ポスト構造主義は、1966年にデリダがアメリカにおける講演で、レヴィ=ストロースを批判した所から始まりました。そして、1979年にフランスの哲学者であるリオタールが、「ポストモダンの条件」という本を出版します。その中でリオタールは、次のように述べます。(文献5)
- 近代においては、学問は「真理」に近づくものであって神話を語ることとはちがうと信じられてきた。しかしいまでは、複数の異質な知があるのであって学問が特権的地位をもつわけでもない、とだれもが感じている。西洋近代は、学問が発展し真理へ近づくことによって人間性と社会の在り方もますます進歩していくという「大きな歴史の物語」を掲げていたが、そのような真理と進歩の物語を信じた近代はもう終わったのである。-
リオタールの上記の言説がポストモダンの立場表明となったようです。そして、ポストモダンは、建築をはじめとする芸術文化の領域における機能主義的モダニズムからの離脱をもたらした。そして、思想的にはポスト構造主義と同義であると解釈されています。(文献6)
ポストモダンという思想的な潮流が生まれた背景としては、次の3要素が考えられています。(文献5)
1. 第1次・第2次世界大戦の衝撃
2. マルクス主義の失敗
3. 西洋中心主義に対する批判
リオタールが述べた「大きな歴史的物語」という言葉の意味が、今一つはっきりしないように思いますが、これは多分、ヘーゲルやマルクスの思想を指しているのだろうと思います。
さて、ここからは少し私の推測や考え方を記してみたいと思います。
ポストモダン以降、思想家がいなくなった訳ではありません。しかし、その興味の対象は拡散していく。一つにはレヴィ=ストロースが神話の構造を明らかにしようと試みたことと関係があると思うのですが、文章を読んで、そこから構造を解析しようとする動きが生まれる。例えば、ロラン・バルトは構造主義の思想家ですが、文芸批評に向かった。バルトは「作者の死」ということを言っていて、文芸作品の作者が誰で、その人がどういう人だったのかということには、意味がないと考えた。構造主義で考えますと、人間というのは社会的な制約の中で思考している訳で、文芸作品も例外ではない。してみると、文芸作品のテクスト(言語記号によって構築される記号体。テキストデータと同じような意味だと思います。)が重要になって来る。そして、このテクストを解析しようとして文学に向かう潮流が生まれる。
同じようにテクストを解析しようとして、マルクスの資本論に取り組んだのが、アルチュセール。あまりに重い課題に取り組んだアルチュセールは、やがて精神を病み、奥さんを殺してしまったそうです。
また、ポストモダンから、ジェンダー論に向かう人たちも出てきた。これも言語学や記号論との関係があって、言語による認識はカテゴリーごとに区別をするところに特徴がある。だから、男だ、女だという言語的な問題に遡って考えなければ、ジェンダー間の差別は解消されない。そう言えば、英語圏ではかつて結婚している女性を未婚女性と区別して、ミセスと言っていましたが、近年は、区別せずにミズと言いますね。なるほど、時代的には近代に該当する記号学のパースが、今日においてもその影響力を失っていないことの理由が分かります。
すなわち、ポストモダンと一口に言っても、その研究対象は思想のみならず、建築、文学、記号論、ジェンダー論などへと拡大した訳です。
但し、ポストモダン(=ポスト構造主義)というのは、あくまでも「No!」と言っているに過ぎない。たった一つの真理など、存在しないよ。人間は進歩などしないよ。機能中心主義もダメだよ、といった具合に。つまり、「ではどうすればいいのか」という解決策を提示していない。その結果、「どうせ考えたって分かることなんて、何もないのさ。だったら、考えるなんて面倒なことは止めてしまおう」ということになる。
ざっくり言いますと、1980年頃から今日に至る約40年間、思想は停滞し、人間の頭の中は空っぽになった。ただでさえ愚かな大衆は、ますます愚かとなり、人間の認識能力は絶望的に低下した。科学的技術は進歩したものの、先進諸国における国民の知能は低下し、世界的な規模で、政治や経済、そして文化が危機に瀕することとなった。一部の人たちは、なんとか出口を探そうともがいている。しかし、未だにその糸口は見つからない。「大衆の反逆」(オルテガ)の訳者である寺田氏は、次のように表現している。
