文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

反逆のテクノロジー(その6) 他者の力

「君、今日は寒いだろ。だから、これが欲しくなるんだよ」

文芸評論家の秋山駿さんは、ホワイトホースの水割りの入ったグラスを揺らしながら、そう言って笑った。早稲田の文学部近くにある喫茶店でのことだった。寒いのに、何故、氷の入ったものを飲むのだろう。そう思ったものだが、もちろんそんなことは言えない。

 

私の隣にはもう一人、見知らぬ男子学生がいて、向かいに秋山さんが座っていた。もう、44年も前のことだが、どういう訳かその時のことは、鮮明に覚えている。私は、何とか大学祭で秋山さんの講演会を主宰しようと思っていて、その承諾をもらおうと必死だったのだ。私は法学部の学生だったが、文学部で行われている秋山さんの講義に忍び込み、教室の最後部で講義を拝聴していた。講義が終わると、いつも秋山さんは喫茶店で水割りを飲む習慣があったようで、そこに同席させてもらっていた。

 

「ところで君、他者って何だい? 他人のことかい?」

 

秋山さんは、下から睨みつけるような形相で、私にそう尋ねた。当時の文芸雑誌は「他者とは何か」という問題を頻繁に取り上げていた。まだ二十歳だった私に、そんな難しい問題が分かるはずもなかった。ソシュール記号論も、結構、話題になっていたように覚えている。今からしてみると、当時の日本の文壇は、西洋の哲学の影響を強く受けていたのだろうと思う。そして、もう1つ。秋山さんは、「他者」の問題を頻繁に取り上げる文壇に嫌気が差していたのではないか。秋山さんがいつも言っていたのは、「私とは何か」という問題だった。この問題を哲学の用語で言いかえると「主体」ということになるのではないか。奇しくもミシェル・フーコーの遺稿は「性の歴史III-自己への配慮」であり、フーコーも最後には「主体」の問題に行き着いたのかも知れない。

 

話を戻そう。「他者って、何だい?」という秋山さんの問いに、現在の私なら、次のように答えることができる。

 

「他者というのは、自己が認識することが極めて困難か、もしくは認識することが不可能な誰か、ということではないでしょうか。例えば、西洋にとって東洋は他者である。理性にとって狂気は他者である、という具合に」

 

フーコーが「狂気」に向き合った理由も、そこにあるのだろうと思う。つまり、西洋においては17世紀から、「理性」の側に立つ人間が、自らは理解できない狂気を排除してきた。そこに問題がある。しかし、19世紀の文学において、理性に対する反逆が勃発する。それは文学の世界で起こった。そのことに気づいたフーコーは、文学論に傾倒していく。フーコーは、狂気が最も見えやすい形で姿を現すのは文学だと考えていた。しかし、いつからか文学は、権力に敗北する。

 

フーコーは、次のように述べている。(文献8)

 

- 文学は、十七世紀には規範的なものとして、社会的機能に属していた。十九世紀になると、文学は反対側に移ってしまったわけですが。しかし、現在では、文学自体の一種の摩滅によって、あるいはブルジョワジーの備えている強大な同化力のために、文学というものが通常の社会的機能に復帰しつつあるのではないかと思えるのです。(中略)ブルジョワジーは、強大な適応能力をもつ体制であるということです。ブルジョワジーが文学に打ち勝つところまできているのではないかということなのです。(P.388)-

 

- 文学がこれほどまで体制内に組み込まれてしまったために、文学そのものによる体制破壊はすべて幻影と化してしまったのではないでしょうか。(P.386)-

 

結局、人間集団というのは百人いようが百万人いようが、その全員が同じように認識し、行動していたのでは、新しい文化を創造することができない。他の者とは異なる発想なり認識を持つ者が、何かを表現する。若しくは、何らかの行動を取る。他の人間がその表現なり行動に触発され、文化は前進する。この「他の者とは異なる発想なり認識を持つ者」こそが「他者」なのだ。

 

しかしながら、現代社会においては、高度な管理システムが存在する。フーコーはその管理システムを「ブルジョワジー」とか「体制」という言葉で表現した。何と言えば良いのだろう。「権力構造」とか「経済原理」と呼ぶこともできる。

 

フーコーは、他者の一類型として、道化師、ピエロ、狂人という例を提示した。ちなみにこの類型は、分析心理学のユングが元型の一類型として提示した「トリックスター」に通底している。(ついでに言えば、「寅さん」も同じだと思います。)

 

ただ、文化論の立場から言えば、他にも他者の例を挙げることができる。その1つは子供だ。子供は、未だ体制側の認識に染まっていない。例えば「王様は裸だ」と叫ぶことができる。もう1つは、野生動物である。野生動物は、人間とは別の原理で認識し、生きているのであって、今日においても彼らが何を考えているのか、それを知ることは困難だ。

 

現代社会において、他者は「権力システム」に巧妙に絡め取られてしまう。子供は学校に縛り付けられ、野生動物は動物園に監禁される。餌を求めて街中に現れたイノシシは射殺されるし、日本では毎年、何十万匹ものイヌやネコが殺されている。若い女性がいくら「瑞々しい感性で赤裸々に性の世界」を描いたとしても、その小説が賞を取って、出版社によって宣伝された時点で、作品に秘められた狂気は「経済原理」の中に沈められる。(それは狂気ではなく、正常な経済活動だとみなされる。)かつては反体制の旗手として崇められたローリング・ストーンズの楽曲も、今ではトランプの選挙活動に利用されている。(この点、ミック・ジャガーはトランプ陣営に抗議した。)

 

こうして現代文明は、他者を殺し続けたことによって、他者の力を失ったと言う他はない。何と言う皮肉だろう。本稿のしめくくりとして、フーコーの言葉をもう一度引用させていただこう。(文献8)

 

- 文学において新しい境地をひらくためには、狂気を模倣するか、またはじっさいに狂気になる必要があると言えそうです。(P.417)-

 

(参考文献)

文献8: フーコー・コレクション1 狂気・理性/ミシェル・フーコーちくま学芸文庫/2006