人を重用することになります。こうして会社にはイエスマンとヒラメが繁殖するのです。

 

序列依存に陥った人は、あくまでも自分のポスト、役職にこだわりますので、なかなか引退しません。そのような人のために、大企業では相談役とか、顧問という名誉職を用意せざるを得ないのです。老害です。政治家にも同じような人は沢山います。とにかく、引退してくれない。ちなみに、麻生財務大臣は79歳で、自民党の二階幹事長は80歳です。一度しかない人生なのに、他にすることはないのでしょうか?

 

最近、右派の論客、藤井聡氏がやっている雑誌、クライテリオンで“安部晋三「器」論”という特集があました。「器」とは、中身がないという意味です。私は左派ですが、この意見には賛成です。安部総理は、空っぽだと思います。また、セクシー発言で一躍スポットライトを浴びた小泉進次郎氏についても、空っぽで、頭を振るとカラカラ音がするとかしないとか。そういうことがネットで話題になっています。日本人は空っぽになった、ということも言われるようになって来ました。

 

日米FTAが国会で承認されると、日本の国民健康保険が破壊され、医療が崩壊する。そうなると、例えば盲腸の手術を受けた場合の費用が、800万円を超えるのではないかというようなことも言われています。日本の関税権は奪われ、為替条項によって国債すら自由には発行できなくなる危険性がある。そうなると、MMTに基づく積極財政政策を採ることができなくなり、日本人は貧困の奈落へと突き落とされるのではないか。

 

衆議院での憲法審査会が開催されたようです。これはもう、憲法が危ない。自民党がゴリ押しした場合、国会が憲法改正の発議を行い、国民投票まで持っていかれる。すると、メディアが改憲を煽るCMをバンバン流して、空っぽな国民が改憲案に賛成する。自民党改憲案には、緊急事態条項が含まれている。災害時などにこれが発動されると、三権は全て政府が握ることとなり、日本の民主主義は終わる。

 

こういう危機的な状況にある訳ですが、多くの国民はラグビーだとか、ハロウィンに熱狂し、大手のメディアはこれらの問題に対し、沈黙しているように見えます。これは確かに、空っぽになったとしか言いようがありません。

 

しかし・・・と私は思う訳です。空っぽになったと言って批判をするだけなら、誰でもできる。では、人間の心が本来持っているべき事柄とは何なのか。それを説明した上での批判でなければ、説得力がない。そこで、冒頭の「認識方法の変遷」と記した一覧に移ることになります。

 

まず、芸術的認識方法について考えますと、ここには明らかに認識しようとする対象がある。動物がいる。植物がある。そして、人間を包み込む大自然がある。かつて、人間はそれらの対象との間に強い関係性を築いていたと思います。加えて、それらの対象を認識しようとした結果、膨大な量の芸術作品が生み出された。芸術作品は、それらを鑑賞する私たちの心にも入り込んで来る。

 

加えて、無文字社会の人々は、シャーマンを見ていたのではないか。この点は、次回の原稿に記すことにします。

 

また、特に近代の小説や映画について考えますと、そこには“感情移入”という現象が生じます。自分があたかも登場人物になったような気持ちになる。そして、登場人物の境遇を嘆いて、涙を流したりする。この作用が、人間の想像力を育んで来たことに異存はないでしょう。

 

そして、論理的思考になる訳ですが、これはいくつかの現象を観察して、そこに共通する原理を発見するところに本質がある。原理を発見できれば、近未来を予測することができるようになります。こういう条件下でこういうことをすると、こういう結果になるに違いない。では、望ましい結果を導くためには、今、どうすべきか、ということを考える訳です。その典型は、法律ではないでしょうか。現代の日本において、法律を作るのは国会で、その国会議員を選ぶのが選挙です。すなわち、この論理的思考を突き詰めて行きますと、必然的に政治的な主張に帰結する。

 

少し整理をしてみましょう。

 

認識の対象・・・動物、植物、自然

認識するための介在者、介在物・・・シャーマン、芸術作品

認識するための心的機能・・・想像力、論理的思考力

 

言うまでもなく、特に都市部におきましては、自然が失われてしまいました。野生の動物に接する機会も少なくなってしまいました。従って、何万年もの間、人間が認識しようと試みてきた、その対象が現代社会においては、極端に衰退していると言えます。これでは、人間の心が空っぽになるのも、当然の成り行きかと思います。

 

次に、芸術を生み出す創作活動や、私たちが芸術作品に触れる機会は、どうでしょうか。こちらも減少しています。暗記中心の教育によって、子供たちの感性や想像力が育まれるはずがありません。

 

論理的思考力は、どうでしょうか。親は子供を虐待し、政治家は有権者にメロンやカニを配り、ウグイス嬢には法規制を上回る額を支払い、ブラックバイトやブラック企業が蔓延しています。現代の日本人には、何が正しいことで、何が間違ったことなのか、その判断を下す能力さえも無くなってしまった。

 

結局、本来認識すべき対象が失われ、人間の認識を補助する介在物(芸術作品)などが生み出されにくくなり、想像力は減退し、何が正しいことなのか判断できなくなった。人々の認識方法は、記号分解に異存し、そこから序列依存というメンタリティが生まれる。これが、“空っぽ”と呼ばれる現代日本人の心の中身ではないでしょうか。

 

ここで、余談を一つ。四谷怪談というのがあって、昭和の子供たちは震え上がったものです。“お岩さん”という幽霊が登場する話です。これを解釈しますと、“お岩さん”は、死者を代理している。

 

人間 - お岩さん - 死者

 

すなわち、人々は“お岩さん”を通じて、死者とは何か、想像していたことになります。時間が流れ、“オバケのQ太郎”という漫画が出てくる。オバQは、可愛らしいキャラクターですが、何者かと言うと、一応、オバケであるということになっている。更に時間が経過しますと、今度は“ドラえもん”が出てくる。これは、未来からやって来たネコ型ロボットという設定になっている。

 

元来、人間は記号を通じて、何らかの対象を認識しようとしてきた訳で、“お岩さん”の場合はその原理が当てはまります。

 

人間 - 記号(お岩さん) - 対象(死者)

 

ところが“ドラえもん”になると、記号の先に記号しかない。

 

人間 - 記号(ドラえもん) - 記号(ネコ型ロボット)

 

どこまで行っても記号しかない。そういう時代になったように思います。