文化認識論

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文化認識論(その13) オルテガ/大衆の反逆

久しぶりに読みごたえのある本に出会いました。それはスペインの哲学者オルテガ(1883-1955)の著書、「大衆の反逆」です。(以下「本文献」と言います。詳細は末尾) 本文献の執筆は1930年なので、第一次世界大戦が終わり、第二次世界大戦が始まる前ということになります。今から約90年前ですが、特に大衆とは何かという点については、鋭い指摘があり、今日の日本の状況を驚く程、言い当てているように思えるのです。90年という時間的な差異があり、かつスペインと日本という地理的な隔絶があるにも関わらず、大衆と呼ばれる一般人の特質には共通点がある。この点、驚きを禁じえませんでした。

 

大体、哲学者の書く文章というのは、分かりづらい。何故、こうも持って回ったような言い方しかできないのか、と腹立たしく感じる訳ですが、本文献も例外ではありません。オルテガは、あの三島由紀夫に影響を及ぼしたそうですが、三島はオルテガを誤読していたのではないか、という指摘が本文献の訳者によってなされています。確かに、本文献を読み進めて行きますと、三島の世界観に通ずるようなところがある。この点もまた、私にとっては驚きでした。

 

さて、本文献にはどういうことが書いてあるのか、ざっくりとまとめてみましょう。

 

かつてヨーロッパでは、それなりの人物が世の中を統治していた。この「それなりの人」をオルテガは「貴族」と呼んでいます。それが、近代になり工業が発達し、民主主義が台頭した。すると、貴族に代わって大衆が世の中を支配するようになった。かつては支配されていた大衆が、世の中を支配するようになったということが、本文献のタイトル「大衆の反逆」につながっている。そして、オルテガは徹底した大衆批判を行う。

 

簡単に言うとそういうことが書いてある訳ですが、これでは良く分かりません。もう少し詳しく見て行きたいと思います。シンプル志向の私としては、この本を読み解くために、次の5要素に分解するのが良いだろうと思いました。すなわち・・・

 

1. 「貴族」とは何か
2. 「大衆」とは何か
3. 何故、大衆が支配するようになったのか。
4. 大衆支配は、何をもたらしたのか
5. では、どうすれば良いのか

 

いかがでしょうか。では、順に見て行きましょう。

 

1.「貴族」とは何か

 

・自分に多くを要求し、自分の上に困難と義務を背負いこむ人である。(P.9)

・高貴であるということは、かれを著名にするもととなった、なみなみならぬ努力のあったことを意味する。したがって高貴な人とは、努力する人、または卓越した人ということに相当する。息子が貴族であったり知名だったりするのは、たんなる恩恵である。息子が知られているのは、父が自分自身を有名にしたからである。それは、親の七光りによって有名なのである。(P.74)

・貴族とは努力する生の同義語であって、つねに自分に打ち克ち、自ら課した義務と要請の世界に現実を乗りこえてはいっていく用意のある生である。(P.75)

・高貴な人間は、本当に自分が完全だと感ずることができないのだ。(P.81)

世襲≪貴族≫は、生を使用し努力することがないために、その人格がぼやけたものになっていく。(P.121)

 

2.「大衆」とは何か

・大衆とは、みずからを、特別な理由によって -よいとも悪いとも- 評価しようとせず、自分が≪みんなと同じ≫だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。(P.9)

・自分になんら特別な要求をしない人である。生きるとは、いかなる瞬間も、あるがままの存在を続けることであって、自信を完成しようとする努力をしない。いわば波に漂う浮き草である。(P.9)

・今日、われわれの目撃している大衆はいかなる時代よりも強力ではあるが、伝統的な大衆とは違って、自己の内部に閉じこもっており、満ちたりたと信じ、なにごとにもなんぴとにも従属しないのである ― 一言でいえば、不従順になったのである。(P.77)

・かれらの心の根本的な構造は、閉鎖性と不従順さでできている(P.78)

・大衆的人間は自分が完全であると思う。(P.81)

・生得の、魂の密閉性が、自分の不完全さを発見するための前提条件、つまり、他人との比較を不可能にしてしまうのである。比較するとは、しばらく自己から離れて、隣人のところに身を移すことである。(P.81)

・愚か者は終生そうであって、抜け穴がない。(P.82)

・愚か者は死ぬまで治らない(P.82)

・大衆は(中略)大衆でないものとの共存を望まない。大衆でないすべてのものを死ぬほど嫌っている。(P.91)

・科学者は大衆的人間の原型だということになる。(P.135)

・科学が進歩するためには、科学者が専門化することが必要である。(中略)つまり、研究の領域をせばめなければならなかったために、科学者が、しだいに科学の他の部門との接触を失い、ヨーロッパの科学、文化、文明という名に値するただ一つのものである宇宙の総合的解釈から離れてきた点が、重大なのである。(P.136)

・今日、政治、芸術、宗教、生と世界の一般問題について、≪科学者≫や、またそのあとに控えた医者、技師、金融家、教師などが、いかに愚かな考え方や判断や行動をしているかを、だれでも観察することができる。私が、大衆的人間の特徴として繰り返しあげた、≪人のいうことを聞かない≫、高い権威に従わないという性格は、まさに、部分的な資質をもったこれらの専門家たちにおいて、その頂点に達する。かれらは、今日の大衆による支配を象徴しており、また、大衆による支配の主要な担い手である。(P.140)

