結局、日本のコロナ対策が遅れたのは、東京オリンピックを予定通り開催したいがために、感染者数を低く抑えようとして、検査をしてこなかったことに原因がある。あげくの果てに、マスク2枚。これで日本は、世界の笑い者にされた。そして私は、コロリンピックと命名することにした。
東京コロリンピックは、即刻、中止せよ!
さて、気持ちを落ち着けて、本論に入りましょう。
いろいろ考えている訳ですが、人間の心の成長には、3段階あるのではないか。それは、人間が何に関心を持つか、という現象から推論できると思うのです。すなわち・・・
第1段階:人間
第2段階:芸術
第3段階:論理
では、順に考えてみましょう。
第1段階:人間
赤ん坊は生まれてくると、最初に母親を認識する。そして、認識の幅が広がり、家族、友達などを認識するのだと思います。そして、思春期になれば異性に興味を持つ。異性に好かれたいと思うので、ファッションに興味を持ったりもする訳です。
結婚して、家庭を持つと、関心の対象は家族の健康となり、料理や育児に励む日々が始まります。しかし、人間の認識能力はとてつもなく大きい。家族や友人を認識してしまうと、もっと認識したいと思うようになる。そこで、芸能界が登場する。そこには、美男美女がひしめいている。歌があり、ドラマがある。お笑い芸人だっている。それはもう際限のない「人間」の宝庫な訳です。そして、あの人のファッションはどうだとか、あの人はどういう過去を持っているとか、家族構成がどうだとか、果ては不倫関係まで、そういうことを認識していく。
スポーツも同じではないでしょうか。野球チームにはレギュラーだけで9人の人間がいて、サッカーには11人もいる。これはもう、名前を覚えるだけでも大変だと思う訳ですが、好きな人はそういう苦労をいとわない。そして、1人ひとりの個性だとか、身体的な特徴を記憶していく。
この段階では、どこまで行っても、認識の対象としては「人間」しか出てこない。
例えば、しばらく前に自民党の稲田朋美氏が、選挙違反を行った。特定の候補者に対し、「防衛省としても応援しています」と発言したのです。テレビを見ていると、そのことにコメントを求められたオバサンはこう言ったのでした。「ダメですよね、あの人。だって、網タイはいてるでしょ」。これを聞いた私は、悶絶したのでした。
スポーツ新聞というものがありますが、こちらも事情は変わりません。スポーツ選手のインタビューだとか、どこの監督がどう発言したとか、エッチな写真とか、大体、そんなところですが、これを熱心に読んでいるオジサンというのも、少なくない。
結局、この第1段階に留まる人々の興味の中心には、「人間」がいる。人間がいて、人間が着るものがあって、人間が食べるものがある。
オルテガが「大衆の反逆」という本の中で批判した、「大衆」の第1類型は、これで説明できると思います。人間中心の認識パターン。戦後、GHQが推進したと言われる3Sと呼ばれる愚民政策。その本質も、ここにあるのではないか。Sports, Sex, Screen。いずれも人間の認識能力をこの第1段階に留め置こうとするものではないでしょうか。
そして、この段階に留まる人というのは、厄介なことに気位が高い。いわゆる上から目線で物を言われることを極端に嫌う。パターナリズムということが言われますが、これはあたかも父親のような目線で、相手のことを思って忠告することを意味しますが、この段階に留まる人には、それが我慢できない。何しろ、自分は完璧だと思っていて、何も疑問を感じずに生きている訳ですから。
安倍総理の認識パターンも、実は、これではないか。人を大切にする。但し、それは国民全体ではなく、自分の身の回りにいる人だけ。そこで、縁故主義に陥る。国会で野党から追及されることには、我慢がならない。このパターンの人には、決定的に想像力が欠如している。今、国民がどのような状況に置かれているのか、想像する力がない。明恵夫人も同じですね。
第2段階:芸術
もう少し認識の範囲を広げますと、自然や動物が見えてくる。そこから、芸術が生まれる。発想力や想像力が芸術を生み出す。ゴーギャンはタヒチの娘たちを描いた。そして、例えば「いつお嫁に行くの」というタイトルが付される。(「いつ結婚するの」というタイトルの方が一般的かも知れませんが、私は、「いつお嫁に行くの」という方が好きです。)そして、私たちとは肌の色が違う、体つきが違う、着ている物が違うタヒチの娘たちが、瞬時にして、私たちと同じように生きていることが了解される。ああ、同じ人間なんだ、と思うことによってそこに描かれている娘たちを身近に感じることができる。そこに感動がある訳です。このように融合させる力、そこに芸術の力がある。「芸術的認識」と呼んでいいと思います。
