文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

暑中お見舞い申し上げます。

日ごとに暑さも増してきましたが、皆様におかれましては、いかがお過ごしでしょうか。今日、東京都内で確認されたコロナの感染者数は367人となり、記録を更新したそうです。暑きコロナの夏。なんとか生き延びようではありませんか。

 

さて、石の上にも3年と申しますが、おかげ様でこのブログを開設してから4年が経過しました。とは言え、最近、記事の更新が滞り気味になっており、この際、そこら辺の事情を含め、所感を報告させていただこうと思います。

 

〇 話し言葉と書き言葉

 

少し前に「話し言葉と書き言葉」という原稿を掲載させていただきました。このタイトルには、私なりの思い入れがあった訳ですが、今になって読み返してみますと、述べたかったことの半分も言えていない。

 

率直に言いますと、私としては、話し言葉よりも書き言葉の方が重要だと思っているのです。人間の歴史を振り返ってみますと、フランス革命があって人権宣言が生まれた。アメリカの独立戦争があって、独立宣言が生まれた。日本で言えば、古の時代に古事記や日本書記が書かれ、日本と言う国が生まれた。現在は、日本国憲法があって、日本という国家が存在している。全て、文字で書かれたものです。全ての法律は文字で書かれているし、ドストエフスキー罪と罰だって、事情は変わりません。

 

人間が何かを深く思考するための道具として、文字は人間と共に存在する。そして、人間が行動によって何かを成し遂げたとき、それは文字によって記録される。だから、書き言葉の方が重要だ、と私は考えている訳です。

 

しかしながら、言語学ソシュールは、話し言葉に注目した。ソシュールは、話し言葉の線状性や恣意性ということを言って、話し言葉を構成する最小単位は音素にあるということを突き止めた。加えて、現代と言う時代は、圧倒的に話し言葉が優位にあり、書き言葉はないがしろにされている。少なくとも、私はそう感じている訳です。一応、ツイッターは文字を含みますが、文字数は制限されているし、誤字や脱字の多さにうんざりとさせられることも少なくありません。不便なスマホを使っているせいかも知れませんが、現代の日本人は書き言葉を大切にしなくなった。例えば、ツイッターの文章を読んでおりますと「ここに点を打てば、この文章は各段に分かりやすくなるのに」などと思う訳です。

 

書き言葉というのは、言わば書き手の分身だと思うのです。文章を読めば、大体、その書き手がどんな人なのか分かる。そういうことは少なくない。自分の分身であるのだから、言葉はもっと大切にした方がいい。自戒を含めて、そう思うのです。

 

話し言葉よりも書き言葉の方が重要だ」と、私と同じようの考える人は、この世に存在しないのか。そういう、半ば絶望的な気持ちになっていたのですが、それがいたのです。私と同じように考えていた人が。

 

- これ以後言語は、書かれたものであることを第一義的性格とするようになる。声の音は、言語の一時的で心もとない翻訳に過ぎない。 -

 

上記の一節は、ミシェル・フーコーの「言葉と物」からの引用です。そして、この問題は更に複雑な問題を含んでいるのだろうと思います。すなわち、話し言葉というのは、認識の起点である人間の身体から発せられるもので、対する書き言葉は認識の到達点を示すのではないか。

 

いずれにせよ、これは哲学上の大問題であるに違いない。ちなみにフーコーが死んで、その10年後にフランスで発行された論文、インタビュー集のタイトルは、「言われたことと書きしるされたこと」というものだったそうです。

 

この問題、「未だ私には見えていない何か」を孕んでいる。

 

〇 通時態と共時態

 

歴史的な時間軸で物事を見るという方法を一切捨てて、現在、世界はどうなっているのか、という側面のみを検討の対象にしようと考えたのが、言語学ソシュールで、その方法論を踏襲したのがレヴィ=ストロースです。この歴史的な時間軸で物事を見るという方法が「通時態」であって、現在のみを対象に検討するという方法を「共時態」と言います。

 

共時態で人類を見たレヴィ=ストロースの思想は「構造人類学」とも呼ばれ、後の構造主義へとつながる。私は、この立場に対する違和感を持ち続けてきました。歴史的な時間軸で考えなければ、見えてこない本質が沢山あると思っているからです。例えば、無文字社会や古代の認識方法のことを私は「芸術的認識」と呼んでいます。動物の真似をして、歌ってみる。踊ってみる。動物の絵を洞窟の壁に描いてみる。そういうことです。その後、人間は農耕、牧畜を生業としたことから、定住するようになった。そこで、人間の集団は固定化され、権力が生まれる。芸術に権力が加わり、それが宗教となる。このように通時態で考えるからこそ、芸術や宗教の本質が見えてくる。共時態では、そういうことが分からない。これが、私が持ち続けているレヴィ=ストロース構造主義に対する違和感なのです。

 

これに対して、正面から通時態で物事を見ようという思想家が登場した。またしても、それがフーコーだった。彼のデビュー作とも言える論文のタイトルは「狂気の歴史」であって、まさしく通時態で考えていることを象徴している。

 

フーコーは、当初、構造主義の一種だと誤解されたようですが、後に、解釈が修正されたそうです。共時態としての構造主義に対し、通時態で考えるフーコー。180度違う、と思います。

 

〇 権力とは何か、どう向き合うべきなのか

 

このブログでは、政治家のみならず、弁護士、官僚、大学教授などを権力者として、批判してきました。すなわち、私としては権力というものを、幅広く解釈している訳です。そして、フーコーの解説書(フーコー清水書院)には、次の一文がありました。

 

- 権力の病いとは、私たちの日常生活が極度に凝縮されているという意味において現在の私たちの問題であり、権力の過剰ゆえに必ず日常のいたるところにも権力がある。-

 

フーコーが権力についてどのように考えていたのか、未だ、私はよく理解していませんが、上記の抜粋の「必ず日常のいたるところにも権力がある」という箇所は、私の主張に通底しているように思います。

 

では、権力とはどう向き合うべきか。「戦わずに逃げろ」という主張もあるようです。但し、前記の解説書によれば、「言説的実践」によって、対抗すべきだと書いてある。これを私なりに解釈すると、言葉の力で対抗せよ、ということになる。

 

〇 ラストウォーカーとトップランナー

 

人間社会の歩みを山登りに例えてみましょう。例えば、100人の集団で、高く険しい山に登ろうとしている。後ろの方には息も絶え絶えになりながらも、遅れまいとして必死に歩いている人々がいる。この人々が社会的弱者だと言える。思想的な側面から言えば、大衆だとも言える。これらの人々に救いの手を差し伸べようとするのは、現実の政治の世界では、正しい選択だと思うのです。れいわ新選組がそうしているように。但し、この集団全体が生き延びるためには、集団を跳び抜けて、先頭を走る者も必要ではないか。そして、ある時は振り返り、こう叫ぶのです。「おーい、ここまでくれば泉があるぞ」とか、「おーい、こっちの道はダメだ。こっちにはくるな!」といった具合に。そして、思想的な側面から言えば、ミシェル・フーコーは、このトップランナーだったに違いない。

 

とりとめのないことを縷々書き記しましたが、今後、私がなすべきこと、それはフーコーと向き合うことなのです。もう少し時間が必要ですが、準備が整いましたら、フーコーに関する記事を連載する予定です。