文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化認識論(その26) 論理的思考の限界

本日、近所のドラッグストアへ行きましたら、トイレットペーパー等、平時の3分の1程度ではありますが、在庫があり、販売されていました。皆様、冷静に行動しましょう。

 

さて、「認識の6段階」など、人間の認識方法、認識能力ということを考えますと、その最高峰に位置するのは「論理」とか「論理的思考方法」にある。そして、これらの認識方法を総動員しなければ解決できない問題というのが、現代社会には存在する。その一つの例として、前回の原稿ではリスクマネジメントについて検討してみました。そして、リスクマネジメントという考え方、思考方法は、新しい何かを生み出す能力において限界があると考えた訳です。

 

そして私たちの社会は、論理的思考の頂点に位置する「憲法」というものを持っている。そこで、憲法に限界はあるのか、あるとすれば何処なのか、ということを含めて、検討してみたいと思います。

 

結論から申し上げましょう。憲法には、人を感動させる力がない。それが憲法の限界だと思います。但し、それは憲法の役割ではない、という反論もあるでしょう。では、もう少し普遍化した言い方をしましょう。論理的思考方法には、人を感動させる力がない。それが限界だと思います。

 

ところで、皆様は憲法を読んで感動したことはありますか? 私は、あります。前にも書きましたが、それは12条の前段です。

 

12条(自由・権利の保持の責任とその濫用の禁止)(前段)
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。

 

では、何故、私が12条に感動したのか。それは、12条が国民、すなわち私自身に語り掛けているからではないのか。そう思って憲法を読み返してみますと、憲法が直接国民に呼び掛けている条文は、この12条しかない。言うまでもなく憲法とは、権力者を拘束するものであって、それは99条にそう書いてある。

 

ちなみに「おしどりマコ」さんは、憲法97条に感動したと言っていました。

 

97条(基本的人権の本質)
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 

はっきりしませんが、こちらの条文は、やはり権力者に向けて書かれたものだろうと思います。

 

また、憲法が提示している価値観には、いくつか水準があるようにも思うのです。具体的には、次の3種類。

 

絶対的価値観
相対的価値観
法律への委任

 

絶対的価値観とは、「ここだけは譲れない、この価値観は絶対的なものであって、未来永劫これを変更することはできない」とするものです。具体的には、平和主義、国民主権基本的人権の尊重の3項目を挙げることができます。平和主義と国民主権について、憲法の前文には、次のように記されています。

 

(前文)
これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 

そして、基本的人権の尊重については、第11条に規定されています。

 

11条(基本的人権の享有)
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。

 

このようになっていて、平和主義、国民主権基本的人権の尊重の3項目は、憲法の基本原則であるとも言われております。なるほど、これは素晴らしいと思う訳ですが、一方、19条には次のように書かれています。

 

19条(思想及び良心の自由)
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 

こちらも素晴らしいと思うのですが、では、基本原則の3項目に反するような思想を持った場合は、どうなるのか。こんなことを言いますと、「屁理屈を言うな!」という声が聞こえてきそうですが、現実問題として「他国が攻めてきたらどうするのか」という9条に関わる問題がある訳です。

 

次に、憲法には基本原則の3項目ほど自信がある訳ではないが、一応、こうだろうと考えている「相対的価値観」も記されています。例えば、26条。

 

26条(教育を受ける権利、教育を受けさせる義務、義務教育の無償)
① すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

 

なんとなく読んでおりますと、見過ごしてしまいがちですが、ちょっと待って欲しい。「その能力に応じて」とは、どういうことなのか。人間の能力というのは、オギャーと生まれてきた時点では、全て等しいのではないか。能力の違いというのは、生まれた後の環境によって、左右されるのではないか。私は、そう思います。従って、「その能力に応じて」という箇所には賛成できません。

 

また、27条には次のように記載されています。

 

27条(勤労の権利及び義務、勤労条件の基準、児童酷使の禁止)
① すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。

 

これなんか、ちょっと酷くないですか? 私事にて恐縮ですが、私などは現役時代、37年の長期にわたり馬車馬のように働いてきたのです。心身共に疲れ果て、今は、年金暮らしをしています。そんな私にまで、憲法は働けと言うのか! あまりに腹が立ったので、憲法の教科書を読んでみたのですが、この問題については、何も語られていませんでした。

 

怒りが込み上げてきたついでに言いますと、憲法には政府の説明責任についても規定すべきだと思います。政府というのは、主権者である国民が選んだ議員と役人によって構成されている。彼らは、税金によって生活している訳です。当然、現在の国家が抱える課題は何なのか、それらの課題にどう対処していくのか、例えば1年間取り組んだらその成果はどうだったのか、意思決定を行ったら何故、そのような決断を下したのか、説明する義務があるはずだと思います。安倍政権は、まったくこれらの説明責任を果たしていないじゃありませんか。更に、環境問題、安楽死尊厳死の問題など、私たちが直面している課題は少なくない。憲法はこれらの問題についての指針を定めるべきではないでしょうか。

 

少し落ち着いて、話を戻すことにしましょう。

 

憲法の名宛人は、権力者や役人であって、一般の国民ではない。だから普通の人は、憲法に興味を持ったりしないし、ましてや憲法を読んで感動したりすることもない。では、日本に暮らす一般の国民は、どのような思想を持てばいいのか。どのような価値観を醸成すべきなのか。その点、憲法は「自由である」と述べるに留まる。確かに、それがいいのかも知れません。思想の自由は大切だ。権力者や、その他の誰かにマインド・コントロールされるのは困る。しかし、日本に暮らす人々が参考にすべき、価値観の手引きのようなものも必要ではないか、と思うのです。それは、時代を中世に戻すような教育勅語のようなものであってはなりません。宗教の経典でもありません。古代ギリシャから脈々と続いて来て現在の民主主義に至った思想の系譜を反映させたものであるべきです。

 

しかし、私たちの文化は、未だそれを持っていない。

 

何故か。それは多分、私たちが認識すべき大切なことについて、ほとんど何も分かっていないからではないでしょうか。

 

では、まとめてみましょう。

 

1. 人間には、様々な認識方法や段階があるが、その最高峰に位置するのは「論理的思考」であり、人びとはその段階を目指すべきだ。
2. 「論理的思考」は、社会制度や法律を作り、政治を遂行し、説明責任を果たすためには不可欠である。また、リスクマネジメントを行う際にも要求される能力である。
3. 但し、「論理的思考」は新しい何かを生み出し、直面する課題を解決しようとする際には、あまり有益ではない。
4. 「論理的思考」は、人々に感動を与えない。
5. また、「論理的思考」によっても、大切なことの大半は、未だ、認識されていない。

 

では、新しい何かを生み出し、人々に感動を与えるものは何か、と考える訳ですが、それは遊びであり、芸術ではないでしょうか。クルマに例えて考えますと、「論理的思考」というのはヘッドライトやハンドルに該当する。そして、遊びや芸術とは、クルマを前進させるための原動力を生み出すエンジンに該当する。どちらも必要で、その総体が文化ではないか。