文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

山本太郎と東京都知事選(その3) 権力と組織

そもそも、権力とは何か。そんなことを考える訳です。権力は、政治を動かし、経済を動かし、社会を支配している。その源泉は、どこにあるのか。

 

権力とは、人間が望んでいる事柄を実現するための手段だと思う訳ですが、では、そもそも人間は何を望んでいるのでしょうか。お金か。それもあるでしょう。しかし、それだけではない。例えば、ヨーロッパで繰り広げられた宗教戦争においては、カトリックプロテスタントが戦った。自分が、自分たちが正しいと思っていることを他の人にも押し付けようとするものだった。この「自分たちが正しいと思っていること」とは、信仰であり、時に思想であり、イデオロギーと呼ばれることもある。そういうことを社会的に実現させたい。人間は、そういう強い願望をも持っている。また、性に関わる場面を想定することもできる。男は女よりも優位な立場に立ちたいと願う。そこで、キャバクラという商売が成り立つ。女も同じような願望を持っていて、ホストクラブという場所が用意されている。

 

例えば、砂漠であれば、人々は飲料水を欲しがる。コロナ禍に見舞われた現在の日本であれば、人々はマスクを手に入れたいと願う。

 

このように人間の欲望というのは、多様なのです。そして、この欲望を満たすための手段が、権力だということになります。そして、権力を持とうとする者は、組織を作る。組織は他の組織と反目し、組織の内部は序列という内部構造を持つ。

 

まったくもって、人間というのは何と愚かな存在なのだろうと思います。

 

話を戻しましょう。人間には様々な欲望があって、それらの欲望を満たすための手段が権力だということになります。そして、権力を創出し、維持し、行使するために組織というものが結成される。そういう関係にあるのではないか。では、組織を支えるものは何か。それは社会的な制度ではないかと思う訳です。システムと言ってもいい。それは例えば、明文化された法律である場合もあるし、暗黙のうちに了解された慣習である場合もある。そのような制度、システムこそが、権力の源泉なのではないか。

 

金さえあれば何でも手に入る。権力の源泉とは、金だ。そう考える人がいるかも知れません。しかし、お金の価値というのは変動するし、一度に手に入れられる金額には、限度がある。例えば江戸時代であれば、殿様がいて、庶民から年貢を徴収していた。一年の間に徴収できる年貢には限度がある。但し、それを制度化すれば、毎年、一定数量の年貢を手に入れることができる。すると、このシステムこそが殿様の権力を保証することになる。すなわち、一時の金銭や年貢米よりも、権力者にとっては年貢という制度の方が有用であることになる。ここで、1つ目のテーゼを導くことができます。

 

<テーゼ その1>
権力の源泉は、社会的な制度やシステムにある。

 

そして、組織の中で上位の役職に就いた者というのは、既存の制度の中で勝ち抜いてきた訳で、制度が変わると自らの権力の基盤が揺らぐことになります。例えば、腕力の強い者が出世するという組織があったとして、その組織の制度が、ある日突然、頭の良い者が出世する、というルールに変わった場合、腕力の強いリーダーは失脚するに違いないのです。

 

そこで、組織のリーダーというのは、必ず、既存の制度を温存しようとする。すなわち、組織のリーダーは、変化を嫌い、現状を維持しようとする。ここで、2つ目のテーゼを提示することができます。

 

<テーゼ その2>
権力者は変化を好まず、現状を維持しようとする。

 

「死に物狂いの現状維持」という言葉があります。これは、「永続敗戦論」を唱えた政治学者である白井聡氏の言葉です。

 

ところが、時間の経過と共に社会が共有している常識や価値観は変化する。そして、組織は旧態依然とした制度に固執する。そこで古い組織は、必然的に陳腐化する。陳腐化するにも関わらず、組織のリーダー層は自らの立場を守るために権力の座に居座ろうとする。結果として、世代交代は進まず、老害と呼ばれる弊害が生まれる。これはもうテーゼその3と言っても良い。

 

<テーゼ その3>
組織において世代交代は進まず、高齢化と老害が生ずる。

 

上に記した3つのテーゼは、与野党を問わず、該当するのではないでしょうか。自民党公明党も酷いとは思いますが、同じことが共産党や立憲民主にも言える。

 

先般、立憲民主を離党した須藤元気さんが訴えておられましたが、もう高齢になった人は、自ら権力の座から去るべきだと思います。権力を手放した後でも、人生を謳歌することはできるのですから。

 

もう少し普遍的に考えますと、権力を維持するための組織という集団形態自体、限界に来ているように感じます。ではどうすればいいのか。組織に代わる何らかの集団形態は成り立つのか、と考える訳ですが、この点は、私にも確たる見通しが立っていないのです。ただ私には、れいわ新選組は、この組織という形態をなんとか回避しようとしているように見えます。れいわ新選組は、「単独者の集団」と言えるかも知れません。