文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

憲法に異議あり!

最初に述べておく必要があると思うのですが、私は、日本国憲法がとても好きです。特に、その第12条を肝に銘じております。

 

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。

 

素晴らしいじゃありませんか! ここに憲法を制定する。この憲法は、日本国民の自由及び権利を保障するものだ。しかし、人間は不完全だ。完全なものなど、作れるはずがない。この憲法でさえ、例外ではない。そして、長い人類の歴史は、自由と権利に対する侵害の連続だった。だから日本国民は、その自由と権利を守るために、絶えることなく、努力し続ける必要がある。それは自由と権利を守るために課せられた日本国民の義務である。憲法は、そう言っている。私には、そう聞こえるのです。

 

憲法というのは、桐の箱に入れてしまっておくような宝物ではありません。神棚に奉っておくものでもありません。それは、常に日本国民の疑問と論議に晒し、進化させて行くべきものだと思います。

 

そこで今回は、日本国憲法について私が考えている問題点を3つ程、述べたいと思います。

 

第1に、象徴天皇制について。右翼の方々は、日本には2千数百年の歴史があると言います。しかし、天皇制には、もっと長い歴史がある。古事記や日本書記は、文字によって書かれていますが、未だ、文字が存在しなかった時代というのが、日本にもありました。遅くとも3万年前には、ホモサピエンスが日本列島に到着している。そして、文字を持たない人々は、現代に生きる我々とは異なる方法で、自然や野生動物を認識していたのです。その認識方法、自然や野生動物との関わり方というのは、シャーマニズムと呼ばれる文化形態をとっていたのだろうと思います。

 

まず、文化を共有する人間集団がある。やがて、この文化共同体が存亡の危機に瀕する。すると、リーダーが登場する。リーダーは、文化共同体の利益を願って、共同体を代表して、神に祈りを捧げる。邪馬台国におけるリーダーは、卑弥呼だった。そして、日本国におけるリーダーが、天皇だったのではないか。このポジションは世襲によって承継され、今日に至っている。

 

天皇制の起源というのは、このようにとても純粋だったはずです。しかし、この代表者が祈りを捧げるという儀式は、やがて政治を生み、権力闘争を引き起こし、次第に汚されていく。その典型例が、戦時中の国家神道だと思います。天皇制の政治利用という訳です。

 

これらの経緯を総合して考えますと、私は、象徴天皇制については、支持する立場を取りたいと思います。日本人が国家というスケールの集団を認識しようとした時、その象徴として天皇陛下がおられる。それは、文化論、認識論、双方の立場から有益なことだと思います。また、「民主的で強い国」を目指そうと考えた場合、天皇制を持っている国の方が強い。グローバリストだろうが、アメリカ政府だろうが、日本の天皇陛下にだけは、手を出すことができない。

 

また、天皇制の政治利用は、これを排除すべきだと考えます。例えば皆様は、新たに選任された総理大臣が、天皇陛下から何か賞状のようなものを受け取っている、そういう場面を動画や写真で見たことはありませんか。これ、憲法に書いてあるのです。

 

第6条 ① 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。

 

こういうことをするから、総理大臣というのは偉い人なんだと、国民が誤解する。また、このような儀式は、ヨーロッパの王権神授説とイメージがダブってしまう。すなわち、王権(総理大臣の権力)は、神(天皇陛下)が授けたものだ、という訳です。

 

また、いわゆる「恩赦」についても、止めた方がいい。

 

第7条 六 大赦、特赦、減刑刑の執行の免除及び復権を認証すること。

 

本来、刑の軽重というのは、法律で決まっている。それを天皇が軽減するということに、合理的な理由は見受けられません。むしろ、法的な平等を損なうことになる。そもそも、この「恩赦」も、実際には内閣が決めているはずです。内閣が決めたことを天皇が追認するというのが実態だと思われ、これも天皇の政治利用の一種だと思います。

 

第2の問題点として、憲法81条を挙げたいと思います。

 

第81条 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。

 

例えば、国会が憲法に違反する法律を制定した場合、最高裁は「いやいや、その法律は憲法に違反しているから無効ですよ」と言って、その法律を無効にする権限を持っているのです。これを「違憲審査制」とか、「違憲立法審査権」などと呼びます。なるほど、これは素晴らしい。こういう権限を持っているから、裁判所は国会を牽制できる訳だ、三権分立とはこうして成り立っているんだ、と思うのですが、現実は違う。皆様は、最高裁が国会の暴走を止めたという事例をご存じでしょうか。私は、知りません。例えば、2015年に制定された安全保障関連法(戦争法)など、典型的な憲法違反の立法だと思うのですが、最高裁は口を開かない。

 

その背景には、「統治行為論」という学説がある。これは、国会なり政府が決めた高度に政治的な事柄について、裁判所は口を挟んではいけない、とする考え方なのです。そもそも、国会議員というのは、国民から直接選挙で選ばれている。その、国民の意向を反映した国会が決めたことを、わずか数人の裁判官がひっくり返すのは民主主義に反する、という考え方なんです。この「統治行為論」に基づいて、日本の最高裁は、「違憲立法審査権」を行使しない訳です。著名な憲法学者も、この「統治行為論」を支持しており、私も、半信半疑ながら、そう理解してきました。

 

しかし、ちょっと待て!

 

それでは、三権分立はどうなるのか。国会が暴走した時、最高裁がそれを止めないで、一体、誰が止めるのだ! ・・・と、最近は思い直した次第です。そもそも、憲法81条に明文規定がありながら、学説ごときによって、その運用を決するというのは、最高裁もどうかしている。「統治行為論」を採用するのであれば、正々堂々、憲法を改正してからにしていただきたい。

 

加えて、現在は小選挙区制が採られており、おおよそ3割の票を獲得した政党が、政権党となる。残りの7割は、政権党を支持していない訳です。従って、残る7割の国民の声を代弁して、最高裁は「違憲立法審査権」を行使すべきだと思います。

 

第3の問題点ですが、これは憲法に定められた裁判所の人事に関する規定です。

 

第6条 ② 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。

 

第79条 ① 最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。

 

結局、最高裁の「長たる裁判官」と「その他の裁判官」というのは、内閣が決めているんです。(内閣人事局でしょうか)簡単に言えば、最高裁の人事権というのは、内閣が握っている訳で、出世したいと思う裁判官は、内閣の意向に沿った判決を下す訳です。下級審の裁判官も、事情は同じです。多くの裁判官は、いつかは最高裁に行きたいと思っているに違いありません。そういう裁判官は、政府に都合の良い判決を下そうとする。

 

こんなことで、司法の正義が貫けるはずがありません。日本では、国会や政府を相手にした場合、公正な裁判は期待できないのです。日本には、最初から三権分立というシステムは存在しなかったのです。

 

裁判官の任命制度ですが、例えば、弁護士、検察、裁判官などによって構成する「指名委員会」を設置して、そこで最高裁の裁判官を任命するなどの方式が考えられます。そうすれば、裁判官は内閣の意向を忖度することなく、公正な判決を下すことができるのではないでしょうか。

 

憲法を巡る論点は、他にも沢山あります。例えば、現在の参議院衆議院を同じ仕事を行っている。しかし、予算や条約に関する決議は、衆議院の決定が優先されることになっています。これでは、参議院の存在意義がありません。参議院には、衆議院とは異なる役割を付与すべきではないかという論議があるのは、当然の帰結だと思います。

 

1946年に制定された日本国憲法。以来、73年もの間、改正されたことはありません。それは日本国民が問題から目を背け、課題を先送りし続けて来た結果です。そんなことで、私たちの自由と権利が守られるはずがありません。