文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

反逆のテクノロジー(その7) 文体について

こんなブログではありますが、4年もやっておりますと、私なりに「もっと自由に書ける文体はないか」、「もっと深く分かりやすく表現できる文体はないか」などということを考えます。小学校の頃、「だである調」と「ですます調」というのを習いました。原則として、これらをミックスするのは禁じ手なのです。しかし、このブログにおいて読者の皆様に語りかける部分は、「ですます調」にならざるを得ません。一方、こればかりだと文章にスピード感が出て来ない。そこで、このブログでは両者をミックスして使い分けるというスタイルを採ってきたのですが、果たしてそれが良いのか?

 

ところで、良い文章、優れた文体とは何かと言いますと、1つの見方としては、生き生きと情景を描写できているか、ということがあります。

 

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」

 

川端康成の「雪国」の冒頭部分ですが、これなど名文だなあと思う訳です。前にも少し書きましたが、私たちは時間と空間の中に生きております。上に引用した文章で考えますと空間についての記述が「国境の長いトンネル」と「雪国であった」という部分ですね。そして、この2つの空間に関する記述を「抜ける」という動詞で接続している。このたった一つの動詞によって、ある瞬間が表現されている訳です。暗いトンネルの中から抜け出した瞬間にまぶしいばかりの光景が目に飛び込んでくるあの瞬間のことです。こちらが、時間を説明している。この瞬間、時間を描写することによって、文章は輝いてくるのだろうと思います。

 

「古池や 蛙飛び込む 水の音」

 

この芭蕉の句にも同じことが言えます。「飛び込む」という動詞があることで、読者はある情景をリアルにイメージすることが可能となっています。

 

ちなみに芭蕉の句には「蛙」という主語が含まれていますが、「雪国」の方では「抜ける」という動詞に対応する主語が省略されていますね。ここら辺が「日本語は述語の言語である」と言われるゆえんだと思います。

 

いずれにせよ、空間を表現する名詞と、その名詞を修飾する形容詞というのは豊富にある訳ですが、そればかりでは面白くない。そこに動詞を加えることによって、優れた情景描写が可能になる。私たちの言語に「動詞」というものがあって、本当に良かったと思います。

 

ところで、あなたは「植物図鑑」と「動物図鑑」は、どちらが先に生まれたか知っていますか? ミシェル・フーコーが調査した結果によると、「植物図鑑」の方が先だったようです。

これの作り方というのは、意外と簡単なのです。まず、チェックポイントを決める。当時の人々が決めたのは、根、茎、葉、花、果実の5項目だったそうです。当時、西洋の人々はよく移動していた。アフリカへ行く、中東へ行く。アメリカ大陸を発見する。すると、各地域に珍しい植物を発見する。そして彼らは、その植物にまず名前を付けたのでした。次に、前記のチェックポイント毎に植物の様子を記述していく。そうやって、植物図鑑はできあがった。これ、とてもシンプルですね。しかし、同じことが社会的にも行われていたのです。個々の人間についてもカテゴライズして、名前を付ける。狂人、売春婦、怠け者、身体障碍者など。そして、これらの者を片っ端から収容所に収監したのです。これは、植物図鑑を作る手法に似ていないこともありません。

 

やがて西洋人は、動物にも興味を抱くようになる。植物図鑑ができたのだから、今度は動物図鑑を作ろう。そう考えたのでしょう。しかし、動物は動くので、植物のように簡単に記述することができない。例えば、魚は何故、水の中で生きていられるのだろう? そこで人々は、魚のエラに注目する。魚はエラを使って呼吸しているのだ。そういうことに気づく訳です。そこで人々は、機能に注目することになります。フムフム、動物の体というのは、それぞれ機能を持っている。そして、機能を表現するためには動詞が必要だった、ということになるのです。肺は呼吸機能を、心臓は循環機能をつかさどっている。そこで、人間の認識方法というのは、飛躍的に進歩する。

 

また、人間は頭が痛いとか、腹が痛いと言って死んでいく訳ですが、そのような人々の死体を解剖してみよう、とメスを持った医者が考えたらしい。そして、医学が進歩する。この医学の進歩は、人間の体を総体として見るのではなく、例えば、肺の専門家、心臓の専門家、胃の専門家といった具合に細分化されていくのです。

 

更に時代が進みますと、肉眼では見ない物事の本質について考えるようになります。例えば、狂人がいる。では、この人は何故、狂人になったのか。その理由なりメカニズムが分かれば、治療することが可能になるはずだ。人々は、より深く考えるようになった訳です。そこで、2つの注目すべき学問が登場する。1つは、文化人類学です。人間の起源に物事の理由があるとすれば、重要なのは古代ということになる。古代や、未だに古代人と変わらない生活を送っている無文字社会を研究すれば、人間の本質が見えてくるに違いない。そういうバックグラウンドが文化人類学にはある。2つ目は心理学です。心理学には長い歴史がありますが、無意識というものの存在を証明し、精神分析という学問を提唱したのはフロイトでした。すなわち、より古いものを研究しようとした文化人類学と、より深く考えようとしたフロイトの心理学は、その根底において、つながっていると言えるのです。そして、より古いもの、より深いものを見ていくと、そこに「構造」というものがあることが分かってくる。これが「構造主義」ということになります。

 

多くの構造主義者たちは、人間の社会や個人の心にも構造というものがあって、それを前提に人間は成り立っているので、構造の方が人間よりも上位に位置すると考えた。すると、デカルトが言った「我思う、故に我あり」とか、そういう人間中心の考え方が崩壊することになります。何かを考えようが、怠惰に過ごそうが、所詮人間は構造の中に存在しているのだから、特段の違いはない。そういうことになってしまう。

 

では、構造というものの存在を是認した上で、私たちはどう生きるべきなのか。そこで、「主体」という問題が浮上する。ここが重要で、フーコーがどう考えたのか、私も知りたいと切望している訳ですが、私の勉強はまだ、そこに辿り着いていないのです。しかし、ここまで勉強した結果を総合しますと、その答えはフーコーの遺作「性の歴史」に書いてあるはずなのです。

 

少し、整理してみましょう。まず、「名詞の時代」があった。そして、「動詞の時代」がやってくる。更に奥深くを探る「構造主義」の時代となり、最後に「主体」の問題に行き着く。フーコーの思想について、私は概ね、そんな風に考えているのです。