文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化認識論(その29) エピステーメーと権力

フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、「エピステーメー」ということを提唱しました。

 

エピステーメー」は、思想がそれ自身を組織化することを可能にさせる「地下の」グリッドまたはネットワークである。それぞれの歴史的時代には、固有のエピステーメーがある。それは、経験、知識、および真理の総体を限定し、一つの時代における個々の科学を支配する。(文献1)

 

ちょっと難解なので、私なりにかみ砕いてみましょう。何かを考えようとする時、私たちは無意識のうちに多くの事柄を前提としています。それは、科学的な知識であったり、それぞれの時代に固有の価値観だったりする訳です。但し、これはなかなか見えにくい。フーコーは、この見えにくさを「地下の」という言葉に込めているのだと思います。そして、このエピステーメーは、様々な事柄が互いに影響しあって成立している。このことは「ネットワーク」という言葉によって表現されている。

 

私たちは、見えにくく、曖昧な、エピステーメーに基づいて思考している。更に、このエピステーメーは、徐々に変化している。その変化を私たちは日々の生活の中で認識することは困難ですが、歴史的な時間軸で見た場合、それが変化していることは明らかです。かつて人々は、神が人間を作ったと考え、天動説を当然のこととして信じていた。してみると、現在、我々が当然なこととして認識している事柄だって、100年後、千年後の人たちからしてみれば、とてもおかしな事柄というのは、あるかも知れません。いや、きっとあるに違いないのです。

 

人文科学系の問題に目を移してみますと、更に貧しい現状に直面します。政治学社会学、経済学など、大層な名前を付けた学問分野がいくつも存在しますが、現実の問題はほとんど解決されていない。例えば現在も、世界的な規模で貧富の格差という社会的な問題を抱えている訳ですが、一向に解決される兆しが見えてきません。日本における年間の自殺者数だって、多分、10万人は超えているに違いない。(政府の統計は、遺書が発見されたケースのみを自殺としてカウントしていますが、変死者の半数は自殺としてカウントすべきだという意見があります。)こんな社会のあり方で、いいはずがありません。

 

してみると、エピステーメーに基づいて一生懸命考えたとしても、人間は真理に到達することができない。そういうニヒリスティックな発想が出てくる。

 

フーコーは、次のように述べています。(文献1)

 

・わたしは、普遍的な真理には懐疑的だ。
・わたしたちの仕事は力を征服することであって、正義をもたらすことではない。正義はただ単に、権力を再構成するだけだ。
・人間は未だ成熟に達しておらず、今後もおそらく達することはないだろう。

 

上記の主張には、一応、説得力があります。考えたって、どうせ分かることはない。考えるだけ無駄だ。フーコーは、そういうポストモダンと呼ばれる世代のメンタリティを代表しているのかも知れません。

 

私は、ポストモダンのメンタリティを支持していませんが、フーコーには、どこか人間的な魅力がある。もう少し、フーコーの足跡を追ってみたいと思っています。

 

さて、エピステーメーという概念を拝借して、ここから先は、私の考えを述べてみたいと思います。

 

何も、歴史的な時間軸で見なくたって、私たちの価値観やメンタリティは変化している。例えば、「フーテンの寅さん」を見ると、男たちは平気で女性や子供たちの近くで煙草を吸っている。一瞬ドキッとしてしまいますが、昭和の時代はそれが普通だった。私たちが普通に使っているパソコンやスマホだって、これは時代の常識、知識、価値観に多大な影響を与えているに違いありません。エピステーメーは、変化し続けていて、誰もそれを止めることはできない訳です。

 

このように考えますと、私としてはどうしても憲法のことを思い出してしまうのです。公布されたのが、1946年。それから74年間が経過している。すなわち、憲法と現在の我々が依存しているエピステーメーとの間には、それだけのタイムラグがある。

 

また、2011年に発生した東日本大震災とそれに続く福島第一原発メルトダウン。こういう大災害や危機的な事故も、私たちの価値観に大きな影響を与えているに違いない。多くの人たちが、こんな危険なものはもう嫌だと思ったはずです。しかし、その後、日本の政府は原発の再稼働を進めて来た。その背後には、利権がある。既得権がある訳です。

 

結局、人間1人の力には限界があるので、人間は集まって組織を作る。組織は、意思決定を行い、統一的な行動を取る必要があることから、必然的に権力構造を持つ。そして、権力は既得権そのものなので、それを持った人間はそう簡単に手放そうとはしない。そこで、組織は必然的に、現状を維持しようとする。何も変えたくない、と考える。ところが、エピステーメーは変化を続けるので、権力との間にギャップが生じる。これは、いつの時代でも、どこの国でも、同じことが言えるのではないでしょうか。

 

現在の新型コロナの話も、同じようなことが言えると思います。ウイルスは世界を駆け巡り、未だに特効薬は発見されていない。既にパンデミックは起こっているのか、それともこれからピークを迎えるのか。一体、私たちが暮らすこの日本に、感染者はどれだけいるのか。さっぱり分からない訳で、これはもう東京オリンピックどころではない。多くの人たちが、そう思っている。そう感じているはずです。しかし、政府はオリンピックを強行しようとしている。何故か。それは、利権であり、既得権が絡むからだと思います。

 

常にエピステーメーが先行し、権力はその変化に抗おうとする。そういう関係にあるのではないでしょうか。

 

(参考文献)
文献1: FOR BIGINNERS フーコー/C ホロックス/現代書館/1998