文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

反逆のテクノロジー(その2) 表意文字と表音文字

同一の言語を使っている民族がいたとして、その民族が認識している対象範囲は、その言語を調査すれば分かる、という話があります。例えば、テレビを持たない民族は、テレビという言葉も持たない。そう言えば、発展途上国に駐在している商社マンから、現地の言葉は比較的簡単に学習できるという話を聞いたことがあります。

 

そして残念ながら、日本語には「言語」を示す名詞は多くない。他方、フーコーの著作を読んでおりますと、フランス語には「言語」に関わる名詞がとても多いことが分かります。ラング、ランガージュ、パロールエクリチュールなど。これらのフランス語は「言語」と訳される場合が多いようです。私はフランス語を勉強したことはないのですが、多分、ランガージュというのは、英語のlanguageに相当する単語ではないでしょうか。

 

これらのフランス語の中で、私が注目しているのはパロールエクリチュールです。パロールは、話されたこと、話し言葉、と訳して良いようです。他方、エクリチュールは、書かれたこと、書き言葉を意味している。すなわち、この2つを明確に区別していない日本人に対し、フランス人は、少なくともフランスの哲学者は、この2つを明確に区別している。(例えば、デリダの有名な著作に「エクリチュールと差異」というものがあります。まだ読んでいませんが。)

 

パロール・・・話されたこと。話し言葉

エクリチュール・・・書かれたこと。書き言葉。

 

パロールは、人間が声帯を震わせて発話する訳ですから、身体的な表現方法だと言えます。これは「歌」にも共通するもので、女性的で、共感を求めるのに適しており、主観的だとも言えます。そして、何かを話すという行為は、その言葉を聞く人が存在することを前提としている。またパロールは、時間の中に存在しているとも言えます。

 

他方、エクリチュールとは孤独な作業の結果生まれるものです。文字を書く、文字を読むという行為は、大体、1人で行われます。現在はパソコンを使ってデジタルデータとして文字を作成する場合が増えていますが、元来、文字を書くという行為は、石に刻む、木を彫る、毛皮に傷を付ける、紙に書く、という現実的な「物」に対する働き掛けによって成り立っていたはずです。こちらは、男性的で、批判的で、客観的だと言えます。そしてエクリチュールは、空間の中、「物」の中に存在しているのです。

 

文字に関わるには手間がかかりますが、文字は時間を超越する。そしてエクリチュールは、主体を起点として客体に到達するための手段なのだと思うのです。

 

人間と他の動物との差異は何かという話で、「言葉を持っているのが人間だ」と言われるケースが多いように思いますが、実は、そうではないない。文字を持つか否か、そこに本質的な差異があるのではないでしょうか。

 

例えば、街のチンピラが肩をいからせて、何かあれば「コノヤロー!」と怒鳴る。これ、猫が毛を逆立てて「シャー!」という声を発するのと似ている。猫に限らず、人間以外の動物だって、多くのコミュニケーション手段を持っていますが、それらはどれも身体と直接的な関係を持っているはずです。

 

やはり、人間はパロールから出発して、エクリチュールを目指す。そうあるべきではないかと思う訳ですが、事情はもう少し複雑なようです。ご案内の通り、文字にも表意文字表音文字の2種類がある。この点、フーコーの「言葉と物」に面白い記述がありますので、抜粋させていただきます。(P.137)

 

- 文字表記には、語の意味をあらわすものと、音を分析して復元するものとの二つのタイプが知られている。ある種の民族においてまったくの「天才的思いつき」から後者が前者の地位を奪ったと考えるにせよ、あるいは、両者がほとんど同時に、前者は絵を描く民族によって、後者は歌う民族によって(二種類の文字表記はそれほど異質なものなのだ)生み出されたと考えるにせよ、両者のあいだに厳密な分割線が引かれることにかわりはない。語の意味を図示的に表象することは、起源においては、語の指示する物を正確に描くことである。実を言えば、それはほとんど文字表記とはいえぬ絵画的な模写にすぎず、きわめて具体的な物語以外まず書きうつすことはできない。 -

 

上記引用箇所の中で、「絵を描く民族」「歌う民族」という表現が出てきますが、これはちょっと賛同しかねます。同一の民族の中に、絵を描く人もいれば、歌う人もいると思われるからです。ここはむしろ、男が呪術の一環として絵を描き始め、それが象形文字表意文字になった。そして、動物の鳴き声を真似たり歌ったりしていた女が、音に注目し、表音文字を作ったと考えた方が合理的ではないでしょうか。

 

しかし、日本語を例に考えますと、別の推測が出てきます。まず、中国大陸で表意文字としての漢字が発明された。それが、日本に入ってくる。漢字は複雑だし、書くのに時間が掛かる。そこで、漢字を省略することによって、表音文字としてのひらがなやカタカナが発明された。仮にヨーロッパにおいても同じような経緯があったとすれば、まず、表意文字があって、それが簡素化され、表音文字としてのアルファベットが生まれた可能性も否定できない。但し、Wikipediaによりますと、アルファベットの起源というのは、未だに良くは分かっていないようです。また、漢字の本家本元である中国では、未だに表意文字である漢字のみが使用されている。その理由は分かりませんが、それだけ漢字が中国文化に浸透しているのかも知れません。