政治や経済のことを考えますと、そこには論理的な思考が必要だ、ということになる訳ですが、私が検討した結果によると、論理的な思考に至るそのプロセスにおいて、どうしても発想力、想像力というものが必要になってくる。例えば、私は「認識の6段階」というものを考えた訳ですが、その中には「因果関係」という項目が入っている。例えば、サスペンスドラマがあって、真犯人の発見に努める。大体、キャリアのエリート刑事は机上で考える訳ですが、真犯人に辿り着くことができない。そこで、ノンキャリアの刑事が足で稼いで、閃く。とても些細な真犯人の言動と、犯行動機や凶器のありかを結び付け、因果関係を究明する訳です。人間のこのような力はどこから来るのか。歴史的な時間軸で考えた場合、人間は芸術によって、その能力に磨きをかけてきたに違いない。
自分の頭で考える。そういう力の源泉は、この「芸術的認識」から来ている。
例えば、欧米の一流のビジネス・パーソンは、高級なワインを飲みながら、芸術の話をする。これができなければ、一流として認められない。そこには、上に記したような事情が潜んでいるのだと思います。
かつて、「飢えた子供の前で、文学は有効か」という論議があったそうです。今の私なら、こう答えることができる。文学は、その子供の空腹を満たすことはできない。しかし、その子供が属する人間集団の認識能力を高め、ひいてはその人間集団の生存確率を高めることができる。
現在のコロナ禍によって、不要不急の外出は控えようということになって、ライブハウスや劇場の運営が窮地に立たされています。あたかもそれらの活動は、社会にとって不要なものだとでも言われかねない雰囲気があります。確かに、現在の危機的な状況下において、それは不急かも知れない。しかし、それは私たちの社会にとって、必要不可欠な文化なのです。芸術活動がなくなれば、自分の頭で考える人がいなくなる。人間の発想力、想像力が失われる。そうなれば、私たちは生きていけない。大変だとは思いますが、芸術家の方々にはエールを送りたいと思います。
ただ、「芸術的認識」にも限界がある。例えば、以前、作家の瀬戸内寂聴さんが死刑制度に反対して「死刑制度に賛成するのは大馬鹿者だ」と発言し、犯罪被害者の方々から非難を浴びた。結果、彼女は「大馬鹿者は私だった」と言って、謝罪したことがあります。
第3段階:論理
論理的認識については、このブログで既に述べましたので、ここでは「認識の6段階」を再掲することに止めましょう。
1. 記号
2. 情報
3. 因果関係
4. 概念
5. 原理
6. 論理
これで、3つの要素が揃いました。
第1段階:人間
第2段階:芸術
第3段階:論理
これで、オルテガが指摘した大衆の第2類型について、説明することが可能となります。オルテガは、「大衆的人間」として、科学者を批判しました。この大衆的人間というのは、本稿における第2段階が欠落した人間のことだと思う訳です。第1段階から、第2段階をすっ飛ばして、第3段階に向かう人というのは、実は、少なくない。彼らには、自分の頭で考える力や人の痛みを想像する力が欠如している。科学者の他にもエリート官僚や弁護士などが、このパターンに陥り易い。何しろ、子供の頃から勉強ばかりしてきて、芸術に親しむ時間が確保できていない。
私の人生経験からしますと、弁護士は確かにどういう法律があって、どういう判例がある、ということはよく記憶していますが、自分の頭で考えるという能力の欠落している人は、実に多い。例えば、人間の顔と同じで、同じ裁判というのは2つとない。すると、扱っている裁判をどのような戦略で進めるか、というのは自分の頭で考えなければならない訳ですが、それができない。訴訟戦略を立てられない。そういう弁護士はとても多い。ちなみに、立憲民主党、党首の枝野氏などは、このパターンではないか。現在の同党の執行部には、発想力と想像力が欠けている。だからダメなんだと思いますけれども。
まとめます。
マジョリティを構成する大衆が興味を持つ対象は「第1段階:人間」だけだと思います。それは、GHQの愚民政策から始まって、現在の既得権者である国際金融資本、経団連、自民党やマスメディアによって、そう仕向けられている。そこにある文化形態としては、スポーツ、芸能、グルメ、お笑いなど。これを脱しないと、第2段階には進めない。
「第2段階:芸術」は、現在、軽視される風潮にありますが、本当は私たちにとって、とても重要な認識方法であり、文化であることが分かります。
第1段階から第3段階までバランス良く兼ね備えることができれば、それが1番いいパターンだと思います。特に政治家には、その素養が求められるはずです。