- すなわち現在こそまさに大衆化社会のどん詰まりである、と。大衆化社会の成熟と言わず、なぜどん詰まりと言ったかといえば、それを成熟、完成、終末と呼ぼうが「どん詰まり」はどう気取ろうとどん詰まりには違いないからである。-
文献4の著者である橋爪氏は、次のように述べています。
- 日本人に必要なのは、ポストモダンじゃなくて、むしろ、自前のモダニズムだと思う。
(中略)思想なしでも、体制は十分しっかりやっている。これからも、やっていくだろう。いまどき思想をもつなんて、人生の足手まといになるだけだ。近代主義はもう、なしですまそう。戦後思想を屑払いに出そう。既成の権威やしがらみと関係なく、自分たちの考えたいこと、気に入ったことだけを考えていけばいいじゃないか。こういう密かな思いが噴き出して、ポストモダンが人びとに迎えられたような気がする。
(中略)なるほどポストモダンもいいだろう。しかし、いくらこれまでの思想に関係ありません、という貌(かお)をしてもそうは問屋がおろさない。
(中略)だからポストモダンに行くのではなく、あべこべにもういちど近代主義にさかのぼっていくというのも面白いんじゃないだろうか。 -
上記の指摘は、大変示唆に富んでいると思います。日本は、産業面では近代を経験していますが、思想面では未だに「近代」を経験していない。だから、憲法の意味さえ理解できていない。ただ、思想面での歴史を考えますと、他国においてもいくつかのパターンがあるように思います。そして、古代から現代までの思想史をフルコースで経験しているのは、実はヨーロッパだけではないか。
ヨーロッパ・・・古代、中世、近代、現代
日本には近代がない。そして、共産主義も宗教と同じようなものだと解釈すると、中国にも近代がない。
日本、中国・・・古代、中世、現代
アメリカにはインディアンという古代文化を体現する人々がいますが、マジョリティである白人たちは、古代文化を持っていない。ただ、独立戦争を経ているので、近代の経験はある。
アメリカ・・・中世、近代、現代
なお、私の意見としては、近代思想のホッブズ、ロック、ルソーらの社会契約論の基盤は、キリスト教に負うところがある。宗教的な差異があって、日本人がこれを理解するのは、難しいのではないか。そして私が思うのは、古代から現代に至るまで、全ての思想史を背負って、総合性を目指した新たなアプローチが必要ではないか、ということなのです。そして、それが文化論であるべきではないかと思うのです。
なるほど、近代思想が考えたように人間の社会というのは「進歩」しない。しかし、私たちの社会は変化し続けている。この変化というのは、「進化」ではないのか。そう考えたのが「文化進化論」(文献2)です。
確かに文化とは何か、それを定義することは困難だ。しかし、文化という切り口で何かを考えることはできないか。そういう問題を提起しているのが、文献1です。
統計的な手法を用いて、人々の価値観や文化の変化を分析することが可能ではないか。そう考えたのが、文献3ということになります。
そして、素人ながら私は、文化の領域は5つあるという説を考え出した。
これらの動きというのは、実は、どこかでつながっているような気がします。ポストモダンの思想家たちは様々なジャンルに挑戦してきた訳ですが、そういう方法とはまるで異なる方法で、文化という現象をとらえようとする動きがある。ポイントは、総合性だと思います。科学のように細密な区分を設けない。認識方法としては、記号によって分解しない。
例えば、象という動物を記述してみましょう。
1. 象は大きい。
2. 象の鼻は長い。
3. 象には牙がある。
どれも正しい。従って、真理は複数ある。但し問題は、いずれの記述によっても象の全体が見えてこないところにある。但し、象という動物は実際に存在する。すなわち、真理は存在する、と私は思う訳です。
忘れないように、オルテガの言葉を引用しておきます。
- 私は私と私の環境である。もしこの環境を救わないなら私をも救えない。-
そう言えば、オルテガはニーチェの影響を受けていたという説があるようです。
(参考文献)
文献1: 文化とは何か/テリー・イーグルトン/松柏社/2006
文献2: 文化進化論/アレックス・メスーディ/NTT出版/2016
文献3: 文化的進化論/ロナルド・イングルハート/勁草書房/2019
文献4: はじめての構造主義/橋爪大三郎/講談社現代新書/1988
文献5: はじめての哲学史/竹田青嗣 西研(編)/有斐閣アルマ/1998
文献6: 哲学中辞典/尾関周二他編/知泉書館/2016