 

文字について、このように考えて来ますと、再び、2項対立が出現する。すなわち、表音文字に根差した西洋と、反対に表意文字を基底に置く東洋。「言葉と物」の中にも、次の一節があります。(P.138)

 

- 東方と西欧との本質的相違は、まさに空間と言語のこの関係のうちに位置している。-

 

このような見方を発展させてみると、西洋と東洋との本質的な違いが見えてくるように思うのです。

 

西洋 - 表音文字 - 音楽に強い - 抽象的観念に強い - 動的

 

東洋 - 表意文字 - 美術に強い - 物との関わりが強い - 静的

 

まずは、西洋の方から考えてみます。そもそも、表音文字であるアルファベットは、音とのつながりにおいて成立しているので、これは音楽との相性が良い。例えば、ドレミのドの音はC、レの音はDと表わされます。そして、西洋において楽譜が発明され、和音についての研究が進み、ベートーベンなどのクラッシックと呼ばれる音楽の体系が生み出された。アルファベットは意味を持っていないので、その組み合わせによって生まれる新しい単語は、現実的、具体的な拘束を受けない。従って、抽象概念を表現するのに優れた特性を持っていると思います。音楽というのは、歌にしても楽器の演奏にしても身体的な動作を伴うもので、西洋の文化や西洋人のメンタリティは、動的だと言える。

 

個人的な経験もあって、私は上記のように考えるのです。現役時代、私の勤務先はスウェーデンの会社に買収されたのです。以後、必要に迫られて私は西洋人と付き合わなければならなかった。私の上司も、フランス人になりました。まず驚いたのは、彼らは大した用もないのに、頻繁にスウェーデンから日本にやってくるのです。こちらは忙しい中、対応を迫られる訳で迷惑に感じていたのですが、それに留まることなく、今度は、頻繁にスウェーデンまで来い、と言ってくる。片道、12時間、往復で24時間もかかる訳です。苦労して行ってみても、大した仕事はない。何をするかと言うと、会食するのです。ビールやワインを飲みながら、雑談をする。彼らはそういうことをとても大切に思っているようでした。また、会食する際には、必ずその主催者(ホスト、ホステス)がいる訳で、そういう会食の場を主宰することによって、主催者が自らの権限を誇示しているようにも見えました。例えば、皆が雑談をして賑やかになっているときに、突然、主催者がワイングラスをフォークで叩く。カンカンという甲高い音が響き渡り、すると誰もが雑談を止め、主催者に注目する。そうしなければならない暗黙のルールがあるように見えました。

 

もう1つ。個人的な経験からしますと、西洋人(米人も含みます)は、あまり深く物事を考えないように感じました。まず、やってみる。ダメなら、別の方策を考える。日本人はよくHowを主張しましたが、欧米人は常にWhat、すなわち何をやるのか、そのことしか言わなかったように思います。

 

いずれにせよ欧米人というのは、社交的で、人間に興味を持ち、活発だという印象があります。そう言えば、西洋の絵画には人物画が多いような気もします。

 

対する東洋ですが、こちらは文化の根底に自然や物との関わりがあるような気がするのです。随分と前に台湾の故宮博物院を訪れたのですが、そこには膨大な量の美術品や宝物が展示されていました。日本の熱海市にあるMOA美術館も同様で、絵画、骨董、加えて屏風や硯箱のような宝物が展示されています。美人画など人物を素材とする絵画もありますが、歴史的に見ますと、やはり東洋では水墨画のように風景を描いたものの方が多いのではないでしょうか。東洋の文化、東洋人のメンタリティは静的だと思います。

 

西洋と東洋の違いには、自然環境や歴史的な相違点など、いくつかの理由があるのだろうと思いますが、使用している文字の違いが、大きな原因の1つとなっていることに間違いはなさそうです。

 

では、思想的にはどちらが優れているのか、という問題があります。西洋の場合、良くも悪くも振れ幅が大きい。とにかく考える前に行動する。そこで、大きな失敗をする訳ですが、西洋には失敗した後、ごく一部の人々が反省をするという傾向があるように思うのです。この反省をした人々が、西洋の思想を築いてきた。例えば、ヨーロッパにおいて大規模な宗教戦争があった。その反省から社会契約論が生まれ、近代思想が育まれる。2度の大戦とナチズム、広島、長崎への原爆投下という大惨事があって、反省する。そこで、ポストモダンが生まれる。これらの歴史を振り返って反省する人々こそが、哲学者であり、思想家なのだと思います。

 

他方、東洋人は静的なので、歴史上の振れ幅が狭い。従って、大きな失敗をしにくい。それが理由なのかどうか分かりませんが、誰も反省しようとしない。反省しようという発想は、権力の前にかき消されてしまうのかも知れません。そして、思想なり哲学というものが育たない。そういう関係にあるのではないでしょうか。

 

いずれに致しましても、フーコーは明らかに表音文字の方が優れていると主張しています。これに対し、21世紀の日本に生きる私としては、異議を申し立てたい。意味と直結している表意文字の方が、論理的な思考を行うには適している。従って、本当に東洋人が歴史を振り返り反省することを覚えたならば、現在の思想や哲学の状況は一変する可能性があるのではないでしょうか。