文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化認識論(その14) オルテガと三島由紀夫

調べてみますとオルテガ(1883 - 1955)と三島由紀夫(1925 - 1970)が生きた時代は、30年程重複しています。そして、どちらも近代に身を置きながら、中世的な文化に注目し、来るべき現代を見据えていた。その点に注目するならば、この二人には共通点がある。しかし、考えていたことは、少し違っていたように思います。

 

古代・・・狩猟・採集
中世・・・農耕・牧畜
近代・・・工業化
現代・・・情報化

 

まず、オルテガの方から考えますと、彼は「貴族」ということを言っている。これは、大衆に対する反対概念として提示している訳ですが、彼の主張を見て行きますと、必ずしも、中世に実在した貴族を肯定している訳ではない。抽象的な概念として、自律的に思考し努力する人が貴族であるとし、オルテガはこれを肯定しています。しかしオルテガは、貴族の世襲制を否定しているのです。

 

例えば、努力して名声を勝ち得た人がいたとする。中世のヨーロッパ社会においては、その人の子孫が皆、貴族としての階級を構成する訳ですが、オルテガに言わせれば、偉いのは努力をした最初の一人だけであって、その子孫ではない。従って、貴族という階級を設けるのであれば、努力して名声を勝ち得た人の父母や祖父母を貴族として認定すべきではないか。オルテガに言わせれば、そういう制度が中国にあって、そちらの方がいいと述べている。

 

では、オルテガは近代をどう見ていたのか。そもそも、人々には人権というものがある。それが発見されたこと自体は、否定しない。しかし、民主主義に基づき、選挙で選ばれた人が必ずしも努力家であるとは限らない。むしろ、政治家というのは愚かな大衆に過ぎない。そのような大衆が支配する社会というのはいかがなものか、とオルテガは考えている。つまり、オルテガは民主主義に支えられた近代の社会制度についても、疑問を提起している訳です。

 

すなわちオルテガは、中世的な社会制度も近代の社会制度も、その双方を否定している。

 

次に、三島由紀夫の場合を考えてみます。まず、三島は病弱だった幼少期に、祖母に連れられて歌舞伎や能を鑑賞したと言われています。このような経歴から、中世的な文化に惹かれていったことは、想像に難くありません。三島の文体の秘密も、ここら辺にあるような気がします。また、三島文学の特徴は、ある美しい何かがあって、それが滅びて行くところにある。それは登場人物であったり、金閣寺だったりする訳ですが、ここら辺の美意識というのは、日本の伝統から来ている。桜は散るから、美しい。そういう美意識が日本文化の伝統の中にある。そもそも、言葉というものは伝統そのものだとも言えます。三島は伝統、換言すれば「時間」の中に生きたとも言える。

 

そう言えば、三島と同時代を生きた川端康成は、ノーベル文学賞の受賞に際し「自分の文学は日本の伝統に支えられている」というようなことを言っていました。川端も三島も、日本の伝統を重んじていたのです。

 

このように考えますと、三島は中世的な文化を肯定していたことになります。そして、伝統を破壊する近代については、これを否定した。

 

中世と近代の双方を否定したオルテガ。中世を肯定して、近代を否定した三島。この二人の本質的な相違点が、ここにある。但し、「大衆の反逆」からの次の引用箇所などを読みますと、オルテガと三島は、似たような人間観を持っていたとも思うのです。

 

- 創造的な生は、厳しい節制、偉大な徳性、尊厳の意識をかきたてる絶えざる刺激を前提とする。創造的な生はエネルギッシュな生であり、それは、人が次の二つの状態のいずれか一方にあるときにだけ可能である。つまり、自ら支配するか、あるいは、だれかが支配し、われわれが完全な支配権を認めている人の支配する世界に住んでいるか、いいかえれば、支配しているか、服従しているか、この二つである。しかし、服従するとは我慢することではなく -我慢するとはいやしくなることである-、それとは逆で、支配する人を尊敬し、その人の命に従い、その人と連帯責任を負い、その人の旗のもとに熱意をもって加わることである。 - (P.187)