 

3. 何故、大衆が支配するようになったのか。

・十八世紀には、すべての人間は、たんにこの世に生を享けたという事実に基づいて、なんらの特殊な資格なしに、基本的な政治的権利を所有しているのだということを、いくつかの少数派の人々が発見した。これが人権とか市民の権利と呼ばれるものだが、厳密にいえば、全ての人間に共通なこれらの権利だけが、実在する唯一の権利であることも、かれらは指摘した。特殊な能力に由来する他の一切の権利は、特権であるとして弾劾された。(P.19)

・民主主義のおかげで生じた、すべての人を平等化する諸権利は、憧れや理想から、無意識の欲求や前提に変じてしまった。(P.20)

・文明は、進歩すればするほど複雑になりむずかしくなる。今日、文明の提出している問題は、ものすごくこみいっている。それらの問題を理解しうるほど知能の発達している人の数は、日一日と少なくなる。(中略)問題の複雑微妙さと知能とのあいだのこの不釣り合いは、もしなんらかの対策を講じなければ、しだいに大きくなり、文明の根本的な悲劇となる。(P.109)

 

4.大衆支配は、何をもたらしたのか

・理想を実現する途方もない能力はおびただしくもっていると思っているのに、いかなる理想を実現すべきかわからない、そういう時代にわれわれは生きているのである。万物を支配しているが、自己の支配者ではない。自分の豊富さの中で、途方に暮れている。結局、現代の世界は、かつてないほどの資産、知識、技術をもっているのに、かつてなかったほど不幸な時代である。(P.47)

・サンディカリスムとファシズムの相の下に、はじめてヨーロッパに、理由を述べて人を説得しようともしないし、自分の考えを正当化しようともしないで、ひたすら自分の意見を押し付けるタイプの人間が現われたのである。(P.86)

・大衆的人間は、議論をすれば、途方に暮れてしまうだろうから、かれの外にあるあの最高の権威を尊重する義務を本能的に嫌うのである。したがって、ヨーロッパの≪新しい≫事態は、≪議論をやめる≫ことである。(P.87)

・野蛮とは、分解への傾向である。だからこそ、あらゆる野蛮な時代は、人間が分散する時代であり、たがいに分離し敵意をもつ小集団がはびこる時代である。(P.90)

 

5.では、どうすれば良いのか

・思想を持つとは、思想の根拠となる理由を所有していると信ずることであり、したがって、理性が、すなわち理解可能な真理の世界が存在すると信ずることである。(P.87)

アインシュタインが、その鋭い総合に到達するためには、カントとマッハに没頭することが必要であった。(P.141)

・ヨーロッパは一つの規範の体系をつくりあげ、その有効性と豊かさが何世紀にもわたって証明されてきた。これらの規範は最善のものではなく、最善とはほど遠いものである。しかし、他の規範が存在せず、姿を見せないあいだは、これが決定的な規範であることは疑いない。この規範を凌駕するためには、どうしてお新しい規範が生まれなければならない。ところが、大衆的民族は、ヨーロッパ文明という規範体系を老朽したと宣言する決意をしたが、これに代わる体系を創造する能力がないので、なにをしてよいかわからず、ただ時間をつぶすために、とんぼ返りをしているのである。(P.171)

・国家は、人間が血のつながりによって決定される自然社会から逃れることに憧れるときにはじまる。血の代わりに、ほかの自然原理をなんでもいいからとりあげてみよう。例えば、言語である。本来、国家はいくつもの血といくつもの言語の混合されたものである。それは、あらゆる自然社会を越えたものである。それは混血的であり、多言語的である。(P.200)

・われわれが国家と呼ぶ現実は、血縁関係で結びつけられた人間たちの自発的な共生関係ではない。もともと離れて暮らしている集団が共同して生活することを強制されるときに、国家が始まる。この強制は、むきだしの暴力ではなく、分散したいくつもの集団に提示された、推進的な計画、共通の課題を前提としている。なによりもまえに、国家は、一つの行為の計画であり、共同作業のプログラムである。それは、いっしょになにかをするようにと人々に呼びかける。国家は、血縁関係でも、言語的統一体でも、地域的統一体でも、居住地の隣接関係でもない。それは物質的、惰性的な、与えられた、限定されたものとはまったく違う。それは、純粋な運動 -なにかを、みんなでいっしょにやろうという意思- であり、そのおかげで、国家という観念は、なんらの物的な条件で制約されないのである。(P.213)

・いまやヨーロッパ人にとって、ヨーロッパが国家観念に変換しうる時機が到来している。それを信ずることは、十一世紀にスペインやフランスの統一を予言するよりも、はるかに現実味がある。西欧の国民国家は、その真の本質に忠実であればあるほど、確実に一つの巨大な大陸国家に結晶していくことであろう。(P.236)

 

引用部分は、以上です。少し長くなってしまいましたが、例えば、オルテガの国家観(P.213)などには、ちょっと感動してしまいます。私としては、オルテガの意見に賛成できる部分も、そうでない部分もあります。ただ、今は、極上の素材を揃え終えた調理人のような気分なのです。引用部分を素材として、これから調理に取り掛かりたいと思っています。

 

<本文献>
大衆の反逆/オルテガ著/中公クラッシックス/寺田和夫訳