文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化認識論(その28) 発想する力

過去の学者たちは、古代人や無文字社会の人々と現代人とでは、思考方法が異なると考えてきました。浅学の私もそう思ってきたのですが、本当にそうでしょうか。例えば、フランスの哲学者であるレヴィ=ブリュル(1857-1939)は、未開の人々の心性について「融即律」であると主張しました。

 

「“融即”とは、原初の人間が持っていた心性のことである。(中略)レヴィ=ブリュルは、人間が動植物と同一視されるのは融即律に基づくものであり、それは前論理的な未開心性であると説いた。」
(参考文献:改訂新版 文化人類学放送大学教育振興会/2014)

 

また、民俗学者折口信夫は、未開の心性を「類化性能」と呼び、これは物事の類似点に着目するものであり、現代人の心性は「別化性能」で、これは物事の差異に着目するものだと主張しました。

 

未開・・・類化性能・・・類似点に着目
現代・・・別化性能・・・差異に着目

 

なるほど、そんなものかと思って、私もこの考え方に従ってきた訳ですが、どうもおかしい。例えば、人間が100人いたとして、これをいくつかのグループに分けようとする。それは性別によるかも知れないし、身長によるかも知れない。そして例えば、この30人は同じグループにしよう。この30人はとても似ていると考えたとする。しかし、それは同時に、その30人が他の70人とは異なっていると認識しているからに他なりません。結局、類似点に着目するということと、差異に着目するということは、本質的に同じなのではないか。

 

また、無文字社会の人々は、植物の微妙な差異について、学者なみの知識を持っていたに違いないのです。例えば、毒キノコを食べると大変なことになる。ある植物について、食べられるかどうか、そのことを彼らは命がけで認識していたのです。

 

レヴィ=ストロースは、ブリコラージュということを言っていて、これは無文字社会の人々は、身の回りにあるあり合わせの物で何かを作る、ということです。反面、現代人は専用の物を用いる。そういう主張だと思うのですが、これにも疑問がある。

 

現在、私たちは新型のコロナウイルスの脅威に晒されている訳ですが、未だ、特効薬は見つかっていない。しかし、一部の重篤化した患者には、エイズ治療薬が有効であることが発見されています。これって、ブリコラージュと同じではないでしょうか。現代人だって、身近にある何かで、直面する課題に対処しようとしている。

 

私を含めて、皆、間違っていたのです! そんなことを考えながらネットを見ていますと、次の情報に行き当たりました。レヴィ=ブリュルは、晩年、自らの説を撤回し、次のように述べたそうです。

 

「未開心性と我々の心性の間に根本的な差異はない」(1949年)

リュシアン・レヴィ=ブリュル


http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/130105Levy-Bruhl.html

 

やはり、そうだったのか! ここで私は、打ちのめされたのでした。

 

このブログをお読みいただいております皆様には、心の底からお詫び申し上げると共に、訂正させていただきます。古代人や無文字社会の人々と、現代に生きる我々との間に、認識方法、思考方法に関する根本的な違いはない。今後は、そのような前提で記事を掲載させていただきます。

 

但し、本質的な違いはないものの程度の差はあって、例えば、私が提示した「認識の6段階」で行きますと、古代人は原理を発見し、論理的な帰結に至るという段階には至らなかったものと思います。あくまでも程度の差ですが。

 

さて、私たちが日々食べている食品は、組み合わせによって成り立っているということを書きましたが、考えておりますと、そういう例は枚挙にいとまがない。例えば、カツカレーというのもある。これは、とんかつとカレーの組み合わせ。そして、カレーうどんもあるし、カレーラーメンだって存在する。桜餅だとか、おでんの種にはウインナー巻きというのもある。切りがないので、ここら辺で止めておきますが、組み合わせによって新たな食品が生まれるというのは、原理だと言っていいと思います。自然が生み出す素材があって、それを加工する。あとは組み合わせによって、食品というのは進化している。

 

しかし、これは食品に限ったことなのでしょうか。

 

人間は昔も今も病気になってしまう。例えば、お腹が痛くなる。すると、誰かが「あの草を煎じて飲めば治る」というようなことを言う。これがまったくのあてずっぽうだった場合、それは呪術だと言われる。「そうだね、結構治るよね」と言われれば、それは薬草だとか漢方薬だと言われる。しかし出発点は、いずれの場合も腹痛とある植物という一見、関係がなさそうな2つの事柄を関係づけて考えるところにある。新型コロナとエイズというのは、明らかに異なるウイルスによってもたらされる。でも、治療薬がない。そこで、誰かがこの2つを関係づけて考えてみた。そういう発想があった、ということだと思います。

 

プエブロ・インディアンは、自分たちが祈るから太陽が地球の周りを回っていると考えた。これも祈るという行為と太陽の運行という、一見、関係がなさそうなことを関連づけて考えるという発想があった。

 

このように、常識的には結びつかない何かと何かの関係を想定する能力というものが、人間には備わっている。この能力を一般には、直観力だとか、発想力と言うのではないか。ここでは、一応、発想力と呼んでおきます。

 

では、この発想力は、どういう時に発揮されるのでしょうか。その背後には、カオスがあるのではないか。食材というのは、無数にある。肉もあれば、魚や野菜だってある。そして、何と何を組み合わせてはいけないというルールは、ほぼ存在しない。自由なんですね。そこに秩序というものは存在しない。従って、カオスと呼んで誤りではないように思います。薬草の例や、プエブロ・インディアンの場合も、同じだと思います。組み合わせというのは、無数にある。そして、ルールはない。

 

カオスがあって、人間の発想力が発揮される。そして、文化が前進するのではないでしょうか。一方では、論理的思考というのがあって、こちらは秩序をもたらしますが、新しい何かを生み出す可能性は低い。他方、カオスをベースとして人間の発想力が発揮される。こちらは秩序をもたらしはしませんが、常に新しい何かを生み出す無限の可能性を秘めている。

 

人間というのは、ある側面では秩序を求め、反面、カオスを必要としている。人間とは、そういう矛盾を抱えた生き物なのではないでしょうか。何故、そうなってしまったのか。それは、人間が長い時間を掛けて構築した、生存戦略に基づくのではないか。人類の生存戦略とは、文化そのもので、文化はそのような矛盾を抱えている。そして、文化は太古の昔から、今日においても、休むことなく前進を続けている。そんな気がします。