 

そして、三島が選んだ「その人」とは、日本の天皇陛下だった。

 

ところで三島の死については、それが政治的な死だったのか、文学上の死だったのか、という論議がありました。吉本隆明は「政治的な死」だったと述べていたように記憶しています。随分と馬鹿なことを言うなあと、呆れてしまったのを覚えているのです。ただこの問題、未だに時々考えるのですが、最近はちょっと違った意見に傾いて来ました。

 

三島の心の中を想像してみますと、3つの領域があったのではないか、と思うのです。一つには、文学の領域。これは当然ですね。そして、二つ目としては、政治の領域。当時の時代背景を考えてみますと、60年安保と70年安保というのがあった。これは日米安全保障条約の改定を契機とした、強烈な学生運動だった訳です。三島はこれらの左翼的な動きを同時代に生きる文人として、見ていたはずです。三島が自決したのも、正に1970年だったことを考えますと、三島が政治的な事柄に注目していたことは、間違いありません。そして、文学的な領域とは個人的なものであり、政治的な領域とは、反対に社会的であると言えます。この相反する2つの領域の狭間で、三島は苦悩していたのではないか。ただ、それは三島に限ったことではないように思います。誰にでも公私の別というものがある。

 

そして、三島はこの相反する2つの領域を統合するような結節点を措定していたように思うのです。それが「行動」ということです。すなわち三島の死とは、政治的な領域と文学的な領域の接点である「行動」という領域において、決行されたのだと考えるべきだと思うのです。

 

三島は自ら「行動学入門」という本を出していますが、その背景には、武士道としての葉隠れや陽明学の影響を見て取ることができる。

 

文学的領域・・・個人的
政治的領域・・・社会的
行動・・・・・・個人と社会を結ぶ領域

 

人間とは「状況内存在」であって、個人は社会や国家と隔絶した所で生きて行く訳にはいかない。この点、オルテガは次のように述べています。

 

- われわれが生きているというのは、われわれが種々の特定の可能性の環境のなかにいる、というのと同様である。この環境を、≪状況≫と呼ぶのが普通である。生はすべて、≪状況≫つまり世界の内部に自己をみいだすということである。というのはこれが≪世界≫という概念の本来の意味だからである。世界は、われわれの生の可能性の総計である。したがって、世界はわれわれの生を現実にとりまくものである。 - (P.43)

 

やはり、オルテガと三島の人間観というのは、共通項を持っている。

 

さて、上記の通り人間は「状況内存在」なので、時間的、空間的な制約の中で生きるしかない。その意味で、誰しも限界を持っている。そしてこの限界は、天才と呼ばれた三島にもあった。

 

三島の文学は、日本の伝統を基盤としていたのであって、これは多分に中世的だと言える。そして、三島の政治的な主張は、まず、日本はアメリカから自立しろという点にあって、目指すべき国家の形というのは、天皇を中心とした、言わば明治憲法に示されているような国家像だった。更に、三島が傾倒した武士道も、その起源は中世にある。どこまで行っても、三島の思想は中世的だと言えると思うのです。それのどこが悪い、と言う人もいるでしょうが、この点、私の認識論に照らして言えば、三島の認識方法というのは「物語的思考」に留まっている点を指摘したいと思うのです。三島はあくまでも時間の流れに従って、伝統や言葉を守ろうとした。そして、「美しいものは滅びなければならない」というテーゼに行き着く訳ですが、何故、そうなのかということを論理的に説明することができなかった。「何故」、それを説明するのが論理であって、テーゼそれ自体で論理を構成することはできません。これは中世的な文化の特徴であって、論理に至らない。

 

三島は何故、自決したのか。これは現代においても、多くの人々にとって謎となっている訳ですが、それは三島自身が論理的に説明していないので、誰にも分からない訳です。この点が三島の限界であると、私は思います。

 

