文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

スリスリ猫の花ちゃんと私の認識論

このブログで検索を掛けてみますと、私が初めて野良猫に触ったのは、2018年4月だったことが分かります。あれから2年。

 

YouTubeで猫動画を見ておりますと、次第に猫の気持ちが分かってくる。すると、猫がとても身近に感じられるようになるのです。全ての記号や文化には、それを解釈する能力が必要です。解釈できなければ、私たちはそれらの記号や文化との間に関係性を構築することができません。パースが言った解釈思想(interpretative thought of a sign)とは、そのことを示している。つまり、猫を好きになるか否かという分岐点は、猫の気持ちを理解できるかどうか、という点にある。

 

すっかり猫好きになってしまった私ではありますが、猫を飼うことはできません。居住しているマンションでは、ペット禁止になっているのです。それに、最近はキャットフードの質が向上しており、猫の寿命も延びている。かつては10年程度だったそうですが、最近は20年以上生きる猫も少なくない。つまり、仮に今から子猫を飼ったとすると、猫より私の寿命の方が先に尽きてしまう可能性が高い訳です。それでは、猫に申し訳ない。

 

でも、猫と触れ合ってみたい。そうだ、野良猫がいる。

 

あるコンビニがあって、その裏の駐車場の更にその奥に、野良猫の生息地があるのです。なんとか近寄ろうとしてみるのですが、野良猫は警戒心が強く、逃げてしまう。そうだ、餌を与えてみよう。最初は食べ残しのパンなどを与えてみたのですが、猫たちはそれを食べない。どうしたものだろうかと思案する日々が続いたのですが、ある日、コンビニの棚の一番下に、キャットフードが置かれていることに気付いたのでした。それを与えてみると、野良猫たちは夢中になって食べた。

 

これは面白いということで、キャットフードを与え続けていると、やがて一匹の野良猫が、私になついて来たのです。彼女には家もなければ、戸籍もない。しかし、折角この世に生を受けて、懸命に生きているのであって、きっと誰かにそのことを知ってもらいたい、認識してもらいたいと思っているに違いない。そう思った私は、彼女に花ちゃんという名前を付けることにしたのです。

 

花ちゃんは、私を見かけると寄って来て、スリスリと体を擦り付けてきます。すると、彼女の体毛が私のジーンズにべったりと張り付いてしまうのです。真冬の今は左程でもありませんが、春先の換毛期には、帰宅後、掃除機で取り除かなければならない程なのです。

 

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スリスリ猫の花ちゃん

一般に、猫がスリスリをするのは、その対象に自らの匂いを付けている、すなわちこれは自分のものだと主張するのが目的だと言われています。従って、花ちゃんは私を独占したいと思っている。そういう解釈が成り立ちますが、花ちゃんの場合は、停車中のクルマや電信柱のようなものにまで、スリスリをするのです。体が痒いのではないだろうか、などと思ったりする訳ですが、本当のことは分かりません。

 

ところで、花ちゃんは私が好きなのか、私が持って来るキャットフードが好きなのか。そんなことも考える訳です。キャットフードが私と花ちゃんの間を介在しているとも言えます。

 

私 - キャットフード(介在物) - 花ちゃん

 

また、花ちゃんにしてみれば、最初に登場するのは私であって、その後にキャットフードにありつくことができる。すると、花ちゃんにしてみれば、私はキャットフードを表象する記号なのかも知れません。

 

花ちゃん - 私(記号) - キャットフード

 

いずれにせよ、花ちゃんは私とキャットフードの双方を区別して認識していないのではないでしょうか。多分、どちらも好きなのだと思います。

 

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キャットフードを食べる花ちゃん

立ち去ろうとする私に、花ちゃんがついて来てしまうことが何度かありました。そのため最近は、花ちゃんがキャットフードに夢中になっている間に、ひっそりと立ち去ることにしています。ちょっと切ない別れなのです。

 

ところで、ジャック・デリダの「エクリチュールと差異」ですが、苦戦しています。これはとても難しい。まだ諦めてはいませんが。