文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

大西つねき氏の除籍について

世間一般の方々にしてみれば、大西氏がれいわ新選組を除籍になったからと言って、左程、インパクトのある話でないでしょう。しかし、支持者にしてみれば、一連の出来事は晴天の霹靂だった訳で、昨夜は熟睡できなかった人も少なくないと思います。

 

事実関係につきましては、既に動画を含め、ネット上に拡散されていますので、ここでは省略させていただき、私の考え方をまとめてみたいと思います。

 

結論めいたことを先に言えば、今回の件におきましては、処分を受けた大西氏の側、処分を下したれいわ新選組の側、双方に落ち度があったものと思います。

 

まず、大西氏の主張ですが、高齢化する社会の現状に鑑み、介護する若者が貴重な時間を費やしていることが問題だ、という所に出発点があるように思います。そして、高齢者には先に逝ってもらう必要があり、その選別は政治が行うべきだ、と考えているようです。つまり、高齢者を介護する必要性と若者がそのために費やしている時間を天秤に掛けた場合、若者が費やしている時間の方を尊重すべきだ、と言っているのです。

 

高齢者の介護 < 若者の時間

 

こういう図式になる訳ですが、このような主張を私は今日まで、聞いたことがありませんでした。これは、「もう死にたい」という個人の意思を前提とした安楽死尊厳死の議論とは異なるものです。また、製薬会社や病院の経済的な利益を目的として、回復する見込みのない人を薬漬けにして生き永らえさせる終末医療の問題とも異なります。更に言いますと、「極限状況における命の選択」という問題とも異なります。

 

「極限状況における命の選択」というのは、例えば、コロナの重症患者が2人いるが、人工呼吸器は1台しかない。重症患者の年齢は1人が30才で、他方が80才だったとする。このような場合、医師はどちらの患者を救済すべきか、という問題で、イタリアでは現実にこのような問題に直面した医師が苦悩しているというニュースもありました。若い人の命を選択しようですが。ただ、大西氏が言っている問題は、これとも違う。

 

山本太郎氏は、大西氏の考え方を「優生思想にもつながるものだ」と非難していましたが、当然、大西氏の考え方はこれとも異なる訳です。

 

人は、新しい何かに出会ったとき、既存の概念に照らして理解しようとする傾向があるようです。しかし、今回の大西氏の主張は、既存のどの概念にも当てはまらなかった。結果、大西氏と山本太郎氏は理解し合うことができず、消化不良のまま大西氏の除籍処分が決定されてしまった。これが支持者の間では、わだかまりとなっているに違いないと思います。

 

大西氏の落ち度としては、自らの考え方を正確に表現することができなかった点にあると思います。これが1点目。加えて、「高齢者には先に逝ってもらう」というのであれば、具体的にどうするのか、その説明がなかった。多分、大西氏は具体的な制度設計までは考えていなかったのではないでしょうか。仮に大西氏が哲学者だとして、自らの思想を表現しているのであれば、それで良かったのかも知れません。しかし、大西氏は自らを政治家だと言っている。選挙にも立候補している。政治家であれば、最終的には政策として説明する責任があるのではないか。この責任が果たされていない。更に、政治が命の選別をすべきだ、という主張そのものの当否はどうか。私は、自らの意思を前提とする安楽死尊厳死の議論は積極的に進めるべきだと思っていますが、私の命を政治によって選別されたいとは思いません。

 

次に、れいわ新選組と山本氏の側の落ち度について、考えてみます。

 

そもそも、人に刑罰を科す場合には、罪刑法定主義という原則を守る必要があります。これ、言葉は難しそうですが、中身は簡単なことです。時の権力者の気分次第で罰せられたのでは、人々は困ります。例えば、ある日突然、煙草を吸った者は死刑だ、と言われたとしたら、喫煙者は困ります。そこで、人に罰則を与える場合には、どのような行為に対し、どのような罰則が科されるのか、予めルールを決めて、そのルールを公表しておくべきだ、という考え方になる訳です。これが、罪刑法定主義と言われる原則なのです。とても重要な原則なので、これはフランスの人権宣言にも書いてあるのです。

 

今回のケースで考えますと、れいわ新選組は、懲戒を下す場合の行為類型とその懲戒の程度(刑の重さ)については、予め、規約に定めておくべきだったのです。ところが、れいわ新選組の規約に懲戒規定はなかった。すると、罪刑法定主義に従って考えた場合、れいわ新選組は大西氏に対して懲戒を下す権限を持っていなかったことになる。

 

この点、7月16日の総会で、急遽、懲戒規定を設けたようですが、そんなことをしてもダメです。大西氏が動画を公開する(7月4日?)の以前に懲戒規定を定め、それを公開しておかなければならなかった訳です。法律を遡って適用してはいけない。これを「法律不遡及の原則」と言います。

 

次に、大西氏に対し、レクチャーを受けるよう要請したこと。一般的な教育をれいわ新選組が構成メンバーに対して行うことは自由です。しかし、レクチャーを受けるよう要請し、実際にレクチャーを受けさせた上で、更に、懲戒を下すということでは、大西氏の人権を侵害していることにならないでしょうか。レクチャーを受けさせたのであれば、懲戒は下せない。懲戒を下すのであれば、レクチャーを受けさせるべきではなかった、と思います。

 

レクチャーを受けさせるということ自体が懲戒の一種であり、更に、除籍という懲戒を加えたのですから、これは2重処罰禁止の原則に反すると思います。一事不再理とも言います。一事不再理とは、一つの行為に対して、2回以上の処罰を加えてはならない、そういう原則のことです。

 

私は、大西氏の思想は誤っていると思います。しかし、どのような思想を持ち、それをどのように表現するか、それは個々人の自由に委ねられるべき事項だと思います。「あなたがどのような思想を持ち、どのように表現するか、それはあなたの自由だ。しかし、あなたの考え方はれいわ新選組のそれとは相容れないものである。従って、離党してくれませんか」というのが、今回、れいわ新選組が採り得る態度の限界だったのだろうと思います。

 

前にも書きましたが、山本氏とれいわ新選組は経済には滅法強い。これは素晴らしいことだと思います。反面、法律的な側面から言えば、からっきしダメなんです。結果、老人対若者、介護を受ける者と介護をする者の対立構図を浮き彫りにしただけで、多くの支持者たちがれいわ新選組に対する支持を止めると表明することになった。残念でなりませんが、ここから得られる教訓としては、経済も法律も、その双方が大切だということではないでしょうか。