余談になりますが、そもそも武士というのは、人殺しを職業とする人たちの呼称です。斬るか斬られるか。そういう緊張感の中に生きていた訳で、死に対する恐怖と戦うのが、彼らの人生だった。そのような恐怖に打ち勝つため、逆説的に、いざという時は迷わずに死んでしまえ、というのが武士道だと思います。葉隠れの中には、「只今がその時、その時が只今」という言葉がありますが、そういう思想なのです。このような思想によって、現代に生きる私たちが救われるかと言えば、そんなことはない。私は誰かを殺したくはないし、誰かに殺されたくもない。そんなことには、関わりたくもない。現代人であれば、嫌、中世の人々だって、本当はそう思っていたはずです。だから、どうすれば殺し合いや戦争を止めることができるのか、という所から出発したのがヨーロッパの思想であって、それが日本国憲法を貫く平和主義につながっている。

 

このように述べますと、私が三島を全面的に否定しているように感じる方もおられると思いますが、そうではありません。私は、三島の政治的な思想と行動学を否定しているのであって、彼の文学作品までを含めて否定しているのではないのです。芸術作品とは、完成した瞬間に作者の手を離れる。作品と作者とは別物だと私は考えています。例えば、極悪人が美しい絵を描いたとする。その絵は極悪人が描いたものだから悪い絵だ、と言えるでしょうか。そんなことはありません。美しい絵というのは、それだけで芸術上の価値があるのであって、作者の人格とは離れた所に位置するものです。そもそも、極悪人や犯罪者の心の中にだって、美しい部分がないとは言い切れません。皆様には、是非、これからも三島の文学作品に接していただきたいと思う次第です。

 

話をオルテガに戻しましょう。

 

「大衆の反逆」におけるオルテガの最大の功績は、民主主義がベストではないことを指摘した点にあると思います。民主主義と言えば、聞こえが良く、今日においてもその悪口を言うのは、通常、憚られます。しかし、民主主義というのは政治的な権力を愚かな大衆に与えることです。愚かな大衆は、愚かな政治家を選びます。現在の日本の総理大臣を見れば、これはもう疑う余地がありません。中世の君主制ファシズムに比べれば、民主主義の方がベターではある。しかし、民主主義といえども、それはベストの選択ではない。では、ベストの選択は何かというと、未だ人類はその答えを見つけていない。

 

最後にオルテガの限界について、述べておきたいと思います。

 

結局、世界はどういう方向に向かうべきなのか。この問題について、オルテガはヨーロッパ中心主義的なことを考えていた。かつて、ヨーロッパは世界を支配していた。そして、ヨーロッパの思想家たちは、「理性」を持っていた。しかし、残念なことにアメリカがその地位についてしまった。アメリカは国土が広く、人口も多い。従って、国境を超えることなく人や物を移動させることができる。このような経済的な利点を持っているから、アメリカが強くなったのだ。そうであれば、ヨーロッパの小国は合体し、アメリカに対抗すべきだ。

 

オルテガは、概ね、上記のように考えていたようです。実際ヨーロッパは、EEC、EC、EUと、その連携を深めて来た。このように集団を大きくすべきだという発想は、カントの影響があったものと推測されます。しかし、集団というのは大きくすれば良いというものではありません。実際、現在ブレグジットが進行中です。20年程前でしょうか、自動車業界では「600万台クラブ」という言葉が流行っていました。これは、年間生産台数が600万台を超えないと、その自動車メーカーは生き残れない、ということを意味していました。ところが最近では、「1千万台の壁」ということが言われています。これは、年間生産台数が1千万台を超えると、企業のガバナンスが効かなくなるという意味です。人間の集団というのは、小さすぎても、大きすぎてもダメなんだと思います。

 

また、この点は三島にも共通していますが、オルテガの視界には「古代」が入っていない。世界の思想家たちが、無文字社会の文化、古代の文化を意識するようになったのは、やはりレヴィ=ストロースが「野生の思考」(1962)を発表した後なのだと思います。これによって、ヨーロッパ中心主義は木端微塵に吹き飛ばされたのです。

 

ランダムに読書を続けていると、思わぬ発見をすることがあります。これも楽しみの一つです。