少し話は前後しますが、サルトルの実存主義についても、少し述べておきましょう。第二次世界大戦中、フランスはナチスドイツに占領されていました。戦後、フランスはパリの開放に酔いしれたそうです。しかし、ナチスドイツの悪行の数々や、広島と長崎に投下された原爆とその被害などに関する情報が出回り始めると、次第に「人類の希望」について語ることが無意味に思われてきた。そういう、厭世的な時代の雰囲気を巧みに取り上げ、人間は「自由であることを宣告されている」と主張したサルトルが脚光を浴びることになりました。人間としての存在を考える、人間には選択の自由がある、と考えるのが実存主義だと思います。
私の若かりし頃、実存主義という言葉はとても流行っていました。近代の日本文学も、実存主義的な傾向を帯びていたように思います。
例えば、ジャングルの中で集団からはぐれた若い米兵と遭遇する。彼を撃つか否か。そういう決定的な条件において、迫られる決断というものがある。(俘虜記/大岡昇平)船が難破し、食料の枯渇した極限状況において、人肉を食してでも生き延びるか否か、そういう悲劇もある。(ひかりごけ/武田泰淳)これらの作品に接する時、読者は「自分だったらどうするのか」という問いに直面せざるを得ない。
つまり、実存主義や近代の日本文学においては、「私」ということが重要視されていたのだろうと思います。
他方、分析心理学のユングは、自ら統合失調症を患う。そして、「私」と向き合いながら、自らの心の中に普遍的なイメージのあることを発見していく。それが元型であって、集合的無意識という概念に結実する。(ユングは、レヴィ=ストロースよりも少し前なので、分類上は「近代」ということになるでしょうか。)
それが構造主義のレヴィ=ストロースになると、「私」というものが登場しない。彼はいきなり、人間を集合体として見ているように思います。神話研究における彼の態度は、神話を作り出した個々人にはまるで注意を払っていない。もともと、神話というのは語り継がれるものであって、特定の個人が創作するものではない。ちょっと、まとめてみましょう。
実存主義/近代日本文学 ・・・ 個人(私)に注目
分析心理学/ユング ・・・・・ 個人(私)から出発し、集団に至る。
構造主義・・・・・・・・・・・ 個人には注目せず、集団のみに関心を寄せる。
実際、レヴィ=ストロースはその主著である「野生の思考」において、徹底したサルトル批判を行っています。そして世間は、実存主義ではなく、構造主義に軍配を上げたのでした。
文献5は、次のように述べています。
- これらの(構造主義の)思想家に共通してみられるのは、戦後の実存主義に対抗しながら、人間の自由な決断によっては左右されない要素、そのような決断そのものを可能にする条件、決断が生み出されるメカニズムなどを、主体としての人間とは別な場所に探そうとする傾向である。構造主義とは、主体の概念を否定しながら、人間についての新しい考察を可能にした方法だったと言えるだろう。-
この点、文献4にはレヴィ=ストロースの思想を称して「集合的な思考」であるという一節があります。ユングの「集合的無意識」に対するレヴィ=ストロースの「集合的な思考」。何故か、感慨深い感じがします。
ここまで来ますと、現代思想は構造主義において決着を見たと言いたくなりますが、果敢にもジャック・デリダが異議を申し立てる。文献4によれば、デリダのレヴィ=ストロースに対する批判の骨子は、次のようなものだそうです。
人間を主体として世界の中心に置き、言語は主体の自由になる、という思想がある(フッサールの現象学)。しかしそれはパロール(話し言葉)を中心に考えるから、そうなるのであって、むしろエクリチュール(書き言葉)について考えるべきである。エクリチュールには、主体の自由にならない“物質性”があって、主体の目の届かないところでも、壊れないで存在している。このことを頭に入れると、人間が主/言語が従、ではなくて言語が主/人間が従、と言わなければならない。レヴィ=ストロースは、文字は後から社会に持ち込まれたと見るようだが(後成説)、それでは、言葉がもともと持っているエクリチュールの働きを見ないことになる。
確かに、レヴィ=ストロースの方法論は、パロール(話し言葉)に注目したソシュールから拝借しているので、デリダの主張にも一理あるように思います。ただ、文献4の著者である橋爪氏は、デリダによるレヴィ=ストロースに対する批判は当たらない、と考えている。
このデリダを筆頭格として、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥールーズが、ポスト構造主義の3人衆と呼ばれているようです。ポスト構造主義の主張について、文献5は次のように述べています。
- 構造主義は、さまざまな現象から“隠された構造”を取り出すというのがうたい文句だが、その現象の扱い方はかなり恣意性を許すものだ。そのため、千差万別の構造についての解釈が登場し、さまざまな論者がこれこそ“隠された構造”だと言いあうような傾向が現れることになる。
(中略)ポスト構造主義における最大の思想的源泉は、ニーチェである。
(中略)ポスト構造主義の社会理論が、現代社会をいわば自動増殖する支配のシステムとして描き出したことはよく知られている。しかし、この像は社会批判の観点は保障するけれど、いかに社会を変革しうるかについての原理論を提出できないうらみがあった。-
上記の通り、ポスト構造主義に対する評価は、色々あるようです。私自身はまだ、デリダやフーコーの著作を読んでいないので、論評することができません。
まずはギリシャ哲学があった訳で、以下に流れを記してみます。
・ギリシャ哲学
・啓蒙思想
・ドイツ観念論
・実存主義
・構造主義
・ポスト構造主義
(参考文献)
文献1: 文化とは何か/テリー・イーグルトン/松柏社/2006
文献2: 文化進化論/アレックス・メスーディ/NTT出版/2016
文献3: 文化的進化論/ロナルド・イングルハート/勁草書房/2019
文献4: はじめての構造主義/橋爪大三郎/講談社現代新書/1988
文献5: はじめての哲学史/竹田青嗣 西研(編)/有斐閣アルマ/1998
文献6: 哲学中辞典/尾関周二他編/知泉書館/2016